5.ラニの旅
月の島でいちばん標高が高い場所は、花の峰である。かげの谷の背後に横たわる山脈の、一番高い頂きだ。扁平で鋭利な形をしており、花海原と呼ばれる斜面を超えると反り返る。かつて球形であったという島の言い伝えを忍ばせる姿だ。
花の峰は、外殻の頂点にあたる。斜面を伝って登るなら、花の峰を超える頃に斜面を伝い、外殻側に出なければならない。ここが難所だ、と人々は噂しているが、実際に上った者は限られる。
ピルラはそんな説明をしながら、ラニとレピドライトを背に乗せて斜面を飛んだ。ピルラの装具につけた橙色のランプが、あたりをぼんやり照らしている。
よく晴れた夜更けで、空には星が輝いていた。この空も作り物だ、と王、アルファルドは教えてくれた。しかし、ラニにはそう見えない。幼いころから、ずっと見上げてきた空だ。
高い空に登ると空気は冷え、身を切るようだ。
花の峰に行く、とオズバートには報告をしてある。竜舎の管理者が彼であることは、疑う余地がない。あそこで暮らしている以上、そして、ピルラの翼を借りるのであれば尚のこと、経緯の報告は避けて通れないのだ。
彼はしばらく難しい顔をして聞いていた。顎に手を当て、思案顔だった。ラニは言葉を尽くして説得した。ラニの熱意が伝わったのか、根負けしたのか、オズバートは最終的に頷いてくれた。上着を持っていくといい、というアドバイスも添えて、である。
彼のアドバイスは正しかった。花の峰は、月の島で一番標高が高い。ピルラから降りてすぐ、ラニは身震いすることになった。荷物から上着を出して被り、息を吐く。自身とレピドライトを覆るよう、ポンチョタイプの上着を作ってきた。吹き抜けていく風に、ポンチョの裾につけたファーが揺れる。
自分の格好を整えたラニは、ベルトと装具を外してピルラの背中に結ぶ。また、ピルラから橙色のランプを外した。ピルラは頷いて花の峰を離れる。
白い翼が離れていくのを見送り、ラニは改めて辺りを見回した。
背後には急峻な斜面。斜面の向こうに、果ての見えない海が真っ黒に広がる。前を向けば、けぶるように白い花畑。その中央にすっと一本で立つ、金色の木。
さらに向こうには、星灯りに照らされた湖や港町、そして海が見える。
島は、弧を描く山脈に囲まれている。
たしかに、球体からえぐれた形なのだった。
ラニは俯き、深呼吸した。
視線を落とせば、足元に小指の爪ほどの花が咲いている。糸のような茎を持つ、背の低い草の花だ。これが無数に集まって、頂きを白く染めている。
ラニが目指すのは、このくるぶし丈ほどの花畑の中央、金色の木の根元だ。それ自体が仄かに光り、辺りをうすく照らしている。
金色の木は、細い枝が無数に地面から生えて幹となり、枝分かれしたような姿をしている。葉は一枚もなく、幹と枝だけがあった。一瞬、金細工にも見える樹影だ。だが、金細工にしては精緻すぎる。近づけば、樹皮の凹凸や、雨風による汚れ、ところどころ折れた跡などもあって、確かに自然の造形をしていた。
ラニは慎重に、ごくゆっくりと金色の木に歩み寄った。枝は低く、ラニですら、少しかがむ必要があった。
「ラニ、みて」
レピドライトが囁くように言った。
ラニは彼が指さす方向を見る。枝の一つに、水滴が溜まっていた。結露らしく、透き通って今にも滴り落ちそうだ。ラニが歩みを止めるのを待っていたのか、レピドライトは首を伸ばす。そして、枝先の水滴をなめとった。
目を細めて水滴を飲み下すレピドライトがあまりにうっとりした顔をするので、ラニは首を傾げる。
「おいしい?」
「うん、すっきりしてる」
レピドライトはうなずいて、幸せそうに言った。ラニは微笑み、歩みを進めて木の下を潜り抜けた。
頂きの先に、暗い夜空が広がっている。
ラニが先端に歩み寄ると、そこに、一羽の烏が舞い降りてきた。烏は紫色に透き通って、光彩を纏っている。一羽、また一羽と集まって、空に道を描く。
「いこう!」
声を上げたのはレピドライトだった。どうやったのか、おくるみからするりと飛び出し、ラニの先に立つ。
レピドライトの歩みは、いままでよりしっかりしていた。紫の烏の背を踏み、二歩、三歩と駆けだして振り向く。大きな猫、あるいは素早い蛇のように、彼は進んだ。
「ラニ、はやく!」
ラニはとまどいながら、レピドライトに続いた。
烏の背を踏むと、思ったより力強い羽ばたきに支えられ、浮遊感がある。ラニは次々足を踏み出し、レピドライトに並んだ。二人が歩むより、烏たちが舞い上がる力の方が強く早い。
二人は次第に、空に近づいた。
空は不思議な幕のように広がり、ところどころが光っている。その大きな幕の一か所に、不吉な裂け目があった。黒く塗られ、穴が空いたように果てが見えない。
この裂け目に近づきながら、ラニは思った。アルファルドは、ここから降りてきたのかもしれない、と。
烏たちが導くまま、ラニとレピドライトは裂け目に踏み入った。
塗りこめたような闇だった。右も、左も、上下すら失われてしまったようだ。そんな中、ラニには真っ直ぐ歩くレピドライトの姿がはっきり見えた。また、手元のランプがある。橙に、円形に照らされた空間を、ラニはレピドライトを追って歩いた。
やがて、二人の足元は石畳に変わった。石柱の傍を通り、アーチをくぐって、二人はすすんだ。
階段を上り、穴蔵から顔を出すと、薄水色の空が広がっていた。
ラニとレピドライトが顔を出したのは、石造りの家がなぎ倒され、その底に空いた穴であるらしい。
石造りの壁は、なぎ倒された上で炎に焼かれたのか、すすけたような跡があった。
辺りには、灌木がまばらに生えている。
また、他にも石造りの家の残骸や、石畳が敷かれた道のなごりが見える。
うっすらと草の生えたような部分もあるが、大部分は灰に埋もれた街だった。
二人は、灰に埋もれた街の、石畳を選んで歩いた。
がれきの中を歩いていくと、前方に、巨大な柱と門の廃屋が見えてきた。そびえるようながれきだった。
「あそこに行ってみよう」
ラニは言った。レピドライトは頷き、そちらに鼻先を向ける。
ラニたちは次第にそびえたつがれきに近づいた。がれきの周りには、大きな木が寄りかかるように茂っていた。また、そのたもとに白い壁の家が一軒建っている。屋根が斜めで、積み木を重ねたような印象の家だ。
辺りの廃屋に比べて、人が住んでいる様子だった。外に薪が積まれており、小さな畑や、草と灰をきちんと分けて作った道が見られる。さらには、斜めの屋根に突き出した煙突から白い煙が上がっていた。
ラニとレピドライトは顔を見合わせた。他に訪ねていくあてはない。声を掛けるのが早いか、遅いかだけだ。
とはいえ、少しの遠慮がある。ラニはこの家の庭に、そろりと踏み入った。足音を立てるのもはばかられて、ゆっくり玄関先に歩み寄る。扉には、ノッカーがついていた。突起のある金具に鉄の輪がつけてあり、打ち鳴らして訪問を知らせるための道具である。古びたノッカーには、少しも使われた様子がない。ただ丁寧に磨き上げられている。
ラニは深呼吸して、このノッカーを指先で撫でた。それからそっと鉄の輪を持ち上げ、ドアをノックする。
一度。二度。
しばらく、返答はなかった。
ラニはもう一度、繰り返した。
一度。二度。
やや間があって、家の内側から声が聞こえた。
「兎の子かな」
寂しげな、掠れた男の声だった。
「あの、すみません」
ラニは、少しだけ声を張って呼びかけた。
部屋の中で、何か倒れる音がした。
すぐ、誰かが足音を立て、ドアに駆け寄ってくる。ドアはあっという間に、慌てた様子で開かれた。
出てきたのは、男だった。いや、獣かも知れない。丸い獣の耳に尖った鼻先、背中も丸い。ただ、二足歩行で歩き、服を着ている。服はゆったりした紺色のローブだ。布が古びているものの、上等な仕立てだった。
