焼き餅
季節をモチーフにした短編時代小説。冬編です。
江戸北町奉行吟味方与力・金崎兵衛の屋敷の一角には、土間に面して広さ八畳ほどの板の間があり、その中心には囲炉裏が切ってあった。
時の頃は、深更。
静まり返る闇の中、坂上雪乃は、そっと開いた障子の隙間に身体を滑り込ませると囲炉裏の前に膝を着いた。
僅かに開いた障子の合間から月明かりが漏れていた。
月が満ちるのはまだまだ先のことであったが、鈍色の濃淡が辺りに落ちる陰を浮き上がらせるには十分だった。
闇に慣れて来た視界に、囲炉裏端側に刺さっている火箸が入った。それを抜き出し、灰に埋もれている熾き火を探し出す。小さく息を吐きかけると忽ち赤い炎が、チラチラと音を立て始めた。
そこから蝋燭の明かりを取り、板の間の隅に置かれている遠州行灯に火を入れると、柔らかな鈍い光が囲炉裏を囲む部屋をゆうらりと照らし出した。それを確めてから、半分よりは少し膨れた月が覗く障子戸を閉めた。
ぼんやりと曖昧に切り出された闇を背に、雪乃は懐に忍ばせていた丸餅を二つ取りだし、五徳の上に載せた網の上に並べた。
寝静まった夜更けに餅を焼きながら人の帰りを待つ。
それは、いつもより時の流れが長く感じられる一時だった。
じっくりと時間を掛けて餅が膨れるのを待つ。
その間は、闇に沈むこの屋敷の広さを感じずに済んだ。別段、腹が減った訳ではなかったが、物音一つしない、人気の無い部屋に独り臥せっていても、元々浅い眠りはなかなか訪れてはくれなかった。冷え込みの一段と厳しくなるこの季節、寒寒とした天井をまんじりともせず眺めて過ごすよりは、餅米が焦げる香ばしい匂いに鼻先を擽られながら、この屋敷の主が帰宅するのを待つほうがよい。さすれば少しは気も紛れるかと思ったのは、ほんの気まぐれだった。
独り過ごす夜というのは、何故か余計なことを考えてしまいがちになる。漂う闇に攫われる前に、例え小さな消し炭程のものでも熱を感じる炎に触れたくなるのは、人間の性であろうか。
パチパチと時折爆ぜる小さな小さな炎が、それを見つめる漆黒の瞳に揺らぎ始めていた。
廊下を踏みしめる規則的な足音がしたかと思うと、すうと障子が薄く開いた。
「まだ起きていたのか」
この屋敷の主である金崎兵衛は、遠州行灯の仄灯りに照らし出された闇の合間にひっそりと佇んでいた雪乃を見止めると目を細め、静かに足を踏み入れた。
揺らいだ空気に行灯の灯かりが波動した。
「お帰りなされませ。お勤めご苦労様にございます」
板の間に手を突いて、ぼんやりと浮かび上がった雪乃の半身に、兵衛は頷いて見せると、腰に挟んでいた長刀を差し出した。雪乃は、無言でそれを受け取り、部屋の隅に置かれた刀掛けへ置いた。
小さな中庭を挟んで対峙する次の間には、寝所が設えてあった。そこは雪乃に与えられた八畳ほどの居室であった。居候という境遇にはいささか分不相応な広さだが、それを除けば隅に小さな文机と角行灯があるだけの実に質素な空間であった。だが、夜、そこで身体を休める回数は、以前に比べて確実に少なくなってきている。それを思うと身の置き所が無く自然と顔が火照った。
例え形だけでも、床を敷き横になっていたその寝所を抜けて、このような夜更けに囲炉裏の前に居ることは奇異に映るであろう。そのことを誰何された場合なんと答えたものかと雪乃がぼんやりと考えていると、兵衛が囲炉裏から漂い始めた香ばしい匂いに気がついた。
「餅か」
網の上に二つ、行儀良く並んだ白い物体に目が留まった。
「はい。昼間、清右衛門殿より頂戴致しました。お一つ如何ですか」
茶を淹れる仕度をしながら、雪乃が照れくさそうに口にした。
餅の隣には、小ぶりの鉄瓶がしゅんしゅんと小さな湯気を立て始めていた。
雪乃がこの屋敷に来てからもう随分と日が経つが、例え次の間といえども、このような夜更けに板の間にいるのは珍しいことだった。
自分の帰りを待っていたのだろうか。
それを心の中で問いかけながら、兵衛は口に別の言葉を乗せていた。
「小腹でも空いたか」
「はい。お付き合い下され」
あくまでも方便に過ぎないであろうことが分かっていても、互いにそれを笑って流した。
いくら真正面から当たっても、照れくささが勝ってか、最初の一手は必ずひらりとかわされてしまうのが落ちだった。それならば、搦め手から攻めてみるのが戦の定法というものだ。
