1-(1) 上京少女の災難
眩しさで、思わず手で庇を作ると目を細めた。
季節はまだ晩春とはいえ、空は少しずつ熱気を迎え入れようとしている。
今日も陽射しの強い一日になりそうだなあ……。エリスはぼんやりとそんな事を考えなが
ら視線を下ろすと、すっくと正面に向き直る。
レイリア共和国首都エル・レイリー。
地図的には西大陸の南端。南大陸北部や西大陸の沖合に接続する位置に在る。
故に、この辺り一帯は古くから交易の要衝として栄えてきた。
今日レイリアが世界屈指の交易大国──商人の国としての地位を確立しているのも、単な
る偶然ではなく必然の成り行きだったと言っていい。
(……やっぱり、村とは全然違うなあ)
淡い金髪のセミロング、ちょろっと後ろに垂らしたお下げを揺らして、エリスは気圧され
るように立ち呆ける。
視界一杯に映るのは、見渡す限りの人・人・人。
今いるのは街のメインストリートだ。
往来と商う者。両者が渾然一体となり、しかして個々に眼を向けてみれば多種多彩な商い
と彼らに張り合い交渉する声が色づく。見てみれば見るほど、この街はまるで一つの巨大な
活気の塊のようだ。
「本当にいるのかな……。この街に」
上京してすぐの頃は毎日が刺激の連続で、エリスは浮かれ気分のままについ本来の目的を
忘れて観光に現を抜かしていたりもしていた。
だがいけないと我に返り、何よりこの数だけは多い人の荒波に対して徐々に不安を覚えて
くるにあたり、彼女の現在の内心は街の活気とはむしろ反比例し始めている。
「──キュ?」
そうしていると、背中の──少女が背負うには少々大きい──若草色のリュックの中から
一匹の仔狐が顔を出してきた。エリスのペット・チコである。
「……ふふ、そうだね。諦めちゃダメだよね」
ふさふさとした金色の体毛と、懐いた者には惜しみのないその愛嬌。
ちょんと肩に上ってきたこの仔を愛でるように喉元を軽く揉んでやりながら、
「よし……っ。今日も一日頑張りますか」
少女は緩んだ表情を再度引き締め、リュックを揺らして街の雑踏を往く。
「──あの~!」
「──す、すみません。少しお時間を」
「──え? 邪魔? ご、ごめんなさい……」
しかし、田舎娘一人(と一匹)に都会の人間は手厳しかった。
往来へとエリスは何度となく声を掛け、呼び止めようとするが、そもそも自身の用事を優
先し見知らぬ人間に関わる暇を持とうとしない人々は総じて彼女を素通りしていた。
或いは何かの売り子ではないかと考えたのだろう。中にはエリスを一瞥するや、実際に言
葉にして邪険に扱い、ずかずかと忙しなく通り過ぎてゆく者も少なくなかった。
尤も商人の国、その中心地ではむしろそんな思考の方が「普通」なのかもしれない。
「……うーん」
それでも暫くは粘っていたが、やがて心が折れ、通りに設置されたベンチの一つに腰掛け
るとエリスはついため息をついて落ち込んでしまう。
(都会の人は、冷たいなあ……)
上京して数日。それが田舎生まれの田舎育ちの彼女にとって、至った感慨だった。
こちらはただ尋ね人を捜しに来ているだけだというのに、この街の人々はちょっと声を掛
けるだけでまるで異物を見るような眼を向けてくる。
村でも「知らないおじさんについて行っちゃ駄目よ」的な教育はされてきたが、少なくと
も自分は不審者ではない。その筈だ。
「……」
念の為、今の服装をチェックし直してみる。
空色のチュニックに薄い灰色の長袖、上着類と色相を合わせたスカートはまっさら真っ白
のニーソックスと合っていると思う。……うん、別に不審者じゃない。
「うぅん……」
だとすれば、この傍らのリュックだろうか?