白い毛皮を持つ獣の顔のなかで、赤い目がまん丸になってラニを見つめている。
彼は、声が出ない様子だ。驚いて、狼狽えている。そんな様子が、初対面でも汲み取れた。
何か言った方がいい、とラニは察した。
「私、下の階から来ました。この場所のことを、教えていただけませんか」
言いながら懐を探り、一枚の鱗を差し出す。白い琥珀でできたような鱗は、アルファルドのものだ。ラニが出かけると言って聞かなかったため、王はこれを託してくれた。
男はラニが差し出した鱗を受け取り、しげしげ眺める。そして再び目を見開き、ほうっと溜息を吐いた。
「立ち話もなんだ。入って、座りなさい」
促されて、ラニとレピドライトはこの家の中に入った。
一階は、キッチンと食卓が据えられた部屋だ。木の皮を剥いでそのまま組み合わせたような飴色のテーブルに添えられた椅子は一脚切りで、まろい形をしている。突き当たりに二階に上がる階段が見えた。
また、暖炉の傍に安楽椅子が倒れている。先ほどの物音はこれだったのだ。男は椅子を起こしながら、ぽそぽそと喋った。
「僕のことは、ニクテレウテスと呼ぶのがいいだろう」
男、改め、ニクテレウテスは身体が重たい様子で安楽椅子に腰かけ、先ほどラニから受け取ったアルファルドの鱗を改めて眺める。
「あの子は生きているんだね。よかった」
その声が、驚くほど優しい。ラニは驚き、ニクテレウテスをじっと見つめた。
ニクテレウテスはラニに食卓の椅子を勧めた。促されるまま、ラニは腰かける。レピドライトは、ラニの足元で腹ばいになって休んだ。
どこまで知っている、とニクテレウテスは尋ねた。ラニは、アルファルドに聞いた話をかいつまんで語った。
かつて大きな塔が建てられようとしたこと。その塔を、アルファルドが破壊したこと。そして、彼がたどり着いた島のこと。
ニクテレウテスは少し笑い、鱗を部屋の灯りに照らした。
部屋を温かみのある白い光で照らしているのは、三つの球と竜の姿に彫刻された光石だ。この竜がアルファルドを模していることは、三対六枚の羽で疑いようがない。
「キミは神を信じるかい?」
ラニは首を傾げる。神、という言葉がよく理解できなかったためだ。
ニクテレウテスはラニの不思議そうな顔を微笑ましそうに眺めた。
「僕は、神が、あるいは何か、世界の仕組みが怒ったのだと思っている。あの子はその指先をになったのに他ならない」
神、とは一体なんだろうか。
ラニは島の起こりを知っている。
おまじないを叶えてくれる力があることや、王が不思議な力を使うことも知っている。
神、という言葉がより上位に存在する何らかであることもぼんやりと知っているのだが、日常でその存在を意識することはなかった。
ラニはたどたどしくこれらを語り、ニクテレウテスを見つめる。
「塔の中階はどんな風だい?」
ニクテレウテスは楽し気に問うた。
「私……私の住んでいる島のことしか知りません。ここが塔の中だってことも、まだよく分からなくて」
「そうか」
ニクテレウテスは頷き、得心が行った様子だ。
「塔の中階がそんなことになっていようとはね」
興味深そうに低く呟いた後、彼はラニの目を見据えた。赤い目が、明るく輝いていた。
「ラニ、彼に伝えなさい。地下にはたしかに犠牲も出たろう。しかし地下にもきっと、都市はある。そして塔の外にも」
「塔の……外……?」
「そうだ。君たちはそれを認識できない。わたしは、そこからこの塔の建築を始めた」
ラニは、不安で一杯になった。胸がざわめく。なにか怖ろしい事を聞いた気分だ。それの何が怖ろしいかもわからず、ただ恐れた。
島の外、水盆の外、塔の外。
外側の外側には、いったい何がある。
「だが……もう塔の外がどんな風だったか、僕にも思い出せないのだ。ここの風に触れていてもね」
ニクテレウテスは可笑しそうに笑う。
彼は安楽椅子を降り、柔らかそうな尾を引きずって、ゆったりした歩みで二階に姿を消した。しばらく、物を動かす音が響いた。
ラニはまだ、混乱を収めることができずにいる。外、というものの存在が、認めがたい。
少しして、ニクテレウテスは二階から、大きな刷毛を持って降りてきた。象牙のような取っ手の刷毛だ。細長い棒状で、中ほどから固めの毛が真っ直ぐ長めに植毛されている。植毛されている毛は黒っぽく、不思議な光沢があった。
「彼の傷が少しでも癒える様に」
刷毛を手渡され、ラニは戸惑った。まるで、話はこれで終わりだ、という調子だったからだ。
まだ、何も分からない。こんなところで手放されて、何ができるだろう。
だが、ラニがどんなに見つめ、口を開きかけても、ニクテレウテスは首を左右に振るばかりだ。
「ここにはもう何もない。何もね」
そのうち、レピドライトが立ち上がった。床に身体を横たえ、安らいでいた様子だというのに、さっぱりしたものだ。
「ラニ、行こう」
促されて、ラニはレピドライトとニクテレウテスを見比べた。どうしようもなかった。
ラニとレピドライトは、ニクテレウテスの家を後にした。
二人が戸口をくぐり、外に出ても、ニクテレウテスはしばらく暖炉の前に立ち尽くしたままだった。
夜明けの空を降りていくとき、ラニたちは再び、紫の烏たちを頼った。空は水色から薄い橙、そして濃い紫へとグラデーションを描いている。水色や橙の空に烏たちが差し掛かると、そこにだけ夜の雲が浮かんでいるようだ。
ラニは先を歩くレピドライトの小さな背中を追いながら、夜のマントを肩に掛けている、という空想をした。紫の烏たちがマントの裾だ。長いマントを引きずって歩けば、女王になった気分を味わえる。レピドライトはその先触れだ。
見据える先、花の峰にピルラが待っているのも良い。黄金の木の陰に、白い竜はゆったり休んでいた。
花の峰に降り立つまで、ラニは空想にふけった。夜のマントを着た女王のこと、小さな紫色の竜が先触れをしてまわること、それを迎えに来る白い竜のこと。
そうして、島の外のこと、塔の上下階のこと、塔の外のことを、忘れようとした。
だが、できなかった。ラニの手元には、象牙の刷毛がある。持ち手の艶やかさや、刷毛の豊かな黒い毛が指に触れると、否が応でも思い出す。
ラニの片足が花の峰の先端に降り立ち、しっかり地面を踏むと、紫の烏たちは霧散し、見えなくなった。空気に溶けていったようだ。現実に向き合う時間だった。
朝露に濡れた白い花を踏んで数歩進み、ラニはピルラに呼びかける。
「ただいま」
「おかえり」
金色の木の下から出てきたピルラが、ゆったり言った。
ラニはピルラの装具にランプをつける。また、その背に結ばれていた装具を外して身につけ、レピドライトを抱き上げた。
花の峰を離れる時間が刻一刻と迫る。
この後、どうするべきか。ラニは考えた。まだ答えを出さず、許されるなら竜舎に帰りたい。竜舎に帰れば、オズバートが気を揉みながら待ってくれているはずだ。
「アルファルドの所に行くだろう? このまま送ろう」
ピルラがあっさり次の行動を提示した。
ラニには、まだアルファルドと顔を合わせる自信がない。しかし、ここで断るのもおかしな話だ。仕方なく、ラニは小さく頷いた。
ピルラはラニとレピドライトを乗せ、島の球面に沿って飛んだ。裂け目から暗い洞窟に飛び込み、少し飛べばもう島の地底だ。
頭上にサンゴ礁が広がり、時々、潮が落ちてくる。ほの暗い洞窟で、ラニたちは王である巨大な竜の背を背後からすり抜けた。アルファルドの正面でアカンサスの茂みに降り立つと、ピルラが王に声をかける。
「アルファルド。ラニが戻ったよ」
ラニはピルラの背を降り、装具を脱いで居住まいをただした。レピドライトは、もうおくるみに収まっていない。ラニの足元に、すました顔で座った。
