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竜の十戒  作者: 谷羊むむ
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2.竜たち

1話目が11/23日間総合ランキング275位に入りました。ありがとうございます!

 鐘が鳴っていた。ずっと明るいこの街では、朝、昼、夕に鐘が鳴る。鐘楼は城にある無数の尖塔の中の一つだ。

 鐘に驚いたのか、どこかの家の柱から白い鳥が飛んで、都の上空を回った。

 ちょうどその頃、ラニは宿の近くにある店で朝食を食べていた。パンと、野菜のかけらを煮込んだ塩味のスープだ。これを食べ終えて、ラニは城へ出かけた。

 バザールの道を北上すれば広場があり、すぐ城壁に突きあたる。城壁の巨大な正面門は、当然のように固く閉ざされていた。ラニの背丈の五~六倍はある、立派な浮彫がされた石の門だ。代わりに、門から少し離れたところに、ラニの背丈の一・五倍程の高さの門が、こじんまりと開かれていた。こじんまり、というには大きいのだが、比較対象が大きすぎて、小さく感じる。とにかく、通れそうな通路だ。ラニはこちらを選んで進んだ。

 薄暗い通路を青白い光のランプで照らして歩く。こうして歩くのにも、ずいぶん慣れた。この道には足元に小さな光石が象嵌されていて、歩くには問題がない。ランプを掲げるのは、気持ちの問題だ。

 城壁は分厚く、ラニはしばらく歩いた。そうは言っても、元から出口が見える程度の分厚さだ。城壁を通り抜けて、ラニは立ち止まった。

 さっきまでいた通路は暗かった。そう思ったのは、城があまりに白く、あたりが明るく感じたからだ。無数の尖塔を束ねた城は、あまたの彫刻に飾られていた。

 ラニはまた、道も見ていた。

 往来からここまで、白い道が途切れることはなかった。ここで、白い道は城の外周を巡っている。ここがロータリーなのだ。王はここから、月の島中に道を走らせた。

 そして、輪を描く道と、無数の塔を束ねた壮麗な城の間に、暗緑色の鉄柵がある。柵はつる草の模様を抱いて輪をつくり、城を囲んでいた。

 城と柵と道の間、小さな花を咲かせる植物が広がっている。淡い色の花は黄色や白、水色などだ。煙るような色合いで咲き、地面を埋めつくしている。

 加えて、地下天井を衝く塔からは、絶えず水が流れ落ちていた。流れ落ちる水は、北東、南東、南西、北西に走る水道橋を通り、都を循環する水路に注ぐ。

 ラニはしばし城と水道橋を見上げ、動けなかった。これが現実の景色とは思えなかったのだ。

「お嬢さん、進んで」

 後ろから来た誰かに声をかけられて、ラニは転びそうに数歩前へ出た。

 ラニの後ろで待っていたのだろう、数人が城壁の通路からぱらぱらと歩み出てこの広場に踏み込む。

 気まずかった。ラニはさらに数歩進む。人々は慣れた様子だが、立ち止まっていると悪目立ちしそうだ。さっと視線を巡らせ、歩き始める。振り向けば、城壁にくぼみがあって、そこに数人の役人たちが並んでいた。商売の受付はおそらくそこだ。ベリックの両親からも話を聞いたし、間違いないだろう。

 ラニは少しの間、行ったり来たりして役人たちの働きを見ていた。そして、手続きに必要な事項を察そうとした。

 役人から書面の説明。そして申請者がサインする。商売の許可を証明する品を受け取る。それだけのようだ。中には字を書けないでもたつき、指先をスタンプするよう求められる者もいた。ラニは、これにほっとした。ラニもまた、字がかけない。

 なんとか手続きをやりおおせそうだ、という目途が立って、ラニは列が途切れる瞬間を見計らう。手が空いた役人の前に足を踏み出す。

「あの、こんにちは」

 ラニが声をかけると、黒髪の男が顔を上げた。隙なく髪をまとめた男は、左右の目の開き方が違っていた。また、背はそう高くない。ラニより少し高い程度だ。紺色の服は袖と裾が長い。

「手続きですね。こちらへ」

「はい。私、ドレスを売りに来ました」

「どちらから」

「かげの谷です」

 ラニと問答しながら、役人はどんどん書類に書き込みを加えていく。スタンプを押したり、なにか確認したりと、忙しそうだ。

「商売は毎日、昼間だけ。朝の鐘が鳴ってから、夕の鐘が鳴るまで。鐘が鳴ったら店じまい。王様が竜車でお通りになる時は道を空ける」

「わかりました」

 他にも説明を受けた後、ラニはサインができないことを申し出た。役人は慣れた様子でラニに朱肉を差し出し、人差し指にインクをつけて書類に押し付けるよう促す。

 見ていた通りだ。安心して、ラニは指先を朱肉につけた。そうしながら、ふと役人へ問いかける。

「そういえば、竜の噂は聞きました?」

「ああ、卵ね」

 役人はくたびれた様子で応じる。

「湖の底へ向かう道を通るには、城で通門証を貰う必要がある。手続きは中止中だよ」

 事もない、しかも、言いなれた様子だ。ラニは驚き、男をじっと見る。男は卵の事を聞かれたことなど忘れたように、ラニが指を押し付けて差し出した書類をチェックしている。

 ラニは言いようがなく悲しい気持ちになった。

 王が道の通行を差し止めている。

 だから、誰も竜を迎えに行かない。

 どうして王は、湖の底に通じる道を封じてしまったのだろうか。

「卵、宝石になってしまうんじゃない?」

「王が決められた事ですから」

「でも、生きてるのに」

 ラニは食い下がった。この人に食い下がってどうなるものか、考えてはいなかった。役人が明らかに困った顔をして、書類をカウンターに置く。彼は机の下から小さなひし形の石がついた飾り紐を取り出し、ラニに差し出す。

「これが許可証。もう行きなさい」

「でも……」

 ラニの小指の爪より小さい、薄荷色の石がついた飾り紐だった。紐は目が覚めるほど赤い。これを受け取った上で、ラニはカウンターを離れがたかった。並んでいる人々の視線が痛くて、身体がすくんだ。

 その時だ。

「王はわたしだ」

 人々のざわめきを割ったのは、落ち着いた響きの声だ。

 ラニは振り向き、見た。城を取り巻く白い道の真ん中に、昨日と同じ、長く引きずる衣を着た、月色の髪の背が高い男が立っていた。

 男が歩けば、人波が割れる。男、もとい、王であると名乗りを上げたその人は、カウンターのすぐそばまで滑るように歩いてやってきた。そして、カウンターの上の書類を一瞥すると、ラニを呼んだ。