柔らかな灯かりが陰のように揺れる雪乃の白い頬を横目にしながら、兵衛は身に着けていた羽織・袴を脱いだ。そして、着流しのまま囲炉裏の前にどっかと腰を下ろすと、見計らったように餅がぷうと音を立てて膨らんだ。
「焼けてきたぞ」
「では、返してください」
慣れた手つきで兵衛が脱いだ衣類を畳みながら雪乃が微笑むと、兵衛は「どれ」と網の上へ手を伸ばした。
が、
「―――っ」
冷え切った指先に触れた餅は思いの外熱く、無様にも反射的に指を引っ込めることになってしまった。 それを端から見ていた雪乃が、小さく喉の奥を鳴らしたのが知れた。
「熱うございますよ」
分かってはいても、ついつい余計なことを言いたくなってしまうのは何故だろうか。
猫のような兵衛の反応に思わず雪乃の口元が綻んでいた。
「どうも今日は『焼き餅』に祟られているようだ」
自分の代りに器用な手つきで餅をひっくり返す雪乃の指先を見ながら、兵衛が零した。
どこか面白くないような口調だ。
「お役所でも振舞われましたか」
奉行所の詰め所・溜り場でも似たようなことがあったのであろうか。
雪乃がそう思いながら、焼き立ての餅を小皿に取り、熱い茶の入った湯のみを盆の上に添えて差し出すと、
「いや、別の『焼き餅』だ」
嫌なことでも思い出したのか、兵衛が整った眉を寄せながら、溜息混じりに吐き出した。
「全く、下らぬ話しに巻き込まれたものよ」
町方与力というのは、江戸では力士、火消しに並んで町人に絶大な人気のある稼業である。若くして妻女に先立たれたとはいえ、まだまだ男盛り、後添えの話しも尽きることなく振って来るし、外に出れば、色街の芸者衆や遊女を始めとする女達が放っては置かない男ぶりだ。あらぬところで悋気の飛び火、嫉妬の鞘当など想像に難くなかった。
「どなたかに焼き餅でも焼かれましたか」
半ば揶揄するように、思いついたことを雪乃が尋ねたが、応えはすぐに返ってこなかった。
兵衛は口を引き結んだまま、恐らく無意識についと茶碗へと手を伸ばした。
「熱いですよ」
念の為、と雪乃は一言付け加えた。
途端、ぴたりと伸びていた兵衛の手が止まり、空に浮いた。
そして、ちらと雪乃を横目に見た。
「どれ、お貸しなさい」
雪乃は目を細めて兵衛の側ににじり寄ると、浮いたままになっていたその手を両の掌で包み、そっと息を吹きかけた。
兵衛の指先はすっかり冷たくなっていた。
「随分、冷えてまいりましたな」
指先を通じて伝わる雪乃の温かな体温が、如月の夜風に冷えて強張った身体にじわじわと沁みていくのが感じられた。その温もりをもっと直に確めたく思い、兵衛はすぐ側にある己とは違うもう一つの体温を腕の中に抱き込んだ。
「……温い」
ゆっくりと息を吐き出すと、ふうわりと馴染んだ香りが鼻先を掠めた。
この香りは、いつぞや兵衛が雪乃にと買い求めた匂い袋と同じものだった。恐らくまだ、次の間の葛の中にはその時の匂い袋が収まっているのであろう。土産だと言ってそれを手渡したときには、わざわざこのようなものを手ずから求めなくともよかろうにと困惑気味に眉を寄せて、渋い顔をして見せたものだが、その言葉とは裏腹に実に大切に扱ってくれていることをこのようにして匂わされると、自然と頬が緩んでくる。隠された気持ちに愛おしさが募る。
「もうお休みになられますか」
柔らかい慈しむような囁きが耳元で聞こえた。
月夜の晩は、人の心をいつになく素直にする。背に回された心地よい、緩やかな拘束を堪能しつつ、兵衛はそのまま雪乃の首筋に鼻先を埋めた。
「いや、暫し」
すると、了承を告げる吐息が耳元で揺れた。
暫くして、兵衛は顔を上げると、脇に雪乃を凭れさせかけたまま、二人で餅を分け合って食した。
搗いてからまだ間も無いのだろう。甘くてよく伸びる美味い餅だった。
正月もとうに過ぎたというに道場で餅つきでもしたのだろうか。
兵衛は、このところ御用繁多で自身は足が遠ざかっていた道場とその主を思い浮かべてみた。
親の代から旧知の仲である池田清右衛門のことだ。日頃目を掛けている門弟が、餅が好物だと聞きつけでもして嬉々として渡したのであろう。いとも容易く目に浮かんだその光景が、兵衛には少し面白くなかった。それが子供じみた単なる焼き餅であることに本人はまだ気がついていない。