巨大な月色の竜、王がゆっくり目を開く。金色の目が動き、ラニを捉える。優しい眼差しだった。
「おかえり、ラニ。無事でよかった」
「ありがとうございます。危ないことは、何も」
言いながら、ラニは大切に抱えてきた刷毛を王に見せた。王の大きな目がラニの手元にある刷毛をじっと見つめる。
ラニは意を決し、はっきり伝えた。
「ニクテレウテスという人から、これを預かりました」
王、アルファルドは静かに息を飲んだ。やや間を置いて、彼は恐れるように聞いた。
「彼は? 元気だったかい」
「そうですね」
頷きながら、ラニは少し自信がない。
ニクテレウテスは獣の姿であったから、声や歩く様子からしか体調が察せない。見る限り健康そうだったが、果たして実際はどうだろう。
椅子を倒していたから、案外そそっかしいのか、それだけ元気という事か。あるいは動きが鈍っているのか。
「大きな問題は見えませんでした」
ラニの戸惑いは見て分かった筈だ。王、アルファルドはどこか安堵した様子で目を細めた。
「彼は分かりにくくてね」
アルファルドの声はあくまで穏やかだ。ラニはほっとする。曖昧な回答を受け入れてもらえた。安堵があった。
それに、こうしてそれぞれと話す限り、互いに憎み合っている訳ではなさそうだ。
二人が再び顔を合わせる事はあるだろうか。いつか上手くいけばいい、とラニは思った。二人が憎み合っているのでないならば、それに越したことはない。
アルファルドは首をもたげ、ラニの両手にある刷毛へ鼻先で触れた。呼気がラニの指先を擽る。
「懐かしいにおいだ」
しみじみ呟くアルファルドを見上げ、ラニは目を瞬かせた。
地下で出会えるアルファルドは、巨大な身体を持つ月色の竜だ。その身体は白い琥珀のような光沢を持つ鱗に覆われているが、同時に黒い靄に蝕まれてもいる。鱗には、曇っている部分がまだらにある。黒い靄は、刷毛が触れた鼻先のあたりで、僅かに薄れた。気のせいだろうか。
「アルファルド、ちょっと試してみたいんだけど」
一声かけて、ラニは手に捧げ持っていた刷毛を握る。象牙の取っ手に黒い毛の刷毛。これを使って、ラニはアルファルドの頬を撫でた。
「やっぱり」
黒い靄が、目に見えて薄れた。刷毛で撫でた場所のみ、鱗が磨き上げたように艶めく。周囲の靄がすぐに流れ込んで馴染んでいくため、効果はいまいちだろうか。それでもだ。
「アルファルド、見て」
金色の目が、ラニをじっと見た。ラニはアルファルドに見えやすいよう、彼の尾に近づいて、刷毛で彼の尾を撫でた。黒い靄が薄れ、再び辺りと馴染んでいく。
アルファルドは嘆息した。腹の底から絞り出したような吐息だった。
「ああ……ずいぶん楽になったよ」
ラニの目に映る靄は、薄れた部分もやがて辺りと同じ濃度になる。だが、アルファルドの感嘆が大きい。上手くすれば、靄の総量は減っているのかもしれない。
ニクテレウテスの思いやりは、確かに効果があったのだ。
「もう少し試してみてもいい?」
「頼む」
ラニはアルファルドの身体の周りを歩き、あるいはその背によじ登ったりして、彼の身体を刷毛で撫でて回った。一仕事だった。
すると、どうだろう。靄は確かに薄れた。完全には消えないものの、月にかかる濃い黒雲が、薄雲に変わったようだ。
「どう、アルファルド?」
「ずいぶん楽だ」
言葉の通り、アルファルドは身体を投げ出した。これまで彼は体の下に足をしまい、尾を体に巻き付けて、全身強張らせていたのだ。それが手足を伸ばし、尾を垂らして、ほっとした様子が見える。
ラニは微笑み、刷毛に視線を落とした。これだけ靄を払う間に、随分痛んでしまった。持ち手がくすみ、毛が乱れている。これ以上刷毛だけで靄を払うのは難しそうだ。悪くすると、壊れてしまうかもしれない。ラニはアルファルドに改めて刷毛を見せる。
「ニクテレウテスはこれをくれて、塔の地下にも街があって、外も存在する筈だ、って」
「外」
アルファルドは驚いたように繰り返した。金色の目がひと際大きく見開かれる。
「外か。わたしも忘れていた」
塔の外。常に記憶から薄れていくという場所に対して、ラニはこの瞬間も不安な気持ちを保っていた。だが、同時に興味が湧いた。ニクテレウテスの前を離れ、アルファルドの身体にまとわりつく靄が薄れるのを見て、やっと、向き合うだけの価値を見出したのである。
「地下や外には、アルファルドの傷を完全に治す方法がある?」
この刷毛でアルファルドの体にまとわりつく靄を落とすことができるのは何故か。刷毛が外の物質で出来ているからではないか。ラニは期待を込めて訊ねた。
「……さてね」
妙な間があった。気になる間だ。アルファルドは頭を地面につけ、深々と溜息を吐く。
「下の階は地面に埋めた。外のことは思い出せない」
疲れた響きの声だ。物憂げで、不安を殺した声にも聞こえた。
「いまや、わたしの力が及ぶのは月の島だけだ。わたしは衰えたのかもしれない」
ラニは頷きながらこれを聞く。そして、足元のレピドライトをちらりと見た。
レピドライトは、花の峰で金色の木に宿った雫を舐めてから、急にしっかり歩き始めた。こんな風にアルファルドの傷が癒える日を思った。
ニクテレウテスの元から戻って二日ほど、ラニは呆然と過ごした。彼との出会いが現実として受け止めがたかったし、疲れていた。
だというのに、考えず居られない。
地下について、外について。
これらの事は時々、頭から抜け落ちて忘れそうになる。
日常のふとした瞬間、たとえばキッチンで洗い物をしている時、庭先に箒を駆けている間。自然と、数日分の記憶が思い出せなくなる。
考え事がなんとか脳裏に留まっているのは、部屋の机に置いた刷毛のおかげだ。刷毛を見るたび、ラニはニクテレウテスや外のことを思い出した。そして、刷毛のくすみが、アルファルドを思わせる。
石造りの廃墟に住まうニクテレウテス。地下の洞窟に、じっと身体を丸めているアルファルド。かげの谷に帰れない自分。それぞれを並べて、ラニはじっと考えた。そして、アルファルドと自分はどこか似ている、と考え始めた。彼ほど困難の中にあるわけではない。だが、帰れない場所や取り戻せない関係について思う気持ちが、確かにある。
三日目の晩、ラニはリュックサックを取り出した。丁寧に確かめたが、穴やほつれはない。机の傍に置いた。
四日目、ラニはバザールで携帯食料や寝袋を買った。自分が運べるだけの量を選んだ。レピドライトと二人で出かけるなら二日分だ。歩く事を考えると、それが精いっぱいだった。
五日目、ラニは自分が揃えた荷物を睨んだ。与えられた自室の青いカーペットに、リュックサックがずっしり横たわっていた。あとは思い切るだけ、と理解していた。
六日目のこと。オズバートがラニに声をかけた。
「ラニ。どこに出かける?」
場所はキッチンだ。若い二人の騎兵は外で訓練をしている。コノルが優勢だ。押されているディアミドの必死な様子が微笑ましい。竜たちもこの様子を眺め、楽しんでいる。
オズバートはいい香りのするお茶を入れてラニを呼び、椅子に座らせた。
ずっしりした木製のテーブルとそろいの椅子は、この家の安定感に貢献している。飴色でつやつやしていながら、使い込まれた手ずれがある。そこにオズバートが座ると、安定の印象はますます強くなった。ラニは唇を震わせ、オズバートの向かいに座る。誤魔化しても無駄だ、と察していた。誤魔化すと、余計にこじれるだろう。だから、素直に話した。
「ここよりずっと地下に……探し物に行ってみたいんです」
これまでの事でオズバートを信頼していた。彼には話すべきだ、という意識もあった。
