1-(2) 白髪の風来坊
「そりゃ、お前が無用心だったからだろ」
ボロボロと泣きながら事情を話したのに、対する青年の返事は呆気に取られるほど無遠慮
なものだった。エリスが涙のついでに出掛かった鼻水をずず~っとすする横で、彼は「お前
何言ってんの?」とでも言わんばかりの半眼を寄越している。
「ひ、酷いです……」
「酷いも何も、実際に盗られてんじゃねぇか」
奪われたリュックと交替するように、青年はベンチの左側──エリスの隣に座っていた。
ごしごしと目を擦る彼女を座高の違いで見下ろす格好になりながら、彼は小さく嘆息をつ
くと相変わらず無関心な街の往来へと視線を遣る。
「ここは共和国の都だぜ? つまり世界で一番金にがめつい連中が集まってる場所なんだよ。
合法違法の差はあっても、金づるを見逃すほど連中はお人よしじゃない」
「それはそうかも、しれませんけど……」
楽観的な安堵はものの数分で水泡と化していた。
あっけらかんと言い切る彼に、エリスはぷくっとふくれっ面を作って目を逸らし、やる方
なくもごもごと口篭っている。
(……納得いかない。もしかして、此処の人って皆そうなの……?)
まるで被害者である自分が加害者であるかのような、この街の反応。
エリスはちらと、この傍らに腰を下ろした青年を上から下まで観察する。
年恰好は二十代半ば──自分より一回りほど上といった所だと思う。だがそれでも年齢と
しては若い筈だ。なのに彼は(見た目のズボラさも相まって)どうにも虚ろにも見える。
哀しかった。この街はこんな早い時分から、住人達に諦めを強いるのか。
「あの……。おにいさんって、この街の人なんですか?」
「……どうなんだろ。一応宿は此処にあるし、付き合いだって長いけど、普段はあちこちを
ぶらぶらしてるからなあ。住民かってなると正直怪しい気がする」
エリスは小首を傾げていた。妙に返事が曖昧だ。
しかし、かといってそれほど大きく驚きはしなかった。
──傭兵。或いは無宿人。何かと物騒であるこのご時世で、彼らは珍しい存在ではない。
現に腰に下がった剣はその証拠ではないのか。
「あ、あの……」
だからこそ、エリスは逡巡のあと訊ねていた。青年の視線がちらりとこちらを向く。
「おにいさんは“イアン・アラカルド”という人を知りませんか?」
この街に出入りし、且つ各地を点々としている彼のような人なら、もしかすると……。
「……。観光じゃなかったのか」
「違いますよお。人捜しです。ま、まぁ、最初の内は観光もしてましたけど……」
青年はそっと片眉を上げると、じっと訝しむようにエリスを見遣っていた。紡がれたのは
その一言だけだったが、すぐに言わんとした事に理解が及ぶ。
エリスは心外なとぷくっと頬を膨らませたが、次の瞬間には上京当初の自分を思い出し、
バツが悪そうに尻すぼみに口篭っていた。
「あ、えっと……自己紹介がまだでしたね。私、エリス・ハウランっていいます。実は……
イアンさんは私のおじいちゃんに当たる人なんです。会った事は、ないんですけど」
青年はじっと黙っていた。
そんな彼の視線を受けながら、エリスは改めて名乗ってから話を──エル・レイリーまで
上京してきた理由を語り出す。
「おばあちゃん──ルシア・ハウランはイアンさんと恋人同士でした。当時おばあちゃんの
お腹の中にはお母さん──イリス・ハウランがいて、その日もおじいちゃんは普段通り仕事
に出掛けていったんです」
「……」
「でもそれ以来、おじいちゃんは帰って来ませんでした。おばあちゃんは街の警備隊にも捜
索願を出したりして何度も捜したそうなんですけど……見つからなくて」
エリスの表情が哀しみで歪んでいた。ぎゅっと、膝に乗せた両手でスカートの布地を握り
締める。
