4.異変
ラニには、竜舎の一室が与えられた。警備の都合があるからと、五部屋あるうち、奥から二つ目の部屋だ。一番奥がオズバート、次にラニの部屋、ディアミドの部屋、ひとつ空き部屋があって、コノルの部屋だ。
白い建物の内側は、やはり真っ白だった。石材の色がむき出しなのだ。
屋根の三角形は、そのまま廊下や部屋に影響している。吹き抜けだ。やや装飾的な、不思議な構造を持つ天井から視線を下ろせば白く滑らかな壁、床には濃いブルーのカーペットが敷いてある。星に似た不思議な模様のカーペットだった。
ラニの部屋には、備え付けのベッドが一つ。木製の引き出し一つ。木製のライティングデスクと椅子が一そろい。鉄製のストレージボックスが三つあった。それで全てだ。
服を引き出しに入れれば、片づけが終わってしまう。壊れた糸車は、オズバートに託した。ベッドに腰かけて、息を吐く。
ほんとうに、移住することになった。かげの谷の家を引き払った訳でもないが、しばらく生活の拠点がここになることは、ラニも解っている。どんな生活になるか、想像もつかない。
その晩、ラニはとにかく横になった。なにせ、一日で転居を決めて、準備までこなした。疲れていたし、まだ、頭の整理もつかない。ラニはベッドに潜り込んできたレピドライトを抱え、泥のように眠った。
ラニの新生活は、翌朝から始まったと言っていい。いつもの時間に目を覚まし、身支度を調えていると、キッチンからいい香りがしてきた。
キッチンは、この家の突き当たりに位置している。六人ほどが座れるダイニングテーブルと、カウンターキッチンが備わった部屋があるのだ。
香りに釣られて、ラニはキッチンを覗き込んだ。カウンターキッチンに立っているのはオズバートだ。彼はスープを煮込み、フライパンの面倒を見ながら、にこりと笑った。
「おはよう、ラニ。丁度良かった。パンを切ってくれないか」
「おはようございます。わかりました」
ラニは頼まれるまま、オズバートの隣に立つ。「三枚、分厚めで」と声をかけられ、緊張しながら楕円形のパンをスライスした。外側が小麦色で、内側は白く、柔らかいパンだ。不思議なことに、まだほのかに温かい。まるで焼きたてだ。
「おはようございまーす!」
そこに、ディアミドが起きてきた。身支度はきっちりしているものの、少し寝癖がある。三人の騎兵のなかで一番幼い顔が、溶けたように笑う。
「オニオンスープ?」
「あと、チーズソースのパン」
オズバートが、フライパンに削ったチーズを入れながら応じた。オズバートはディアミドに「水くんでくれ」と声をかけた。言われるまま、ディアミドが水桶から三つのコップに水を注ぐ。
その間に、オズバートはスープを三人分つぎ分けた。皿に盛ったパンにチーズソースをとろりとかけ、食卓に配膳していく。
チーズの香りとオニオンスープの香りが、食堂一杯に広がった。ほんのり上がる湯気も、食欲をそそる。
「揃ったな」
「コノルは?」
命の恩人なので、ラニにとってコノルは印象深い。昨晩、彼はラニと一緒に竜舎へ帰ってきたのではなかったか。所在を訊ねると、オズバートが頬を掻く。
「あいつは仕事で、出かけてる。食べよう」
促されて、ラニは納得が行かない気持ちで食卓に着いた。
食事のあと、竜たちにも食事を運んだ。彼らは人と同じもののほかに、果物を中心に食べる。また、あれば肉も喜んで食べるという。
ピルラやジャスパーと食事ができて、レピドライトは楽しそうだ。食事の後もじゃれついて、すっかり懐いたらしい。
あの勢いでレピドライトにぶつかられたら、昨日、木に打ち付けられたよりひどい傷になるかもしれない。そんな予感があって、ラニは曖昧に笑った。レピドライトは、彼なりにラニに気を使っていたのだ。それも、精いっぱい力を抑えていたのに違いない。
ラニは、竜たちが過ごす場所の片隅に椅子を出してもらい、パッチワークをして過ごした。
オズバートとディアミドは、剣の稽古だ。
はじめのうち、ラニの手仕事はまるで進まなかった。竜を見たり、オズバートとディアミドの様子を窺ったり、忙しかったのだ。
どうやら、ディアミドはそれほど腕が立たない。あるいは、オズバートが強すぎるのだろうか。昨日の様子を見るに、コノルは中々腕が立ちそうに思う。オズバートとコノルはどちらが強いか、ラニにはわからない。二人が手合わせする所も見てみたい、と思った。
一日がゆったり過ぎていった。午後には、ディアミドがピルラと出かけて行く。竜蜜を取りに行くのだという。さすがに騎兵であるからか、ディアミドも鞍だけをピルラに乗せて、軽々と空を飛んだ。彼らが帰ってきた夕暮れ、オズバートが糸車を抱いて都に出かけた。
恐らく、騎兵のどちらかが竜舎にいるようにしてくれている。これを察して、ラニは心強い気持ちと申し訳ない気持ち、どちらも味わった。
二日目ともなれば、少し余裕ができた。腹筋や腕立て、走り込みに勤しむ騎兵二人、レピドライトをじゃらしたり適度に叱ったりしながら相手をしてくれる竜たち。時々顔を上げてこれらを確かめながら、ラニはブルーグレーとアイボリーの生地に紺色とブルーの布を足してパッチワークを作ろうとしていた。
ラニが一人でレピドライトの相手をしていた時間が、嘘のようだった。ラニはゆっくり針を触ることができたし、何かが壊れることもない。意地を張っていた自分が、少し馬鹿らしく感じた。
数日後のことだ。コノルが大ばばさまの家の近くで、言葉の通じない男を捕まえた。すでに王に報告し、男の所在は牢に移したという。
ラニは、コノルがオズバートに報告するのを聞いて、呆然とした。
