第五話 君の名前
――――自分には、名前がない。
何処で生まれ、何処から来たのかも覚えていない。
いつも寒くて、お腹も空いて独りぼっちだった。
誰もが自分を見れば、化け物と叫び、悲鳴をあげて、遠ざける。
汚らわしいと、お前など、生まれてはいけなかったと、いつも言われてきた。
――――…おねがい…します…
――――いいこで、いるから………
――――もう、たたかないで……けらないで……
――――…いたいのも…こわいのも…もういや……
――――…さむい……
――――…こわい……
――――…さびしい……
――――…どうして…わたしは…
「―――――………」
闇に閉ざされていた視界が、一瞬白く染まり、その後、徐々に色と輪郭を取り戻していき、無機質で白い天井が目の前に現れる。
近くから、ピッ、ピッ…という規則正しい電子音が聞こえてきた。
目尻を伝い、髪の中に染み込んで落ちたのは、涙だろうか。
とても悲しい夢を見ていた気がする。
でも、内容が思い出せない。
薬品の匂いが鼻腔の奥を刺激し、鼻と口が呼吸器に覆われ、呼吸をする度にシューという音がする。
そこで薫は、自分が病室のベッドの上に寝かされている事に気がついた。
(――――…ここ…病院?…私、どうして…)
霞が晴れるように、意識がハッキリしていくにつれ、徐々に思い出してきた。
――――少女との出会い、怪物の襲撃、不思議な声、薙刀……死に物狂いで、刃を振るって怪物を倒した事。
全てを思い出した直後、ガラッ、と病室の扉が開く音が聞こえ、パタパタと足音が近づいてきて、右端から一人の女性看護師が、薫の顔を覗きこんできた。
「っ、気が付かれたんですね!ここが、何処か解りますか?どこか痛い所はありませんか?」
薫が頷くと、看護師はすぐに先生をお呼びしますと告げて、足早に病室を出ていった。
間もなくして、複数の看護師を連れた医師が病室に駆けつけ、薫の体調を気遣いながら、身体を検査し始めた。
その中で、あの後に何が起きたのか、医師達から聞いた。
――――三日前、ガラスが砕ける破壊音を聞いた、近所の住人が警察へ通報し、現場となった薫の住宅へと駆けつけた。
自宅の庭に踏み込んだ警察官は、粉々に破壊された大窓の奥、リビングの床で、意識を失って倒れている薫を発見した。
そのまま、薫は救急車で近くの病院に運ばれ、治療を受けた。
肩の傷は出血の割に軽度のものだったが、四十度近い高熱を発して、一時生命の危機すらあったという。
幸い、熱はその日の夜には下がって容態も安定し、つい先ほど意識を取り戻したのだと。
自分の治療を担当してくれた、年配の男性医師の話しを聞き、薫は目を見開いた。
眠っている間に、三日間過ぎていた事もだが、それ以上に衝撃だったのは……。
「っ、そんな筈は…!あの時、見たことない化け物が襲ってきて…!肩を引っ掻かれて怪我して……っえ」
言いながら、薫は病衣服をめくって自身の右肩を確認するが、そこには大きめの絆創膏が貼られているだけだった。
「なんで…」
あの時、化け物の爪で引き裂かれた激痛と、大量に溢れる血のぬるついた生温かい感触は、今でも寒気がする程、鮮明に憶えている。
肉を深く抉られ、骨にまで達するほどの大怪我だった。
本来なら、こんなかすり傷程度の、簡易的な処置で済む筈はない。
「嘘だろ…そんな筈…」
「落ち着いて下さい。きっと、目が覚めたばかりで、混乱しているんですよ。今はゆっくり休んでいて下さい」
困惑していると、看護師の一人が、薫をベッドに寝かせ、上からそっと毛布をかける。
薫は、ある事を思い出し、近くの看護師に話しかけた。
「あの、私が首から下げてた…指輪を知りませんか?」
「ああ、それでしたら、あそこの棚の上に置いてありますから、大丈夫ですよ」
薫が看護師の指した方へ視線を向けると、指輪とその隣にある、ある物を見つけ、目を見開いた。
「…?どうかしましたか」
「いえ…」