言われてから申し開きするのは情けなかったが、改めて訴えた。アルファルドの傷を癒やしたい。そのための探索に出かけたいのだ、と。
オズバートは顎に手を当て、考える仕草を見せた。深刻そうな表情ではない。彼には、少し余裕がある。もしかしたら、ピルラから話を聞いていたのかもしれない。
「明日まで待ってくれ」
はっきり、彼はそう言った。頼もしい声だ。ラニはオズバートを見つめ、言葉に詰まった。
なかなか旅立てなかった理由のうち、大きな部分を心細さが占めていた。オズバートが一緒に来てくれるなら、どうだろう。不安を感じる必要が、少しでもあるだろうか。
ラニは自分の非力さを十分理解していた。
翌朝、ラニとオズバートはそれぞれ荷物を背負って落ち合った。
ラニはこの日、いつもより身幅に近い服を選んだ。余計な布があると、旅先では邪魔になるからだ。白いシャツに、ベージュのズボン。汚れやすい色だが、薄暗い場所ではこの方が目立つ。藍色のショールも用意してある。寒ければ羽織れるし、いざともなれば包帯に出来る布だ。これは丸めてリュックサックにくくりつけた。リュックサックの中には携帯食料と水筒、そして寝袋が入っている。あとは、ニクテレウテスに与えられた刷毛。ラニが持って歩けるのは、この程度だ。
オズバートはいつも通り、茶色の革の鎧姿だ。腰に剣をつけている。背中に背負ったリュックサックはラニの倍ほどあって、聞けば、簡単な調理器具や寝袋のほかに、テントまで入っているらしい。
レピドライトとジャスパーも一緒だ。レピドライトは体躯の問題で身一つ。ジャスパーは、その背にいくらか荷物を負っている。水と食料らしい。
ラニとオズバート、それぞれが持つ橙色のランプが、二人を照らし出す。
ラニは言葉に詰まって、何も言い出せなかった。オズバートは少しラニを待った後、ごく穏やかに切り出す。
「アルファルドに道を聞くのがいいだろうな」
地下を壊したのが彼であるならば、彼が抜けてきた道もまた、あるはずだ。オズバートに言われて、ラニは頷く。
頼もしかった。オズバートとジャスパーが旅に同行してくれるなら、何とかなるに違いない、と思えた。
二人と二匹は城に向かった。
この日、王の先導はない。だが、霧が立ち込め、城壁の門が開いて一行を呼ぶ。城を囲う柵も同じだ。一行が通り抜けると閉じ、次は城の扉が開いて行き先を教える。
ラニたちの考えや行動が、アルファルドには手に取るように分かるのだ。それを感じて、ラニは苦い気持ちになる。この後何を言われるか、考えると気が重い。
「ジャスパー、飛んでこれるか?」
「そのほうがありがたいね」
オズバートの呼びかけに、ジャスパーが軽い調子で応じる。彼は城内を通るより飛んだ方が早い。飛び去って行くジャスパーを、レピドライトが羨ましそうに見ていた。
二人と一匹になって城の中に入ると、次にくぐるべき扉が順番に開いた。丁重なもてなしだ。ラニとレピドライトは視線を交わした。
「アルファルド、いないね」
「きまずいのかな?」
向き合って話すほど、彼は王なのだ、という認識が薄れる。物静かで、沈みがちで、時に烈火のように怒る。一匹の竜、不完全で、対話できる存在として、改まっていく。
ラニはそれが嬉しい。だから、彼に伝わるならと、名前を呼ぶことが増えた。
レピドライトは、王にあまり興味がない、とラニは感じている。その出生を思えばまだ好意的だ、とも言えるから、触れずにいる。もしラニがこれ以上に王と親しくしたら、レピドライトは怒るのかもしれない。そんなことを思った。
隠し通路のある部屋にたどり着くと、三つの黒いクッションたちが待っていて、扉を開いてくれた。
一行は城の隠し通路を抜け、地下に向かう。
ゆるやかな傾斜を辿りながら、アルファルドがどんな思いで自分たちを導いているのか、考えず居られなかった。
やがて傾斜が終わり、足元が黒い土に変わる。地下にたどり着いたのだ。ラニたちが着いてすぐ、ジャスパーが合流した。
そこで、ラニは洞窟のありさまを見た。
アカンサスの濃い緑はいよいよいきいきして、先日までの通路を覆い隠そうとしている。この緑を割ってジャスパーの赤い体が進んでくる。彼は機嫌良さそうに尾を揺らし、ラニたちを促す。
ラニとオズバートは、ランプをかざして進んだ。
洞窟の奥に、小山のような竜がいる。月色の巨躯に、黒っぽい靄が纏わりついている。アルファルドだ。彼は、壁に身体を預けてうずくまっている。壁に生えたシダが、彼の鱗を擦っていた。
一行が近づくと、黒い薄雲を纏ったアルファルドは、諦観のにじむ目で一行を見た。金色の目が、よどんでいるように見える。
意外なことに、問答はなかった。アルファルドは首を擡げ、彼の背後にある闇を示した。
「道沿いに行くといい」
彼の示す先に、暗がりが広がっている。ラニは数度、この暗闇を通り抜けた。竜たちの背にしがみついて、何も見えないまま抜けたのだ。
ラニはアルファルドの言葉を考え、ひらめいた。
思っても見なかったが、道はアルファルドの背後で二股になっている。片方は地上へ。片方は地下へ。
これまでの経験から、地上への道が急角度であることを知っている。歩くなら間違いなく地下にたどり着くだろう。暗がりの先は見えない。
ラニは唾を飲み、一歩踏み出した。ラニが動き出すとレピドライトが動き、オズバートとジャスパーも歩き始める。
旅の始まりだ。
アルファルドの傍を通り抜けるとき、ラニは彼をちらりと見上げた。
「待ってて。ちゃんと帰ってくる」
「期待せずに待とう」
アルファルドは低い声で応じた。
葉むらの気配が遠のくと、洞窟を照らしていた光石の恩恵もまた、遠のく。辺りが真っ暗になる。漆黒の闇だった。橙色のランプ二つが頼りだ。
しばらく歩くと、予想通り、道が下り坂になった。ラニとオズバートがそれぞれ握ったランプは、辺りを円形に照らし出す。その灯りも、闇が濃すぎて辺り全体を照らすに足りない。足元がわかる、それだけで精いっぱいだ。
そんな中ラニは、以前よりずっと歩ける自分に気が付いた。隠し通路の坂道を下り、洞窟を進んで、そろそろ二時間ほど経つだろう。まだもう少し、歩けると思った。
また、暗闇の道も、以前よりずっと安心して進める。二人と二匹分の足音が、ラニを励ましていた。不安はなかった。
下り坂はいつまでも続いた。一行は道中で一度食事を取り、再び進んだ。
ラニはひらめいた。アルファルドはこの穴を掘って月の島に現れたのだ。彼は塔の一階を埋め、建築中の部分を燃やしたという。洞窟は、埋めた地下からの脱出経路であったかもしれない。
考え事をしながら、どれくらい歩いたのか。再び空腹を感じる頃、道がひらけた。
不思議に辺りが明るくなった。まばゆいほどの明るさはなく、自分の手がぼんやり見える程度だ。天井が高いようで、暗がりをじっと睨めば、林立する建物の影が浮かび上がってくる。四角柱や円柱のような建物たちが並んでいた。足元には、いつの間にか石畳の道が見え隠れしている。土砂で半ば埋もれた道は、とぎれとぎれだが確かに一方向へ続いていた。
「不思議な場所……」
ラニが呟く。オズバートは頷いて、石畳の方向を確かめた。下り坂が続くようだ、とわかった。
一行はしばらく道沿いに歩くことにした。道よりほか頼りにする物がない、というのが正しい。
辺りを見回しながら歩けば、林立する柱のような建物は、どうやら廃墟だ。廃墟の様子だけが変わる道にうんざりしたころ、行く先にぼんやり灯る灯りをみつけた。
それは、バザールの屋台に似ていた。違うのは、壁の布がつぎはぎだらけで薄汚れていること。ひしゃげた鉄の柱を使っていること。そして、薄汚れた机の向こうに、枯れ木のような女が座っていることだろうか。これらを、屋台の内側に吊された、傘つきの光石が照らしていた。黒く扁平な円錐の下が空洞で、卵型のひび割れた光石が下げられているのだ。