彼らの故郷に蔓延する伝染病の噂は、もとよりあったらしい。薬を求めるあてどない航海。その過程で、あの船は月の島の港にたどり着いた。二度目の帰港である。前回持ち帰った竜蜜の効果が素晴らしく、再度求めようとしたが、肝心の交易品が航海中に駄目になっていた。彼らは港で途方に暮れた。
「どうやって言葉が解ったんだろう?」
ディアミドが不思議そうに言う。
「港じゃ、よその国の船と絵でやりとりする」
オズバートが何でもない風に答えた。
とにかく、竜を狙った動機はそのあたりにありそうだ。
報告を聞いていたレピドライトが、思い出したように言った。
「薬をよこせ、といってたね」
ラニは、レピドライトをじっと見る。ラニには、異国から来たという彼の言葉がわからなかった。レピドライトには解ったのだろうか。オズバートも、思うところのある様子でレピドライトを見た。
「竜蜜かぁ」
ディアミドは困った様子で呟く。オズバートも、今度は思案顔だ。
「あれはたいていの病に効くからな」
「そのせいで、竜を万病の薬と信じる者たちがいる。不老不死の薬とも」
椅子に座ったコノルは食卓に両肘を突き、緩く組んだ両手に顔を乗せる。深刻な顔だ。
「証拠は?」
ディアミドが、不審そうに訊ねる。オズバートはこの話題を知っていたようで、疲れた顔で応じた。
「イオは長生きだろう」
さらに、付け加える。
「アルファルドを孵した人間は生きてる」
アルファルド、というのは王の名前だ。ラニはぎょっとして、オズバートを見た。
王は、はるか昔にこの島にやってきた。王が孵されたのは、それより前ということになる。いったいどれくらい昔のことなのか、ラニには理解できない。
「ピルラとスマラカタを孵した人間は死んだから、別に条件があるんだ」
つまり、捕まった男はまるで見当違いの事をしている。どんな勘違いで、何を期待したのか。オズバートは頭を掻き、呆れた様子だ。
「不毛だ。なんて不毛なことを」
しかし、彼は考えるのを止める人ではなかった。オズバートはラニに向き直る。
「ラニ、レピドライトを貸してくれないか。あいつらの言葉がわかるか、試してみたい」
「私も一緒に行きます」
とっさに、ラニは名乗り出た。レピドライトを人に預けるのが怖かったし、同時に、知りたかった。
自分が孵した竜は、本当に無力なのだろうか。そうでないとしたら、どんなにいいだろう。
期待があるから、動かずに居られなかった。
徐々に光石の数が少なくなる暗い道を、橙色のランプを下げた竜車が走る。象牙やべっこう、白い琥珀のような車体は、白く仄かに光っていた。ラニは竜車の中でレピドライトを抱き、外の景色を睨み続ける。
車輪は軽やかに音を立てて周り、やがて速度を緩めた。
牢は都から竜車で一時間ほど行った場所に作られていた。さびしい場所で、数人の兵士が詰める小さな詰所は木造だ。
詰所のほど近く、低くなった岩場に、人の手によって穿たれたのであろう不格好な横穴がある。そこに鉄の柵を据え付けて、牢としているらしい。
乾燥がひどい、とラニは思った。かげの谷で育ったラニにとって、湿度は身近なものだ。だからこそ、乾いた空気に息のしづらさを感じる。
光石が少ないため、ランプの灯りが頼りだ。件の男は、穴の中で膝を抱えてうずくまっていた。灯りの届かない暗がりで、一塊の岩になったような姿だ。ラニ、レピドライト、オズバートの三人は、柵越しに彼と対峙した。
男は、人の足音を聞いて顔を上げたようだ。暗がりの塊がぬっと動く。彼は訪問者の顔を順に見つめ、レピドライトを見て、沈黙のうちに息を飲んだ。
彼は膝で歩き、柵の傍に来た。ランプの灯りが男の顔を照らし出す。汗や汚れで黒ずんだ顔に涙の筋が刻まれている。彼は柵に手をかけ、必死で何か訴えた。悲壮な目、切実な声。しかしラニには、彼の言葉が解らない。不思議な抑揚のある音が何を訴えているのか、理解できないのだ。ただ、悲壮だけを汲み取るほかない。
オズバートも同じらしい。眉間に皺を寄せている。
柵の中の男はなおも必死の形相で喋り、柵に手をかけ、両膝を地面につけて打ちひしがれる。哀れを訴える姿に見えた。声も細くなり、消え入るようだ。
この様をじっと見ていたレピドライトが、口をひらく。
「薬が欲しいって」
本当に言葉が解っているのか。緊張して見守るラニとオズバートの前で、レピドライトは唐突に、不思議な声で鳴いた。その瞬間、うなだれていた異国の男が、はじかれたように顔を上げてレピドライトを見た。そして、彼らは確かに言葉を交わした。レピドライトが鳴き、男が話す。そのどちらも、ラニには理解できない。しかし確かに、男は何事かをレピドライトに必死に呼びかけ、レピドライトは明確に応答している。
ラニは身体を強張らせた。まだ安堵してはいけない。また、歓喜すべき時でもない。しかし、抑えるほど震えそうだ。
しばらく言葉を交わしたあと、レピドライトはラニを見上げた。
「食べても食べてもお腹をこわして、みんな死んでしまう」
竜は神妙な口調で言い、歌うように続ける。
「故郷でずっと雨が降っている。雨が続く様になってから、病気がはやり始めた。暑いのもわるいのかな。でも、どうしようもない」
そんな話をしたよ、とレピドライトは締めくくる。ラニは深呼吸をして、オズバートを見上げた。
オズバートはただ難しい顔をしている。視線を感じたのか、彼はちらりとラニを見て表情を和らげる。彼の精悍な顔に、鷹揚な笑みが浮かんだ。
ひとまず、ラニとオズバートはレピドライトの言葉を信じることにした。
どうやら会話が成り立っていたのは事実であるし、ほかにあてもない。
「どうしましょう」
