3.揺籃
2025/12/1『注目度-連載中』ランキング84位いただきました。皆様のおかげです。
ありがとうございます!
玉座の間に差し込む光は、湖の底から注いでいた。玉座の間は柱が林立する広間で、玉座の上には螺旋階段のついた尖塔がそびえている。尖塔の先は、湖の底を衝く。
王は玉座の後ろにある青いカーテンを引いた。そこに、階段の入口があった。
また、金色の房がついた黒いクッションが、橙色の石が入ったランプを運んできた。クッションは、ランプをラニに恭しく差し出す。ラニは橙色の石が入ったランプを受け取った。
「これが通門証だ。いつものランプは、あとで返そう」
王は厳かに言った。
「登るんだ。きみは一人で行かなければならない」
ラニは玉座の上空を見上げた。
螺旋階段は果てが見えないほど続いている。ずっと上の方は、尖塔を伝い落ちる瀑布の水色に溶け、光にけぶっていた。
今度はベリック一家の荷車に乗って旅程を縮めることはできない。また、オズバートと竜たちの力を借りて飛ぶこともできない。
一人で行かなければならないのだ。覚悟を決めて、ラニは踏み出した。
しばらく、水色の光に満ちた階段を駆け続けた。白い螺旋階段は無慈悲なまでに規則正しく、端正に並んでいる。ラニは息切れし、咳き込み、それでも立ち止まれない。ときどき速度を緩め、なんとか階段を走った。ふと立ち止まって下を見ると、まだまだ見える場所に玉座があった。ずいぶん登ってきた気がするのに、ままならない。
ラニは自分を奮い立たせ、上を向いた。果てなく感じる階段が続いている。水色の光の果ては、白くかすんでいた。ラニは一度立ち止まり、深呼吸してふたたび、今度は歩く速度で進み始めた。走り続けることはできない、という確信がある。だから、少しでも前に進むために、歩くことを選んだ。
進み続けて、ラニは考えた。
一人で行かなければならない。これから谷で暮らすなら、だれの助けも借りられない。一人で竜を育てる事になるだろう。
ドレスを手放し、竜を連れて日常に戻る。
そこには、未知の孤独が潜んでいないか。あの「寂しい」と嘆く声は無視できない。しかし、連れ帰った竜と本当に分かり合えるのか。
選択の重みが、足を重たくした。進めば進むほど、足は重たくなった。自分の二本の足がこれほど重たく、ままならないのは初めてだ。気力で足を上げ、まだ長く続く階段を睨んだ。登り始めた事を後悔すらした。けれど、立ち止まらなかった。
辺りの水色が白っぽく変化し始めた頃、ラニは笑っていた。もう半分を過ぎた、という確信があった。けれどまだ、階段は続いている。まだ、進まなくてはならない。靴が痛くて、ラニは裸足になった。ランプを右手に、靴を左手に提げて、階段を上り続けた。
ふと、下を見れば、はるか下方に玉座がかすんでいた。あと少しだ、とラニはまた笑った。もはや、何か考える余裕はなかった。ただ進むほか、できることはない。登れば上るほど辺りは眩しく、白くなる。この先に、湖の底があるなど本当だろうか。ラニは歩き続けた。白い階段を、ラニの足から滲んだ血が微かに汚していた。それでもラニは進んだ。
進むうち、眩しさで目がくらむ。足は、これまでの高さで段差を登り続ける。ところがある時、足が段差を捉え損ねた。その瞬間、辺りが真っ暗になった。
ラニは息を飲んだ。
そこは、たえず水の音がする、丸い踊場だった。足元の白だけが明るく、辺りは真っ暗だ。白い踊場を囲んで、円形の水盆が塗りこめたような黒で広がっている。
ランプをかざすと、水の流れが白く浮かび上がる。伝い落ちてくる水の輪郭が、水盆の周囲はすり鉢状に囲われていることを教えた。水は水盆を常に満たし、絶えず溢れ、流れ落ちる。ここを通った水が、都を潤しているのだ。しばし、沈黙のうちに見つめた。
ラニは、水盆に飛び石が配されていることに気づいた。黒い石が、ランプの光をはじいてその輪郭だけで存在を主張する。飛び石の向こうには、さらなる階段が続いているようだ。
暗く湿った道を行くため、ラニは血のにじんだ足に靴を履く。そして、ふたたび歩き始めた。
ひりひりと痛む足、重たい荷物のような足が、ラニを引き留める。同時に、何も考えなくなった頭が前に進めと訴える。ばらばらになった体のなかで、目が、自分の掲げた橙色のランプを睨んでいた。
飛び石を渡った先で、すり鉢の斜面に沿って設けられた小さな階段を踏みしめる。滑りそうな足元に注意しながら、ラニは一歩ずつ進んだ。不思議に、あと少しだ、という確信があった。
そしてその通り、階段の先には、青緑の光が見えた。湖の底に開いた小さな穴である。ラニが穴から顔を出してみると、穴は大きな気泡の中にあった。気泡はまるで、ラニたちが暮らす家のように球状をしていた。
この気泡の内側に立って、ラニは呆然とした。
そこは確かに湖の底である。辺りは水の色に覆われていた。水草が揺れ、魚が泳ぐ。空から差し込む光が、水底に複雑な模様を描いて揺れる。
そんな中、気泡は静かに揺らぎながらラニを待っていた。ここで、ラニの視線はあまり周囲を捉えていない。目の前にある金色の裂け目、そして、瘤のように貼りついた紫の球体に釘付けだ。
卵の紫色は、思っていたより淡い。菫とミルクを混ぜたようにまろやかな紫。鱗状にも見える差し込みが無数に見える。大きさは、ラニがちょうど抱えられる位だ。手を伸ばせば触れられる場所にある。
ラニはゆっくり近づいた。卵の手前でランプを足元に置き、一度立ち止まる。ラニはしばらく卵をじっと見つめてから、両手を伸ばした。指先に触れた卵は、滑らかながら少し柔らかく、ざらついてもいた。しっかり抱き寄せれば、自然と腕の中に収まった。しっかりした重みを感じたのは一瞬だ。
卵は簡単に金色の裂け目を離れた。ラニの腕の中でほどけ、緩やかに形を変えていく。
ラニは息を飲んでこの羽化を見守った。ほどなく、腕の中に一匹の竜が現れた。大きさは、ちょうど人の一歳児くらい。尻尾まで含めれば、もう少し大きい。体色は菫にミルクをまぜたような淡い紫色で、目だけが澄み渡って濃い。猫のような顔をしている、と一瞬思った。同時に、蛇にも似ていた。小さな角が耳と耳の間にある。全身ふわふわしているようで、手先や足先、そして背中に鱗があった。小さいながら、羽も二対四枚ある。
