2-(1) 待合所にて
エリスの故郷は「ハンクルス」という小村らしい。
事前に広域の地図を開いてみると、その小規模さはより可視的になったような気がした。
そこは地理的にはエル・レイリーより遥か北──北東の山間、トーア同盟領とエクナート
聖教国との国境付近にある。
出発地点は西大陸南域、レイリア共和国。
目指すハンクルスには大陸を東西に、聖教国・同盟領両国を隔て逆放物線を描くトーア連
峰、その麓沿いを走る幹街道を行くのが次善策であるだろう。
とはいえ……それでも距離は相応なものだ。半ば大陸を突っ切る形になるので、一日二日
程度のお出かけとは訳が違う。
『随分と長い距離を来たんだなあ。よく路銀がもったもんだ』
『あ、それは何とか。実は村に輝術の仕える先生がいまして。途中の街まで“転移”させて
貰ったんです』
『ああ……。なるほど』
この大地からは──“キセキ”が採れる。
虹のように多彩で美しく、何より膨大なエネルギーを秘める不思議な鉱石。
“輝石”と呼ばれるこの石は、古来より人々にとってなくてはならない資源であり、更に
祈りを込めることで様々な奇蹟──『輝術』を発揮する。
しかしながら祈りが届く人間は限られており、その資質を磨いた技能者・輝術師は方々で
重宝されている。
最善の手は、この《転移》の輝術を利用することだ。今回のように長距離を移動しなけれ
ばならないならば尚の事有用となる。
だが……輝術とて万能ではない。
この《転移》には条件がある。──術者が行った事ことのある場所、そこにしか飛べない
のだ。厳密に形容するなら、そうした“記憶ある場所”に門を繋げる術からだ。
『一応訊くが……お前、輝術使えるか?』
『使えませんよお。デトさんこそどうなんですか?』
『まぁ……使えることは使えるが。だがよ、俺はそのハンクルスって所には行ったことがな
いんだ。どのみち《転移》で一発なんてことはできねぇよ』
故に次善策。
村は知っているが術師ではないエリス、術の心得はあるが村を知らないデト。
エリス曰く、往路にと送って貰った途中の街まで行けば、件の術師センセイが迎えに来て
くれるのだそうだ。だがそもそも、その街すらエル・レイリーからは随分と遠い。
結局二人(と一匹)は数日を掛け、乗合馬車を乗り継ぎながらゆるゆると北上する他なか
ったのである。
「……馬車、来ねぇな」
「……ですねえ」
「キュ? ウー~……」
エル・レイリーを出発して数日。デトらは幹街道沿いにある乗合馬車の停留所にいた。
頭上に昇る陽はゆっくりと天頂を目指し、じわりと汗ばむ陽気を届けてくる。
申し訳程度の木の囲い屋と椅子。徒歩で通り過ぎてゆく旅人らの姿を眺めながら、三人は
ぼんやりと次の乗り換え便が来るのを待っていた。
(やっぱ、街から離れると途端にこざっぱりするな。のどかと言えば聞こえはいいが……)
別に徒歩でもいいとは思っていた。実際、路銀の節約のために既に何度かそうした道程を
挟んでもいる。
しかし、とデトは思う。
自分はともかく、この少女の体力がどれほどもつだろうか。
本人は隠しているつもりらしいが、つい先日レイリア国境を抜けた時、彼女は密かに大き
く息をついていた。安堵か? いや違う。あれは──緊張の糸がプツと切れたものだ。
考えてみれば無理もない。
お上りに対する悪意の洗礼──旅荷の窃盗被害に大切な預かり物の紛失、何よりも目的で
あった祖父死亡の事実。
年頃の少女が一度に受け止めるには、色々なことがあり過ぎた。自分にとってはこの程度
なら茶飯事なのだが……内心で「しまった」と思ったものだ。
だから、せめて道中くらいはゆったりと行こうか考えている。一旦ハンクルスに着けば、
また何かと忙しなくなるだろうから。本人は折に触れて焦っていたようだが、自身が倒れて
は元も子もない。
幸い、今いるトーア同盟領は別名「豊穣のトーア」と呼ばれるほどの肥沃な緑の大地だ。
多少時間を掛けても、そののどかさの中で癒されればいい。
それに──こんな幹街道のど真ん中で荒事を起こす輩はそういるものではない。
護衛目的からみても、このルートは間違いなく無難なチョイスなのだ。
「……」
ちらと横目を遣ってみれば、エリスがうとうとと舟を漕いでいた。