「原因を絶たないと、今いる彼らを追い返しても無駄だろうな」
二人を乗せた竜車は都まで一直線に駆け戻った。
一行は南の通りのとば口に竜車を止め、ジャスパーを待たせた。オズバートはラニとレピドライトを連れて、大通りを大股に歩く。相変わらず、人ごみを縫うのが上手い。
「アルファルドに相談してみよう」
「王様って、会おうとして会えるんですか」
「必要があれば、あっちから来る」
オズバートの言葉は確信に満ちている。
ラニはそれを信じ切れないまま彼を追った。
だが、オズバートの言葉の通りだった。二人が城壁の前に立った時、辺りに霧が立ち込めた。
にぎやかに往来していた人々の気配が消え、背後から、車輪の音が聞こえてくる。竜車の車輪の音だ。霧の向こうに、橙色の四つの明かりがぼうっと浮かび上がった。ジャスパーはオズバートのいいつけを守る。だから、ジャスパーが言う事を聞くような相手が申しつけたに違いない。
ほどなく、霧の向こうから現れた竜車には王が乗っていた。
竜車はラニとオズバートの目の前で、一度止まった。
「城へ」
王は短く言った。
城壁の門がひとりでに、大きく開く。
王を乗せた竜車は再び走りはじめ、見上げるような門を潜り抜けていく。オズバートとラニも急いで続いた。
王城を囲む柵が、迎えるように開いている。竜車は城の前の道を越え、柵の内側の花畑で止まった。王は竜車を降り、ラニたちを振り向いて言う。
「地下へ。皆、集まっている」
ラニは、レピドライトと顔を見合わせた。王が関わると、みょうな事ばかり起きる。
そろそろ慣れてきてはいるものの、毎度戸惑わずにいられない。長い階段を登らされたと思ったら、今度は地下だ。
またずいぶん歩くことになるだろう、とうんざりする気持ちもあった。
オズバートはジャスパーを竜車から外し、彼の背を叩いた。ジャスパーはすっきりした様子で身震いし、オズバートに向けて頷くと、羽ばたいて飛び去った。
王城の柵が閉じる。一行は王の後に続いて、城を進んだ。細い通路を幾つか過ぎ、右へ、左へ複雑に進んだ後、暖炉と本棚がある部屋にたどり着く。本棚は、壁一面を埋めていた。暖炉は立派なマントルピースに囲まれており、大きな鏡が飾られている。鏡は、四角い鏡を十五枚、長方形に張り合わせて巨大な形に作り上げてあった。暖炉の中には赤いクリスタルが置かれていて、ほんのりと温かい。赤いカーペット敷きで、クリスタルのシャンデリアが吊された部屋だ。ソファや長椅子もあって、くつろぐのにちょうど良さそうだった。
王はそこで、本棚の中の一冊を選び、そっと押した。
本棚の一部が、奥に押し込まれたような形で、ゆっくりへこむ。四角くへこんだ部分がスライドする。物を引きずる重たい音とともに、石造りの短い階段と薄暗い通路が現れた。ちょうど、オズバートくらいの人ならば、難なく通れる。割合に大きな通路だ。
オズバートが迷いなく進み出て、階段を下りる。彼はその先の通路に立って振り向き、視線でラニを呼んだ。ラニは促されるまま、階段を下りた。
王は、この道に入ってこなかった。ラニの背後で仕掛け扉が閉じた。重たい音と共に閉じた扉を一瞬振り向き、ラニは先に進んだ。
薄暗い通路は短い。すぐ、天井が高い通路に出た。通路は背が高い二等辺三角形の形で、ラニの背丈の二倍ほど高さがあるだろうか。城壁をくりぬいたらこの通路になるかも知れない。
ゆるやかに傾斜する通路は、つづら折りになってしばらく続いた。
ラニは、階段よりましだと思った。同時に、階段より時間がかかることも気づいていた。
二人分の足音が長く続いた。ときおり、レピドライトが歩きたがって、ラニはそれに応じた。これに合わせて、ことさらゆっくり歩いてくれるオズバートを有難いと思った。
やがて、この斜面は唐突に終わる。足元が黒く湿った土になり、頭上を岩と珊瑚が覆った。光石があちこちに配されているため、暗くはない。それでもラニは、近頃持ち歩いている橙色のランプをかざした。そして、歩き始める。
ここは海の底だ、という予感があった。ときどき滴ってくる潮から、海の匂いがする。
しばらく進むと、道を狭めるように緑の葉を持つ植物が茂り始めた。大きな葉は濃い緑で固く、深い切れ込みがある。アカンサスだった。
この茂みの奥、壁面にシダまで茂っている場所に、それは休んでいた。
ラニは初め、そこが黒くかすんでいるように見えた。行き止まりだとすら思った。
だが、そうではなかった。うずくまっているのは、月色の竜だ。ラニの十倍、いや、二十倍はありそうな、小山のように大きな竜の身体を、黒い靄が蝕んでいる。竜はぐったりしながら、確かに呼吸していた。
竜の顔は、爬虫類に似ている。硬いうろこに覆われ、尖い。だが同時に、少し山犬にも似ている。すらりとした首があり、背に三対六枚の翼。がっしりした手足に、するどい爪。身体は、白い琥珀のような鱗に覆われている。長い尾が体の前に回されて、彼自身を守るようだ。
「王様?」
ラニは無意識に呼びかけた。竜の目がゆっくり開く。王と同じ、金色の目だった。
「こうして会うのは初めてだ」
少し笑っているようだ。
「城下町の職人たちに、薬を作らせている。だが、薬だけでは解決しまい」
竜は溜息を吐いて目を伏せる。彼の左右に、ピルラとスマラカタが控えていた。それぞれの相棒も一緒だ。また、王の後ろから、ジャスパーも顔を出す。
これで、竜たちが一堂に会した。
王は再び目を開き、ラニを見た。
「ラニ、バロメッツがどんな植物か、わかるだろうか」
「王様が、かげの谷にくださった……」
「そう。わたしは、あの男たちにも、なにか植物を与えようと思う」