竜は瞬きしてラニを見上げた。そして確かに、笑った。
「こえを、きいてくれてありがとう」
たった一言、竜は言った。
ラニは、それだけで報われた気がした。
雨が降っていた。月の島にしてはめずらしく、温かい雨だ。
ラニは軽くなったリュックサックを背負い、胸の前におくるみを抱いて歩く。おくるみの中に小さな竜が休んでいた。ちょうど、人の一歳児くらいの大きさだ。抱えて歩くと少し疲れる。抱っこ紐がありがたい。
今日は、宿まで歩ければそれでいい。ラニは時々竜を抱きなおして位置を整えながら歩く。
「麦畑、ざんねんだったね」
白っぽい紫の竜には、王によってレピドライトという名が与えられた。ラニの腕の中で頭を伏せていたレピドライトが、ふと顔を上げて言った。
ラニは眉尻を下げる。生まれたての竜は、どこか舌足らずながらしっかり喋った。この相手がなかなか難しい。無垢な者の相手は、気を使う。ラニは歩きながら竜の刺々した背中を撫で、応じた。
「うん。でも、また来ればいいから」
レピドライトを孵した後、ラニは丸一日、宿に籠もっていた。足が痛くて、とても動き出す気が起きなかったからだ。その間に、これからのことを考えた。
翌朝、宿を引き払って出発した。まだ足の痛みは残っていたが、竜舎に顔を出したかった。竜のことなら、オズバートたちに聞くのが一番だろう。
考えた通り、彼らはラニに、子竜の育て方について色々と提案してくれた。ラニがレピドライトを抱えていられるよう、赤ん坊用の抱っこ紐を探してくれたのも彼らだ。どうやら、ラニがオズバートと話している間に、若い二人が駆けまわってくれたらしい。
三人の中で竜を孵したのはオズバートだけだ。彼は楽しそうに昔話をしつつ、ラニが抱えている竜を微笑ましそうに見る。
ラニが、レピドライトに麦畑と海を見せたい、と希望すれば、オズバートは快く竜車を出してくれもした。
竜車に乗っている短い間、二人の間には奇妙な緊張があった。
ほんの数日前、ラニはオズバートに「竜舎で暮らさないか」と提案を受けた。その提案を保留にしてドレスを王に売り、レピドライトを孵したのだ。
いま、ラニの腕の中にはレピドライトがいる。竜舎で暮らす条件は、竜騎兵であることだ。レピドライトには乗れないが、ラニは竜の相方になった。一応、隅に置いてもらうことは許されるのではないか。
しかし、脳裏を過った可能性を、ラニは否定した。ラニは「かげの谷に帰ろうと思う」と小さな声で言った。オズバートは少しだけ残念そうに笑った。それだけだった。
往還の出口で、オズバートはラニを竜車から下ろした。往還の出入口には、ラニの身の丈四~五倍はあろうかという巨大な門がある。城門に似たつくりの門だが、こちらは石組みだ。大小様々な石を積み上げて作った砦だった。
本来なら通行料がかかる門である。ラニは持ち合わせを考え、何とか足りるだろうと算段を立てていた。しかしここで、オズバートが口を利いてくれた。門の内側で彼と別れた後、ラニは、何の誰何もなく外に出ることができた。
少し気まずかった、というのが本当のところだ。いくら竜を抱いているとはいえ、特別扱いは心苦しい。それに、自分たちがこれから何か役立つことをできるか、と問われたら、首を左右に振るしかない。そんな状況で、ラニと竜を大切に扱ってくれるオズバートに対する心象は柔らかく、複雑な色をしている。ラニは、つとめてそれを考えないようにした。
だから、外に出て景色や気分が変わるのは、とても有り難い事だった。外に出てすぐ、ラニは驚いた。
外は先日ほど眩しくなかった。そして、あの見事な麦畑は、すっかり収穫された後だったのだ。
金色に波渡る麦畑の名残は、麦の根元ばかりだ。麦の根元が残る野原を、往還から続く白い道が真っ直ぐに街まで続いている。
ラニとレピドライトは、雨に降られながらゆっくり進んだ。
空には灰色で重たげな雲が垂れこめている。今、竜たちに乗れば雲に触れられそうだ。そして、落ちてくる雨は曖昧な温度をしていた。肌に触れた瞬間は温かく、服に染み込んでくると冷たい。
どことなく寂しい気がした。今すぐ駆け戻って、オズバートと一緒に竜舎へ帰りたいような、そんな気持ちだ。けれど、ラニは進んだ。引き返せば、何か損なわれるような気がした。
根拠のない、曖昧な自尊心がラニの足を前に出した。レピドライトを孵す、と決めた。そして、谷に帰ることを選んだ。だから、オズバートたちを頼り過ぎるのは何か違う。口に出したことを曲げる行動だ、と自分の中に定めた。
硬い表情のまましばらく歩くと、町の入口が見えてくる。
白い港町は、今日、どこか灰色に沈んでいる。細い路地や、古びた石畳の道にできた水たまりが目につく。雨に降られて、潮の匂いも少しおとなしい。
ラニは潮騒に呼ばれるまま歩いた。しばらく行くと、道の向こうに船着き場が見えた。岸壁沿いに、暗い色の海が波打っている。
「ラニ、あれはなに?」
レピドライトが訊ねた。体格の割に太い前足が前方を指す。
船着き場には大きな船が一隻、停留されている。船体は数軒の家が入りそうなほど大きく、甲板に特徴的な三本の棒がそびえている。この棒にロープを使って布を張り、風を捉えることで推進するタイプの船だ。また、風のない時に備えてオールも備えている。
「あれは船。私も見るのははじめて」
特に目立つこの大きな船のほかに止まっているのは、地元の漁船らしき小舟ばかりだ。こちらも帆を備えているが、たいてい一枚ずつだった。
ラニはしばし、絵姿でしか知らない船をしげしげ眺めた。
ラニの傍を通り過ぎていった二人が、聞いたことのない言葉を交わしながらレピドライトを見た。ラニは一瞬、それに気を取られた。不思議な抑揚、知らないイントネーション。まるで歌のようだ、と思ったのだ。これが異国語との出会いである。
「船って?」
「えっとね……海の向こうにいける乗り物。海の向こうには、いろんな人がいるんだって」
大ばばさまが教えてくれた事だ。ラニの知識は、大ばばさまの話に拠っている。それ以上も、以下もない。昔、幼い日に習ったそのままを復唱するだけだ。