一行は屋台の机を覗き込んだ。そこには曇りガラスのひび割れた瓶が並んでおり、底の方に怪しげな菓子らしきものが、僅かに入っている。黒っぽい焼き菓子、何かの干物、ざらざらした飴玉らしいのが少しましなものの、得体が知れない。
店番の女は一行を流し目でじろりと見た。
「おや、まありっぱな人たちが来たね」
ラニとオズバートの格好を上から下まで眺め、女は声を上げた。おどける響きを含んで、人を軽んじる声だ。
とまどうラニを下がらせ、オズバートが女に一礼した。誠実な態度だった。
「どうも。ここらのことをお伺いできませんか。初めてここに来たもので」
女はオズバートを一瞥し、ふんと鼻を鳴らした。
「ここらじゃ皆、がれきを拾って暮らしてるのさ」
かくいう女も、つぎはぎの当たったワンピースらしき服を着ている。埃っぽく、乾いて薄汚れた印象だ。彼女から見れば、旅装を整えたラニたちは「りっぱな人たち」かも知れない。嫌味に違いなかった。
女はシガレットに火をつけ、うまそうに吸う。
「身体が小さい子どもの方が有利だね」
女がぼやいたちょうどその時、四人の子どもがテーブルに駆け寄ってきた。彼らは一様に、つぎはぎだらけの埃っぽい格好をしている。髪の毛など、生まれてこのかた一度も櫛を当てていないと言われたら信じそうなほど、ぼさぼさだ。そして、鉄製の椅子を四人で掲げ持っていた。鉄製の椅子は黒く、ツタ模様の背もたれがある。また、赤い布で張られた座面が綺麗だ。薄汚れてはいるものの全体の形が整ったこれを、あちこちに見える塔のような建物のどこかから持ち出してきたらしい。
「そこに置きな。何がいいんだい」
女はやっと椅子から立ち上がり、子どもたちに呼びかけた。無愛想だが、優しい声だった。オズバートとラニは一歩下がり、子どもたちに店の前を空けてやる必要があった。
子どもたちは思い思い瓶を指さし、女から菓子を受け取る。子どもたちは菓子を受け取るなりすぐ口に含む。彼らは飴玉や干物をしゃぶりながら、目を輝かせて闇の中へ消えていった。
これが、この場所の日常なのだろうか。再び椅子に座った女を見て、ラニは首を傾げる。
こうしてみると、月の島は豊かだ。誰もが綺麗な服を着て、食事を取り、きちんと住む家がある。王は、それを保ってきたのかもしれない。その偉大さ、孤独さを初めて知った。
「あんまり大きい穴に近づくと、白痴になるよ」
老婆が、走り去る子どもたちに向けて叫んだ。返ってきた叫び声は、わかってるよ、という楽し気な響きである。
「穴って?」
ラニが訊ねると、女は露骨に面倒そうな顔をした。
「壁に空いた穴だよ。霧が吹き込んでくる」
当然のことを聞かれた、という口ぶりだ。面倒そうに、鼻をつまみたい、と言わんばかりに、女は続ける。
「ゆっくり直るけどね。何もかも忘れちまうのさ」
その霧について、ラニは聞いたことがある。ほんの少し前、アルファルドから聞いたのだ。
「忘却の霧だ」
では、この辺りに外と通じている場所があるかも知れない。オズバートも気づいただろう。女に訊ねる。
「どこか、風が吹いてくる場所を知らないか?」
オズバートが訊ねると、女はしんねり視線をそらした。オズバートは溜息を吐く。彼は懐を探って銀貨を一枚取り出し、女の前にちらつかせた。
女の目が銀貨に釘付けになった。オズバートは銀貨を握りこぶしに隠し、視線で問うた。女は早口で言った。
「この道をずっと下っていくといい。誰も行ったきり帰ってこないが」
「ありがとう」
オズバートは銀貨を机に置き、ラニを呼んだ。
ラニはきょとんとしてオズバートと女を見比べた。その間で行われた取引はわからないまま、オズバートを追った。
二人はなおも下り坂を歩いた。
しばらく歩いて、代わり映えしない景色に飽き飽きした。騙されたのかと疑いもした。だが、下り坂は続く。
都のように時間を知らせる鐘の音がないため、時間の経過は曖昧だ。太陽や月も見えない。時間は、自分たちの疲労度や空腹で量るほかにない。
道中、一行は二度の野宿をした。
ラニが寝袋で寝ている間、オズバートが辺りを見張る。ラニが起き出して食事の準備をする間は、オズバートが寝袋で眠った。
竜たちはうとうとしたり、辺りを見回したりして過ごしたようだ。
二度目の野宿を済ませて少し行った時、ラニとオズバートは顔を見合わせた。道が上り坂に変わったのだ。そして、向かい風があった。この坂を少し登る間に、白い薄い霧が薄く流れるのを見た。どこからか、霧が吹き込んでいる。霧は途切れながら、確実に流れてくる。
「あと一日進むだけ、食料と水がある。それを使ったら、戻るしかない。行ってみよう」
オズバートが言った。ラニは頷き、薄い霧が流れてくる坂を睨んだ。
坂を登るごと、霧は濃くなった。次第に周囲の輪郭がぼやける。ランプの光が照らす範囲に、白い霧ばかり浮かび上がった。ともすると、互いの姿すら見失いそうだ。
「手を繋ごう」
オズバートがラニに言った。ラニは、戸惑いながら頷いた。その方がいい、と理解している。ただ、気恥ずかしいだけだ。オズバートの手は大きく、温かい。ラニは、かさついた自分の手をよく擦ってから手を差し出した。オズバートの手は、ラニの手を優しく握りしめた。
レピドライトが先に立ち、後ろにはジャスパーがいる。竜たちの姿は、不思議とはっきり見える。
一行は霧の中を進んだ。レピドライトが特に霧の濃い場所を目指して進んでいく。彼の鼻先は間違いなく、向かい風がはっきり感じられる方向に向いている。
しばらく霧の中を歩いた。
もう、建物の影は見えない。足元の傾斜と、前を行く者の影だけが頼りだ。
霧は確実に肺を充たした。
それでも進むうち、ふいに、向かい風が消えた。
上り坂は突然平坦になり、やがて下り坂に転じた。少し下ったところで、再び平坦な道が現れる。
濃い霧はなおも続いた。それでいて、晴れるのは一瞬だった。霧は、それ自体が夢であったかのように消えていった。
辺りを見回すと、背後に塔があった。城の塔より小さい、二階建ての塔だ。水色と淡い緑のグラデーションがかかった不思議な空をバックに、円柱形の塔が建っている。
距離感からラニは、あそこから来た、と思った。
あの大きさの塔に、月の島や、月の島を擁する水盆や、ニクテレウテスの暮らす階が収まるだろうか。ラニにはそう感じられない。
ラニはオズバートを見上げた。彼も同じ感覚を抱いたようだ。眉間に皺を寄せている。
「変な感じだ」
「うん」
そこで、ラニとオズバートは顔を見合わせた。二人は、手をつないだままだ。温度の馴染んだ手は、自然に握りあってそこにあった。
ぱっと手を離し、慌ててそれぞれ明後日の方向を向く。胸の前に、さっきまで相手と繋いでいた手を置いて反対の手で覆い、深呼吸する。
そんな様子を、竜たちが呆れた顔で見ていた。
二人はまた、しばらく歩いた。手をつないでいたことには、それ以上触れなかった。
辺りにいくつかの塔がまばらに並んでいる。それぞれ形が違う、不思議な塔たちだ。
足元は砂地で、うっすら草が生えていた。歩きやすく、疲れにくい。
ラニは、こんな道なら何処までも歩いて行ける、と思った。
辺りに塔の姿が見えなくなると、ふしぎな林に来た。
木が不規則に、しかしそれぞれしっかり間を保って生えている。果実が実り、また、花を咲かせていた。実や花は飽きないほど種類がある。木ごとに、見るたび違う果樹だ。ここは果樹園らしかった。
不思議に思いながら進んだ。
果樹の林はあまりに整っている。何かが大きな意思を持ってこの庭を整えている、という印象だ。しかし、ここに至るまで人の気配がない。
世界中に、ラニとオズバート、そして、レピドライトとジャスパーだけになってしまったようだ。