「ラニ、こちらへ」

「は、はい!」

 どもりながら、ラニは確かに頷いた。歩き出す男を追って、半ば駆け足で動き出す。

 握りしめた薄荷色の石の角が手のひらに刺さって、少し痛んだ。




「ついておいで」

 王は滑るように歩く。美しいドレスと外套の裾が道を擦る。しかしこれらの布は、細かな汚れも寄せ付けない。衣擦れの音を引きずって、王は北に進んだ。

 ラニは彼の背中を一生懸命追いかけた。

 様々な形の家やアパルトメントが並ぶ通りを、白い街灯と家の玄関に掛けられたランプがぼんやり照らしている。ただ、物に遮られた場所や、光の届かない影は青黒く闇に沈んでいた。

 その中で、王の姿は月明かりが差すように目だつ。

 ラニはやや遅れて走りながら、彼の背中や、道の角にひらめいていく裾を見落とさなかった。

 王の足取りが緩やかになるころ、街並みはまばらになり、道の先に橙の灯りを見た。

 橙の灯りは四つあった。車輪のついた箱型の乗り物の四隅に吊してあるのだ。

 箱は豪奢で、優美な曲面を持っている。城と同じく、ほのかに光るように白い。象牙やべっこう、白い琥珀だと言われたら、信じてしまいそうだ。前面と側面に大きな窓が填めてあるため、内側に黒いびろうどの座面が見える。

 また、乗り物を引くのは一頭の赤い竜だった。この時、ラニは初めてこの赤い竜を間近で見た。爬虫類のような顔に、四つ足をついた山犬と蜥蜴の間じみた骨格。鱗のある体、硬い皮膚に覆われた腹、鋭い手足の爪。角は頭に沿って二本。背中になだらかな三角錐の棘が並んでいる。被膜がある大きな翼一対も見逃せない。尾はトカゲのようで長かった。革の装具をぴっちり身に着けて、賢そうな目をしている。御者は暗い栗色の髪をした男性で、すらりとしつつ隆々とした体つきだ。顔だちは精悍で、男盛りをうかがわせる。年は三十代中ごろか、もう少し上か。茶色の革の鎧を着ていた。

 竜車、と呼ぶのがふさわしいであろう乗り物だ。王の乗り物ともなれば、客席やそれを牽く竜、御者に至るまで、非の打ち所がない。

 御者の男性は王の姿を認めると、さっと御者台を降り、客席の扉を開いた。

 王は慣れた様子で竜車に乗り込み、ラニを呼んだ。

「ラニ、こちらへ。少し散歩に行こう」

 ラニは確かにひるんだ。ベリックに乗せてもらった荷車とは訳が違う。どう見ても貴人の乗り物だ。

 だが、断るのもまた、失礼だろう。ラニは意を決し、竜車に歩み寄った。御者の男性がさっとラニの右手を取り、手すりに捉まらせる。また、左手を握って、竜車に登りやすいよう手を貸してくれた。ラニは非常に戸惑った。男性の手を握るなど、父親以来だ。心臓が妙に早鐘を打つ。さっと離れていった温かい手の感触が、妙に手に残った。けれどそれについて深く考える暇がない。ラニは王に視線で促され、竜が繋がれている側、つまり進行方向に背を向けて座った。王と向き合う形だ。

「出しますよ」

 御者の男性は車内が落ち着くのを見計らっていたらしい。一声かけて、御者台へ移動する。彼が御者台に座り、竜に一声かけると、竜車は滑るように走り出した。不思議なことに、少しも揺れない。窓の外を、するすると景色が流れていく。

 景色の流れがあまりに速い。ラニは飛んでいるような気持ちになった。恐怖すら感じて、椅子の座面に両手を付き、身体を支えた。

 竜車は街の北口からさらに北上し、左折した。道は緩やかに弧を描いている。どうやら、街の外周を反時計回りに回るつもりらしい。この道は西口に向かうのかもしれない。

 ラニがじっと見つめていると、王は物憂げに首を傾げ、窓の外を見た。両側にある窓の、街側はひどく明るい。反対側では、光石に照らされた丘がぼんやり青い影のように沈んでいる。

 あの丘のどこかに、ニュートがいる、とラニは思った。

「ニュートに会ったね」

 王は、ラニの心を読んだかのように切り出した。あるいは、これを切り出すための散歩だったのだろうか。

「はい」

 ラニは緊張しながら頷く。サンショウウオのような姿をした竜、ニュートと牧場で出会ったのが、遥か昔のことのように感じられた。

「あれを昔、シャトヤンシーと呼んでいた」

 王の声は、深く思い悩む色を帯びていた。ラニは唾を飲み込む。訊ねたいことがあった。

「王さまはイオという人を知っていますか」

 ニュートは、イオという名をしきりに呼んだ。ラニは、それがずっと気になっている。イオという名前が、かげの谷に住む者がつける名前だからだ。

「知っているよ。きみも会った事がある」

 王ははっきり言った。

「かげの谷に人が住み始めたのは、私がイオを追放したからだ」

 ラニは息を飲んでこれを聞いた。王は続けた。

「イオに罪はなかったよ。シャトヤンシーが嫉妬して、彼の夫を殺した」

 当時、シャトヤンシーと呼ばれることになった竜を孵したイオには、恋人がいた。シャトヤンシーを孵した後も、逢瀬を続けていたという。やがて、二人は添い遂げることを決めた。そんなある時、事故は起きた。

 シャトヤンシーはイオの夫に圧し掛かり、彼を殺してしまった。

「イオが竜を憎んで当然だ。だが、竜があんな風になっては、人々に見せつける必要があった」

 シャトヤンシーは姿を変えた。以前は、体に美しい光彩を持つ、水色の竜だった。今、あの色は見る影もない。

 王の話を、ラニはじっと聞いていた。なぜだか、予感があった。

「それはいつの話?」

「今年でちょうど八十年」

 かげの谷がいつからあるか、実のところ、ラニはよく知らない。けれど、かげの谷に一番初めに住んだ人が誰か、知っている。

 その人は、かげの谷に無数に流れるせせらぎを辿った、一番奥に住んでいる。一番初めに住み始めた方だ、と称されてもいる。

 大ばばさまだ、とラニは気づいた。

 イオは、大ばばさまなのだ。

「私はイオを責めない。だから彼女を慕って移り住む人々を止めなかった。バロメッツを与えた」

 王は静かに、首を左右に振った。

「だが、かげの谷の誰も、竜の声を聞かない」

 ラニは目を見張って王を見つめていた。さっきまで分かった王の言葉が、今は少しも分からない気がした。

「ならば、竜は生まれてこない」

 ここで、王は明確に言葉を区切った。彼は金色の眼差しをラニに向け、静かに提案した。

「ラニ。このまま帰るなら、地上に送ろう。荷物も後で届けさせる」

 なんと答えるべきか、ラニにはわからなかった。だが、たった一つだけ、言えることがある。黒いびろうどの座面と、ラニの手の間に、薄荷色の石がある。角が手に刺さる、小さな石だ。石は、ラニが都に来た理由を忘れさせなかった。