「それからずっと、おばあちゃんはお母さんを女手一つで育てました。誰か別の男の人と結
婚する事もしないでずっと、おじいちゃんの帰りを待ち続けたんです」
でも、とエリスは言った。抑え込んでいた気持ちが胸奥から溢れるように、くしゃっと歪
めた顔に涙が伝う。
「だけど……もう間に合わないかもしれないんです。おじいちゃんが行方知れずになってか
ら五十年近くになります。その間におばあちゃんはすっかりおばあちゃんになっちゃって、
ついこの前、とうとう倒れてしまいました」
「……病気なのか?」
コクンと、エリスが頷いた。
ようやく短く言葉を紡いだ青年は、眉根を寄せて気難しい顔をしている。
「時間が無いんです。随分昔の事だから、当のおじいちゃん自身、もしかしたらもう死んで
しまってるかもしれない」
肩の上のチコが、感極まった彼女の頬をぺろぺろと舐める。慰めてくれているのだろう。
エリスはそんなこの仔狐の頭をそっと撫でてやってから、言う。
「だから、私は此処に来たんです。二人が最後に別れたこの街に。もし死んでしまっていて
も構いません。ただせめて、おばあちゃんにおじいちゃんの消息を報せてあげたくて……」
その言葉の後は、ただ咽び泣く声だけだった。
決意を以って村を飛び出してきた想い。
しかし冷淡に無視され続け、とどめと言わんばかりに騙され、荷物を奪われたショック。
少女の心は今、多重の哀しみで押し潰さんとされているかのようで──。
「……事情は分かった」
そんな彼女の言葉に、どれだけ長く寡黙でいたのだろう。
青年は暫くしてそう短く言うと、ポンとエリスの頭を撫でてやってから、彼女の見上げて
くる表情をしっかりと見返す。
「でもな。姿を消した奴をそっちの都合で引っ張り出すなんて、よくないぞ」
「──ッ!?」
だがまた一つ、胸奥に大きなヒビが入れられた気がした。
エリスは目を大きく見開き、涙目でゆっくりと視線を逸らした青年に、叫ぶ。
「貴方に何が分かるんですかっ! おばあちゃんは五十年間ずっと、あの人を待ち続けてい
たんですよ!!」
あまりの剣幕に往来の視線が一斉にこちらを見ていた。
だがやはり要らぬ介入は良しとしない、暗黙の了解の無関心はすぐに彼らを包み、人の波
は結局大きな乱れを起こす事無く二人の前を流れてゆく。
青年は視線を合わせずに黙っていた。
歯軋りをし、訴えたエリス。だが急速にその叫びが雑踏の中に吸い込まれ、粉砕されるが
如き感触を覚えてゆくにつれて、胸奥にあった熱は可笑しいほどに冷めてゆく。
(……やっぱり、この人も結局は──)
「虚しいだけだぞ」
だが次の瞬間、エリスは目の当たりにする。
内心の呟きが、ふと口を開いた彼の言葉に遮られる格好になる。
「他人に自分の感情を押し付けるなんて……虚しいだけだ」
最初、批難されているのかと思った。
だが……違う。じっと往来に視線を投げたまま、彼はむしろ“諭す”ように口にしたよう
に、エリスには思えた。
そんな彼の佇まいに纏う雰囲気に、思わず言葉を失う。
どうして。どうして貴方は、そんなにも哀しくて堪らない横顔を──。
「……」
そうしていると、ややあって青年は無言のまま立ち上がった。すぐにでも雑踏の中に溶け
消えてしまいそうな程に、その背中は物悲しい。
何か言わなきゃ。エリスは殆ど直感でそう思い立っていた。チコを肩に乗せたまま、彼女
は言葉さえ見つからないまま彼の背を追おうとする。
「死んだよ」
「えっ」
だが、言葉はむしろ青年の方から掛けられていた。
あまりに短くて。だけどついさっきまでの話の流れから、その意図は明らかで。
「……イアン・アラカルドは、死んだ」
袖なしの上着がさわさわと風に靡いていた。
まるで脳髄に直接響くかのように、エリスは立ち上がりかけたまま硬直していた。