王の目がゆったりとまばたく。いつもより目が大きいからだろうか。そこに宿る、気遣いのようなものを、一抹見て取ることができた。
「気を悪くしないか」
「構いません。お願いします」
どうやら、ラニが襲われたこと、木に打ち付けられたことを、気にかけてくれたらしい。
振り返ると、あの時、自身には余裕がなかった、とラニは思う。谷にこだわった自分。己だけでレピドライトの面倒を見なければならないと考えた自分。もっといいやり方があったのではないか。そう思わざるを得ない。この余裕を作ってくれた騎兵たちに、深く感謝した。
「葦のように、水に浸かっても育つべきだろうね」
ピルラが提案する。雨が多い事を考えたのだろう。それを追って、ディアミドが楽しそうに意見を出した。
「蓮みたいで、乗れるやつはどう?」
「食べられるとなおいい」
コノルは腕を組み、思案顔だ。スマラカタは頷き、短く喋る。
「里芋は?」
「里芋か。ベースになりそうだ」
竜と騎兵たちの話を聞いていた王が、ゆったり頷いた。
自由に意見を言い合う彼らは、和気あいあいとしている。雨傘にしたい、乗りたい、と言い合うレピドライトとジャスパーが幼く見えて、ラニは少しだけ笑った。オズバートが、薬にならないと意味がないだろう、と呆れた声で言った。
だが、この和やかな空気は長く続かなかった。不意に、王が首を擡げ、上方をひたと見つめたのだ。
このとき、竜たちにもぴりりとした緊張が走った。
「ディアミド、ピルラにラニを乗せて、一緒に来なさい。レピドライトはコノルが」
「はい!」
竜たちは、なにか察している。だが、ラニにはわからない。ただ、うながされるままレピドライトをおくるみごとコノルに託す。
「オズバート、先行を」
「すぐに!」
オズバートは声を掛けられる間にもジャスパーの背へ跨がっていた。ジャスパーは間髪おかずひらりと空へ舞い上がり、王の背後へ消えていく。
王は顔を伏せた。
「いこう!」
ディアミドに声をかけられ、ラニはピルラの背に乗った。状況はわからないままだ。後ろにディアミドが乗って、ラニを支える。ピルラはふわりと浮き上がった。
レピドライトを抱いたコノルもスマラカタにまたがる。彼らは機敏で、ピルラに乗ったラニたちを先導する格好だ。
二頭の竜は、王の背後の闇に突進した。どこをどう飛んだのか、ラニはわからない。とにかく、三人と三頭が、月の島の側面にある小さな裂け目から飛び出した。
「何か起きてる。行き先は竜たちが知ってる!」
コノルがラニに言った。ラニは、ピルラにしがみつくのに必死だ。うっかりすると降り落されそうな速度で、白い竜が飛ぶ。
それでもほどなく、ラニは竜たちの鼻先が向かう方向を察した。星灯りの下、竜たちはかげの谷に向かっていた。
ラニたちがその場に到着したのは、すべて決着がついた後だった。
場所は、大ばばさまの家の庭先。
ラニはまず、玄関先に倒れた大ばばさまの胸に短刀が突き刺さり、血が流れているのを見た。大ばばさまの、細くたよりない体。曲がっていた背中がのけ反って、伏せた目、開かれた口、そこから垂れた血が惨たらしい。大ばばさまの家の玄関に吊された青いランプが、これを照らしていた。
すぐ近く、オズバートが地面に倒した男に馬乗りで、その人物の首筋に剣を当てている。
さらに、どうやって駆けつけたものか、ニュートがいた。黒と茶色のまだらで、サンショウウオのような姿をしたニュートは、大ばばさまの遺体の傍で泣いている。殺し切れない声を上げ、滂沱と涙を流しながら、泣いているのである。
ピルラの上で、ラニは無力だった。ラニやレピドライトがいなければ、竜たちはもっと早く飛べたのだろうか。置いて行ってくれと、言うべきだったろうか。
ラニが呆然としている間に、森の奥から王が現れた。当然のように、人の姿だ。一瞬、この愁嘆場にふさわしくない涼し気な顔に見えた。けれどラニは、察することができた。彼の肩に、確かな怒りが乗っていた。
王は大ばばさまの……イオの遺体に歩み寄った。彼はニュートを下がらせようとした。だが、できなかった。ニュートは王に従わず、イオにその頭をこすりつける。ニュートが今でもイオを慕っていることは、明らかだ。
王は嘆息した。彼はイオの傍に片膝をつき、彼女の上に手をかざす。ほんの一拍、時間をおいて、イオの身体が青白く燃え上がった。この炎は不思議に、ニュートを焼かなかった。
イオの身体は、見る見るうちに灰になった。
炎が消えた後に、いくつかの種芋が転がっていた。里芋に似た芋である。
「この芋はハイヌウェレだ」
王は灰の中から芋を取り上げながら言った。
「あなた方は地をたがやしてこれを増やし、これを糧にも薬にもする」
どうやら、取り押さえられた男に対する言葉のようだった。オズバートは男の手を縛り上げて膝立ちにさせると、王から芋を受け取って彼の雑納に入れた。
「さあ、帰りなさい」
王が言ったとき、かげの谷じゅうのランプが、ひと際明るく光り始めた。竜たちの装具につけたラニのランプも同じく光る。青と橙の光が交錯する。そして、王の影が揺れた。複数の方向から照らされると、その数だけ、人の足元に影が落ちる。王の足元に落ちた無数の淡い影が揺らぎ、起き上がった。
起き上がった影は半透明で不定形だ。それぞれ意思を持つようで、ばらばら動いて、まとまりがない。数体は羽にかぎづめ、足が猛禽の姿をした竜に形を変えて中空に浮かんだ。竜に姿を変えたうちの一体は、オズバートが取り押さえていた男を猛禽の足で掴み上げ、中空に浮かぶ。
王は再びニュートの傍へ戻り、灰の中をまさぐって、残した芋をニュートに見せた。
「少し大きく育つが、農場にも植えられる」