この陽気、いや先日までの疲れがキているのだろう。
揺らぎ傾いていっては、カクンと振り戻る小柄な身体。その肩で、チコは器用にバランス
を取りながらちょこんといつもの定位置をキープしている。
何気なく、その当人(当狐?)と目が合った。控えめに「キュ?」と小首を傾げてこちら
を見つめ返してくる。
フッとデトは小さく笑っていた。
やっぱり、こいつらを絶望させたくはない……。
ちょいと伸ばしてみた指先。その先っぽが、ゆっくりとチコと転寝のエリスの横顔へと近
付いていき──。
「……ふあ?」
びくりと止まった。
漕いでいた舟が止まったらしく、エリスは口元によだれが垂れたままぼーっとこちらを見
つめ返している。
そっと指を引っ込めたデトと寝惚け眼なエリス。二人の顔をチコが交互に見返してくる。
「……寝ててもいいんだぞ。疲れてんだろ」
「ら、らいひょうふ……れふ」
「うん、大丈夫じゃないな。そう気張るな、先はまだ長いんだ」
「……」
ごしごしと、エリスが寝惚け眼を擦った。
続いてぐぐっと伸びを一つ。デトが言っても、彼女には彼女なりのキープすべき状態なる
ものがあるらしい。
「何だか、前よりも優しくなってますよね。デトさん」
「そうか? 気のせいだろ」
「気のせいじゃないですよお。エル・レイリーにいた時はもっと私のこと面倒臭がっていま
したもん」
「……そりゃあ今は依頼人だからな。成り行きとはいえ、そういうギブアンドテイクくらい
は俺だって守るさ」
「ふぅん……?」
頬を両掌で支えながら、エリスはわざとらしく半眼を作ってみせた。チコもそんな飼い主
の首根っこを器用に渡ってさり気なくもう一方の肩に移動し、すんすんと周囲に広がる緑の
香りを嗅いでいる。
──やっぱ、どうにもこいつは扱い難い。
半眼を向けられたデトはそっと視線を逸らし、眉間に皺を寄せて肩越しに様子を窺いなが
ら何とか話題を変えようと試みる。
「つーか、お前が輝術を使えればもっと簡単に帰れたんだぜ? 何で“輝獣”をペットにま
でしてる癖して使えねぇんだよ」
ビクリと、今度はエリスが肩を震わせる番だった。
だが、それは文句を言われた憤りではない。
「……気付いてたんですか」
「ああ。やっぱそうなんだな?」
小さく言葉少なげな首肯。震わせたのは、驚きと畏れが故だった。
「チコは、昔近くの森で山菜採りをしている時に見つけたんです。最初は──輝石でした。
こんな所でも採れるんだって、凄く綺麗だなあって、それでそのままこっそり家まで持って
帰ちゃったんです。そうしたら、次の日の朝……」
「孵化してた、と」
「……はい」
恐る恐る。そんな彼女の心を感じ取っているのか、そのチコがぺろぺろと慰めるように頬
を舐めてくる。エリスは小さく苦笑しながら、この仔狐──型の“輝獣”の喉元をもふもふ
してあげた。
「そんなに怖がるなって。別に咎めはしねぇよ。そもそも人に害を成す“忌獣”じゃないん
だし、お前にだって懐いてるんだ。そこにわざわざを剣を差し込むような野暮はしねぇよ」
「……ありがとう、ございます」
エリスは笑顔を返すよう努めたようだが、その気色にはまだ硬さがあった。
どうやら思っていた以上に、この飼い主とペットは深い絆で繋がっているようだ。話題を
逸らす為とはいえ、あまり良い矛先ではなかったかもしれない。デトは内心少し後悔した。
「んー……。にしたって聞けば聞くほど妙だなぁ、お前は。輝獣は輝石を核にして発生する
生命体だ。大元は同じなんだぜ? そいつと意思疎通してペットにまでしちまってるなら、
輝石の声を聞く──術師の素質はお前にだって間違いなくある筈なんだが」
「そう、言われましても。使えないものは使えないですし……」
文句だと思ったら何だか褒められた、らしい。
エリスは呟きながらもごしごしと両手を擦っていた。照れているのか頬もほんのり赤い。
その間にチコが再び首越しに移動し、今度はデトをすんすんと嗅ごうとしている。
「ま、いいけどよ。今から《転移》の為にお前に輝術を教えてる暇がありゃあ、その時間で
普通に向こうに着けるだろ。センセイってのもいるらしいし、気が向いたら教えて貰え」
お前のことを話してんだぞ……?