「海のむこう」
レピドライトが、興味深そうに繰り返し聞いた。
「うん。スパイスを売って、水や食べ物、それに布も、買って行くって」
「ふうん」
ラニは精いっぱい答えたが、レピドライトはまだ不思議そうだ。困り果てたラニは、竜の頭をそっと撫でる。もっとはっきり、色々なことを教えられるようになりたかった。これから慣れていくしかない。ラニの中で、責任意識のようなものが渦を巻いていた。そのまま、踵を返した。
温かい雨とは言え、ずっと降られていると身体が冷える。気持ちも、落ち込んでいきそうだ。レピドライトを抱え、優しく抱き締めながら宿を目指した。
翌朝は、昨日の雨が嘘のような快晴になった。
雨に洗われた港町は、くすんだ昨日の景色から一転、輝いている。日の光を浴び、空の青を反射して、眩しいほど白い。人々が行きかう石畳も、磨かれたようだ。港に魚を水揚げする漁師たちの威勢のいい声が、込み入った通りの向こうから聞こえてくる。早朝には狭い通りに魚や貝、海藻を売る市場が立った。
ラニとレピドライトは、宿の従業員に勧められて近所の塩田を見学に出かけた。付近に、温かいお湯を浴びる、温泉という施設があるらしい。二人は顔を見合わせた。疲労回復の効果がある湯は、いまいち足の調子が整わないラニにとって魅力的に感じられた。
歩いて一時間ほどの道だという。ラニはレピドライトを抱え、海岸線をのんびり歩いた。潮風が心地よく、刈り取られた後の麦畑を吹き抜けていく。そこに、すでに小さな緑の雑草たちが芽吹いていた。まだ乾ききらない雨滴か、あるいは朝露かを葉につけた緑の瑞々しさに目を奪われて、ラニは少し立ち止まった。
「どうしたの?」
「ううん、何でもないよ。行こうか」
「うん。おんせん、楽しみだね」
レピドライトの尾が楽し気に揺れる。リズムを取って揺れる尾に視線が引かれ、さらに空を見上げれば、カモメが飛んでいた。空には雲一つない。青く、抜けるような空だ。
海もまた青く、どこまでも広がっている。沖合に浮かぶ漁船は距離に見合って小さい。
もう目的地は見えていた。視界の先に、白い砂が平らに敷かれた不思議な土地が広がっている。また、そこに木でできた、わびし気な小屋が建っているのも印象的だ。
宿の人が言うには、あの砂地に海水を撒いて塩を作るのだという。
「すな、あとちいさい家」
レピドライトが不思議そうに言った。あまり感動した様子はなく、ただ不思議そうだ。
「そうだね。なんだか、地味かも」
確かに、地下の都を見た後では感動が薄い。ラニは頷き、手前に見える東屋に視線を移した。柱と簡素な屋根のみで覆われた場所にベンチがあって、小さな池に足を浸せるようになっている。池からは、仄かに湯気が上がっていた。
ラニは東屋の下に入り、池に手を近づけた。温度は大丈夫そうだ。
潮風が吹く中、ラニとレピドライトは湯に足を浸けて楽しんだ。どうやらレピドライトは泳げる。
こういう旅もあるのか、とラニは新鮮な気持ちだった。気持ちに余裕のある旅は、悪くなかった。
いよいよ、ラニはかげの谷に帰ることにした。
オズバート達には、温泉の帰りに挨拶してある。都に一晩泊まってから、牧場を目指した。
ベリック一家は、驚きながら快くラニを迎えてくれた。特にベリックは、緊張した様子でレピドライトに触れた。両親にラニを送るよう申しつけられると、顔をこわばらせながら目を輝かせて頷く。ラニは少しだけ笑った。きっとベリックも、竜が好きなのだ。
ベリックは、空の荷車の荷台にラニと竜を乗せた。クッションを出されて、ラニは少し笑う。ラニ一人の時より、ベリックの対応が丁寧だ。荷車は時折跳ねながら走り、一日で地下の出口まで駆けた。
来るとき、ラニが怯えた暗がりの道は、荷車に吊された白いランプ二つが照らしてくれた。塗りこめたような闇を照らす白いランプは、どこか晴れがましい。ラニが持つ二つのランプは、この灯りに少しの色を添えていた。
あっけない帰り道だ。道の先に出口の光が見えてからなど、あっという間だった。昼間の白い光が、洞窟の入口からまばゆく差し込んでいる。荷車は一気に残りの道を駆け抜け、空の下に飛び出した。
穏やかな午後、森影に出た二人は目をしばたかせた。木陰にいるというのに、とても眩しい。吹いてくる風を、涼しく感じる。道沿いに茂る草むらの、瑞々しい気配がする。
ベリーやシラカバの植わった森で、ラニとベリックは顔を見合わせた。
「外って、明るい」
ベリックが眩しそうに言った。ラニは笑う。
「うん。私は、息もしやすい気がする」
ラニは振り向いて、丸太組で補強された地下への入口を見る。丸太組の向こうには暗闇がわだかまり、もはや見通せない。
さっきまで、あの向こうにいた。そしてもう、戻らないかもしれない。ラニはそんなことを思った。
「それじゃ、戻るよ」
「うん、ありがとう。とっても助かった」
「困ったら声かけて。そんなに遠くないし」
ベリックは穴うさぎたちを促して荷車の方向を変えながら、何でもない様子で言う。ラニはまばたきをして、荷車に乗っている彼を見上げた。
すっかり荷車の向きを変えて、ベリックは振り向きざまに続けた。
「生きてるものの面倒を見るの、何でもわりと大変だよ」
そうだろうか、とラニは首を傾げる。レピドライトは腹の前でおとなしい。今は、うつらうつらしているようだ。この数日過ごした様子では、少しも何かありそうには思えない。
「わかった。心強い」
とにかくラニは神妙に頷く。また近いうちに地下へ足を向けることがあるのだろうか、と首を傾げもした。
ベリックは口元だけで笑い、穴うさぎたちを再び促した。彼は、ラニが納得していないことを見て取ったかもしれない。しかし、それ以上は何も言わなかった。彼らの姿は荷車ごと、あっという間に闇に消え、見えなくなる。車輪の音だけが、少しの間聞こえていた。
洞窟の出口で、ラニとレピドライトは二人きりになった。
頭上では梢が揺れ、木漏れ日が注いでいた。足元には、往来の白い道がある。洞窟と反対に進めば、かげの谷に帰れるはずだ。
「それじゃ、帰ろう」
ラニが声をかけると、レピドライトはおとなしく頷く。
洞窟の入り口からかげの谷まで、ラニは歩いて帰った。
