プロローグ1 黒の少女
世界は、死んでいた。
正確に言うなれば世界が死んでいるのではなく、人の営みが死んでいるというのが正しいのだろう。
コンクリートで覆われていた地面が唐突に途切れ、周囲の建物がそこに沈み込むようにこうべを垂れた大穴に亀裂を通して水が流れ込み、湖を作っている。まるで岩盤をシーソーに見立てて無理やり片側を下に押し込んだように地面が斜めに隆起し、岩盤に従う家々も共に傾き、その負荷に耐えられなくなった建物が崩れていく。一見無事な建物も割れた窓ガラスや吹き込む風雨、時間の経過により内部は壊滅的な損害を受け、鉄筋コンクリートの柱はヒビを入れ、ちょっとした拍子で崩れてしまいかねない危うさを醸し出している。
人に放棄された世界、植物が縦横無尽に生い茂り、建物を侵食し続ける世界。
そんな中、黒いのが商店街で有ったであろう林を走り抜けていく。その黒いのを追いかけるのは同じく黒い、四足歩行の物だ。一見すると野生生物のように見えるそれは近くで見た者が居るならそれを即座に否定するであろう。
何を否定するか、首輪でもついていて野生ではなさそうという事だろうか、いいや違う。
それは野生ではあっても生物では決してなかった。手足は黒光りする金属フレームに覆われ、頭部には赤く光るセンサーアイが二つ、口は半開きにまま、鋭い牙が丸出しになっている。背中には機関銃のような物とフレームと同じ黒い片刃のブレードがマウントされ四足歩行生物の重心変更を再現するための金属製の尾が取り付けられている。
明らかに生物ではない、機械の獣だった。
それが追いかけるのは、少女だ。奇しくも追いかける側と同じく、黒が目立つ少女だ。黒いショートヘアにボロボロに破けた黒い衣服、腰には二つの黒いアクセサリーのようなものを着けている。
追いかけている物が異常なら少女も異常だ。何せ四足歩行の機械の獣が追いかけているのである。
機械の獣が走るフォームは野生の四足歩行獣の動きを再現した機械とは思えないしなやかな動きで瓦礫や木を躱しながら進んでいくのに、少女はそれに追いつかれることなく走り続けているのだ。
「こっちです、犬さん」
少女が追いかける機械の獣に振り向きながら声をかける。
切羽詰まった状況とは思えない無邪気で、そして疲労も感じさせない平坦な声だ。
だが追いかけてくるのは明らかに犬ではない。少女の知識の内でも犬はこんな殺人機械のようなものではないのだが実物を見たことがなく、特徴が類似していることから少女は犬と呼んでいる。
木の生え出る地面の裂け目を飛び越えながら、少女は背後を見る。獣の背の機関銃が火を噴き、金属の弾丸をばらまきだす。少女はどこからか、黒い大型のナイフを右手でに持つと体を回転させながらその弾丸を弾いた。
赤く火花が舞い、それがまだ消えないうちに、少女はジグザグに、黒い稲妻を思わせる速度で崩れそうな巨大なビルの二階付近へと一足飛びで侵入した。ギリギリ残っていたガラスが砕け、脆くなっていた周囲のコンクリート部分も砕けちる。
獣もそれに追いすがって脚力を最大に跳ね飛ぶ。
跳ね飛んだ瞬間に獣は少女を認識した。獣の跳躍に合わせ、逆に獣に向かい飛び込む少女の姿を。
左手には先ほどの左手のナイフとは違う、長い片刃の剣が握られていた。
互いが交錯する前、獣は機関銃を放つが、命中するはずの弾は少女の黒いナイフにすべて阻まれた。背中にマウントされた黒いブレードが展開しようと動くが、間に合わない。
そのまま獣は少女の左手の剣を叩きつけられ、頭がまるで果実のように潰れ、地面に叩きつけられる。機械故に死ぬことがないが、頭脳を潰されてしまったがためにもう立ち上がることさえできずただギクシャクと足を動かしているだけだ。少女はそれに近づいて剣を脇から突き刺す。
小さく火花が飛び、そのまま機械の獣は動かなくなった。
「おやすみなさい」
澄んだ鐘のような声でそう言うと、少女はこの機械の獣の背中のブレードをもぎ取り胴体を切はなし、中から青く光る正方形の物体を取り出し、ボロボロの布袋に入れた。すると用は済んだかのようにのんびりとした調子で歩き始めた。ただ、先ほどの獣の仲間に出会いたくないのか、茂みやがれきの影を伝ってではあったが。
少女がたどり着いたのは平地のほぼ森と言ってもいい地域だった。小さな、人一人分が入れるか入れないかの小さな小屋があり、それも自然に侵食されていると言った有様で苔や花が咲いていた。
扉を開けると中は梯子になっており、少女はその中へ降りていく。降りると底は真っ暗闇で何も見通すことができない。少女が手さぐりで壁のボタンを押すと天井のライトが点灯し、部屋の中を光で満たした。
そこは、図書館だった。
「シーラがただいま帰りました」
帰宅を告げるが、声を返すものは誰もいない。少しだけ部屋に声が反響しただけだった。
そしてそこは図書館と呼ぶにはあまりにも雑多で整理もなにもされていない。しっかりとした本棚も、分類訳もなされていない。床にそのまま積み上げられているだけである。しかし、外の惨状を見ればここはまだ文化の残り火である本を多く残しているこの場所は図書館というほかなかった。