それだけ、王は言った。静かに、淡く優しい声だ。ニュートが呻くように泣いた。
それから、王は決然と顔を上げた。影法師の兵隊たちはそこら中うごめいている。
「行け!」
王が短く命じると、影法師の兵隊たちは急に機敏になって、四方八方に散った。影法師の竜たちも同じだ。主に、港の方へ飛んでいくようだ。
「行こう」
ピルラがささやいた。ディアミドもラニも、どこへ、とは聞けなかった。ピルラが羽ばたき、スマラカタが続く。すぐ、翼が海の方へ向かっているとわかった。森の中に王の後ろ姿も見える。
森の中で、あるいは街角で、影法師の兵隊たちが跳梁している。引きずりだされ、連れていかれる者たちは異国の服を着て、ラニたちとは少し違う顔だちだ。一様に薄汚れ、痩せている。彼らの悲鳴や呻きが、細く響く。
一人残らず、という意気が感じられる。柱や壁に縋りつく者を引きはがし、愛玩するものを掴み上げ、影法師の兵隊たちは慈悲を見せない。
ラニは、胸がざわめくのを感じた。かげの谷で、これほどの暴力を見たことがない。陰口がせいぜいの場所で、生きてきた。大ばばさまが殺された、途方もない暴力の後、矢継ぎ早にこれだ。
「やりすぎじゃない?」
ラニは背後のディアミドに恐る恐る聞いた。ディアミドは音を立てて唾を飲み、小さく頷く。
ラニたちは港に降り立った。集められた者たちのうち、港にあった大きな船の乗組員は、全員船に押し込まれた。
最期の一人は、先日牢に入れられていた男だった。彼を船に押し込むと、影法師の兵隊はタラップを陸から引きはがし、船に押しやった。船に乗った人々はこれを押し返そうと足掻いた。だが、まるで大人と子供の力比べだ。大ぶりで、重たそうな木板が、あっけなく船上へ跳ね上げられる。
この騒ぎに、港町の人々が集まり始めていた。人垣に囲まれた桟橋で、王は静かに立っている。
ラニは中空に羽ばたくピルラの背で、ディアミドに支えられてこれを聞いた。
「あなた方は無事に帰港できる。ただし二度とこの港へたどり着くことができない」
王の声は静かだ。不穏な力強さを秘めながら凪いだ海のようだった。彼はかがみ、足元から何かを抱き上げる。レピドライトだった。コノルに預けたはずの小さな紫の竜が、いつの間にか王の傍にいた。
レピドライトは小さく咳き込む。その口から、白い炎が漏れた。王は、船を係留するもやい綱の傍にレピドライトを下ろした。
レピドライトは、王と同じ静かな目で船上の人々を見た。その口から、いまだ白い炎がちらちら漏れている。
船上の人々は甲板の陸側に寄って手すりに縋りつき、悲嘆の声で何か願う。痛切な願いに聞こえた。
ラニは、だめ、と叫びたかった。だが、声にならない。
溜息を吐くように、レピドライトが火を噴いた。白い炎は、さっと広がって綱を伝う。そうして綱だけを焼き、船を解き放った。
波も、風も静かだというのに、船が動き始める。はじめは緩慢に、次第に速度をあげて、岸から離れていく。船上の人々の悲嘆が、尾を引くように響いた。
ラニと竜騎兵たちは、これを呆然と見送った。なすすべがなかった。
港町の人々がどよめく中、王はレピドライトを抱き上げて、踵を返した。人波が割れ、王の歩く道を作る。王は足早に、去っていった。
十数日があっという間に経った。
ラニは、かげの谷に帰れずいる。
竜たちが踏んだかげの谷の苔はえぐれ、めくれていた。いま、かげの谷へ竜を連れていくのは怖い。どんな感情を抱かれているか、想像するのも嫌だ。
だから、甘えるように竜舎で暮らした。
オズバート達が気を使ってくれて、生活は楽しく、苦労が少ない。
なによりラニが驚いたのは、糸車が戻ってきたことだ。オズバートが頼った職人は確かな腕の持ち主だったようで、戻ってきた糸車は壊れる前より軽やかに、小さな音で回った。壊れた部分に、元の木材とそっくりな色の木材を上手に接いでくれたようなのだ。毎日この糸車を見つめていたラニでさえ、じっと目を凝らして初めて継ぎ目を見つけることができた。
ラニは糸を紡いだり、パッチワークに取り組んだりして過ごせばよかった。それだけでは心苦しくて竜舎じゅう掃除することもあったし、機会さえあれば食事の用意や洗濯をこなした。
レピドライトを孵さずこの生活に入っていたら、大ばばさまは生きていただろうか。
時々、そんなことを考えた。
湖の底に残ったであろう紫色の後悔と、かげの谷じゅうに慕われていた大ばばさま。天秤にかけることがそもそも間違っている。頭で整理してみても、考えずにいられない。
レピドライトは、人を幸せにする竜だろうか。あるいは混乱を招き、人に明確な選択を迫ってはいないか。ラニの中に、そんな疑問が首をもたげていた。
疑問が胸の内で騒ぐとき、特に掃除に精をだした。
今日は、竜たちが過ごす屋外の空間にブラシをかける。ラニは床に水を撒き、柄付きのブラシで床を擦った。いつもの場所から出された竜たちは、面白そうにラニの働きを覗き込む。
折しも、ジャスパーとオズバートは二人で出かけている。コノルは足を鍛えるのだと走りに出かけて、ディアミドは部屋で何かしているようだ。
レピドライトは、竜たちが過ごす空間の隅に置いた籠の中、クッションに埋もれて眠っていた。先日、ラニたちが竜舎に戻ってきたときも、そうしていた。王がここまで連れてきて、そうして行ったのだろうか。
ピルラとスマラカタは、ちょうど暇をしていたらしい。ラニの仕事がひと段落付くと、ラニを座らせて世間話に花を咲かせた。
「ディアミドは要領がよくてね。三人兄弟の末っ子だからかも知れない」
「コノルはまじめな堅物だよ。実直だが、融通はいまいちだ」