二時間ほどの距離だ。ラニがかげの谷に突いたのは、ちょうど夕暮れにさしかかり、今しも日が落ちようとしている時刻だった。
谷の人々は皆家に入った後のようで、道にひと気はない。
ラニは、苔むした道に置かれた飛び石を数えるように、ゆっくり進んだ。あちこちに灯る青いランプの灯りを、懐かしくさえ感じる。リュックに下げた青いランプと、手元の橙色のランプ。二つについて、不思議な気持ちで考えもした。
やっと帰り着いた、灯りのない我が家の前で、ラニは迷った。
二種類のランプ、どちらを玄関に下げるべきであろうか。地下では、どちらのランプも常に目立った。きっとこのランプには、それぞれ意味がある、と察するのは容易い。しかし、ラニはその意味を、まだ誰にも尋ねられていない。
迷った末、ラニは青いランプを玄関に下げた。谷では、青いランプが目立たないだろう。これまでの生活に帰るのだ、という意思表示もしたかった。
そうして、生活が始まった。
ラニは毎日、糸をつむぐ。レピドライトはラニが作ったぬいぐるみで遊んでいる時間が長い。
穏やかな時間だった。
つい数日前までのにぎやかさが夢のようだ。
けれど顔を上げれば、足元で寝ている小さな竜が視界に入る。それはまるで大きなぬいぐるみか、素敵な彫刻のようだ。
ラニは満足だった。
もちろん、困ったこともある。レピドライトは基本的に手がかからないようで、しっかり悪戯をした。ベッドの足をかじってみたり、ぬいぐるみを壊したり、ラニが紡いだ糸をめちゃくちゃにしてしまったり、枚挙にいとまがない。
初めのうち、ラニは笑って許すことができた。竜に怪我がないか確かめ、思いやりのある言葉をかけた。
そうもいかなくなったのは、煙水晶の家の内側に張ったキルトを、レピドライトがぼろぼろにしてしまったからだ。爪をひっかけ、牙を立てて遊んだらしい。ラニが庭先で用事を済ませていた、ちょっとした時間でのことだ。ラニが部屋の中に戻ると、キルトの一面が無残に破かれていた。
ラニの家のキルトは、淡いブルーグレーとアイボリーの大きなストライプだ。表面に模様が見える部分は、繊細なレースが縫いつけてある。
このキルトは、ラニの母が、ラニの父と結婚してりっぱな煙水晶の家に移り住んだ時、手塩にかけて作ったものだ。それを、ラニが一人暮らしを始めるとき、この家に合わせて仕立て直した。この世に一つきりの、大切なものだった。
とっさに、ラニは声が出なかった。振り向いたレピドライトが、楽しそうに笑っていた。その無邪気さを前に、何を言えばいいか、一つもわからなかった。
「ラニ、みて! ぼくの爪、りっぱな竜みたいだ」
興奮しているのか、レピドライトがはしゃいだ声で言った。ラニに前足の爪を見せ、とても楽しそうだ。
ラニは深呼吸した。こみ上げてくる怒りや悲しみを、精いっぱい堪えた。それから、できうるかぎり冷静に言った。声は震えた。
「そうだね。でも、ものを壊しちゃ駄目だよ」
「そっか、そうだったね」
頷いた後、レピドライトは急に静かになって、ラニを見つめた。じっとラニを見つめる濃い紫色の目に、驚きが滲んだ。それが本当に新鮮な色で、ラニは怒りが引いていくのを感じた。
生まれて十日ほどの生き物に感情をぶつけて、いったい何になるだろう。
「ラニ。ぼくはきっと何か、とてもひどいことをしたね?」
「ううん。大丈夫。あなたに怪我が無くて良かった」
ラニはレピドライトを抱え、椅子に座らせた。それから、破れたキルトをしっかり確かめた。ぼろぼろになっているが、まだ、大きな部分もある。この一面だけなら、パッチワークのように補修できるのではないか。
「大丈夫」
自分に言い聞かせながら、ラニは胸に手を当てた。口の中でもう一度、だいじょうぶ、と繰り返す。それでも、心がさざ波だった。
他にも、困ったことはある。
ラニが竜を抱えて歩くのを見た、かげの谷に住む人々の反応がまだらなのだ。
面白がる人もいれば、気味悪がる人もいた。
特に辛かったのは「子どもを産めなかったので竜を孵した」という口さがない噂である。
かげの谷を支える小さな経済において、住人は皆、働いている。適齢期になれば結婚し、子どもを作る。それが常だ。
なんの役にも立たない食い扶持を増やして、どうするつもりだ。陰口には暗に、そんな意図が含まれている。竜と言えども、養われるだけの存在を抱えてどうする。猫ならばネズミを取り、犬は盗人を追い立てる。小さな竜はいったい、何をするのか。
反論の機会がないラニは、俯いてじっとしていた。そうやってやり過ごすすべなら、良く知っていた。帰ってこない両親に対して口さがない噂が囁かれたとき、そうやってやり過ごしたからだ。あの二人は育った娘を置いて、谷を出た。そんな噂は、商人が事故を教えてくれるまで、かげの谷じゅうに蔓延していた。あの時と同じだ、とラニは思った。だから黙って、じっと耐えた。そうしていれば事態が好転する、と信じた。
嬉しかった事もあるのだ。
よく話すボタン屋のおじさんは、祝ってくれた。
「おめでとう、ラニ」
彼は、竜を抱えて歩くラニに出会うと、少し考える様子を見せた。しかし、祝ってくれたのである。
「きっと、君がかげの谷で一番竜に憧れていたね。よかったよ」
「おじさん、ありがとう」
ラニは笑って応じることができた。思い返せばこの人は、ずっと変わり者で通っている。ラニの両親の安否がわからず、ラニが一人で暮らしていた間なども、よく話し相手になってくれた人だ。ただ、レピドライトが何を口にいれるか分からないから、ボタン屋に足しげく通うことはできない。
代わりに気晴らしになるのが、早朝、まだ誰も起き出していないような時間にバロメッツを取りに行くことだ。
青く沈んだ野原で、橙色のランプを下げて歩く。白いバロメッツの実が、二人の歩みに沿って柔らかく揺れ、雲の間を歩くようだった。
この時ばかり、まだよたよたするレピドライトと同じ速度で歩いても構わない。彼は時折羽ばたいて少し浮き、すぐ地面に降りたりする。走ってみて、歩き、転んでは起き上がって、楽しそうだ。
バロメッツの実の間に見え隠れするレピドライトを、ラニは穏やかな気持ちで追いかける。
「ラニ、みて!」
「うん、浮いてる。すごいよ」