薫は看護師から経過観察を兼ねて、今日一日入院する事になった。
何かあれば、ナースコールを押して下さいと言い残し、医師達は病室を後にしようと扉へ向かい、薫は慌てて、待って下さいと呼び止めた。
「すみません、変な事を聞くかもしれませんが…私の他に、室内に誰かいませんでしたか?」
「…?いえ、部屋にはあなた一人だったと聞いていますが…」
「そう、ですか…」
すみません、ありがとうございますとお礼を言うと、医師達は病室から去り、室内は静まり返る。
「……」
一人になった薫は、ベッドから起き上がると、棚の上に置かれた、指輪をまず首にかけ、その次に、ある物を手に取って見つめる。
それは、自身に契約を迫った謎の声に応えた直後、出現したあの腕輪だった。
治療の妨げになるからと、右手首に装着していたそれを、医師達が外し、その後、TVが設置された台の隅に置いておいたらしい。
三日前、自分の身に起きた出来事を、まだ信じられない自分がいる。
しかし、これがこの場に存在しているということは、あの怪物も謎の現象も、全て現実に起きた出来事なのだと、認めざるを得ない。
「…何なんだ、これ…」
答えが返ってくる訳では無いと、解っているが、そう呟かずにはいられない。
事情を知らない医師達は、珍しい玩具だねと言っていた。
確かに、そう見えなくもないが、これがただの玩具などではなく、何か重要な役割を持つアイテムである事は、直感で解っていた。
――――それが何かなのかは、解らないが。
全体は雪のような柔らかな白。
質感や感触は、プラスチック―――もしくは象牙に近い。
本体の中央に、タッチパネルに似た、小さな液晶画面が嵌め込まれ、その周りを雪の結晶を想わせる、大小の歯車模した白金の装飾が縁取り、画面の下には、バイカラートルマリンを想わせる、桃色と空色のグラデーションのある、小さな宝石が嵌め込まれている。
何かの機械のようにも、洒落たアクセサリーのようにも見える、不思議な腕輪だった。
薫は表情を曇らせる。
リングと宝石の色が、あの少女の髪と瞳を連想したからだ。
―――――数多の生き物の特徴を持つ、人ではない不思議な少女。
しかし、自分も傷ついているのに、薫の怪我を心配する、優しい心を持っていた。
医者の話しを察するに、あの後、彼女の姿を見た者はいないようだ。
他の人間に見つかる前に、自ら姿を隠したのかもしれない。
今は自分の現状より、少女の行方と安否が、一番気がかりだった。
―――今、あの子は何処にいるのだろう。
―――お腹を空かせていないか。
―――独りぼっちで、恐い想いをしていないか。
―――どうか、無事でいてほしい……。
脳裏に、人気のない路地裏で、独り蹲っている少女を想像し、何も出来ないもどかしさと、安否が分からない不安に息苦しくなり、端末を握りしめた、その時だった。
『―――おねえちゃん……』
「っ、誰だ?」
突如、室内に響き渡る、繊細で透き通ったあどけない女の子の声。
薫はベッドの上で上半身を起こし、辺りを見回す。
しかし、何処を見ても、室内に薫以外人は居らず、気配すらしない。
ハッキリと聞こえた為、空耳とは考えにくい。
まさか場所が病院という事もあり、心霊現象かと薫の背筋が寒くなった、その時だった。
「…?わっ!?」
腕輪の宝石に、光が灯ったかと思えば、石からピンポン玉程の大きさの、光の球体が飛び出して、毛布越しに薫の膝へ、ふわりと羽毛のように着地した。
球体は形を変え、シャボン玉のように音もなく弾け、中から、身体を縮こませ、仔犬のように座る、体長十センチ程の人型生物が現れた。
毛先が緩やかに波打つ、毛布につく程長い純白の髪。
前髪の隙間から、真紅と空色の瞳が、上目遣いに薫を見上げている。
背中には柔らかな白い羽毛で覆われた鳥の翼。
腰のつけ根からは、短くプニッと柔らかな質感の、白い尾が生えている。
―――容姿は、あの少女に瓜二つ…否、そうではない…。