それぞれ相棒を評価する竜たちの言葉に、ラニは苦笑した。ラニから見て、二人の騎兵はまだ若い。幼い、といっても過言ではない程だ。長く生きている竜たちには、どれだけ未熟に見えるだろう。
だがその評価は、こうして笑いながら話を聞いているラニとて避けられない。十歳年が離れている、と言えば、人にとっては大きな年齢差だ。たとえそうだとして、竜たちにとってはどうだろう。大きな差ではない可能性が高い。
「私はどんな風に見える?」
ラニは訊ねた。そうしなければ、二人の騎兵に申し訳が立たない。
「ラニか。そうだね」
「意地を張るところがある」
「ああ、意志が強いのはいいけれど。ちゃんと弱音を吐くといい」
ピルラとスマラカタは、本人を前にあくまで優しかった。ラニはほっとしたような、がっかりしたような気持ちを抱きながら、二人に頷いて見せる。
そこでふと、ピルラが真剣な顔になって訊ねた。
「ラニ。人と竜はいつまで一緒に居られるだろうね」
先日の事があったばかりだ。ピルラの問いは、ラニには答え難い。大ばばさまの最期がああも報われないものになるなど、かげの谷に住む誰も考えなかった。ラニは自身のつま先に視線を落として応じる。
「わからなくなった」
竜たちも思うところがある、ということだけ、安心材料だ。あの日まで、ラニは竜たちが自分と同じように考え、感じ、動くものだと考えていた。だがあの日、竜たちはラニに感じられない何かを見聞きし、動いていた。それが少し、怖かった。
スマラカタがラニに顔を寄せた。
「私はね、ずっとだと思っているよ」
緑の竜の声は優しい。銀色の目が、じっとラニを見た。
「秘密を一つ教えてあげよう」
「秘密? どんな?」
「イオの旦那は、ニュートを海の向こうに売るつもりだった。イオは、気づいていた。だが、翻意させられると信じた」
スマラカタの潜めた声は、ラニの心を乱す。ラニの不安げな目を見ながら、スマラカタは引かなかった。
「ある日、ニュートは……シャトヤンシーはイオと言い合いになった。ひどい喧嘩だったよ。イオの旦那は、それをチャンスだと思った。このタイミングなら、竜を連れ去れると考えた」
ここで言葉を止めたスマラカタは、少し笑った。嘲笑だった。
「ばかな男だ。竜がその気になれば、人など簡単に噛み殺せる。レピドライトでさえね」
ラニは視線を逃がし、レピドライトに向けた。籠の中で平和そうに眠っているレピドライトは、まるで大きな猫だ。ここに来てからおとなしく、何も壊していない。竜たちが相手をしてくれるからか、少し落ち着いたのかは、わからない。それに先日の港では、彼はまったく違う生き物に見えた。
「イオの旦那を殺した晩も、イオが殺された晩も、シャトヤンシーは勇敢だった。そして、不憫だった」
スマラカタは堰を切ったように話し続けた。話は、先日、全員でかげの谷に駆けつけた晩にも及んだ。
「王は確かに、オズバートとジャスパーが間に合うよう向かわせた。だが、イオは学んでいた。竜たちが村に入りにくいよう、呪いをしていた」
呪い、という言葉の不穏さに、ラニはおののく。村での暮らしにおいて、小さなおまじないは数えきれないほどあった。だが、効果を実感したことはない。実際に竜をよけられる呪いは、どんなものだろうか。
「竜は笹の葉が苦手でね。イオは笹の葉を焼いて、灰を村に撒いたらしい」
笹は、谷から随分歩いたところに、少しだけ生えている。大ばばさまの動きで、それを集めるのは大変だったろう。あるいは、人に頼んだのかも知れない。
大ばばさまがそこまでしたのは、ラニが引っ越しに竜たちの手を借りたためではないだろうか。当時の状況を振り返って、ラニの心当たりはそれだけだ。
大ばばさま、イオが静かに余生を過ごしていたかげの谷に、竜たちを呼んだのはラニだ。美しく苔むした谷を踏みにじり、大気を翼の音で乱した。それが、彼女の心を苦しめたのかもしれない。
「そんなもの、翼で吹き飛ばせばいいけどね。あの二人は若い。二人が手こずっていた呪いを破ったのは、ニュートさ」
ラニには、その様が見える気がした。
オズバートとジャスパーは、どんなに悔しい思いをしただろう。必死に羽ばたいてかけつけたのに、どうあっても進めない場所で、彼らは苦しんだ筈だ。
そこに、ニュートが現れる。
ニュートはかつて、ラニの足を粘液で包んだ。あんな風に液体を扱えるなら、灰は洗い流せる。ニュートは、牧場から必死で這ってきたのだ。そして、かげの谷に竜たちが降り立つ道を拓いた。
「だが間に合わなかった。あのあと、牧場の男がニュートを迎えに来た」
ニュートを迎えに来たのは、ベリックの父だろう。彼はまた肩を丸め、やりきれなさそうにニュートの隣に立ったのだろうか。そう思うと、ラニはやりきれない気持ちになった。
「大ばばさまは……竜が苦手だったかも」
ラニは精いっぱい、気丈な声で言った。そうしてやっと、ピルラとスマラカタに向き直った。
「わからないよ。本人に聞かない限りはね」
ピルラがラニに顔を寄せて言った。優しい声だった。
風の便りによると、農場に植えられた新しい芋、ハイヌウェレは、順調に葉を茂らせている。すらりと伸びた茎の先に、子どもより大きな葉を一枚だけつけるらしい。農場では、この葉がもっと大きくなると予見している。水を掛けると水滴を丸くはじく、不思議な葉だ。大きな傘にもなり、ベリックが登っても支障がない強さを見せている。
ラニは、大きな葉の下でニュートが休んでいる姿を思い浮かべた。それが彼にとって、ほんの僅かでも慰めになることを祈った。
王が庭先に現れたのは、そんな時だ。