その図書館の中央の無骨な金属テーブルに先ほどもぎ取ってきたブレードを置き、布袋からだした正方形の物体を右手に持ったまま椅子を退けてテーブルの下に潜り込む。床に埋没された取っ手を引きだし、床の板を開くと、金属パイプやコードの中央にほぼ灰色の正方形の物体が埋め込まれていた。それを取り外し、代わりに先ほどまで持っていたのを差し込む。
それを見て少女は満足そうに微笑むと再び板を閉じて取っ手を埋没させる。
そうして椅子を引いて座ると近くにあった本を一冊取り、のんびりと読みだした。雑多で適当におかれている本の山だが、彼女にとっては読んだ、読んでいない、の区分できっちりとわけられていた。
少女が今読んでいるのは植物の育成に関する本で、色あせてしまった図による解説などで植物の育成について事細かにわかりやすく書かれていた。
数時間の間動くことなく夢中で本を読んでいた少女が最後の一ページをめくり、本をたたむ。立ち上がりながら大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出すと、その本をさきほどと違う場所に積み右隣の扉を開ける。
すると少女の鼻腔に青々しい香りが流れ込んできて鼻から心地よく息を吸い込んだ。
中にあったのは緑だった。天井一面にやや赤みを帯びた太陽に近い光源が配置され、畑のようになっているばしょや鉢がたくさん置かれている場所があり、石で出来たため池のようなものが入り口近くに置いてあり、中にはお手製のじょうろのような物が置いてある。
少女が近づいた鉢には土が盛られ、そこに刺された添え木に寄り添うように植物が育ち、なんこか赤く実を着けていた。それを一つもぎ取ってそのまま少女はパクリとくわえた。
少女の小さい口が少女の握りこぶしくらいの赤い実にくいつき、かみきる。食べた後からはとうめいに近い赤みのある汁が垂れ、少女の口の周りにもすこしついていた。
少女の口の中には酸味とほのかな甘みが広がり少女が微笑んだ。
「不明さん、美味しい野菜をありがとうございます」
食べながら石のため池に沈んでいたじょうろを引っ張りだしそのまま水を鉢に与えた。
とりあえず喋るのは、少女の癖だった。
なぜなら少女は、自分以外に自分と同じ生物に直接であったことはなかったのだから。
水を植物たちにあげ終えると、図書館を通り外へと再び登っていく。外はもう日が落ちた後で満点の星空が暗い星空を美しく輝かせている。
跳ねて、小屋の上にすわる。のんびりと空を見上げると目の前には月があった。
夜の星々の中でもひときわ輝く月が少女を見下ろしていた。
しばらくそれを少女は眺めていたが、ふと口を開いた。
「お月様は太陽さんに恋焦がれていると聞きました。寂しいですか?」
少女は月に問いかける。理由なんてわからない。
「わたしは、わたしは恋がわかりません。わたしとおなじひとに出会ったことがないからです」
独白のように一人、月に向かて話しかける。
「この世界はさびしいです。わたしが生きているのはなぜでしょう?」
少女の読んだ知識では、動物は子孫を残すために生きているらしいことがわかっている。
子孫を残すには相手が必要なことも知っている。
その相手がこの世界にはいない。
「お月様みたいにわたしもしりたいです、恋とはどんな気持ちなのですか?」
しんと静まり返り、誰も答えない。
それが少女には寂しくて、それがこれからも続くと思ってしまうととてもつらいものだと感じた。
少女は涙がにじんできて視界が歪んだのに気が付いて手で拭った。
「こんなふうに、寂しいと思うのが、恋なのでしょうか」
わたしが生きてる意味はあるのだろうか、と思いながらも死ぬのはとても怖いことだと聞いているので死ぬ気はなかった。それでも、死ぬと死後の世界というところで他の人に出会えるのかという期待も少女にはあった。
今はとりあえずを生きよう。そう考えながら小屋の屋根から飛び降りた瞬間。
着地した地面から眩い光が走った。
「えっ」
少女が見たのは世にも不思議な光景だった。自分を中心とて光る線が広がっていき、幾何学模様が形成され、その節々に文字のような模様のような何かが生まれていく。その文字は少女の知識の中に類似するものがあったが一致するものはなかった。
良くわからないものからは一刻も早く離れようとする少女だったが、足元を中心とした光はぴったりと少女の下を維持している。どこからか黒い片刃の剣とナイフを取り出し振り回してみるが、線が切れることもない。
よくわからない幾何学模様が完成したのか変化が停まりひときわ輝く。
少女は爆発でもするのかと両手で体を庇う。
大きな光が少女を包み込み、周囲を真昼並に照らした。
再び暗闇に戻った時、そこに少女の姿はなかった。
この時、少女の世界における人の文明は、完全に終焉を迎えたのだった。