「……君、なのか…?」
衝撃が抜けきらない口調で、薫が訊ねると、それ…否、その子は小さく頷いた。
薫の落とす視線の先には、手の平に収まる程、小さく縮んだ少女がそこに居た。
「……っ」
薫は、目も開かない生まれたての子犬を抱くような、慎重かつ繊細に、両手で少女を包み込み、持ち上げた。
手の平越しに、少女が身を強張らせた感触と、温かな体温が伝わってくる。
身体だけではなく、少女の首のチョーカーも、身に纏っている薫のTシャツも、合わせて小さく縮んでいた。
「っ、そうだっ、君怪我はっ!?」
少女が怪物の爪で、翼を切られた事を思い出し、薫は慌てて右翼の根元を確認する。
そこには、血の跡一つなく、羽毛も綺麗に生え揃っていた。
まるで、怪我など最初から無かったように。
が、それは、自分が見える範囲での話だ。
「どっか、痛くはないか?無理しないで、言ってくれ」
『…だい、じょぶ…もう、いたくない……』
薫の手の平の中で、少女がうつむきがちに、恐る恐る薫を見上げる。
直後、再び透き通った、繊細であどけない女の子の声が薫に届いた。
(さっきの声…この子の…)
しかし、薫の見ている前で、少女の小さな唇は、少しも動いていない。
声も、耳ではなく頭の中に直接響き渡るような、今まで感じた事のない、不思議な感覚だった。
薫はチラリと、右脇に置かれた、腕輪に視線を落とす。
この腕輪の力か、少女自身の能力かは解らない、
が、今はそんな事よりも、初めて少女と会話が成立した事に、それ以上に、思わぬ形ではあるが、少女と再会を果たせた事が、無事だった事が嬉しくて、薫は湧き上がる喜びを噛みしめる。
「良かった…本当に…」
しかし、頬をほころばせる薫とは裏腹に、少女の幼い顔立ちは、暗く沈んでいた。
「…ん?どうしたんだ?」
何処か具合が悪いのかと、心配になった薫が訊ねようとした、その時だった。
『ごめんなさい…』
少女が発した唐突の謝罪に、薫は意味が解らず、眉をひそめる。
「どうして謝るんだ?」
薫は眉を下げ、優しい口調で訊ねる。
少女の顔はうつむいていて見えないが、獣の耳は、ペタンと力なく折れて、頭頂部に張り付いている。
「…っ…っ…」
小さく短い、息が漏れる音が微かに聞こえ、少女の小さな肩が震え出す。
『っ、わたしの…せい、だから…』
薫の脳裏に、涙としゃっくり混じりの、弱々しい声が響く。
『っ、わたしが…おねえ、ちゃん…ついて、かなかった、ら…けが…しなかった…のに…っ』
少女の言葉に、薫は目を見開く。
あの時、怪物は間違いなく少女に狙いを定めていた。
そして、薫は怪物の攻撃から、少女を庇った。
だから少女は、薫が傷ついたのは、自分の責任だと考えているのだ。
「あれは、君のせいじゃ…」
『それだけじゃ…ないの…』
少女に責任はない――そう言おうとした薫の言葉を、脳裏に響いたゆきの声が遮る。
少女が自分を責めているのは、怪我のせいだけではない…それ以上に重い何かを感じとり、薫の胸に鉛の塊のような、一抹の不安が生じる。
『…おねえ…ちゃんと…わたしと…けい…やく…しちゃった…』
「…契約?」
『――――繰り返します。契約を締結しますか?』
不意に、脳裏を過ぎったのは、あの時、謎の声が迫った『契約』という単語だった。
――――『契約』って、一体なんなんだ……。
考え込む薫の前で、時々つっかえながらも、話しだした。
まるで、親に叩かれる事を、覚悟した子供のように。
『…あの時…わたしの血が…おねえちゃん…に…はい、っちゃって……それで……おねえっ、ちゃん…は…わたし…と……つなが…ちゃ…って……』
(…そういう事だったのか……)
辿々しい言葉を、頭の中で繋ぎ合わせ、ようやく答えが導き出された。
――――あの時、薫が怪物に爪で攻撃された事で、爪に付着していた少女の血が、傷口を通して体内に入り込み、条件が揃った事で、自分と少女は何らかの力で繋がった。