頭より尾の方が高く浮き上がったレピドライトを抱き留め、ラニは空を見上げた。
空は淡い水色で、抜けるように高い。もう、星たちの気配も薄れている。これから、どんどん明るくなっていくだろう。証拠に、空の縁が橙色に染まっている。橙と水色の中間にある白っぽい部分の高さを確かめ、ラニはレピドライトに声をかける。
そろそろ、谷の人々がこの野原に来てもおかしくない。
「帰ろうか」
両腕に抱いたレピドライトを揺らして、ラニの心は穏やかだった。
「もう?」
「そう。明るくなってきたから、家で仕事しよう」
「もっとさんぽしていたいな」
そう言いながら、レピドライトはおとなしい。ラニに抱き着いて、すっかり帰る体制だ。
ラニは笑って、そこらのバロメッツの実の中で、程よいものを探し始めた。
翼の音を聞いたのは、この時だ。
ラニの視線は自然に上を向いた。
朝焼けが桃色に移り変わりつつある。そこに、赤い竜が羽ばたいている。彼は白い空、水色の空を割るように飛んだ。そして、ラニの頭上で旋回した後、ゆっくり下降してくる。
「ジャスパー!」
ラニは呼んだ。
下を向いた赤い竜が、嬉しそうに笑う。その背に、オズバートが乗っていた。彼は、余裕のある笑みでラニに手を振った。
「オズバートも! どうしたの?」
赤い竜とオズバートは、時間をかけてバロメッツの野原に降り立った。それでも翼の風が辺り一面のバロメッツたちをうねらせ、白い綿の実が騒ぐ。ジャスパーの翼が起こした風は、ラニの頬を擽って通り過ぎていく。
「ラニ、君の顔を見に来たんだ!」
ジャスパーは姿勢を低くしてオズバートを下ろしながら、待ち切れない様子で言った。オズバートが降りるなり、ジャスパーは背伸びする。彼はラニにぐっと顔を寄せた。爬虫類に似ながら表情豊かな目が、ラニの顔を覗き込む。
「困ったことはない?」
「今のところ、へいき」
「ほんとに?」と首を傾げるジャスパーの目は純真だ。地上に帰ったラニたちを気にかけてくれていたのだろう。こうして、様子を見に来てくれる程には。
「何かあったら頼ってくれ。すぐ来る」
オズバートが、ジャスパーの背中を叩きながら言った。その心強い響きに、ラニは少しくらりとした。
少し高いところにあるオズバートの顔を見上げると、赤い血はこういう人に流れているのだろう、という予感がする。実際には島に暮らす人々の血は赤いのであるが、中でも確かな温度の血を持つ人に違いない、と思わずいられないのだ。
いま一緒に行きたいと言えば、二人はラニを竜舎に連れ帰るのだろう。
そうしたら、今困っていることは、何もなくなるのではないか。
レピドライトが物を壊してしまう事。かげの谷の人々の視線。話し相手がいないこと。どれもが大きな問題ではなく、しかし確実に、糸のようによりあわされて、ラニを追いつめようとしている。
けれどラニは、踏みとどまった。レピドライトを孵すとき、谷に帰ってもいい、帰ろう、と決めたからだ。そうしてやっと、レピドライトの声を聞いた。それを覆すのは、違う気がした。
「ありがとう。すごく、ほっとしちゃった」
ラニが何とか笑うと、オズバートとジャスパーは顔を見合わせた。ジャスパーは咳払いして、ラニに語りかける。
「あのね、おれが言うとオズバートが怒りそうだけど、生まれたての竜って意外とやんちゃじゃない?」
「うん……」
ラニは否定できなかった。ジャスパーも、レピドライトのような悪戯をしたのだろうか。今は、想像できない。
だが、気まずそうな、つつましいような表情と態度のジャスパーを見るに、彼は相当な悪戯をしたに違いない。その経験から、これを発言している。そんな予感がした。
「竜舎においでよ。おれたち、相手するし。ピルラはそういうの、すごく得意」
ラニはとっさに、少し笑う。そうだろう、と解かる。白い竜、ピルラは、ジャスパーの面倒も見たのかもしれない。だとすれば、怒るのは緑の竜、スマラカタが担当していたのだろうか。
考え込み、やがてラニは頷いた。どうしていいか、分からなくなったのだ。
黙り込んだラニを前に、オズバートは穏やかだ。ジャスパーの頭を撫で、優しい声で言った。
「急だと納得できないかも知れないけど、頼ってくれ。待ってる」
そういえば、ベリックも気にかけてくれていた。生き物を育てるのは大変だ、と。彼には先見の明があった。牧場で穴うさぎ達と触れ合い、ニュートとも親しくしているのであれば、経験則であった可能性もある。
子竜を一人で育てるのは、無謀なのかもしれない。ラニはこの時、少しだけ予感した。遠くない将来、きっとこの誘いに乗らざるを得なくなる。
それでもまだ、意地があった。
「あと少しだけ、頑張ってみたい」
ラニが顔を上げて言うと、オズバートは鷹揚に頷いてくれた。
「たまに様子を見に来るよ」
また、彼はレピドライトの頭に手を置き、まじめな顔で言い聞かせた。
「なあ、ラニを悲しませるなよ。頼むから」
まるで、しっかりした大人を相手にしているような口ぶりだ。決して相手を侮らず、きちんと敬意を持った態度である。ラニは、オズバートはよく考える人なのだ、と察した。
「まかせて」
レピドライトは、自信ありげに頷く。胸を張ってすらいた。その様が可笑しい。微笑ましい。ラニが微笑むと、オズバートとジャスパーも、少しは安心した様子で笑った。二人は顔を見合わせる。
「じゃあ、行くか」
「うん、お仕事だね」
オズバートは、ジャスパーにひらりと乗った。ジャスパーはさっと羽ばたき、二人がふわりと浮かび上がる。その最中、ジャスパーは言った。
「ラニ、困ったらおれたちの誰かを見かけたとき、手を振って。待ってる」
ラニは彼らを見上げて頷く。短い会話のうちに、それでも、一人ではない、という安心感があった。
「ありがとう!」
ラニが応じると、オズバートとジャスパーが同じ笑い方で笑った。二人はあっという間に空へ舞い上がり、花の峰の方へ飛んでいった。
彼らを見送って、ラニとレピドライトは少しの間、バロメッツの原っぱに立ち尽くしていた。
「ぼくもいつか、ラニを乗せて飛べるかな?」
レピドライトが、羨ましそうに言った。ラニの腕の中に収まる、小さな身体が伸びあがって空を見ている。
