安息の時
挿絵が入っていますので、苦手な方はご注意下さい。
二年も前のことに思いを馳せるなんて……今日は襲撃もあったし、柄にもなくセンチメンタルになっているのかもしれない。
シアンはそう思いながら駐屯地内を歩き、鉄細工の窓が並ぶ廊下を抜けた。軍から一時的にエリシアへ宛がわれた角部屋まで辿りつくと、扉を三回ノックする。返事が聞こえたのでドアを開けた。
どうやら部屋の中には、エリシアしかいないようだ。
エリシアは上着を脱ぎ、ブラウスのボタンを三つ開けているという気を抜いた姿で、二人掛けのソファに身を預けていた。
……はっきり言って目の毒だ。いや、嬉しいけども。
十八にしては性格が成熟しているエリシアは、スタイルも見事に成熟していた。
シアンは彼女の深い谷間をじっくり見ないよう努めながら、気軽さを装って声をかける。思わず生唾を飲みそうになったのは、さすがにこらえた。
「入るッスよー? 隊長、もう宰相との話は済んだんスか」
「……シアンか。ああ、一応はな。とりあえずシュトライン様には明日、我々と共にエレメンタルガードの本部へ戻ってもらい、そこで匿うことになった。出仕の際には護衛をつける」
「ええーっ。……まあ、仕方ないッスよね……」
薄々予感はしていたが、反逆者を捕まえるまであの変人宰相と一緒というのは気が重い。しかもシュトラインとエリシアは互いに一目置いている節があるので、二人の距離が縮まるのではないかと思うとシアンはやきもきした。
「ところで」
「?」
「シアン? 仕置きの件だが」
蕾の形をしたシャンデリアの明りが、エリシアの瞳を妖しく光らせる。
何故かそれだけで壁際に追い込まれたような圧力を感じたシアンは、「す、すみませんでしたっ」とどもりながら絨毯の上に正座した。頭上でエリシアが溜息をついた気配がした。
「……今回は大目に見てやる。あの母子は貴様が先走ってなければ、手遅れになっていたかもしれんからな。……しかしシアン」
シアンの顎にエリシアの細い指がかけられた。かと思うと、グイッと強引に引き寄せられた。
シアンの視界いっぱいに、エリシアの美貌が映し出される。
「な、な……っ?」
唇へ息のかかる距離に、泡を食うシアン。エリシアはシアンの短い眉を親指で一撫ですると、「……何だ、いつにもまして情けない顔だな」と言った。
「何かあったか」
確信めいた口調で言われ、シアンは口ごもる。「別に……」とゴニョゴニョ言ってみたが、あまりに小さい声だったので、エリシアが聞き取れたかは分からなかった。
「シアン」
「…………」
「シアン?」
「…………」
「シーアーン」
エリシアはずるい女だ。
普段は凛々しい声なのに、こういった時だけ、シアンを甘い声で呼ぶ。しかも目尻を下げて微笑むなんて卑怯だ、とシアンは思った。
「おいで」
……この魔法の言葉に、抗える奴がいるのだろうか。
シアンはあっさり陥落し、吸い寄せられるようにエリシアの隣へ座った。
彼女の細い腰に腕を回してみる。内心振り払われるかとドキドキしたが、頭上から鈴を転がしたような笑声が降ってきたので、シアンはほっと息を吐いた。
「……隊長には敵わないッスねー」
「貴様の空元気に、私が気づかないはずがないだろう」
見透かすように言われても、エリシアが自分を気に掛けてくれていたのだと思えば、シアンの胸の内は温かくなる。彼女の首元へ、シアンは甘えるように鼻の頭を擦りつけた。
「……今日、色々あったじゃないスか。思い出しちゃったんスよ、『災厄の埋み火』のこと。思い出したら、ちょっと、怖くなったんスよね。どす黒い気持ちに呑まれちまいそうで」
エリシアの指が、続きを促すようにシアンの猫っ毛を梳く。それに後押しされて、シアンは吐露した。
「……二年経っても、やっぱまだ、殺してやりたいくらい憎いんスよ。反逆者のこと」
普段は意識しないよう気を張っていても、どろりと後ろ暗い感情は、ふとした瞬間に顔を覗かせる。シアンが本音を打ち明けても、エリシアの手つきは穏やかなままだった。
「復讐なんてよくないし、したくないって、頭では思ってるッス。けどオレはまだ、隊長みたいに達観は出来ない。反逆者への憎しみを、人助けの意識へ昇華出来ないんス。だから、もし反逆者を目の前にしたら、オレはどうなるか分からない。オレは国民のためだけじゃなく、自分のために戦ってる部分があるから……」
何も出来ずに故郷を失った二年前とは違う、敵に立ち向かっているという充足感を糧に。
「……それでも貴様は」
ややあって、エリシアは宥めるようにシアンの背を叩いた。
「これまで一度だって、反逆者を探すことに躍起になって目の前で助けを求めている人間を見捨てたことは、なかっただろう。『人命救助を最優先する』という私との約束は守れている。私の番犬と言いながら、今日は一人で突っ走りおったがな」
「う……っ。今日のことは、ホントに反省してるッスよ……」
「今のままでいいとは思っていないのだろう? ガーダーとしての、今の自分の姿勢に疑問を感じているなら、大丈夫だ」
エリシアはそう諭した。
「きっかけさえあれば、貴様は変われる」
「……そうッスかね……」
「ああ。それに私は、反逆者を憎むのは禁じておらんぞ。殺すなと言っただけだ。大いに憎め」
「ふはっ。そーいや……そうだったッスね。でもそれ、生殺しじゃないッスか」
シアンはエリシアの胸元に顔を寄せ、くつくつと喉を震わせた。
「あー……隊長と話してたら、ウジウジ言ってんのが馬鹿らしくなるから不思議ッス」
もやもやしたものを吐き出せたお陰か、シアンは入室した時よりも晴れやかな顔で言った。
エリシアはシアンをよく叱るが責めることはほぼないので、安心して相談出来たせいかもしれない。ゆりかごのような安息を与えてくれる腕に抱かれて、シアンはそう思った。
「隊長はまるで、オレの精神安定剤ッスねー……」
「そう思うなら、今日はもうこのまま寝ろ」
「んー……でもちょっと、このまま寝るの、勿体なくないッスかー?」
「……いい番犬でいるなら、またこうやって一緒に寝てやる」
「! ……じゃあ……そうするッス……」
エリシアのマザーズタッチに心地よい眠気を誘われたシアンは、うとうとしながら言った。
あと二時間もすれば夜明けだ。
任務で疲れ果てていたシアンはほどなく、エリシアの百合に似た香りに包まれて眠りについた。がっちりと抱きつかれたままのエリシアも、シアンの旋毛に頬を寄せて目を閉じる。
「気づいていないんだろうな。……シアン、貴様の存在に、私がどれほど救われているか」
彼女が寝入る前に呟いた言葉を、拾えた者はいなかった。