その結果自分は、召喚したあの薙刀と、常人離れした身体能力を得た。
その証が、この右手首の腕輪なのだと解り、無意識に指先で、腕輪に触れる。
「…大体解ったよ。でも、あの時契約?しなきゃ、君も私も助からなかった。だから…」
薫の言葉に、しかし、少女は弱々しく首を振る。
『わかんない…けど…わかるの…薫おねえちゃんは……もう、ふつうじゃ…いられない…って…』
「……え」
薫は頭を鈍器で殴られたような、衝撃が走る。
普通ではいられない…少女の言葉が、頭の中で反芻され、無意識に右の肩を押さえる。
『ごめん、なさい…っ!ごめんなさい…っ!おねえちゃん…っ!』
うつむいた少女は、両目をこすりながらしゃくり上げ、小さな瞳から、ポロポロと涙を零しながら、つたない謝罪を繰り返す。
言い訳も誤魔化しもない、痛々しい程純粋で、真っ直ぐな、深い罪悪感と自罰の意が伝わってきた。
少女を家に連れて帰ったのも、咄嗟に庇ったのも、契約に同意したのも、全て薫の意志。
つまり、全ては薫が招いた結果。
少女のせいではないし、責めるなどお門違いも良いところだ。
―――――頭では、解っていた。
それでも、すぐには「君は悪くない」「あれは仕方なかった」とは、言えなかった。
暫し、病室に息苦しくなるような、重い沈黙が落ちる。
一分にも満たない時間が、一秒一秒が、長く引き伸ばされたように、とても長く過ぎたように感じた。
手の平の上で、泣きじゃくる少女をじっと見つめた後、ようやく薫が口を開いた。
「…ありがとう」
『……え?』
思ってもみなかった言葉をかけられたからか、少女が、顔を上げる。
左右で異なる色彩の瞳は潤み、柔らかな頬は涙に濡れている。
その瞳に映る薫は、穏やかな笑みを浮かべていた。
「本当の事…自分が責められるかもしれないって、思ってたのに、勇気を出して、話してくれて。何も解らないままだったら、きっと私は、もっと苦しかった。君が話してくれたから、解らない事が解って、ちょっと落ち着けた。そして、自分も怪我をしてるのに、君は真っ先に、私の怪我を心配してくれた。」
一拍置いて、薫は少女を見つめる。
「だから…君がとっても優しくて、良い子なんだって、私は思う。そんな子、責められないよ」
『……っ』
少女は、困惑したように薫を見つめた。
薫が目覚めない間、ずっと自分を責めていた。
薫自身からも、責められると思っていた。
それしか、考えられなかったから。
故に、そんな少女にとって、「優しい子」という言葉は、あまりにも意外で、遠いものだった。
『……でも……』
少女は、また俯く。
『わたしが……いたから……おねえちゃん、けが……』
「そう…かもだね」
薫は、少女の言葉を遮らず、否定しなかった。
「あの怪物が君を狙っていたのは、たぶん間違いないし、私は君を庇って、怪我をしたのも、その結果…普通じゃなくなったのも、事実」
少女の耳が、また力なく垂れる。
「だから、君がそう思ってしまうのも……無理はないと思う」
少女の瞳が潤み出す前に、薫はほんの少しだけ笑った。
「だからって、私は君のせいとは思わない」
弾かれたように、少女は顔を上げる。
『……どう、して……?』
「だって――」
薫は自分の左肩へ視線を落とす。
病気服の下には、大きな絆創膏が貼られている。
ほぼ完治していると言っても、肩を引き裂かれた、痛みと、失った大量の血は戻らない。
それでも。
「私が、あの日君を家に連れて帰ったのも、庇ったのも私だし、あの時、契約するって言ったのも、私」
薫は少女を見る。
「全部が、自分で決めた結果なんだ。だから、君のせいなんて、考えなくていい」
少女の瞳が揺れる。
『……でも……』
「それに」
薫は、少女の言葉を柔らかく遮り、あえておどけた口調で、笑って見せた。
「あの時、決めなければ…きっと、私達二人とも死んでたと思う」
『……』
「選択肢なんて、最初から無かったんだよ。あの場で生き残るには、ああするしか…君と契約するしか無かった」