「うん……きっとね」
竜はどんな速度で育つのか、ラニはよく知らない。けれど、ピルラとスマラカタが生まれたのはずっと前だ、ということだけ、何となく知っている。
レピドライトがラニを乗せられるようなるころ、ラニは生きているだろうか。あるいは、大ばばさまのようになっているかも知れない。
けれどいつか、レピドライトが大きくなったら、それはきっと素敵なことだ。ラニは想像して、少しだけ笑った。
ラニは、レピドライトが破ったキルトの、とくにぼろぼろになった部分を切り取った。
旅の間毛布にかけていたシーツを、穴と同じ大きさに切り取って荒く縫い合わせ、幾つかワッペンをつける。
それだけで、部屋がぱっと明るくなった。
この後、切り取ったキルトの無事な部分と、他の布を縫い合わせて、パッチワークを作るつもりだ。
生活費にならない仕事ばかりしていられるのには、理由があった。
それは日が暮れ、かげの谷の人々が家に帰ったあと、やってくる。たいてい、三日に一度くらいだ。静まり返った谷に、長い裾を引き、歩いてくる。そして彼は、ラニの家の戸を叩く。
ラニは始め、驚いた。
こんな時間に訪ねてくるなど、非常識だ。谷の者はだれでも、日暮れ以降は他の家を訪ねない。谷は静まり返り、それぞれの家の中にだけ、団らんがある。
日暮れ以降に訪ねてくる者は注意しなければならない。夜盗はじめ、よからぬ者である可能性があるからだ。
それでもラニがドアを開けたのは、窓から外を確かめた上でのことだ。窓の向こうに、月色に光る髪と長い外套の裾を見た。慌てて、ドアに飛びついた。
はたして、そこにはずば抜けて背の高い男性、月色の髪を持つ、王が立っていた。ゆったりと流れてくる、夜と月の匂いに、ラニはくらくらした。
戸口の大きさ的に、彼は家の中に入れない。
ラニは玄関から出て、王と相対した。レピドライトは、家の中に残しておくしかない。何かしてくれるな、と願うほかなかった。
「これを」
王は前置きも、何故とも言わず、ラニにシラカバの籠を差し出す。初め、ラニは驚いて、また断るのも恐れ多いように感じて、諾々とそれを受け取った。
籠の中には瓶に入った竜蜜と柔らかそうな白パン。それに金貨が数枚、入っていた。
「これ、何ですか?」
「竜を育てている者には、支援がある」
説明は、たったそれだけだ。王はラニに籠を渡したことで満足したのか、踵を返し、去っていった。
戸惑うラニは取り残され、しばらく玄関のドアを開いて、しずまり返るかげの谷を眺めていた。ラニの足元に、レピドライトが寄り添った。
これが一度目の訪問だ。どれだけ戸惑ったか、いうまでもない。
しかし、食料は素直に助かったし、金貨も、当面の生活に困らない、という安心感を与えてくれた。
ラニとレピドライトは、余裕を持って暮らすことができた。誰にどう言われていようと買い物はできたし、ラニが金貨を出した時には、相手がとつぜん恭しく態度を変えもした。そんなことで少しばかり溜飲を下げた自分を自覚して、ラニは余計に落ち込んだ。
今日、これが三度めの訪問となる人を迎えて、ラニは眉間にしわを寄せた。
「あの、まだ前の金貨があります」
「分かっている。だから、今日は別のものにした」
今日は、ビスケットとミルク、それから本のようだ。
頂けるものであるから、文句は言えない。それに、実際のところ、レピドライトの面倒を見ながら前のように働くのは困難だ。今、ラニの生活は王の支援に拠っていた。これもまた、ラニの自信をくじいているのである。
もう、自活できないのだろうか。かつて、仕事はラニの誇りだった。一人で生きていけるだけの腕前を頼りに、かげの谷でたった一人、未婚の女性として生きてきた。これからは、この支援に頼っていくほかないのか。
「王様じきじきに届けていただくのは、なんだか気が引けます」
ラニが肩を落として言うと、王は少し考える様子を見せた。
「使いの者に任せた方がいいか」
それは、竜騎兵の三人のうち、誰かが来る事のではないか。彼らの仕事を増やすのもまた、気が引ける。それに、谷の者たちが彼らの顔を見たら、何というか。また、不規則に人が入れ替わり訪ねてくるとしたら、どんな反応をするか。想像するのは容易い。ラニは曖昧な表情を浮かべて首を左右に振った。
「いえ」
会話が終わった、と見たのだろう。王は踵を返し、歩いていこうとする。谷の飛び石を歩いていく彼の裾が水に濡れ、暗い色になりながら、水に触れた縁が光る。
ラニは王の後ろ姿を呆然と見送った。青白い光に照らされた影は、やはり絵のようだ。確かにラニは、王の後ろ姿に気を取られた。間違いない。
手元の本に視線を落とした時も、部屋の中に意識が向いてはいなかった。赤い革で装丁された本の表紙を撫で、ふっと笑った。ラニは字が読めない。中身をめくって確かめると、大ぶりな絵と文字が並んでいた。
「明日、大ばばさまに読んでもらおう」
そして、振り向いたのと、椅子に上ったレピドライトが、糸車に手を伸ばすのがほとんど同時だった。
ラニは息が止まりそうだった。
椅子と、レピドライトと、糸車。全てがいっしょくたになって倒れた。木が折れる音がした。
糸車は、壊れてしまった。大きなはずみ車の軸が折れたのだ。ラニは途方に暮れた。
母から受け継いだキルトと糸車。レピドライトは、どちらも壊してしまった。
この小さな竜と出会って、まだ日が浅い。たった二十日ほどだ。ラニが求めて孵した竜であるというのに、ラニは竜を恨みそうだった。
「怪我がなくて良かった」
口でそう言えても、心はなかなか追いつかない。
壊れた糸車を捨てることはできなかった。これ以上痛まないよう長持に仕舞って、ラニは部屋の中を徹底的に片づけ始める。レピドライトが壊しそうなものを仕舞って回った。
重い長持の中は、今のところレピドライトが手を出せない領域だ。大切なものは全て、ここに仕舞った。それでやっと、一息つけた。
時間は、深夜になっていた。ラニが振り向くと、退屈だったのか、レピドライトは丸くなって眠っていた。王が持ってきた籠にクッションを積めておいたのが良かったらしい。籠をベッドに、竜の寝顔は無垢だった。
ラニは身体の力が抜けるのを感じた。自分のベッドに潜り込んで、泥のように眠った。