片眉をそっと上げ、小さく苦笑して言いながら、デトは今度こそこの仔狐の柔らかな体毛
を指先でもふもふする。
「……。デトさん」
エリスがふと神妙な面持ちになったのは、そんな時だった。
「デトさんは、あの“死に損い”なんですよね? 術師殺しの……」
「……ああ。そっくりさんでもいない限り、それは俺だ」
チコをもふもふする指先をそっと除け、デトは隙のない横目で彼女を見返していた。
先程までの穏やかなお兄さん、という印象はあっという間に消え去り、代わりに覆われる
のは剣先のように鋭い警戒の眼だ。
エリスは、その静かな豹変を哀しく思った。またこの表情だと思った。
「私も、噂で聞いたことはあります。神出鬼没、輝術に関わる人達の下に現れてはその研究
を滅茶苦茶にして去っていく不死身の男、大型の賞金首……」
そう。それがデトこと“死に損い”に関する世間一般の、公が発表している認識だった。
だが……改めて呟くエリスは「違う」と思った。
何が違うのか、すぐはっきりと言葉にできなかったけれど、それでも──。
「です、けど」
目を合わせられなかった。
俯き加減になって、心なし青褪めている両手をもぞもぞと組みながら、ごちる。
「私にはデトさんがそんな悪い人には思えません。初めて会った時も困っている私に声を掛
けてくれました。何よりおばあちゃんから預かったロケットが捨てられた時、私の代わりに
怒ってくれました」
「……。上っ面だけで他人を観るもんじゃねぇよ。そうやって騙されたばっかりだろうが」
デトもまた、エリスと目を合わせずに前方の街道を眺めていた。
声量は向かいの旅人らには聞こえていない。ゆるゆると、緑と整備された茶褐色の路に往
来が散在している。
エリスは、そんな彼の突き放すような返答にふるふると小さく首を振った。
「デトさんが噂通りの極悪人だとしたら、私にここまでしてくれている理由がありません。
会長さんがいたからといっても、あの場で突っ撥ねることだってできたのに」
「……」
「私は、デトさんを信じたいです」
たっぷり、胸奥を整理しながらゆっくりと紡いだ言葉。
エリスは一度息を呑んでからそう言った。おずっと、それまで俯いていた視線をデトに向
けて、彼女はチコを肩に乗せたまま問う。
「教えて下さい。デトさんは一体何者なんですか? どうしてお尋ね者になるようなことを
してきたんですか? おじいちゃんの……何を知っているんですか?」
長く、デトは黙っていた。
視線は合わさずに、じっと遠く山々の稜線を見つめている。
「……向こうに着いたら話すって言ったろ。お前も薄々気付いてる筈だ。そう気軽に話せる
もんじゃねぇんだ。しんどいし、二度手間になるぞ」
「構いません。私は何も知らない──デトさんのこと、何も知りません。皆に伝える前に、
私はちゃんと受け止めなくっちゃいけないと思うんです」
真剣な眼差し。やがてそんな彼女の表情を、デトはちらを横目に見遣った。
見せる横顔は眼は、変わらず哀しい鋭さを帯びている。
「…………。後悔するぞ」
再びたっぷりと沈黙を置いて、やがてデトは静かに語り始めた。