少女は何も言わず、じっと手の平からの上から、薫を見上げていた。
薫は、そんな少女を見つめ返し、苦笑を漏らす。
「…それに、私は、元々生まれが普通じゃない。今更、“普通じゃなくなる”なんて言われたって、別になんの事はないんだ」
薫は、姉が妹に向けるような、穏やかで、慈愛の籠もった眼差しを向ける。
「だから、そんなに謝らなくて良いし、責任も感じる必要はない。怪我だって、そこまで大した事……」
薫は、そこまで言って、ぎょっと目を大きく見開いた。
「…っ、…っ…っ」
掠れた吐息と共に、少女の両目から再び…いや、先程以上に大粒の涙が、次々と溢れて、頬を伝って滝のような勢いで流れ出した。
「っえ、えええっ!?ちょっ、ま…私、本当に怒ってないから…っ!」
再び泣き出してしまった少女と、小さくなった身体の水分が、全て無くなってしまうのではないかと、危惧するほどの涙の量に、薫は慰めたつもりが、逆に傷つけてしまったかと焦り、あたふたしながら、必死に宥めにかかる。
「ご、ごめんっ!な、泣かないでっ!謝るから…っ!」
『っ、ち、が…』
首を振り、伝えようにも、言葉が、思考が上手く纏まらない。
少女は、小指より細い両腕で、薫の左手の指に抱きつき、手の平に頬を寄せる。
今、少女の胸を満たしているのは、先程とは全く違う、陽だまりのように温かな感情だった。
知らない場所で、独り目覚めてからずっと、不安と恐怖、悲しみの感情しか知らなかった少女は、それをなんと呼べば良いのか解らない。
ただ、その温かさが、幼い心を重く、きつく縛りつけていた冷たい鎖を溶かし、解き放ってくれた。
その安堵感が、たくさんの涙となって溢れ、自分でも止める事が出来なかった。
もし、自分が声を出せていたら、大声を上げて泣きじゃくっていたと、少女は確信していた。
「……」
薫は、声もなく泣きじゃくる少女を、じっと見つめた。
(…恐かったよな)
当然だ。
あの腕輪の中で、少女はずっと眠り続ける自分を見ていたのだ。
初めて、手を差し伸べてくれた人が、自分のせいで、目の前で傷つき倒れて、意識が戻らなくなった。
もし、このまま目覚めなかったら…目覚めたとしても、お前のせいでと罵倒され、捨てられたらと、ずっと不安で、恐くて堪らなかっただろう。
幼子には重すぎる恐怖と罪悪感を、少女は何処にも吐き出せず、今までずっと独りで抱え込んできたのだ。
自分が何も知らず眠っている間、少女がどんな気持ちで過ごしていたかを想像し、薫は胸を締め付けられた。
薫は、そっと少女の乗る右手を自身の胸に寄せ、左手の指を動かして、その小さな頭を撫でた。
雪のように白い髪は、子猫の産毛のようにふわふわと柔らかく、指の腹を滑っていく。
その心地よさも、薫の心を晴らす事はなかった。
「…ごめんな…独りにして…不安にさせて…」
たった一言。それだけで、償いになるとは思っていない。
薫は少女を胸に抱き、指の腹で小さな頭を撫でながら、急かさず、言葉もなく、ゆっくりと、少女が落ち着くまで、静かに寄り添い続けた。
「……、……、……」
時間が経つにつれ、少女の涙は落ち着いていき、乱れていた呼吸も静まってきた。
「…落ち着いた?」
少女の様子を伺いながら、静かに訊ねると、少女は俯きがちに小さく頷いた。
「…そうか」
一拍置いて、薫も口を開く。
「私の方こそ、君に謝らなきゃ。ごめんな…心配かけて、辛い思いをさせて」
薫が謝ると、少女はフルフルと小さく頭を振った。
それ以降、二人の間に会話はなく、薫は少女を手に乗せたまま、ベッドの上から窓の外を眺める。
次に、なんと声をかけるべきか、考えあぐねていると、再び少女の声が頭に響く。
『おねえちゃん、は…』
「ん?」
薫が手の平の上に視線を戻すと、少女がこちらの顔色を伺うように、上目遣いで見上げていた。
その目の下は、泣きすぎて赤く腫れている。
『かおる…って、お名前…?』