彼は微かな衣擦れと月の匂いを引き連れて現れ、竜舎の敷地の外に立つ。竜たちが一斉に顔を上げ、王を見る。ラニは一瞬遅れて、竜たちの動きでそれに気づいた。
「アルファルド」
ピルラがなだめるように彼を呼んだ。
「この前はひどかったね」
王は目を伏せ、微かに頷いたようだ。悄然とした様子を見た瞬間、ラニの胸の内に、納得できない気持ちが湧き上がった。
あの時、王は真っ先に顔を上げた。一番初めに、気づいたということだ。この人にしか聞けない、聞いておきたいことがある。
聞いてはいけないのかもしれない、とも考えた。だが、迷いの末、言わずにいられなかった。弱っている人を打ち据えるべきではない、と思いながら、聞いていた。
「いつ、気づきましたか」
ラニは、震える声で口を開いた。ラニの背に、スマラカタが寄り添った。なだめる仕草に一瞬、ラニは口を引き結んだ。
しかし、頭の中では疑問が膨れ上がって弾け、抑え込めない。
王はオズバートを大ばばさまの元に差し向けた。あの時、王は何を見ていたのか。どこまで何が見えていて、どんな判断をしたのか。
この人を責めて何になる。気づきながら、聞かずにいれなかった。八つ当たりだと解っていた。
「私が竜舎にいれば……でも、いったいいつから?」
いつ、ラニが竜舎に移ることを決意すれば、大ばばさまの無残な最期を回避できたか。ラニはそれを聞きたかった。
この考えを振り切るため、今日は掃除に励んでいたのだ。
オズバートたちがバロメッツの野原に来た時か、それより前、レピドライトを抱いて竜舎を訪ねた時か、それとも、レピドライトの誕生前なのか。
王は答えなかった。ただ、黙ってしばらく立ち尽くしていた。答えられなかったのかもしれない。
彼はシラカバの籠を一つ下げていて、それを自身の足元に置いた。そうして踵を返し、去っていった。
傷つけたのだろうか。だが、他にどうすればよかったか。ラニは途方に暮れた。
スマラカタが溜息を吐く。
「ラニ、王は孤独だ。我々を生んだが、誰とも馴染まない」
「今度仲直りしておいで。名前で呼んであげるといい。きっとびっくりする」
ピルラが優しく言った。茶化すような響きもあるのに、人を安心させる、不思議な響きがあった。
ラニはうなだれて竜たちの傍を離れ、王が置いていった籠に歩み寄った。数冊の本と、焼き菓子が入っていた。
茶を出せばよかっただろうか。そうして彼とテーブルを囲めば、もっと打ち解けられたのだろうか。
ラニは、自分の八つ当たりをやるせなく振り返った。顔を覆って、しばらく俯いていた。
王は、もっと冷徹だと考えていた。レピドライトが生まれる前、悲しい思いをするならゆりかごの中で死なせるべきだ、と言ったからだ。
あれも、本当に心から慈悲の言葉だったのだろうか。そうだとしたら、彼は、レピドライトが生まれた以上、彼自身にも誕生の責任を感じていた事になる。
後日、ラニはオズバートとジャスパーに頼んで農場が見える丘に足を運んだ。この状況でベリック一家を訪ねるほどの厚顔さは持ち合わせていない。暗い丘から、オペラグラスを使って農場に目を凝らす。
賭けだった。このオペラグラスは、暗い場所では役に立たない。ただ、農場は光石で明るかった。それで、暗い丘から見通すことが出来た。
遠くに茂る、明るい緑色の大きな葉。あれがきっと、ハイヌウェレだろう。立派に葉を広げ、背を伸ばしている。
ラニはハイヌウェレをしばらく見つめて、オペラグラスを目から外し、視線を落とした。
オズバートはラニの傍に立ち、所在なさげだ。
「ラニ。力になれなかった」
彼は弱い調子で言った。竜車に繋がれたジャスパーも、悄然としている。
近頃顔を合わせる機会が少なかったのは、これを言う機会を窺っていたからだろうか。ラニは、オズバートを好ましく思った。
「ううん」
首を左右に振って、ラニははっきり、自分の口から声に出して言う。情けない顔になったが、微笑む事すらできた。
「きっと、私にも責任がある」
ほとんど確信だ。ラニがレピドライトを孵したことと、大ばばさまがむごい殺され方をしたのは、ひとつに繋がっている、とラニは考えた。
ラニはレピドライトを孵すとき、竜になにも求めなかった。ところが、いざレピドライトと暮らし始めてからは、レピドライトが何者かであることを望んだ。
果たして、レピドライトは文字を読み、異国の言葉を操って見せた。彼は、何の役にも立たない小さな竜ではなかった。
だからこそ、ラニは責任を感じた。自分が何も求めなければ、もっと平和な決着もあったはずだ。レピドライトが物を壊し始めてすぐ音を上げていれば、もっと言えば、ベリックの助言を真摯に受け止めていれば、こんなことは起きなかった。すべて、自分の浅慮が起こしたことだ。
分岐点はいくつもあったのだ。そのどれも、ラニは取り逃がした。王はそれを責めなかった。だというのに、ラニは王を責めた。彼が、どれだけ真摯に彼自身の責任を果たそうとしていたか、見もせずに。彼に、何か報いたいと願った。
ラニは近頃、ピルラにレピドライトを預けて外出することを覚えた。
さしあたっての危険も去ったので、単独行動が許されている。
とはいえ、竜舎から歩いて行ける範囲と言えば、たかが知れていた。せいぜい、往還を行ったり来たりするか、都のバザールに顔を出すかだ。
この日ラニは、都のバザールに足を運んだ。近頃の楽しみは、バザールで小さな飴をひとつ買って、こっそり舐める事だ。様々な色と形があって、目移りする。ビーズやおはじきを口に入れてみたいと願った事があるなら誰しも憧れるような菓子が、うっすら緑がかった透明な瓶に入って、屋台の軒先で無数に並べられているのだった。