「清右衛門殿は御変わりなかったか」
ふと気に掛ってそう口にしていた。
唐突の言葉に雪乃が、何かを思い出したのか、小さく笑った。
「はい。相変わらず達者であられましたよ。兵衛殿がちっとも顔を見せぬと零しておられました。その所為か、今日は随分と扱かれました」
含みのある雪乃の流し目に、
「それは……とんだとばっちりであったな」
兵衛は誤魔化すように火箸で小さくなった炭を灰の中にもう一度埋めると行灯の明かりを消した。
「さて、休むとするか」
障子を開け廊下に出ると、西に傾いた月が雲間に隠れていた。
冷え込んだ外気が刺すように肌を嘗めてゆく。臓腑がちりりと竦んだ。
兵衛は黙したまま廊下を曲がり、中庭を挟んですぐ隣の部屋の障子を開けると中に入った。
そこは、雪乃の部屋だった。
思った通り、床が一つ敷かれてあった。最近は、屋敷の奥に位置する兵衛の寝所で共に休むことが殆どであったが、今宵は、予め会合があることがわかっており、帰りが遅くなる故、先に休むようにと伝えてあった為、自分の部屋に床を敷いたのだろう。雪乃のことだ、主が留守の間にその寝所で休むことなど考えも及ばぬに違いない。
夜具は僅かに乱れていた。一度は床についたのだが、途中で起き出したのであろう。枕が脇に避けてあった。
「こちらでお休みになられるのですか」
兵衛の後に続いて己が居室に入った雪乃は、やや戸惑いの色が滲んだ声を上げた。
「偶には趣向を変えるのもよかろう」
そうは思わぬかと振り返った兵衛は、口の端を少し上げて、雪乃を見下ろした。
その瞳の奥には暗闇でも分かる程、小さな熾き火が片鱗のように覗いていた。
「狭いですよ」
主がいつも使っているものよりもやや幅が狭い夜具では具合が悪いと、兵衛の背後に回り、帯を解いて着物を脱がせながら、雪乃が口にした。
恥ずかしさが勝るのか、雪乃は俯いたまま目を合わせようとはしなかった。そのような様子を愛しく思いながら、兵衛は微笑んだ。
「何、気にする程のことではない」
このような寒さだ。自然と互いの身体を寄せ合って横になるであろうから。狭くも無いだろう。心の中でだけ、そっと呟いてみる。
兵衛は寝巻きに着替えると、そそくさと夜具を捲り布団の中に入り込んだ。そこには、僅かながらも雪乃の温もりと先程と同じ匂いが残っていた。
「おいで。雪乃」
脱いだ着物を畳み終え、布団の脇に膝を着いた雪乃に、兵衛は優しく声を掛けた。促がされるようにしておずおずと夜具の中に入ってきた身体をそっと腕の中に包んだ。
すると雪乃がゆっくりと息を吐いたのが分かった。
「どうしかしたか」
口唇を頬に掠めさせるようにして尋ねた兵衛に、
「温かい……」
目を閉じたままうっとりとしたように雪乃が呟いた。
人肌がこんなにも温かいものだとはこの屋敷に来るまで、金崎兵衛という人物に出逢うまで知らなかった。それを知ってしまった自分はいつのまにか贅沢になってしまった。この先、この腕を失うことになったとき、果たして自分は耐えられるだろうか。
以前ならば考えもしなかったような不安が、迷いとなって頭の片隅にちらつく。
きつく眉根を寄せた目許に、柔らかな感触が落ちてきた。
「大丈夫だ。何も案ずることはない。大事無い。大丈夫……」
幼子をあやすように背をゆっくりと摩りながら、まるでまじないのように兵衛が囁いていた。
「そなたはずっとここに居ればよい。それがしの傍らに……ずっとだ。よいな」
兵衛は、いつも雪乃が密かに望む言葉を躊躇いも無く与えてくれる。
その気風の良さ、包み込まれるような温かさに、自分はどうやって想いを返してゆけるだろうか。
雪乃は、無言のまま、広い胸に額を押し付けるようにして、衣を通じて感じられる鍛えぬかれた逞しい背中へと手を這わせた。
如月・雨水の頃、西へと傾き始めた月明かりを背に、凍てつく夜がひっそりと更けていった。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
元々このお話は、長編を考えていまして、その番外編のような形で書いたものです。色々と前提をはしょっていますが、少しでも冬の空気感を感じていただけたら幸いです。