この四人きり、それだけの世界が見渡す限り広がっている。ラニは確かにそう思った。
静寂が満ちていた。足音を聞くほど、静かだと感じた。風も、空気の揺らぎもない。ただ清明な空間が広がっている。
道の向こうに、美しい水面をたたえる湖が見えた。
「行ってみよう」
オズバートが言って、ラニは頷く。
一行は湖に小走りで近づいた。
湖は、漂泊されたような砂地の中央に湧いて出た様子だ。くぼみに充たされた水が、澄み渡っている。浅瀬など、どこが水打ち際か見極める必要があるほどだ。中央は青く、冴え冴えして見えた。広さは、かげの谷の近くにある湖より小さい。ぐるりと一周回っても、半日とかからないだろう。
砂地も特徴的だ。白い砂は水晶片らしく、中で小さな炎が燃えている。小さなトパーズや、琥珀、月長石も混じっていた。粒の大きさがまちまちな混ぜ物たちの印象を打ち消して白い砂浜である。水晶の量が多いのだ。
少し歩いて、一行は果樹園と白い砂地の間に松の木を見つけた。
「このあたりにキャンプを張ろう」
オズバートが言った。
彼は、ごく小さなテントを持っている。ここに至るまで地下だったため、出番のなかった品だ。紺色の蚊帳をベージュの幕で覆う、小さなテントである。
辺りが果樹だらけだから松の木は目印として都合が良かった。それに、枯松葉はいい着火剤になる。
松の下に張られた拠点を確かめたあと、ラニは薪を探して歩き回り、あちこちの果樹を見上げた。
見たことのない、いい香りの果物がそれぞれ実っていた。赤くて丸い物、橙色で卵型の物、流線型、口を開いている物、小粒から大粒まで、さまざまだ。
そのうち、空の色は淡く透き通る紫色に変わっていた。夜が来たのだ。
その晩、ラニたちは果物を食べた。甘く、瑞々しく、美味しかった。中には酸っぱいものもあって、これにあたると誰もが顔をしわくちゃにして笑った。
その後、それぞれ身体を拭いて寝支度を整えた。
小さなテントは、寝袋を二つ並べて広げればそれでいっぱいだ。ラニとオズバートは並んで眠ることにした。まだ得体の知れない露天で眠るより、すっと安心感がある。見張りは、ジャスパーが申し出てくれた。
翌朝、起き出した二人が外に出ると、テントの幕は結露してしっとり濡れていた。昼頃自然に乾くまで、時間と日差しが必要だった。
昼夜は月の島と同じく巡り来た。
ラニたちは携帯食料を温存し、果物を食べて過ごした。辺りを探索するうちに、ここに住めば食べる物にも暮らすところにも困らないだろうと分かった。
二日ほど過ごしただろうか。
大きな成果はない。似たような景色が、どこまでも広がっているだけだ。
そしてふと、ラニは思った。
はたして、何をしにここに来たのだろう、と。
三日目の早朝、ラニは夜明け前に目を覚ました。隣では、オズバートがぐっすり眠っていた。テントの狭い空間に、呼気の温みが満ちている。
この数日、オズバートはラニが目を覚ますたび目を覚まして「どうした?」と声をかけてくれた。今日は眠ったままだ。さすがに疲れたか、気が緩んだのか。
ラニは注意深く彼の傍を通り、外に出た。
朝焼け前、空は青暗く、シルエットだけが確かだ。爽やかな空気が肺を洗う。湖から湧きだした朝霧が辺りを充たしている。
行けるところまで行ってみたい。こう思って、ラニは遠くの空を見た。青く暗い空と平野が並行に、どこまでも広がっている。
このまま出かけようか。歩き始めかけたとき、誰かの話し声が耳に入った。テントの傍で、レピドライトとジャスパーの影が向き合っている。声を潜め、何か話し合っているようだ。
ラニは静かに彼らへ近寄った。
竜に気づかれないのは難しい。すぐジャスパーが顔を上げ、ラニを見た。
「ラニ、おはよう。とっても早いね」
ジャスパーの声には、なぜか焦りがあった。
「うん。ちょっと、行けるところまで行ってみようと思って」
ラニはさっぱり答えた。わくわくして、早く出かけたい。不思議な高揚感がつま先から頭の先まで充ちて、気持ちを逸らせる。
「本気で?」
瞳をゆがめ、口をまげたジャスパーの顔は、初めて見る。ラニは眉を下げた。爬虫類の顔はこんなに表情豊かなのか。驚きながら、胸の内で膨らむ遠くへの憧れに駆り立てられている。留まっていられそうにない。都合のいい理由を見つける。ジャスパーはここにとどまって、オズバートの眠りを守ってくれる筈だ。だから、ラニが出かけても問題はない。ラニはジャスパーに頷いて見せ、次にレピドライトへ視線を向けて訊ねる。
「レピドライト、一緒に来てくれる?」
「もちろん」
レピドライトは楽しそうに立ち上がった。猫と蛇に似た竜はすらりと歩き、ラニに寄り添う。
「どっちに行く?」
「あっちかな」
指さした方向は、来た方向と逆の彼方だ。
「よし、行こう」
レピドライトは頷いて、再び、ラニの先に立った。来た時と同じだ。どこから来たのかは、思い出せない。
ラニとレピドライトは歩き始めた。
果樹園はおどろくほど広い。ラニたちは歩きながら、花の香りを嗅いだり、果樹を撫でたりした。時々振り返ってみると、遠くに小さなテントが見えた。
進むうち、空は水色と淡い緑色を取り戻す。昼が来たのだ。
やがて、テントが見えなくなった。
ラニは途中で木の実をもいで食べた。赤い、丸い木の実だった。かぶりつくと、赤いのは皮だけだ。内側は白い。甘酸っぱく、食感がしっかりしていて美味しい。一つ持っていこう、と握りしめ、もう一つを傍で機嫌よさげな竜に与えた。木には、白い花が咲いていた。
二人は果樹園を抜け、砂礫の原に出て、どこまでも歩いた。
だが、この場所の景色はそれ以上何も変わらなかった。
太陽が中天を過ぎていくらかしたころ、どこまでも続く砂礫の原で、ラニは立ち止まった。予感がしたのだ。
ここより先に行くと戻れなくなりそうだ、と。
自分は戻るつもりではなかったか。脳裏に響く自身の叫びが、やっと、前進を望む高揚を押しとどめた。
「レピドライト、戻ろう」
「なんで? まだ行けそうだよ」
レピドライトがそう言って、数歩先にいく。ラニはそれに従い、前に出た。砂礫の原の先に、真っ白い砂地が見えた。湖の周りの砂地よりなお白い砂原だった。ラニは震えた。
「戻れなくなる」
再び立ち止まって、ラニは意思を示した。レピドライトが振り向いて、不思議そうに首を傾げる。
「戻らなきゃだめ?」
無垢な問いかけだった。
戻らなければいけないか。ラニは、一瞬確かに迷った。レピドライトが望むなら、この先に進んでもいいのではないか。幸い、まだまだ足は軽い。どこまでも進めそうだ。
迷いながら、ラニは応じた。
「うん。戻りたい」
レピドライトは頷き、踵を返した。
二人がキャンプに戻るころ、日が暮れ、空は紫に変わっていた。オズバートとジャスパーは、焚火を囲んで待っていたようだ。二人は心底ほっとした顔でラニとレピドライトを迎えた。オズバートは、ごく弱い力でラニの額を小突いた。怒っているぞ、という意思表示らしかった。ラニは、ずっと握りしめていた赤い果実をオズバートに渡した。
あくる朝、ラニは自分の荷物を確かめた。たとえば、昨日の砂地の向こうにラニとレピドライト二人きりではなく、オズバートとジャスパーも連れていくなら、残りの荷物でどこかへたどり着けるか考えたかったのだ。
ラニの荷物には、二日分の携帯食料が丸まる残っていた。ここに来るまで、オズバートとジャスパーの物資に頼っていたからだ。二人の物資が帰りの三日分。ラニの荷物は二人分だから、一行が四名であることを考えれば、四日は保たない。
それでどこにたどり着けるか。ラニには当てがない。たどり着いて、戻れる保証もない。だとすれば、今から帰るべきだろうか。だが、どこに?