顔なじみになった店主は背が低く、身幅の広い男だ。黒い髭をたっぷり蓄えた、無愛想ながら穏やかな雰囲気の人である。彼は人ごみの中からラニを見つけて目だけで笑った。
ラニは笑顔を返し、屋台の店先に近づく。店先を覗く楽しみに、気持ちが上向いていた。
ところが、その過程でラニは足を止めた。視界の隅に、月色の影が過ったのだ。王の髪の色だった。
ラニは顔を上げ、とっさに王を追った。ぎりぎり、屋台の店主に「また今度」と言う事が出来た。
しかし、王を追うのは大変だ。彼は背が高く、その分以上にも足が速い。人ごみの中も、滑るように進む。人が彼をよけているのも大きいのだが、とにかくラニは全力で走る必要があった。
それでも彼に追いつけたのは、ひとえに、近頃レピドライトを抱えて歩くことが多く、少し体力がついたからだろうか。
とにかく、ラニは王の外套の袖を掴むことができた。
「話したいです」
ラニが肩で息をしながら呼びかけると、王はちらりと振り向いてラニを見た。そして、何でもない様子で応じた。
「ついておいで」
かくして、ラニは城の食堂に通された。ちょうど昼時だった。
今日の食卓には、白身魚と貝柱のカルパッチョ、きのこ入りのリゾット、色とりどりの野菜を使ったグリルサラダが載せられた。
初めて王と一緒に取った食事が甘い物であったため、ラニの頭のどこかが、王と食事なら甘い物を食べる、という予感をする。だが、全く違う食事が提供され、新鮮な驚きがあった。
ラニは貝柱をフォークの先に差して口に運んだ。さわやかな柑橘と香草の香りが鼻に抜ける。仄かな甘みを感じた。
食事の間、二人は無言だった。カルパッチョも、リゾットも、サラダも、味は大変すばらしかった。けれどその感想を言い合うほど、打ち解けた空気にならない。やがて、二人の前に赤金色の茶が運ばれる。
二人はゆっくり茶を飲み、息を吐く。
ラニは、ずっと気になっていたことを王に訊ねた。
「アルファルド。あなたを孵した人ってどんな人?」
王、アルファルドは一瞬、驚いた顔をした。豆鉄砲に打たれた鳩のようだった。しかし、彼はラニを咎めたりしなかった。ただ、淡々と答えた。
「彼は立派な建築家だ」
建築家、とラニは口の中で復唱した。聞きなれない言葉だ。ラニが視線で訊ねると、アルファルドは瞬きを一つ返した。その眼差しは、これまでより少し優しい。
「彼は大きな……とても大きな、皆が集まれる、巨大な塔を作ろうとした。それによって多くの人々の結束が深まり、同じ方向を向けるようになると考えた」
アルファルドは目の前のお茶に、角砂糖を一つ落とした。ラニは、その四角い砂糖の塊が、赤金色の液体の中で溶けていく様を見た気がした。
「だが、何故だろう。わたしはある時、それが許せなくなった。どうしてか分からない。そして、塔に集った人々を傷つけた」
王がなぜこんな話をするか、ラニには解らない。だが、ラニはじっと聞いた。
「わたしは塔の建築中だった部分を燃やし、下部を土に埋めた。ラニ、ここはどこだか知っているだろうか」
「月の島」
「月の島は、塔の中階につくられた水盆の中にある。みんな、忘れてしまった」
水盆、と聞いてラニが思い浮かべるのは、レピドライトを孵すために訪れた城の尖塔、その階段の先にあった暗い池だ。この島が、あのような水盆に飾られたものの一つだ、と王は言った。
「私を孵した彼はいまも、焼け跡にいる。わたしはその場を逃げた」
ラニは初めて、王を哀れだと思った。また、彼と自分に初めて共通点を見出した。竜にも心ならずも人を傷つけ、逃げ出したくなることがあるのだ。
「逃げて逃げてこの海で眠っていた時……漂流してきた人々に出会った。それがあなた方の祖先だ」
ラニの知る島の起こりと、王の話が繋がった。
「わたしは島を整えた。温かいよう地下に都市を築き、食べ物を与えた。彼らの感謝で、私の傷は半分癒えた」
王と人は、どのように約束したのだろうか。人々がどんなふうに竜を王といただいたのか、ラニにはわからない。王は少し遠くをみるような眼差しで、過去を語った。
「罪びとが現れるたび、地上へ送った。彼らも暮らしていけるよう植物を増やした」
彼の声に滲む感情は、改悛だ。
「だが……わたしが多くの人々を滅ぼした事実は消えない」
アカンサスの茂みの中に休んでいた王である竜は、黒い靄を纏っていた。あれは確かに、彼を蝕んでいるのだ。真っ黒な靄に包まれて、半分は癒えた状態だという。
ラニは訊ねた。
「どうして塔では人を許せなくなったの?」
「わからない。誰かがわたしに命じた、と思った。だが、それは言い訳かもしれない」
王の中で何が起きたか、ラニは気になった。また、知りたいと思った。それは、これからも王を含む竜たちと暮らしていこうとするなら、避けて通れない問題だ。同時に、こうも考えた。自分の中で膨らみ、弾けた怒りと、王の怒りには、一体なんの差があるのだろうか。
「そこに、行ってみたい」
ラニは王の目を見つめ、はっきり希望した。
「危険だよ」
「でも、アルファルドが治るかも」
ラニが言い募ると、王は困ったように眉間に皺を寄せる。
「忘却の霧を超えていく必要がある。そこでは皆、自分が何者か忘れる」
「じゃあ、アルファルドを治しに来たことも覚えていられない?」
「竜と、竜を孵した者はべつだ」
「レピドライトを連れていく」
ラニの意思が覆らないのを見て取ったのか、アルファルドはラニをはっきり見た。金色の瞳に、仄かに優しい色があった。
「ラニ……君を危険な目に遭わせたい訳ではない」
「大丈夫。それより、何があったか確かめたい」
ラニは引き下がらなかった。