しかしこれでも荷物は最小限に留めて来たつもりだ。この中には村から持ってきた旅荷の
全てが入っている。思いながら、少し前に露天で買ったリンゴの果汁飲料の蓋を開けて
二口・三口。声を発し続けた喉を宥めるようにして潤す。
「もっと別の方法を試した方がいいのかも」
肩に乗ったチコが小さく鳴いて小首を傾げていた。
エリスは再びその喉元をもふもふしてやりつつ、これからの方針に思考を巡らせる。
──“あの人”と最後に別れたのが、この街であるらしい。
そう聞いたので一念発起し、村から村へと乗合馬車を乗り継いで遥々上京してきた訳なの
だが……果たしてその判断は正しかったのか? 弱気や疲れも相まって、脳裏を席巻してい
くのはそんな時の自分のイメージばかりだ。
「…………」
他に手掛かりが無い状態とはいえ、もしかしたら、もうとっくの昔に──。
「お嬢ちゃん」
そう、エリスが気難しい顔をしている最中だった。
ふと掛けられた声。それまで掛ける側(で空回り)ばかりだったこともあり、エリスはつ
いオーバーアクションで反応してしまう。
「どうしたんだい? さっきから必死そうだったけれど……」
声を掛けてきたのは、一人の壮年男性だった。
土方の人なのだろうか。身なりは何かしらの着古した作業着だったが、向けてくる表情は
穏やかそうに──いい人そうに見えた。
嗚呼。やっと応じてくれる人がいた……。エリスは内心じーんとキてしまう。
ここ数日の苦労が涙となって涙腺を駆け上ってくるのを感じた。それらをゴシゴシと目を
擦る事で押し込め、エリスは何度も頷きながら言った。
「は、はいっ……。実は私、人を捜していまして」
そう切り出し、リュックの外ポケットから取り出したのは真珠色の装飾品──ロケット。
エリスは細い鎖で繋がれたその蓋を開けると、彼に中に収められた写真を見せていた。
「この女の人の隣──茶髪の男の人なんですけど。あ、でもこの写真自体随分昔で、この人
が生きていたらかなりのお爺ちゃんになってる筈で……」
その切り取られた一コマは、とある若者達が互いに肩を寄せた集合写真だった。
ただエリスの説明するように写真自体は中々に年代物だ。間違いなく、現在この写真に写
っている人間は、何十年単位で歳月を刻んでいることだろう。
「……ふぅむ。ちょっと貸してくれないかい? 目があまり良くなくてね」
「あ、はい。どうぞ」
男性が言うに任せてエリスはロケットを手渡していた。彼は胸ポケットから眼鏡を取り出
すと、掌に収まった写真に目を凝らし始める。
(どうなんだろう? 見覚え、あるのかな……?)
そんな姿をじっと窺いながら、内心はドキドキワクワク。
エリスはこの男性の真剣さ──親切さについつい期待をしてしまう。
呼び掛けに応じてくれた。それがイコールあの人を知る人とは限らないが、これで少しは
前進したと言えるのかもしれない。
……だが。
「キュッ!」
「え?」
結論からすれば、涙腺は別の意味で緩むことになった。
肩の上でチコがくるっと振り向き鋭く短く鳴く。次の瞬間、つられて振り向いたエリスに
は自分に起きた事実をすぐには認識出来なかった。
リュックが──旅荷の全てが、数人の若者によって持ち去れようとしていた。
人ごみの中へと駆け、消えてゆく彼ら。その肩越しの眼からは「バーカ」と自分を罵って
哂う気色がありありと感じられて。
(盗られた……っ!?)
数拍。ようやくその事実が意識に飛び込んで来て、エリスは焦った。
あの中には荷物全てが入っている。着替えも、路銀も、全部。
「どっ、泥棒ー!!」
思わず叫んでいた。
だが都会の人間とは無情である。
一瞬、彼らはエリスの方と駆けて去ってゆく若者達──スリ集団を見遣りこそしたが、ま
るでそれが日常であるかのように、慣れ切った眼は酷くこの少女に無関心を貫いてみせた。
往来の波は崩れない。彼らは何事も無かったかのように各々の歩みの中に戻っていく。
そんな周囲の反応に──何処かでブレなさという意味で納得し、それでも──目を見開き
憤りが顔を引き攣らせようとした。
だが、まだだ。こっちには親切なおじさんが……。
「……あ、あれ?」
いなかった。
再び彼に振り返った時には、先程の男性の姿はそこになかった。
その間も、人ごみはむしろエリスの方が邪魔だと言わんばかりに忙しなく流れてゆく。
「──」
そして……彼女は見つけてしまう。
刻々と入れ替わり立ち代りする人の波の中で、彼が手にロケットを下げたまま、こちらを
肩越しに見遣って下衆な薄笑いを浮かべているのを。
『バカが。まんまと引っ掛かりやがった』
そう言われたような気がした。彼も、あのスリ集団の仲間──荷物から注意を逸らさせる
為の囮だったのか。理屈よりも直感、そう全身が告げた瞬間、エリスはその場に崩れ落ちて
膝を折っていた。
「うっ、ぐ……」
信じた私が、馬鹿だったのか。
替えの服やお金はともかく、あのロケットは大事な預かり物だというのに……。
「なんで、こんな目にばっかり……」
感涙は結局嘆きの涙となって頬を伝っていた。
始めは善意で、彼女の事を思って飛び出してきたのに、これではむしろ失ったものばかり
ではないか。自分の無力さと、都会というものの冷淡さに哀しみと憤りが綯い交ぜになる。
「……おい」
靴音が近付き、淡々とした声が振ってきたのは、そんな時だった。
涙目でのそっと顔を上げてみれば、いつの間にか目の前に一人の青年が立っていた。
ぼさぼさに伸びた髪は白みの強い灰色。瞳は燃えるような紅。
上下黒一色の服の上に引っ掛けているのは袖なしの禿げた灰色の上着と鞄代わりのズタ袋
で、腰には長剣が一本無造作に下げられている。
「通りの真ん中でメソメソしてんじゃねぇよ。……何があった?」
また、如何わしい人じゃないよね……?
明らかに面倒くさそうに、しかし放っておけないと声を掛けてきたらしい彼に、エリスは
くしゃっと涙目の表情を返していた。