 ラニは震える声で言った。

「私……まだドレスを売っていません」

 王は少し目を見張った。何か言いかけるように口を開き、そして閉じた。それから、ぽつりと応じる。

「そうか」

 車内に沈黙が満ちた。

 ラニは、窓の外を通り過ぎていく青い丘の影を見て考えた。

 たとえイオのような目にあっても、竜を許せるだろうか。

 大ばばさまは、竜を憎んでいたのだろうか。

 そうだとしたら、竜に憧れるラニを見て、大ばばさまはいったい何を思っていたのか。

 生まれた時から知っている人の筈なのに、何も分からなかった。




 竜車はラニの予測通り都の外周を走り、西口を通り過ぎていた。やがて、都の南側にさしかかる。王はそこで御者に声をかけた。

「オズバート」

 その声が、意外にもぞんざいだった。ラニは驚いて王を見た。彼がそんな風に喋るところを、想像していなかったからだ。王は「ここで降りる」と言い、さらに続けた。

「この子に、竜を見せてやってくれ」

 ラニはやはり、王の言うことがよくわからない。

 とにかく竜車は減速して一度止まり、王は宣言通り竜車を降りた。御者が降りてきて扉を開けるのを待たず、自分で外に出たのだ。

 竜車を降りた王は、迷いのない足取りで街へ向かって歩き始めた。その歩みがあまりに早い。ラニはぎょっとした。どうやら、先ほどラニの前を歩いていた、あれでも加減していたらしいのである。

 ラニには、王が淡く光っているようにも見えていた。それでも、彼の姿はすぐ闇にまぎれていく。

 王が歩み去って、後にはラニとオズバートと呼ばれた御者、赤い竜が残された。

「よろしく、お嬢さん」

 御者は一応御者台を降りていたから、高い位置にある客席の窓ごしにラニを見上げて、気さくに言った。にこりと笑った目が柔和で、ラニは少しほっとした。もっと威圧的な人であったら、身構えてしまっていただろう。

「ラニです」

「じゃあ、ラニ。俺はオズバート。こいつはジャスパーだ」

 オズバートは改めてラニに名乗った。また、竜車を引く竜の名前も教えてくれた。

「よろしく、ラニ!」

 陽気に響いた声を聞いて、ラニは驚く。喋ったのは赤い竜、ジャスパーだ。

「アルファルド……王さまって、とっても自分勝手だよね。家に帰っていいの?」

 ジャスパーの声は感情豊かだ。呆れたように王を批判したかと思えば、くるりと声の調子を変えて、オズバートに帰宅の判断を仰ぐ。

「ああ。いったん竜舎へ帰ろう」

 オズバートは慣れた様子で頷き、御者台に上がった。彼がジャスパーに軽く声を掛けると、竜車は右折して走り始める。

 ラニは身体をひねって、肩越しにオズバートの後ろ姿と赤い竜、ジャスパーが走る様を見た。この色を知っている、と思った。幼いころに、じっと見つめた事があるからだ。ラニは言った。

「二十年くらい前、オズバートが花の峰に上るところ、見ていたかも」

「二十年くらい? じゃあ、俺たちだ」

 オズバートは肯定して笑った。

「懐かしいな。あそこでジャスパーに初めて乗ったんだ。鞍なんてないから落っこちそうだった」

「落とさなかったでしょ?」

 ジャスパーが鼻を鳴らして自慢げに言った。

「斜面に沿って飛んだから、落ちても軽い怪我で済んだ筈だよ」

「何にせよ、お前の背中は痛いから、もう鞍なしは遠慮したい」

「落っこちられちゃたまんないし、おんなじ気持ち」

 二人の会話は軽快だった。ラニは声を潜めて笑う。そんな風に笑うのは、久々のことだ。なぜだかほっとして、肩の力が抜けた。いつの間にか張り詰めていた気持ちが、ぐっとほどける。

 ほどなく、竜車は速度を緩めた。荷車がゆうに三台は並べる、ほのかに光る道の途中だった。幅の広い道沿いは見渡す限り平らで、地平の端は暗闇に消えている。そこに、一軒の白い家がぽつんと建っていた。立方体に三角形の屋根がついた平屋である。手前側中央には大ぶりな窓が二つ。道側に四角い小さな窓が等間隔に五つ並んでいた。

 竜車は家の前を通り、右折して停車した。こちら側から見ると、家の中央には白いドアがある。ドアの中央にはアイアン飾りが施され、シンプルながらしゃれた印象だ。ドアの左手側は家が骨組みに変わっている。ラニは首を傾げた。反対側から見たときには、そんな印象がなかったからだ。

 どうなっているのだろう。何があるのだろう。気になって、ラニの意識はそちらに釘付けになった。

「ラニ、どうぞ」

 そうしているうちに御者台を降りたオズバートが竜車のドアを開く。彼は、手を差し出してラニに声をかけた。優しい声だった。

 ラニはやっと振り向き、立ち上がって、おっかなびっくり竜車から顔を出した。オズバートの手に自分の手をそっと重ねる。彼の手は大きく、硬い。そして温かい。

「王様の背に合わせてるもんだから、俺たちにはちょっと大きいよな」

「うん、ちょっと怖い」

 頷きながら、ラニははにかんで笑った。登る時より、降りるときのほうが苦労した。ラニの両足が地面に着くと、オズバートの手はするりと離れていった。そういえばオズバートはラニより頭一つ以上背が高い。少し背が高い人たちに属するのかもしれない。彼はジャスパーの装具を外し、彼を自由にしてラニに声を掛ける。

「さて、こっちだ」

 オズバートに言われて、ラニの意識は改めて白い家に向く。

「はやくはやく!」

 機嫌よさげに歩くジャスパーの背を追って、ラニは白い家の裏側に回った。

 裏側は屋根以外が骨組みの空間だ。左手奥には建物の続きがあり、窓がついている。骨組みの部分に、白い竜と緑の竜が横たわって休んでいた。

「ピルラ、スマラカタ、ただいま」

 オズバートが声をかけると、二頭は顔を上げた。

 白い竜は全身が羽毛と真珠色の鱗で覆われていた。ラクダのような頭で、牙のある口は大きい。立派な金色の角が耳の後ろに向かって伸びている。身体はトカゲに似ながら、手足はオオカミのようだ。そして、立派な金色の翼を二対持っていた。また、トカゲのような尾がある。