ほかの持ち物は水筒と、藍色のショール。持ち手が象牙の刷毛。刷毛の毛は黒い。どうしてこんなものを持ってきたのだろう。荷物は少しでも軽くするべきではないか。
ラニはくすんだ持ち手の刷毛を持ち上げ、しげしげ眺めた。刷毛のくすみは、ラニの指先へ懐くように纏わりつく。ラニははっとした。はっとして、自分の懐に刷毛をしまった。
「ラニ、散歩に行かない?」
傍で荷物の整理を見ていたレピドライトがラニに訊ねた。
「うん、ちょっと待って」
ラニは他の荷物を片づけ、立ち上がる。
テントの傍でオズバートとジャスパーがじゃれ合っていた。ラニが出かけるのを認めると、オズバートはまじめ腐った、だからこそおどけていると解かる顔で言う。
「気を付けて戻って来るんだぞ」
ラニは笑って頷き、彼に手を振る。そして、レピドライトが湖畔を歩くのに付き合った。
レピドライトは驚くほどしっかり歩くようになった。つい先日までおくるみで抱かれていたのに、今や、歩くときは先に行きたがる。
湖は楕円形だ。この外周をゆっくり歩けば、やがてテントが対岸に見える場所にたどり着く。
レピドライトは向こう岸にテントを見ながら立ち止まり、ラニに訊ねた。
「ラニ、オズバートとここで暮らしたら?」
ここには酷い人も、面倒な人もいないよ、とレピドライトは言う。甘えた声だ。
ラニは、とっさに答えられなかった。
考えることが、いくつもあった。
ラニがレピドライトを抱いて連れ回った頃、特にかげの谷で、彼は何を思っていたのだろう。
ラニに向けられた心無い言葉たちは、そのまま幼い竜を傷つけたのではないか。いい気をしていた筈がない。
眉を下げ、自分のつま先を見た。足元に、大きな琥珀が落ちていた。ほんの数歩先は、水打ち際だ。
「良い人だなって思ってる。私にはもったいない」
これまでのことで、オズバートの人となりをずいぶん知ったつもりでいる。彼は優しく、情の厚い人だ。器用そうでいて、時に無骨さが邪魔をする。それすら愛嬌に思われて、憎らしい。
幼い日、ラニは竜騎兵に憧れた。あの憧れの中にいた、憧れのままの人がオズバートだ。具体的な姿を思い描いたこともなかったのに、今はそれ以外ありえないと思う。
隣に素敵な人がいて、竜たちがいる。
谷で過ごした日々、何度となく空を見上げて空想にふけった。いま自分は、あの絵の中にいる。ここに居れば、誰にも邪魔されない。
何もかも忘れてしまえば楽だろうか。例えば、懐に入れた刷毛を手放せば、塔や月の島のことを忘れてしまうのかもしれない。
だが、アルファルドを治してやりたい。その気持ちは、変わっていなかった。黒い靄に纏わりつかれた、月色の竜。少しだけ、自分に似ている竜だ。
ラニは首を左右に振る。
その場にしゃがみこんで刷毛を懐から出し、白い砂の上に置く。
これがあるから、まだ大丈夫。
それを確かめたとき、不思議なことが起きた。
アルファルドの身体から黒い靄を払ったことで、刷毛は持ち手がくすんでいた。このくすみが晴れた。目の錯覚だろうか。
ラニは湖に近づき、透明な波打ち際で刷毛を洗った。水面は揺れ、光をはじく。澄み渡る水で洗うと、刷毛のくすみはみるみる内に溶け落ちていった。また、毛先の乱れも正され、ついさっき職人が手掛けて作り出した品と言われれば、信じてしまいそうだ。
もう一度この刷毛で拭えば、アルファルドの傷が癒えるかも知れない。希望を抱いて、ラニは立ち上がった。
「帰ろう。今なら、谷にだって胸を張って帰れるよ」
かげの谷は、竜をそれほど重んじていない。分かっているが、谷が竜の……アルファルドの恩恵を受けていることもまた、確かだ。
何かできる気はしない。ただ、後ろ指をさされながら、そこで暮らすだけ。そうだとしても、長く時間をかければ、人の認識が変わるかもしれない。
ラニが笑うと、レピドライトは驚いた顔を見せた。驚きの中に、傷つきが見えた。ラニは俯き、レピドライトの目を覗き込む。
「あの時、私ひどかったね。自分を守って、レピドライトを守れなかった。もっと強くなきゃいけなかったのに」
レピドライトはラニをじっと見上げ、しばらく黙り込んだ。紫色の瞳が、瞬きもせずラニを見た。ラニはただ、微笑みを返した。
やがて、レピドライトは笑った。優しい、穏やかな笑みだった。眦に寄った皺や、歪んだ瞼のあたりに、彼が傷ついている様子が見える。それでもレピドライトは笑う。
彼はラニの足元にすり寄り、頭をこすりつけて俯いた。しばらく動かなかった。
やがて、レピドライトはラニの足に全身をこすりつけた後、湖に向かって歩き出す。
ラニは、それをじっと見守った。何故だか、大丈夫だ、という確信があった。
レピドライトは水打ち際から静かに湖へ入った。彼の体高では、全身が水に浸るまでほんの数歩だ。レピドライトは水の中で鼻先から尾の先まで震わせた。飛沫が波紋を描く。彼は、青い湖の底に潜った。そして、不思議なことが起きた。
再び水面を割って現れたのは、大きくて長い体を持つ竜だった。毛並みはミルクに菫を溶かしたような色で、手足や背中に濃い紫の鱗を持つ、優雅な竜だ。二対四枚の翼も、威風堂々と大きい。
「さあ、ラニ、帰ろう」
竜は、レピドライトの声で言った。確かにレピドライトの声だが、声は少し低くなっていた。
竜の背丈は、ラニより少し高い程度。全長はピルラより長い。オズバートの三倍はありそうだ。竜舎には入らないだろう。ラニは驚いて声が出なかった。ただ、その口元が笑っていた。
ラニがレピドライトをキャンプに連れ帰ると、オズバートは目を見開いて竜を見つめた。
「レピドライトなのか」
「そうみたいです」
ラニは眉を下げて笑い、わきの下に頭をいれてくるレピドライトの額を撫でる。
「こんなに大きくなっちゃって。びっくりしました」
「のん気だなあ」
相変わらずのジャスパーが呆れた様子で言って、レピドライトの傍にやってきた。足取り軽く、というのに相応しい歩みだ。
レピドライトとジャスパーが向き合う。大きくなったレピドライトが、どこか照れくさそうに笑う。
ジャスパーは首を傾げ、何でもないように問う。
「悪さして、満足した?」
「うん、そこそこね」
レピドライトは可笑しそうに言った。邪気のない笑いだ。
竜たちの間に、何か話があったらしい。ラニは呆れて、息を零して笑った。
そろそろ果物ばかりの食事にも飽きたし、帰ろう、という話が浮上した。そこでレピドライトは、ラニに幾つか声をかけた。
湖のほとりの砂に、握りこぶしくらいの琥珀や月長石が埋まっている。これを三つ、持ち帰れというのだ。また、水筒に水を汲むように、とも言われた。
ラニは首を傾げたが、驚くほど荷物になるというのでもない。言われた通りに石を拾い、水を汲んだ。水筒は自分の分だけではなく、オズバートの物も借りた。
この間に、オズバートがテントを畳んでいた。
「ラニ、ちょっと、レピドライトに乗ってみてくれないか」
「でも、鞍がないので」
「いいから」
オズバートはラニを促して、レピドライトに跨がらせた。
「びっくりするよ」
レピドライトが楽し気に言って羽ばたく。二対四枚の翼はたちまち風を捉え、二人の身体が宙に浮かんだ。
「わっ!?」
ラニは驚きに声を上げる。少しも力む必要がなかった。自然に、レピドライトの背中に乗っていられる。レピドライトが旋回しても、急上昇や急下降をしても、平気だ。体に負荷はかかるものの、耐えられる。
「飛んで帰ろう!」
ジャスパーが歓声を上げた。オズバートはジャスパーにひらりと乗って少し先に飛び、ラニを促す。
「追い越そう!」
レピドライトがはしゃいで言った。彼はずっと、それに憧れていたのだ。
