忘却の人々
「記憶が、ない、だと……?」
端正な顔をした人の方が、怒った時の表情は怖い。エリシアの気迫に気圧された看護師は、病室の隅っこで震え上がる。
糾弾されているキルギス本人は、困惑を隠せない様子で叫んだ。
「ほ、本当に記憶がないんです。わ、私、自分が誰かも分からなくて……」
「とぼけるのも大概にしろ! ニーベルをこんな状況に貶めておいて、まだ権力にしがみつきたいか――吐け! 反逆者は誰だ!」
「だ、だから……っ知らないんですってば……っ」
キルギスは激痛に顔をしかめながら、怯えたように言った。
「一体何の話か……私は本当に……」
「貴様、いい加減にしておけよ――」
「――――キルギスの記憶がないってのは、あながち嘘じゃねぇかもですぜ。隊長」
息を弾ませたラゴウが、病室に入ってきて言った。
「……ラゴウか」
「へい。ラゴウ・ブローキン、ただ今戻りやした。早速リゼンタの報告をしてぇとこなんですが、ちぃと来て下せぇ、隊長。助かった人々が、ひでぇ混乱状態なんです」
「何……?」
エリシアがラゴウを振り返った瞬間、隣の病室から金切り声が聞こえてきた。
「あんたなんて知らないってば! しっし! 私は子供なんか産んだ覚えないの!」
何やら親子で揉めているようだ。しかし今はそんなことに構っている暇はない。キルギスから犯人を聞きだすのが第一だ。
エリシアはそう思ったのだが、耳に入ってくる騒ぎの音はだんだん大きくなっていった。
「――すぐ戻るからキルギスを見張っていてくれ。その火傷では逃げられんだろうがな」
さすがに看過出来ず、エリシアは看護師に見張りを頼んでから、ラゴウに従ってキルギスの病室をあとにする。廊下に出ると、ますます喧騒に包まれた。
「どうして知らない間に、僕の住む街が焼けているんだ?」
二つ先の大部屋では、顔に火傷を負った少年が窓から外を見下ろし、愕然としていた。その部屋の手前のベッドでは、見舞いにきた青年が、熱傷を負った彼女に向かって半狂乱で喚いている。
「なあ、俺のことを忘れたなんて嘘だよな……? 何で俺のこと、知らないとか言うんだよ!!」
どの病室を覗いても、似たような会話が繰り広げられている。エリシアは混沌としたそれらを見ながら、どういうことかラゴウに説明を求めた。
「……院内の者たちはどうしたというんだ? 見たところ、取り乱しているのはロシャーナの民ばかりのようだが……」
「院内だけじゃねぇですぜ。ベッドに入りきらなかった怪我人たちも似たような状態です。……記憶を失っちまった奴らが続出してる」
「原因は?」
「そいつは、解析部隊から聞いて下せぇ」
病院のエントランスを出たところで、ラゴウはピタリと足を止める。そこには、解析部隊のニーカや他の部隊の隊員数名が、エリシアへ報告するために集まっていた。
「隊長。た、確か……昨日の隊長の報告では、私が以前発見した微弱な魔力の正体は、反逆者自身に宿った魔力の可能性がある、とのことでした、よね……?」
ニーカは胸の前で組んだ手をもじもじさせながら確認した。
「ああ。反逆者が魔女の末裔であることは、昨日のキルギスの発言によってハッキリした。よって反逆者が微弱な魔力を有していることは十分あり得るが……。まさかそのせいで……?」
思考がある可能性に行き着いて、エリシアは言葉を切る。ニーカはツインテールを揺らしながら頷いた。
「多分、魔石本体から発せられた魔力と、犯人の体内から発せられた魔力が結合したことにより瘴気が発生したのが、この混乱の原因だと思います……」
「魔力の瘴気……魔障にあてられて、ロシャーナの民が記憶障害を起こしたというのか?」
エリシアは慎重に考えながら言った。
「いや……おかしいぞ。それならば何故、これまで襲撃された街の住民は、記憶を喪失していないんだ?」
「あの、それは違います」
医療部隊の、頬にそばかすの散った青年が遠慮がちに手を挙げた。
「襲撃の被災者が記憶を失くした件は、これが初めてではありません。これまでの被災者の中にも、何人か似たような症状を起こす者はいました。ただ、魔障の存在など露も知りませんでしたので、事件のショックによるものと判断していましたが……」
「そういや確か……」
ラゴウは伸びてきた顎鬚を撫でながら、記憶の糸を辿った。
「先日の襲撃で出動した時、目の前で旦那が瓦礫の下敷きになったことを、『知らない』と言い張る女性がおりやしたぜ。その被災者、肩にひでぇ火傷を負ってたんで、よく覚えていやす。あっ。あとレイラーも! あいつとシアンが修練場で対戦した時、レイラーの奴、シアンとの対戦成績を一回分、忘れちまってるみてぇでした」
「レイラーまで記憶をなくしていたのか!?」
エリシアは驚きの声を上げた。しかしラゴウは渇いた笑いを零した。
「まあ、あいつさんの場合は、飲みすぎで記憶が飛んだだけかもしんねぇですけどね」
「こ、今回は被害が甚大なせいで……発生した魔障も多く、その影響を受けて記憶を喪失してしまった人が多いのかも……しれません……」
ニーカは項垂れ、悔悟の念を滲ませた。
「私がもっと早く、反逆者の魔力に気づけていればよかったんですが……」
「ニーカだけの責任ではない」
エリシアはニーカのフワフワした髪を、あやすように一撫でした。
「我々全員の落ち度だ。……ニーカ、魔障を受け記憶喪失に陥った者に、何か特徴はないか?」
「あ! それは、長時間、魔石の火の海にさらされた者……。特に火傷が酷い人ほど、親類の存在や数年間の記憶が飛んでいるなど、症状が重いように思われます……」
「なるほど……。それなら遺憾なことに、キルギスはその特徴に当てはまるな……」
反逆者の尻尾が遠ざかったことにエリシアは内心で舌を打つ。
その上、キルギスが反逆者による国王暗殺を先導したことさえすっかり忘れてしまったなんて、彼の猛省を求めていたエリシアにとっては、理不尽にしか感じられなかった。
「おいおい。っちゅーことは、何かい?」
憤るエリシアの意識を現実に引き戻したのは、ラゴウの参ったような声だった。
「俺も何らかの記憶を失っちまったってことかい」
ぼやきながら、ラゴウは昨日の襲撃で火傷を負った腕を目線の高さまで持ち上げる。ニーカは薄い眉をしゅんと下げた。
「そういうことに、なりますね……」
「まじかよ。あー……でも、何を忘れたのかも分かんねぇけんどよー……」
エリシアは真新しい包帯の巻かれたラゴウの腕を視界に捉える。途端に胸のざわつきを覚えた。
「――――……ある程度の処理が済んだら、あとは軍に任せ、本部に戻るぞ」
「へ? あ、へい。……隊長? 何か顔色、悪くなってやせんか……?」
急にエリシアの様子が変わったため、「大丈夫ですかい?」と気遣うラゴウ。エリシアは冷や汗の浮かぶ額を押さえて言った。
「……シアンは『災厄の埋み火』で、背中に広範囲の火傷を負っている」
引火したように、隊員たちが一気にざわめき立つ。エリシアは大型犬のようなシアンの、懐っこい笑顔を思い浮かべた。しかしそれは、煙のように儚く消えてしまう。
「……ニーカの仮定が正しいならシアンは、あいつは……何かとんでもない、決して忘れてはいけない記憶を失っているはずだ」
それはエリシアの推測ではなく、確信に近いものだった。