 緑の竜は新緑色の鱗に覆われた体だ。鹿のような顔で、角は黒。額、背中、尾にかけて、苔色の長い毛を垂らしている。手足は山猫で、鋭い爪は割れた蹄にすら見える。翼が蝙蝠のような被膜で黒い。こちらにも、トカゲのような尾があった。

 どちらも、尾まで含めれば成人男性二人を並べたより体長がありそうだ。

「白い方がピルラ、緑の方がスマラカタだ」

 オズバードが紹介すると、竜たちはそれぞれラニに視線を合わせ、頷く仕草を見せた。目礼のようだ。

 ラニは、毎朝空を見上げて探した二頭を前に緊張しきりだ。こんな容姿だったのか、と驚くと同時に、やはり二匹は輝く様に美しい。

「二頭の竜騎兵は代替わりして、若いの二人。ピルラの相棒はディアミド、スマラカタの相棒はコノル。二人とも、今は街に買出し」

 この時、ラニの耳にはオズバートの声が半分ほど聞こえていなかった。

「王が竜を見せろと言ったなら、跨がるくらいして行くんだろう?」

 白い竜、ピルラが歌うように誘った。

「そうだそうだ」

 緑の竜、スマラカタが後押しするように頷く。竜たちは面白そうにラニへ顔を寄せた。半ば、からかう調子が混じっていた。

 ピルラの瞼には長いまつ毛が生えている。竜が瞬くと、白い羽毛に覆われた瞼と金のまつ毛が優雅に上下した。

「あなたの装具と私の装具をベルトでつないでいいなら、空の散歩に行こうか」

「ピルラ、こんなお嬢さんに」

 オズバートが竜をいさめた。ラニはとっさに声が出せず、あわてて首を左右に振った。そして、なんとか言葉を絞り出した。

「私、乗ってみたいです!」

 からかわれていてもいい。思い切ったラニが目を輝かせて応じると、ピルラは目を見開いた。そして、スマラカタと顔を見合わせる。一拍の間をおいて、二頭は声を上げて笑った。楽しそうな声だった。

 オズバートも驚いた様子でラニを見ていた。ジャスパーが、嬉しそうに二人の周りを歩いて回った。

 それからラニは、肩と腰、股の下をくぐるタイプの装具を貸してもらった。ピルラは鞍をつけ、背中から胴に回る装具に両腕を通して着込む。オズバートが、ラニの装具とピルラの装具をベルトでつないだ。装具にはランプを吊す場所もあって、ラニは自分の青いランプをそこに下げた。

「ちょっと待っててくれよ」

 それからもオズバートは、てきぱき動いた。先に道の方へ回っているスマラカタに声をかけ、道に人がいないことを確かめさせる。ジャスパーに鞍を付け、自身も靴を履き替える。これが、あっという間だ。

「大丈夫だね」

 ラニを乗せたピルラは、ゆったり歩いた。竜が歩くと、ラニは浮くような心地を味わった。同時に、不思議な一体感があった。

 三頭は往還に出て、それぞれ翼をはためかせる。強い風が起きた。

「行こう!」

 オズバートを乗せたジャスパーが、少し浮き上がった。続いて、ピルラとスマラカタも浮き上がる。ラニは、浮遊感におどろいて鞍とピルラの首筋にしがみつく。

 ラニがピルラにしっかり捉まるのを見届けて、スマラカタが動き始めた。ゆったりと羽ばたき、前に出る。ピルラがそれに続き、最後にジャスパーとオズバートがついてきた。

 竜たちは少しの間、道に沿って低空を飛んだ。ラニが歓声を上げると、徐々に速度と高度を上げ、往還を離れる。

 竜たちはしばし、暗がりを飛んだ。ラニは、この時ほど暗闇を美しいと思ったことはない。闇の中に居ても、竜たちの姿がはっきり見えた。

 それが見つかるまで、あっという間だった。真っ暗な上空に、裂け目があった。そこから、光が帯を描いて差し込んでいる。

「外に出るよ!」

 後ろから、ジャスパーが叫んだ。

 ラニとピルラの前方で、スマラカタが光の帯に飛び込む。緑の竜の姿は、一瞬見えなくなった。ラニは目を見張る。だが、ラニを乗せたピルラに戸惑いはなかった。

「目がくらむよ!」

 竜が声を張る。言葉の通り、光の帯に飛び込んだ瞬間、ラニには何も見えなくなった。ただ、竜が上昇していることだけが確かだ。掴まった竜の身体の動き、そして向かい風、ラニの身体にかかる重力が、現実を確かに伝えてくる。力強い翼の羽ばたきが、空気を割って身体を上方に押し上げる。

 視野が戻ったとき、ラニは麦畑の上を滑空していた。右にスマラカタ、左にジャスパーとオズバートが飛んでいる。金色に、豊かに実った麦畑の上空には、肺を洗い流していく澄んだ風が吹いていた。

 空には薄く雲がかかっていながら、あちこちが破れて空の青さも見える。そこかしこから、光の帯が降りていた。

 そして前方だ。まぶしく白い建物が並ぶ港町があって、その向こうに紺碧の海が広がる。

「海の上まで行こう!」

 ジャスパーが楽し気に誘った。

「ラニ、大丈夫か? 目を回してないか?」

 オズバートが声を張って訊ねる。

 ラニは胸がいっぱいで、しかし引き返すにはあまりに惜しく、叫ぶように応じた。

「だいじょうぶ!」

 ピルラとスマラカタが笑った。青銅の鐘のような、美しくとよみ渡る声だった。

「では、行こう!」

 スマラカタが力強く羽ばたき、いち早く港町の上を滑空した。緑の鱗が輝き、黒い毛並みがたなびいた。きらめく姿を追って、ピルラが追い上げる。

「あれを抜いて見せよう!」

 ピルラは声を弾ませて羽ばたく。ラニは鞍越しに竜の身体の躍動を感じた。人とまったく違う骨格が滑らかに、力強く躍動する。白い羽毛と真珠のような鱗が光る。風音の中に、ビーズを混ぜたときのような音が混じっていた。鱗がこすれ合っているのだ。金色の翼が光をはじく。港町の上を通り過ぎるとき、滑空する竜を見上げて子どもたちが歓声を上げた。