「あ、うん、そうだよ。私は薫」
恐る恐る訊ねる少女に、薫は頷く。
あの時、一回しか名乗らなかったが、ちゃんと憶えてくれていたらしい。
『…名前…あるの、いいな…』
「…え?」
少女の言葉に、薫は思わず聞き返した。
『…わたし…目がさめたとき…ひとりで…名前も……お家も……なにも、思いだせないの……』
ポツポツと、少女が自身の身の上を語り出す。
拙い言葉を繋ぎ合わせれば、薫の脳裏にある単語が思い浮かぶ。
―――――記憶喪失。
医学の知識などないが、拙い言葉から推測される、少女の現状を表すなら、最も的確な言葉だろう。
不意に、薫の脳裏に、強い精神的なショックなどで、記憶を失う事があると、何かで聞いた記憶を思い出した。
出会った時の、少女の悲惨な姿を思い出し、薫の表情が、僅かに曇る。
何があったかは、解らない。
ただ一つ言えるのは、少女には名前が無いという事だけだった。
「…なぁ」
薫はある決意をし、少女に穏やかに話しかける。
「君が嫌じゃなければ…名前、私が考えても良いかな?」
『…え?』
薫の提案は、思ってもみなかったのだろう。少女は目を見開く。
「駄目…?」
『っ、そんなこと、ない…っ!』
薫が問いかけに、少女は勢いよく左右に首を振る。
「ありがとう…一つ、思いついたんだ」
薫は少女の、純白の髪を見つめながら、その言葉…否、名前を口にする。
「―――…“ゆき”、っていうのは、どうかな…?」
『…ゆき?』
「うん。雪みたいに真っ白で、綺麗な髪をしてるから…ゆき」
我ながら、安直すぎるかもしれないと思ったが、呼びやすく、儚げでどこか神秘的な雰囲気を纏う彼女に、ぴったりだと思ったのだ。
少女は無言で俯き、しばし考えこんでいる様子だった。
やはり、気に入らなかったか…という不安と、諦めがない混ぜになった気持ちで見守っていると、少女がゆっくり顔を上げ、薫を見上げた。
『…うれしい』
少女の表情が、ぎこちなくも、柔らかく綻んでいた。
『…わたし、その名前、すき…っ!』
少女の顔に、初めて笑顔が浮かんだ。
出会った日、咄嗟に摘んだ花をあげた時より、明るく、喜びに満ちた無邪気な笑み。
『ゆき…ゆき…ゆき…ふふっ』
余程嬉しかったのだろう。
何度も何度も、筈んだ声で同じ名前が、脳内で繰り返される。
そのはしゃぎ様は、まるで欲しかった玩具を買い与えられた、子供のようだ。
出会ってから、初めて見せた少女の年相応の姿が微笑ましく、薫は自然と口角が上げる。
『…薫、おねえちゃん』
「ん?どうした」
不意に、薫の手の平の上で、少女が俯き、もじもじと恥ずかしそうに、両手をすり合わせるように、指を絡ましたり離したりを繰り返した
脳裏に、申し訳なさそうな、それでいて、何処か甘えるような声が響き渡る。
『…ゆき、って、呼んで』
「え?」
『おねえちゃんに、ね、名前、呼んでほしいの…』
少女の願いは、薫が先程つけたばかりの名前を、呼んで欲しいという、あまりにも些細なもの。
少し照れくさいが、拒む理由はない。
「…ゆき」
『…っ、もう一回』
「ゆき」
『もう一回』
「ゆき」
望む限り、何度でも。
薫は、その名前を繰り返す。
『ゆき…わたしの…ゆきの…名前…』
宝物を抱くように、小さな両手を胸に押し当てる少女。
『薫おねえちゃん…ありがとう…ゆきに名前をくれて』
キメラの少女…否、ゆきは薫を見上げ、はにかんだあどけない笑顔を浮かべる。
「…ううん。こちらこそ、気に入ってくれて、ありがとう」
我ながら現金だとは思うが、心から喜んでくれるゆきに、自分の考えた名前が、これ以上なく彼女に相応しい、素敵な名前だと思えてきた。
これからどうなるのか、彼女が何者なのか、解らない事が多すぎる。
―――ただ、もう今までのような、平凡な毎日には、戻れない事だけは、解っていた。
だが、それでも…ゆきの笑顔を見ていると、あの時の選択は間違いではなかった――そう思える薫だった。