レピドライトを可愛いと思う感情が消えた訳ではない。寝顔や、嬉しそうにラニを呼ぶ声、穏やかな笑い声を聞いている時、ラニは確かに幸せだ。
けれど、彼は大切な物を壊してしまう。それがとても辛い。
これがずっと続いたら、どうなるのだろう。あるいは、竜を嫌う日が来るのだろうか。
翌朝、ラニはそんなことを考えた。固くなりかけたパンをレピドライトと分け合って食事を済ませ、シラカバの籠に柔らかい白パンと小さな蜜の瓶、本を詰め込む。
「レピドライト、大ばばさまに本を読んでもらおう」
「ほんって?」
「王様がくれたの。字が沢山書いてある紙を束ねてあるもの。絵もついてる」
「なにがかいてあるのかな。読みたい!」
はしゃぐレピドライトを抱き、ラニは出かけた。籠とレピドライトを抱えているから、ずいぶんな大荷物だ。時々よろめきながら進む。
大ばばさまとレピドライトを会わせていいのか。大ばばさまはどう思うだろうか。
どこかで考えながら、意識の外に追い出して足を動かした。自身の中に悪意が渦巻いている。まるで嵐だ。感づきながら、止まれなかった。この状況を、名状できなかったからだ。自分で解決できる問題の大きさを超えていた。誰かに思考を預け、頼りたかった。かげの谷で育ったラニにとって、それは大ばば様以外ではありえなかった。
谷を流れる浅いせせらぎを遡り、ラニは大ばばさまの家を目指した。狭い谷だ。迷いが足を止めるより、目的地に着くほうが早い。
「大ばばさま!」
ラニは大ばばさまの家の前に立ち、大きな声で呼びかけた。窓が開いている。煙水晶の内側に張られたキルトも開いてある。だから、失礼にはあたらない。だが、とラニは思う。今の自分の声は、いつもより険しくなかったか。
しばらく沈黙があった。そこで、ラニは考えた。大ばばさまは、当然、ラニが竜を孵した噂を聞いているだろう。それで、何を感じたのか。考えたのか。彼女の感情は言葉にできるものなのか。
長い沈黙があった。
やがて、煙水晶の家の内側から、声がした。
「ラニ」
大ばばさまの声は細く、しかし良く通った。強張った響きだ。
「見せないでおくれ」
何を、とは言われなかった。何故、とも。
けれど、ラニは察した。大ばばさまの沈んだ声。かすれた、切実な願いが、どれだけ重たいか。
大ばばさま……イオはかつて、竜を孵した。その竜が、イオの夫を殺した。竜は、姿を変えた。自分がその立場であれば、新しく孵った竜に会えるだろうか。
ラニは、顔をしかめた。笑いそうになる自分を戒め、同時に己の無配慮と、残酷さを呪った。心は、こんなにも不随意だ。
「レピドライト、帰ろう」
ラニははっきり言った。
「牧場で、誰かに聞いてみようか。今度、オズバートたちが来た時、聞くのもいいね」
できるだけ明るく、はっきり喋った。レピドライトは瞬き、まだ事情を察せない様子だ。だが、ラニは足を動かす。てきぱき歩いて、ベリーが植えられた林までやってきた。
そこで、背中を細い木に預けて座り込み、ラニは呻いた。
思うように行かないことだらけだ。そして、自分の醜さにも、嫌気が差す。
レピドライトはラニに抱かれたまま、じっとしていた。時折前足でラニの肩を叩き、慰める仕草すらした。
ラニは泣きたかった。だが、涙は出なかった。顔が歪んだだけだ。その醜さを恥じた。
しばらく、そうしていただろうか。ふと、レピドライトが言った。
「ねえラニ、ほんのえを見てもいい?」
確かに、本には文だけではなく、絵も描かれていた。絵の内容を追うだけなら、二人でも出来るかもしれない。ラニはやっと顔を上げ、頷いた。
気持ちを仕切りなおさなくては、これからの事も考えられない。落ち着くためにも、絵を眺めるのは良さそうだ。
「うん」
地面に両足を投げ出して、レピドライトと本を膝に乗せる。ラニが俯けば、レピドライトのミルクに菫を溶かしたような紫色の被毛が、ラニの頬を擽った。その柔らかさにラニは微笑む。大丈夫だ、と思えた。
ラニは本を開いた。一ページずつ、慎重にめくって中身を確かめる。本に描かれた絵は、墨色ながら美しい。島に伝わる昔話……球形の島に金色の木が生えて、漂流者たちに住む場所を与えてくれる話のようだ。ページ数はそう多くないのだが、紙が厚めで、立派に見える。
「ぼく、これ読めるよ」
ふと、レピドライトが言った。ラニは、何か冗談を言われたのだと思って、首を傾げた。
「読める? 字が?」
「うん。聞いてて」
レピドライトは何でもない様子だ。そして、明るい声で読んだ。
「そして、われわれは百五十日もの間、海の上をさまよった。食糧は尽き、塩辛い海からえられる糧で過ごす限界は、とうに過ぎていた」
ラニはぎょっとした。ふだん、彼が語る言葉より、格段に格調高い言葉だ。
「百五十日目、われわれのうち、幼い者、年老いた者たちが、幾人もちからつきた。このむくろを海にながして弔うのは、あまりにしのびない。そんなとき、島はわれわれの前にすがたをあらわした」
レピドライトがでたらめを言っているのか、文字を正確に読み上げているのか、ラニにはわからない。ただ、筏の上で嘆く人々の絵は、真に迫るものだ。
「われわれは月のような島の周りをたどって、上陸できる場所をさがした」
二人は、すっかり本に夢中だった。詳細に語られたことのない、島の起こり。自分たちの祖先がどんなふうに島に定着したか、知りたかった。
ところが、思いがけない邪魔が入った。
ラニは苔を踏む音を聞いて、少しだけ顔を上げた。そこに、男が立っていた。
汗だろうか、汚れだろうか、とにかく茶色っぽく薄汚れた、薄い服の男だ。髪も油っぽく、赤毛なのだろうが、黒ずんでいる。顔だちは、ラニたちと少し違う様子だ。痩せた体つきで、背はオズバートより少し低い。彼は血走った眼をして、何かまくしたてた。ラニには彼の言葉が音としてしか理解できない。意味がわからないのだ。不思議な抑揚があり、イントネーションが違った。異国語だった。しかし、レピドライトは目を見開き、彼の言葉を聞いている。わめきたてる男がレピドライトに手を伸ばす。ラニはとっさに立ち上がり、レピドライトと本を抱き締めた。今しがたまで背中を預けていた木に向き直り、駆けだそうとして腕を掴まれた。