 潮風は青い。生き物の香りがした。全身を撫で、通り過ぎる風を感じながら、ラニは空から降る光の帯の中を繰り返し通り抜けた。

 ジャスパーとオズバート、スマラカタが後になり先になりして、ラニとピルラの周りを舞った。

 白と金の体躯を持つ竜、緑と黒の体躯を持つ竜、それから、赤い竜が海の上を戯れるように飛んだ。

 ラニはいつまでもこうしていたいと願った。同時に、長く鞍にしがみついていることは難しいと、直感で悟った。ベルトを繋がずジャスパーに乗っているオズバートがどれだけ鍛えているか、考えるまでもない。

「そろそろ帰ろう!」

 オズバートが竜たちを促すタイミングは完璧だった。ラニにもう少しだけ余裕があり、しかし、旋回や急上昇が最初よりかなりきつくなってきた、その時だったのだ。

「では戻ろう!」

 ラニを背に乗せているピルラも、それは察するところであったらしい。オズバートの号令を聞いて、さっと翼を翻した。

 竜たちは再び港町の上空を滑空し、金色の麦畑を越えていった。その先で、ラニはやっと竜たちがどこから地上に飛び出したか見ることができた。それは、球状の月の島の側面だった。爪で割いたような破れ目があって、竜たちはそこから、身体を滑り込ませる。

 再び、地下に入った。辺りはぐっと暗くなり、光石が照らす薄闇の空間だ。装具につけた青い光石のランプが、うっすら辺りを照らす。

「どうだった?」

 往還に向けて下降しながら、ピルラがラニにだけ聞こえるよう問うた。

「すごかった。夢みたいだった」

 ラニも、ピルラだけに聞こえるよう応じた。ピルラは金色の目を細め、喉の奥でくつくつ笑った。

 竜たちが往還に降り立つ。ピルラの両足が地面につくと、ラニの身体からも抜けた。思っていたよりずっと、疲れていた。

 再び、オズバートがてきぱき竜たちの装具を付け替えていく。ジャスパーは鞍も装具も外してもらうと、すっきりした様子で身震いした。オズバートに首を叩いてもらい、機嫌良さそうだ。また、何も付けていなかったスマラカタも、オズバートにちょっかいをかけて、あしらわれていた。仲がいいのだ。

 それから、オズバートはラニとピルラをつなぐ装具に取り掛かった。ピルラはラニが落ちないよう腹ばいになって座り、おとなしくしている。ラニの腰とピルラの背中を繋ぐベルトが外された。オズバートは、何でもない様子でラニを抱えてピルラから下ろした。一瞬の事だった。ラニは驚いて硬直し、声も出なかった。オズバートは続いて、ラニが着ていた肩と胴、股下まである装具をさっと外して、壁に掛ける。この間に、ラニはピルラの腹に背を預けてへたりこんだ。

 どうも調子が狂う。胸が変な風に早鐘を打って仕方ない。ラニにはこれが、竜と一緒に空を飛んだ興奮によるものなのか、男性と触れ合う、父親以来の距離によるものなのかわからない。

 ピルラが身体を捩って、ラニの頭に鼻先をこすりつけて擽った。

「若い者たちに竜の話をする。あなたも聞いていくといい」

 優しい声だ。ラニは頷いて、ピルラを見上げる。ピルラは微笑んでいた。獣の顔に、慈悲深さを感じた。王と同じ目の色だ、と思った。

 ラニはそのまま、少しまどろんだ。寝藁は柔らかく、いい香りがした。腹を貸してくれるピルラが、そうしていろ、というように翼で包んでくれたのも大きい。すぐ傍にスマラカタも腹ばいになると、ラニの姿は竜と竜の間にすっぽり隠れた。

「ずいぶん気に入ったな」

「いい子だよ」

 オズバートとピルラが話すのを、ラニはずっと遠く聞いた。

「とてもいい子だ」

 金色の翼が、ラニを抱きこむ。温かかった。ラニは目を伏せているのに、急に目頭が熱くなるのを感じた。自分以外の温かさに、こうして包まれるのはいつ以来だろうか。急に、母親を思い出した。母が恋しかった。

 父と母はラニが十五歳のころ、都に行くと言って出かけた。かげの谷の老人が一人、病気だったのだ。次に行商人が来るまで保ちそうにない、というので、二人が出かけた。ラニはもう大きかったし、一人で留守番できた。ついていけば良かったのに、と今は思う。

 そうすれば、一人になる事はなかった。

 それでも、これから一人で生きていくのだ。心に決めてかげの谷から旅に出た。そして、かげの谷の起こりを知った。

 大ばばさまはかつて竜を孵し、竜に呪われてかげの谷に追放された。そこに、数人が追従した。地上が流刑地であるなら、自分の先祖はどうだったのだろう。大ばばさまに付いていくと決めたのは、何故だったのか。

 もっと知りたい、と思った。

「ラニ、起きれるかい?」

 ピルラのまろい鼻先が、ラニの頬をやさしくつついた。くすぐったくて笑いながら、ラニは目を開けた。

「ありがとう。ちょっと元気になったかも」

 少し休んで、楽になっていた。ラニがピルラの翼の影から顔を出すと、竜たちがいる、竜舎の骨組み状の部分のそばに、二人の青年が立っていた。

「ディアミドです」

 短い金髪で、巻き毛の男が名乗った。目が青くて、幼げに丸い。背丈は中背ながら、顔がやけに整っている。白い革の鎧を着ていた。

「コノルだ」

 青黒い髪の男が名乗った。目つきはきつめで、緑色。オズバートよりは背が低く、ディアミドよりは背が高い。こちらは、黒い革の鎧を着ている。

「全員揃ったね」

 ピルラが言って、全員を座らせた。オズバートはジャスパーの傍、巻き藁に座る。ディアミドはピルラの正面に胡坐をかき、コノルは竜舎の壁にもたれた。ラニは、ピルラの傍に座ったままだ。ピルラは話し始めた。

「ある嵐の晩、一匹の傷ついた竜が無人島だった月の島に不時着した。月色の竜だった」

 ラニは、ピルラの真っ白な羽毛と真珠色の鱗を見つめた。月色、と言われて思い浮かべるのは、王の髪だ。王の髪の色をした竜は、どんな容姿だろうか。ピルラからも、スマラカタからも想像できない。また、決してジャスパーのようでもないと思った。ディアミドが不思議そうにラニを見ていた。