果樹園や塔の並ぶ砂地を抜け、薄暗がりの廃屋群と洞窟を通り過ぎた。流れる景色を見下ろしていた時間は、ほんのわずかだ。
一行はあっという間に月の島の洞窟まで戻った。行きの時間を思うと、なんともあっけない。レピドライトとジャスパーはアルファルドの横をすり抜けて飛び、アカンサスの葉むらに降り立つ。
葉むらの揺れる音で、アルファルドが目を開いた。金色の視線は静かにラニたちを捉える。一瞬目を見開いたのは、レピドライトの姿を見たからに違いない。ただ、王たる威厳というのが相応しいだろうか、アルファルドは狼狽えなかった。微笑んでラニたちを迎えた。
「おかえり」
「ただいま、アルファルド」
ラニは呼びかけ、さっそく、リュックの中から刷毛と水筒を取り出した。また、拳ほどの白い琥珀も一緒に出して、アルファルドに見せる。アルファルドの目が艶を帯びて光った。
「いったい君は、どこまで行ってきたんだい?」
熱の籠もった声で問われて、ラニは笑った。まるで、とんでもない探検をしてきた子どもに訊ねるような口ぶりだ。しかし、起こったことを話すのは難しい。
「秘密。これで、あなたの傷を癒やせそうな気がする」
示せる物は、行動だけだ。
ラニはアルファルドの身体に湖の水をかけ、刷毛でぬぐってやった。
彼の体に纏わりつく靄は、みるみるうちに溶けていく。鱗の曇りも、見違えるようだ。艶めく鱗は光を透かし、アルファルドが身震いするごとに透き通って涼やかな音を立てた。
それからアルファルドは、ラニに渡された白い琥珀をしばらく睨んだ。やがて彼は、意を決したようにそれを口に含み、飲み下す。
洞窟の中が、ふっと、これまで以上に明るくなった。
天井の珊瑚が、光石に変わったのだ。また、足元にも小さなかけらが幾つとなく、顔をのぞかせている。土を割って芽吹いたような姿だ。
アルファルドが身体を起こした。洞窟が急に狭くなったようだ。実際には、巨大な竜の身体が立ち上がっただけである。
「ラニ」
アルファルドはラニに呼びかけた。ラニはアルファルドを見上げ、首を傾げる。彼は俯いて、ラニのつま先に、鼻先で触れた。ラニは、息を止めてそれを見ていた。うやうやしくお辞儀する竜の身体は、雲一つない夜空の月だ。眩しく、穢れない。
彼が離れると、ラニの足元に夜色の石があった。拳くらいの大きさで、少し透き通った、不思議な石だ。
「それは、君が持っていてほしい」
アルファルドが言った。
「わかった」
ラニは石を拾い上げる。まるで、夜が手の中に落ちてきたようだ。石の中に、星のような斑点が幾つも光っていた。ラニは石をリュックに入れた。
「ニクテレウテスにも水をあげたい」
アルファルドは期待を込めた声で言った。
「もちろん」
ラニはアルファルドに刷毛と月長石、それからオズバートの水筒を託した。藍色のショールで包み、持ち手を作ってやると、アルファルドは大きな口を繊細に使ってそれを抱え上げた。
次にレピドライトは、ラニを乗せて農場へ向かった。
ラニの手元には、蜂蜜を固めたような琥珀がひとつ、残っている。
甜菜畑の上を飛ぶうち、畑の一角に大きな葉を茂らせた植物が目につく。ハイヌウェレだ。見違えようのない一角を目指して、レピドライトは下降した。
光石があるとはいえ、このあたりはそう明るくない。湿った畑に茂るハイヌウェレの下に、暗がりが広がっている。ラニたちはその根元を覗き込む。
ハイヌウェレの大きな葉陰に、ニュートが休んでいた。その呼気は、泣いているようだ。
ラニは辺りを見回して原因を考えた。葉陰に生えたハイヌウェレはややしおれている。このまま枯れてしまうのかも知れない。
ニュートの傍にはベリックが座り込んでいて、ラニとレピドライトを見ると驚いた顔をする。彼はすぐ、険しい顔つきになってニュートの前に立った。
ラニは驚き、それから微笑んだ。
出会ったときから、ベリックは立派だ。自身よりずっと誇り高く、真摯な子どもだった。それはきっと、今もそうなのだ。
ラニはベリックのそばを通ってニュートに歩み寄る。ふしぎと、ベリックがラニを止めようとする手をすり抜けるのは難しくない。
ラニはもう、ニュートを怖ろしいと思わなかった。黒と茶色のまだらを持つ身体の竜。それは、変質した姿であるという。では、外から持ってきた石が、何かを変えてくれるかもしれない。ラニはしゃがみこんで、持ってきた石のうち、残ったひとつ、蜂蜜のような琥珀をニュートに差し出す。
ニュートは初め、琥珀から顔を逸らした。まるで、受け止めがたいものを突きつけられた姿だ。
ラニはニュートをじっと見つめ、呼びかける。
「あなたなら、その株を治せるかも」
ラニはかつて、ニュートに足の痛みを取ってもらった。そんな風に、弱った植物も治せるのではないか。
問いかけると、ニュートは怯えた様子で顔を上げた。彼はしばらく琥珀を見つめ、やがて、命運を受け止めるように、それを飲んだ。
変化は、目を見張るべきものだった。
ニュートの身体は、薄水色に変じた。頭と首の間に鰭が生え、首や手足もすらりとして、印象が変わっていく。
「なに、これ」
信じられないものを見た様子のベリックに笑いかけ、ラニは立ち上がる。
ニュートの変化は、目覚ましいものだった。ほどなく、ラニたちの前には首のすらりとした水色の竜がいた。体のあちこちに美しい青の鰭を持ち、翼は一対二枚。体に不思議な光彩を持つ、シャトヤンシーの名に相応しい竜だった。
変化の最後、彼はラニの足元に夜色の石を置いた。ラニはこれを拾い上げ、リュックサックに仕舞った。
最後に、レピドライトは竜舎の前に降り立った。首を下げて、ラニに降りるよう促す。
往還の白い道には人通りがなく、ラニとレピドライト、二人きりだ。
ラニはレピドライトを降り、彼と向き合った。レピドライトはラニの顔を覗き込んで訊ねた。
「ラニ、どうして帰って来ようと思ったの?」
その声がどこか恨めし気で、ラニは笑う。
「きっとね、あそこも塔の中だって分かった。ずっと遠くに行けば塔を出られるのかも、とも思ったよ」
思い返せば砂地で見た幾つもの塔は、もともと一つの塔であった部分に違いない。そう思う一方で、あそこがどんな空間か、確信を持てずいる。
ただ、砂礫の原を行くとき、ラニは全てから解放されていた。まっすぐ進めば、全てから離れられると思った。
「でも、そしたら帰ってこれない気がした。私、アルファルドを治したかった」
ラニはレピドライトの頭を撫で、微笑む。
「レピドライト。もし私が遠くに行きたくなったら、付き合ってくれる?」
「もちろん。きみが行くところなら、何処へなりとも」
そう答えながら、レピドライトは悪戯っぽく笑った。
「ねえラニ。ぼくがあの向こうに行きたいと言ったら、一緒に来てくれる?」
ラニは笑った。今なら、簡単に答えてはいけない問いだと解かる。竜はときどき、人を試みるのだ。
「一緒に行ったら、どうなるの」
「うーん。知らないな」
レピドライトは子どものように声をはしゃがせ、ラニの額に鼻先を押し付ける。
「明日から何する?」
ラニには、やがて塔の外のことや、地下のことさえ忘れるだろう、という予感がある。
だが、忘れてもいいのだ。
そこで得たものは、たしかに存在している。手元には、夜色の石たちが残るだろう。それは、ラニの旅の証だ。
「また糸を紡がなきゃ」
ラニは言った。
そうか、とレピドライトの穏やかな声が応じた。
それからレピドライトは、彼が生まれた湖の底に住むと決めたらしい。
しばらくして、ラニはかげの谷に帰った。
寂しくはなかった。ラニが湖畔に立って呼びかけると、レピドライトは応えてくれる。ずっと時間が経った、今でも。