押し問答になった。男は明確に、ラニの腕からレピドライトをもぎ取ろうとしていた。
ラニはもがき、声を上げた。レピドライト自身も、精いっぱいラニにしがみつく。
だが、ラニと男には明確な体格差がある。力ずくで来られたら、また、レピドライトの柔らかい体を傷つけまいと思えば、男と奪い合うには限界がある。
人を呼ぶしかない。ラニは息を吸った。
一瞬、男はラニからもレピドライトからも手を放した。次の瞬間、男はラニの後ろ頭をわしづかみにして、ラニの額を木にたたきつけた。
「ラニ!」
レピドライトが悲鳴を上げた、その時だ。
腕を伸ばした男とラニの間に、別の男が割って入った。
新しく現れた男は青黒い髪の男だ。一瞬、彼は姿勢を低くする。握りしめた拳でラニの頭を掴む男の頬を殴り上げ、蹴り飛ばす。瞬きにも満たない時間で、これが成された。
わめきたてていた男は呻き、ラニの頭から手を離した。よろめいて数歩下がる。彼はラニと闖入者を睨んだ後、森の奥へ駆け去った。
ラニは再び木に背中を預けて座り込みながら、助けてくれた男を見上げた。ラニは、この男に見覚えがあった。竜舎にいた若い騎兵、コノルだったのだ。彼は腰に佩いた剣に手を当て、居住まいを直す。
「コノル……?」
「助けるのが遅くなりました。オレは、王の命令でここに」
頭上から、羽ばたきの音が聞こえた。細長い影が地面に落ち、次第に大きくなる。旋回して降りてきたのは、緑の竜、スマラカタだ。
「ラニさんの安全を確保するよう、言いつかってきました」
寄り添って立つコノルとスマラカタは頼もしい。少なくとも、さっきの男が再び襲ってくることはなさそうだ。ラニはほっとして、全身の力が抜けるのを感じた。
今更のように、打ち付けられた額がひりひり痛んだ。柔らかい木がしなって衝撃をいなしてくれたのか、そうひどくない。明日には、赤みも引くだろう。
ラニは、いったん住居を地下に移すことになった。
コノルとスマラカタの説得が大きな決め手だ。まだ不審者を捕まえていない。小さなレピドライトを狙う不届き者は、ラニの住まいを知っている可能性がある。その上で、集落から離れた瞬間を狙ったのではないか。筋道立てて説き伏せられれば、反論できない。
荷物と言っても、着替えを詰めたリュックサックとランプがあれば十分だ。どれくらいの滞在になるかわからないから、手をかけていたパッチワークだけ、暇つぶしに持って行かせてもらうことにした。後は、王から賜った本だろうか。貴重品だから、オペラグラスも入れた。そうしてみても、一塊の荷物はスマラカタ一頭の背に乗った。
ラニがまとめた荷物を見て、荷運びにきたオズバートが、不思議そうにした。
「あれはないのか?」
「あれ?」
「ほら、糸を紡いだり、織ったりするやつ」
身振り手振りの様子から、オズバートが意図しているのは糸車か機織り機だ。
もしかしたらオズバートは、かげの谷の文化について、少し学んできたのかもしれない。だとすれば、ない、と答えるのはおかしな事だろう。
「ああ……最近、壊れちゃって」
ラニは曖昧に笑って言った。オズバートは彼自身の顎を触り、考える様子だ。
「見せてくれないか」
「え?」
「なじみの職人に相談してみよう。直るかもしれない」
信じられず、ラニはオズバートを見上げた。彼は人好きのする柔らかい笑みを浮かべ、ラニを促す。ラニは、期待に胸が膨らむのを抑えられなかった。長持に駆け寄って、軸の折れた糸車を取り出す。
「なるほど」
オズバートは糸車を覗き込むと、破損具合を確かめ、しっかり頷いた。
「やっぱり、一度相談する価値はあるんじゃないか。これはジャスパーに運ばせよう」
ラニが固まっている前で、オズバートは糸車を毛布にくるんだ。丁寧な手つきだった。
「ジャスパー!」
「何、オズバート」
「これ運んでくれ。大切なものだ」
「わかったよ。ディアミドに言っておく」
ディアミドは地下で荷受けをしてくれている。運搬は竜三頭が手分けして行い、最後にオズバートとラニを連れ帰る算段だ。ところが、先述とおり、ラニの荷物はスマラカタの背に乗せれば十分だった。結果、庭先で暇をしていたジャスパーは、尻尾をゆらゆらさせて喜んだ。
ラニは、糸車をしっかり背にくくりつけたジャスパーが飛び去るのを眩しく見守った。まだ、糸車が直ると決まった訳ではない。けれど、気にかけて貰えたことが有難く、申し訳ないような気がした。
庭先では、ピルラがレピドライトをあやしてくれている。
近所の人々が、おっかなびっくりラニの家を見ていた。ラニは、何も弁解しないことにした。
この日の夕方、ラニは再び家に鍵をかけた。手元には橙色のランプが一つ、青色のランプが一つ。それぞれを、竜たちの装具にかけさせて貰った。
ラニ自身も装具を着込み、あとは竜に跨がるだけ、という時だ。
ラニの家に向かって、走ってくる者があった。
ふくふくした赤い頬に丸い鼻、ブラウンの豊かなひげ。その奥に、丸眼鏡と愛嬌のある目。ボタン屋のおじさんだった。彼は、かげの谷の風習である、日暮れに他の家を訪ねない、ということを無視してきてくれたのだ。
「ラニ! 出かけるんだね」
彼は息を切らしてやってくる。そして、両手を膝について息を整えた。少し落ち着いて、まだはずむ息のまま、彼は顔を上げた。
「気を付けて。きっと谷に帰っておいで」
「おじさん……」
ラニは、声がつまるのを感じた。ひと時、あるいは長く、自分がかげの谷を離れようとする時、まだ、案じてくれる人がいる。帰れば迎えてくれる人がいるということは、大きかった。ラニは笑おうとした。眉の下がった、情けない笑みになった。
「ありがとう。行ってきます」
ピルラがかがんでラニを促した。ラニはピルラにまたがる。おくるみのなかのレピドライトが、ボタン屋のおじさんに向かって手を振った。オズバートがラニの装具とピルラの装具をベルトで繋ぐ。ほんの短い時間が、途方もなく、大きく感じた。
「さあ、出発だ!」
ジャスパーに跨がったオズバートの号令で、竜たちが羽ばたく。浮き上がる。飛び上がるまで、ほんの一瞬だ。
ボタン屋のおじさんが、その様を眩しそうに見つめていた。