「竜は傷が癒えず、長い間、島の地下に休んでいた。そんなある時、島の南側に漂流者たちがたどり着いた。彼らは船で長く海上を彷徨い、飢えと寒さで限界を迎えていた」

 ピルラは続けて語った。静かな口調だ。

「竜は漂流者たちを哀れみ、島の地下に招き入れた。風がなく温かい地下で食事を振舞われ、人々は竜に感謝した。すると、竜の傷は少し癒えた」

 そこで言葉を区切って、ピルラは言った。

「竜の名はアルファルド。この島の王だ」

「王さま? だって、人だったよ」

 ラニが首を傾げると、ピルラは笑った。

「あんなに背の高い人は他にいないだろう。本当の王は島の地下深く、サンゴ礁の底に休んでいる。あれは王が見る夢」

 コノルはじっと押し黙ってピルラを見つめる。彼の眼は真剣だ。

 ピルラはさらにも語った。

「王は人と竜が共に生きられるよう、時に竜を生み出すことにした。この島の竜は人の手で孵る。王がそう作った。この島の竜は、竜を思う人がいなければ生まれない」

 では、今、湖の底にできた小さな卵もそうだろうか。あの卵を誰も孵せないのは、ラニ自身も含めて、竜を思う気持ちが足りないからなのだろうか。ラニは、自分が竜に憧れていた気持ちは足りなかったのだろうか、と首を傾げた。

「私は、そろそろ限界だと思っているよ。人は自分たちがどうしてこの島に暮らしているか忘れた。そのうち、私たち竜は皆、どこかよそに行ってしまうべきなのかもしれない」

 ふと、それまでじっと黙っていたスマラカタが顔を上げてラニに鼻先を押し付けた。竜の銀色の目が、ラニをじっと見た。

「ラニ。地上で暮らす人は、地下から追放された者の末裔だ」

 スマラカタの声はあくまで優しい。

「でも、王はその子孫まで責めなかった。だから様々な植物を与えて、生きられるようにしてきた。それを考えてみて欲しい」

 ラニは頷いた。頷きながら、王を思った。

 王には、何を考えているか分からない人だ、という印象ばかりある。彼は、ピルラやスマラカタが語るように慈悲深いのだろうか。わからなかった。何せ、湖の底に続く道を閉ざしているのは王だ。しかし、かげの谷にバロメッツを与えてくれたのもまた、王だ。かげの谷は紡績を主要産業としている。バロメッツがなければ、成り立たない。

 若い騎兵二人も、この話をどう受け止めるべきか迷っているのだろう。口を引き結んで、思案顔だ。

「ここで働かない?」

 そんな中、明るい声が響く。ジャスパーだった。ジャスパーは後ろからピルラとスマラカタの間に割って入った。そうしてラニにじゃれかかかりながら、楽しそうに言った。

「男所帯でね。むさくるしいし、片付かないんだから」

 ジャスパーを押しとどめているのは立ち上がったスマラカタの前足であり、後ろから腕を伸ばしたオズバートだ。オズバートは呆れたように言った。

「お前らのせいでもあるんだぞ」

「さてね。皆落ち着いてきた年頃だ。次の竜からアルファルドに第二竜舎を作ってもらおう」

「王を名前で呼ぶんじゃない」

「まあまあ。部屋ならあるし、きっと皆歓迎してくれる。考えておいて」

 言いたいだけ言って、ジャスパーはくるりと身体の向きを変えた。圧し掛かられたオズバートが、重たそうに彼をあやして地面に下ろす。それで満足したのか、ジャスパーはころりと横になった。

「全く」

 オズバートは呆れたように呟き、ラニの近くまでやってきた。

「立てるか? 宿まで送るよ」

 ラニは頷き、立ち上がる。服に付いた藁を払い、ピルラとスマラカタにそっと頭を下げた。

 また、ラニは若い二人の騎兵にも会釈した。二人は急に居住まいをただし、折り目正しく礼をした。

 オズバートは先だってゆっくり歩く。ラニは、彼を自分の歩幅で追えばよかった。往還から都までは、さほど遠くないようだ。二人はゆっくり歩いた。

「悪いな、あいつ、口さがなくて」

 オズバートは肩を落として言った。あいつ、というのは、ジャスパーの事らしい。

「いえ」

 ラニは笑って首を振った。ラニは、ジャスパーの無邪気さが嫌いになれない。むしろ好ましいと思う。

 そんなラニの顔を見て、オズバートは眉を下げる。それからふと、まじめな顔を見せた。

「竜騎兵は念のため独り身なんだ。俺の先代がイオだから」

 そうだったのか、とラニはオズバートを見上げた。オズバートの目が、優しく和んだ。

「俺からも頼むよ。考えてくれ。ジャスパーは落ち着いてきた」

「それって?」

 以前の竜騎兵は妻帯していたし、後進たちの為にも、今の禁は解除したい、とオズバートは言い訳のように言った。それに、独り身だった先代の老衰を見守り、手助けし、看取ったのは彼だという。独り身でいるより、家族がいたほうが寂しくない、と照れくさそうに笑った。

「まあ、お試し、ってこと」

 一瞬でも、ラニは自分が、オズバートの隣に立つさまを想像した。想像した自分は、あの真っ白なドレスを着ている。ラニの顔に、さっと赤みが差した。

「からかってる!」

 ふい、と顔をそむけて、ラニは早足になった。手元のランプを強く握る。

 あそこに騎兵は三人もいたのに、自分は一瞬でオズバートを想像した。それが恥ずかしくて、ラニは唇を引き結ぶ。

 別のことを考えよう。そう心がけても、いま、意図して考えられるのは竜たちのことくらいだ。

 気さくな竜たちと触れ合って、ラニは、今まで竜に抱いていた神々しい印象ががらりと変わった。竜は人が好きだ、と分かった。竜たちは人を信じ、期待してすらいる。そうでなければ、あんな話をしてくれよう筈がない。

 いままで、竜の卵がどうなるか知りたい、気になると考えてきたのは、自分の手で孵したいという願いがあったからに他ならない。言葉にすることすら恥じていたが、突き詰めればそういうことだ。

 だが、それができたところで、あんな風に育てられるだろうか。イオが……大ばばさまが出来なかったことを、ラニに出来るだろうか。

 同時に思う。

 自分が、例えばオズバートたちの所で暮らして、幸せを感じたとして、どうだろう。

 そうして暮らしている間に、湖の底にできた竜の卵は宝石になってしまうだろう。湖の底には、ずっと紫色の宝石が残る。それはきっと、かつてラニが寂しかった証拠になる。その傷は、ずっと消えない。また、そこにいたはずの竜の寂しさも、ラニが生きている限り続く。

 一緒に居られるなら、元の暮らしに戻ったっていい。

 一瞬、ラニはそう思った。そしてその瞬間、確かに聞いた。

 寂しい、とすすり泣く、霧が流れていくような声だった。

 ラニはとっさに足を止め、耳に手をあてて辺りを見回した。

 追いついてきたオズバートが、気づかわしそうにラニを見た。




巻き貝の貝殻に耳をあてると、潮騒の音が聞こえる。

 ラニの耳に響くのは、ちょうどそんな声だ。

 寂しい、寒い。

 霧の流れるような声は、絶えずラニの耳元で囁いた。ラニは混乱して、その場でオズバートにうちあけた。

 オズバートは、さっきよりずっと真剣な顔つきになった。

「いったん、宿に送る。そこで待っててくれ」

 ラニはどうしていいかわからず、素直に頷く。

 大通りで、オズバートはラニの先に立って歩いた。彼が人混みを割って歩いてくれれば、ラニはこれまでよりずっと歩きやすい。考え事をする余裕さえあった。

 オズバートはラニを宿の戸口まで送って、「待ってろ」と重ねて言った。ラニが宿に入ったのを見届けると、オズバートはどこかに走っていく。

 ラニは一人で部屋のベットに腰かけ、じっと待った。

 待っている間に、色々な事を考えた。ニュートのこと、イオのこと、王のこと、オズバートや竜たちのことが、頭の中で入り乱れた。

 そうしながら、頭に響く「寂しい」という声を聞いていた。

 やがてラニは、これはかげの谷で暮らしていた自分が声にできなかった思いと同じだ、と思った。

 かげの谷の皆が幸せそうにしている時、一人でだまって、片隅にいる。目立たないよう気配を消している自分と、あの竜の卵は似ていないか。あの時、誰にも聞かれなかった声は、こんな風ではなかったか。

 せめて寄り添えないか考えた。差し出がましいかも知れない、と恥じもした。だが、ラニの頭の中で響く声は止まない。むしろ、だんだんとはっきりしてきた。幼げな声に感じた。

 そんな中、宿のドアがノックされる。

「はい」

 ラニは立ち上がって戸口に向かう。

 ドアを開けると、戸口にはオズバートが立っていた。彼は肩で息をしながら、余裕のある表情で笑う。

「このまま」

 オズバートは部屋に踏み込まず言った。

「明日、午前の鐘が鳴る時、城に向かってくれ。王が待ってる」

 短い時間で、何か約束を取り付けてきたのだ。ラニはオズバートを見上げ、硬い顔で頷く。

「わかった」

 どうなるか、何をすべきか、一つもわからない。それでも、後に引けない。引き下がる場所もない。

 この人が一緒に来てくれたらいいのに、と一瞬思った。同時に、分かってもいた。竜を孵すときは、一人で行かなければならない。ラニははっきり顔を上げた。

「大丈夫。上手くいくよ」

 オズバートがそういうと、本当に何とかなりそうだ。根拠など一つもないのに、不思議だった。ラニは、硬い笑みで応じた。




 翌朝、ラニはかげの谷から着てきた服に身を包んだ。この服の方が自分らしい、と思ったからだ。青色のランプを握りしめ、外に出た。

 まだ、朝の鐘が鳴っていない。

 ほの白く照らされた大通りで、バザールの人々が開店の準備に追われている。人通りもまばらだ。ラニは足早に歩いた。通りを抜け、広場を通って、わき目もふらずに城壁の小さな門の前に立つ。しかし、扉はまだ閉ざされていた。焦り過ぎたのだ。

 だが、耳の奥にはまだ声が響いている。寂しい、寒い、とすすり泣く幼げな声だ。ラニはこれを、無視できない。落ち着かず、いったん小さな門の前を離れた。

 広場をぐるりと回って時間を潰す。広場には屋台がない。歩く場所は沢山ある。高い門を見上げたり、活気を潜めている通りを眺めたりした。そうしている時、不意に、霧が立ち込め始めた。おや、とラニは思った。

 こんな時間に霧が出るのはおかしい。そもそも、ここは地下である。視界が悪くなるほど霧が出たりするものだろうか。まるで、川や湖の畔でみる朝霧のようだ。

 霧は濛々とたちこめる。火事か、とすら思った。だが、火の手やきなくさい臭いの気配は、一切ない。ラニは狼狽え、とにかく人にぶつからないよう、城壁の傍に寄った。そこはちょうど、大きな門の前だ。ラニの背丈の五~六倍はある、立派な浮彫がされた石の門である。門に彫られているものは、よく見れば巨大な竜とつる草と果樹園、月と太陽だった。ラニはこの扉の片側に凭れた。すると不思議なことが起こった。

 ラニが凭れている扉の、反対側がゆっくり開いた。ちょうど、内側から押し開かれる形だ。人ひとり通れる隙間を空けて、扉は止まった。

 ラニは扉と扉の隙間を覗き込んだ。

 霧の向こう、城側に、王が立っていた。

「こちらへ」

 彼は確かに、ラニを呼んだ。

 ラニはこくりと唾を飲み込んだ。ためらいがあった。迷いはなかった。ゆっくり、城壁の内側へ足を踏み出す。できるだけ、滑るように。

 ラニが城壁の内側に入ると、ラニの背後で城壁の扉がゆっくり閉じた。

 まだ濃い霧は満ちている。ラニは滑るように歩く王を追い、輪を描く道を踏み越えた。無数の塔を束ねた壮麗な城と道の間に、暗緑色の鉄柵がある。柵はつる草の模様を抱いて輪をつくり、城を囲んでいた。この柵もまた、滑るように左右に割れ、開いた。

「こちらへ」

 再び、王はラニを呼んだ。

 ラニは咲き乱れる小さな花をそっと踏み、彼に続いた。

 ラニと王が柵を越えると、柵は再び城を囲んで口を閉ざした。

 城の鐘楼で、朝を告げる鐘が鳴った。

 辺りに満ちていた霧が晴れ始める。

「ラニ、朝食がまだだろう」

 こう言いながら、王は城の大きな扉の前に立った。

「食べながら話そう」

 ラニは王を見上げ、何も言えない。何を話そうというのか見当も付かなかったし、また、朝食の味が解かるとは思えなかった。しかし、誰が断れるだろう。

 王に呼ばれるまま、ラニは進んだ。白亜の城の大きな扉は、ひとりでに開いた。二人は門を抜け、壮麗な広間を通って、城の中へ進んだ。全ての扉がひとりでに開いた。細い通路を幾つか過ぎた先が食堂だった。

 黒く磨き上げられた床は、ラニと王の姿を写すほど艶やかだ。また、壁は白く、天井から床近くまで、淡い色の絵画が描かれている。部屋の中央に置かれた長方形の大きなテーブルは、大理石のようだ。灰色で、滑らかかつ無機質な存在感を放っていた。中央に飾られた緑の花が目を引く。テーブルの短辺に添えられたソファー風の椅子もグレーだ。ラニと王は、このテーブルの短辺にそれぞれ腰かけた。

 王とラニは離れて座った。ラニがすこしほっとしたのは、隠しようがない。

 二人の間に沈黙が落ちる。

 それからほどなく、ラニは視界の隅で黒いものが動くのを見た。始めは、真っ黒な床が波打ったようにも見えたのだ。しかしそれは、間違いだった。

 動いているのは、真っ黒なクッションだった。四隅に金色の房飾りがついたクッションたちが、真っ白い皿を頭に乗せて運んできた。皿には、分厚いパンケーキが二枚乗っている。バター付きだ。それから、蜜の入った壺。銀色のフォークとナイフ。クリームが乗った温かいココア。これらが、王とラニの前に丁寧に並べられた。

 王さまって甘党かも、とラニは思った。

「この蜜は、竜たちが取ってきた。竜蜜と呼んでいる」

 蜜の入った壺は透明で、小さい。内側に充たされた液体は透き通って、淡く黄金がかっている。

「食べなさい」

 王はラニに促した。そうして、自分もパンケーキに蜜をかけて食べ始めた。フォークとナイフを構える様子が、絵画のようだ。

 ラニはおそるおそる竜蜜を取り上げ、パンケーキにかけた。淡く黄金ががった透明な液体は、パンケーキの上をとろりと流れた。蜜は溶けだしたバターと混じって、マーブル模様を描く。

 ラニはゆっくりパンケーキを食べた。これまで食べたどんな物より甘く、蠱惑的な味がした。ときどきココアを飲むと、これも甘いのだが幾分かほろ苦さもあって、パンケーキとバランスが取れている。

 二人の食事は無言だった。そう大きなパンケーキではなかったから、ほどなく二人は食べ終えた。再び、黒いクッションたちが現れて皿を片づけ、二人の前に水の入ったグラスを置いていった。ラニがこれを少し飲むと、レモンとミントの香りがする水だった。口の中がさっぱりして、ラニは、いよいよ王と話さなければならない、と決心がついた。

 ラニが顔を上げると、王もラニを見た。

「悲しい生き物を生むくらいなら、ゆりかごの中で眠るように死なせてやるべきだ」

 王が言った。少し距離のあるラニに聞こえる、ぎりぎりの声だった。

 湖の底にできた卵は小さい。昨日会った竜たちのように、人を乗せて飛ぶことは出来ないかもしれない。けれどラニは顔を上げ、首を左右に振った。

「でも私、聞こえます。寂しい、寒い、って」

 声は、今や無視できるものではなかった。ずっと遠くから、微かに聞こえてくる。幼い声に背中を押されて、ラニは王の目をじっと見た。

「たぶん私は罪を重ねるのだと思います」

 イオが……大ばばさまがそうであったように、ラニもまた、竜に対して何らかの過ちを犯すかもしれない。取り返しが付かない可能性は大きい。それでも、声に応えたい。だから、ラニは王に訴えることを止めなかった。

「でも、一緒に居ようと思いました。私の責任です。私が彼を孵し、ひと時共にいて、彼を幸せにしようとする」

 これは独りよがりだろうか。王の表情は怜悧で、感情が読めない。それでも、ラニは言葉にしようと努めた。思い悩む全てをうちあけられる時は、この瞬間しかない。

「それで竜が幸せかは分かりません。でも、一人は寂しい」

 そうだ、ラニはずっと寂しかった。かげの谷で、ひとりぼっちだった。どんなに生活が充実していても、充たされない気持ちがあった。だから、湖の底に竜の卵ができるという非日常に惹かれて旅を決意した。ここまでは、ラニ一人の問題だった。

「私が不幸になる分はいいんです」

 竜を孵したいと願った。言葉にはできなかった。口にすることを恥じた。自分の慰めのために、竜を求めた。

 けれども、ニュートに出会った。オズバートと竜たちにも出会った。そしてやっと、竜の声を聞いた。

 毎朝、仰ぎ見た竜たちと暮らすより、元の生活を選んでもいいと思った瞬間だった。

「竜を不幸にするとき、私は罪を負って、彼を手放す。たぶん、月の島から追放されるくらいの罪です。それでいい」

 ラニは始め、自分のために竜を求めた。それは決して、竜のためではなかった。けれども、今は違う。

「あの寂しい声を無視できません」

 竜は喋り、楽しみ、考える生き物だ。ならば、いま、湖の底にたった一人でいるあの紫色の卵は、どれだけ寂しいだろう。ラニは、あの竜の孤独に寄り添いたいと願った。それがどんなに差し出がましくても、いま、この声を聞いているのは自分だからだ。

「私はずっと寂しかった。寂しいまま冷たくなるのは可哀想。それだけじゃ駄目ですか」

 だから、王の凪いだ視線にも負けなかった。この人も竜なのだ、と今は知っている。この冷たく厳しい視線が、人が竜に与えた失望の証左なのだろうか。そうだとしたら、人は何をしたのか。ラニは、それをこそ知りたいと願った。けれど今は、訴えねばならなかった。

「私が責任を負います。ほんの一瞬のためでもいい。でも出来る限り一緒にいます。竜が望んでくれるなら」

 ラニが必死で言葉を紡いだからだろうか。王の瞳が、少しだけ揺れた。彼はゆっくり、口を開いた。

「ドレスを私に売って欲しい」

「どうして?」

「きみをかげの谷に帰したい。金貨三枚でどうだ」

 背格好が違う者の多いこの都で、誰が着るというのだろう。ラニは笑った。

「三枚も貰えません」

「五枚だって出す」

 ラニは首を左右に振った。

「私に竜を孵させてください」

 きっぱり言い切って、王の目を真っ直ぐに見た。

「私が責任を持って、あの子を迎えに行きます。あの子が私を憎むときも、私の話を聞かない時も、私はあの子の味方でいたい」

 今は、少し笑う事すらできた。ラニは目を和ませ、王より遠くを見る。

「海を見せてあげたいんです。小麦畑も海も。それから、牧場と農場を通って、一緒に谷に帰ります」

 ラニの言葉に、この時、嘘や偽りはなかった。王はしばらく黙った。それから、まだ迷いのある様子で告げた。

「ドレスの対価に、通門証をあげよう」

「それなら」

 今度こそ、ラニははっきり笑った。

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