第九話 新たなる出会い
――――翌朝。
太陽はまだ顔を出さず、朝日に照らされ、朧気に浮かび上がる河川敷を、紺のジャージを着た少年、渡辺大和が赤い自転車を漕いで、学校へと急いでいた。
サッカー部に所属している、大和の朝は早い。
妹同然の幼なじみの、摩訶不思議な秘密を知った次の日でも、それは変わらない。
まだ微かに残る眠気を吹き飛ばす様に、気合いを入れて自転車を漕いでいると、不意に、目の前の道の左端に生えた草むらに、何か赤いものが蹲っているのを見つけた。
(っ?何だ…?)
その赤いものの、少し手前で速度を緩め、自転車を止めると、それがモゾモゾと動いて身を起こし、大和の方へ顔を向けた。
それは、黒が混じった鮮やかな赤の毛並みに、金の瞳を持つ、仔犬だった。
大和と目が合った途端、仔犬はすぐさま立ち上がり、上体を低くして、身構える。
首には、何かの牙を加工した飾りを下げ、胸元には、✕型に交差した古い傷跡が刻まれている。
「…赤い狼の子供?」
大和の唇から、無意識に呟きがこぼれ落ちる。
無論、現代の日本に狼はいないし、ましてや赤毛の狼なんて聞いたことも無い。
しかし、丸っこく愛らしいが、顔立ちや目つきが、そこらの犬とは、何かが違う気がしたのだ。
珍しい毛色だから、そう見えているだけかもしれないが。
仔犬は、大和の「狼」という言葉に、一瞬気を良くしたような表情を浮かべるが、すぐにキッとまなじりをつり上げ、警戒心を剥き出し大和を睨みつける。
動物が大好きな大和は、目の前の仔犬に無体を働く気など毛頭ない。
「そんな睨まなくても、何もしやしねぇって」
通じないとは理解しつつ、苦笑交じりに仔犬に話しかける。
―――――ぐうぅぅ…
「?」
不意に仔犬から、低くく、ぐもった音が聞こえた。
最初は唸り声かと思ったが、その音は仔犬の喉からではなく、腹から聞こえているようだった。
―――――ぐぎゅるる…
また聞こえた。今度は先程より大きく、仔犬の腹から響いて聞こえた。
仔犬は、ばっと腹を隠すように、前足を交差させる。
心無しか、頬と耳が赤く見え、恥ずかしがっているようだった。
まだ子供のくせに随分賢い…というより、人間臭い奴だと、大和は思わず笑ってしまう。
「グルルル……ッ!」
笑うなとでも言うように、仔犬が小さな牙を剥き出し、唸り声をあげた。
「ごめんごめんっ!お詫びに、これやるから怒んなよ」
そう言って、籠の中のスポーツバックをごそごそとあさって、取り出したのは、彼の顔の半分以上の大きさを持つ、爆弾のように巨大なおにぎりだった、
その大きさに驚いたのか、仔犬が唸るのを止めて、目をまん丸に見開く。
人間なら「でかっ!?」とでも言いそうな、表情だった。
大和はラップを開いて、おにぎりを手で半分に割ると、具の鮭の部分を上にして、千切って地面に敷いたノートのページの上に乗せた。
「じゃあなっ、それ食ったら、家に帰れよ」
それだけ言って、大和は再び自転車に跨ると、振り返る事なく、学校に向かって自転車を漕ぎ始めた。
仔犬は、遠ざかっていく大和の背中を、見えなくなるまでじっと見送っていた。
―――――そして時は過ぎ、薫も目覚ましのアラームと共に、起床した。
着替えなどの身支度を済ませた後、リビングルームの自席で、母の用意してくれた朝食を食べる。
たったそれだけの事だが、ようやく平穏な日常に戻ってこれた気がして、薫は温かな湯船に浸るような幸福を、米の甘さと共に噛み締めていた。
「…四日ぶりの登校だが、体調はどうだ?」
新聞から顔を上げた、父が薫に話しかけてきた。
「もうすっかり、いつも通りだよ。心配かけてごめんなさい」
「それなら、良い…無理だけはするな」
「解った。ありがとう、父さん」
薫が父にお礼を言った後、TVの画面が切り替わった。
『――――次のニュースです。昨日の夕方頃、埼玉県秩父市にある……』
自分達の住む地域の名前が出た瞬間、リビングの時が一瞬止まった。
内容は三人が予想していた通り、また近くに住む小学生がまた一人、行方不明になったというものだった。
画面を見ていた薫は、今回いなくなった少年の顔写真を見て、妙な既視感を憶えた。
(…あれ、この子何処かで…?)
何処かで、会ったような気がして、記憶を探ると、四日前に、公園でゆきを囲んでいた少年の一人と、写真の少年の顔が一致する。
ゆきを虐めていた事もあり、あまり良い印象は持っていなかった。
だからと言って「いい気味だ」とも思えない。
「…薫、どうしたの?」
複雑な表情で、箸を止めて黙り込む薫を見た母が、心配そうに声をかけてきた。
「…っあ、いや、何でもない」
慌てて、残りの朝食をかき込むように口に運び「ごちそうさま」と言って、空になった食器を片付ける。
脱衣所で歯を磨いてから、ゆきの待つ自室へ戻る。
ゆきの話では、あの腕輪の中に入っていれば、睡眠以外、食事や排泄は必要なくなるらしい。
だからこそ、薫が眠っていた三日間、誰にも見つからずに過ごす事ができたのだと。
だがそれでは、ゆきは美味しい食べ物の存在を、殆んど知らないまま、過ごす事になる。
今度、もっと良いものを食べさせてあげたい…甘い物は気に入るだろうかと、色々考えつつ、薫が自室のドアを開けると、ゆきは窓に顔をくっつけるようにして、外の庭を眺めていた。
「ゆき、何を見ているんだ?」
『あれ…』
穏やかに声をかけながら、薫はゆきの傍らにやって来て、一緒に窓の外を覗き込む。
柔らかな朝日の差し込む中庭で、数羽の雀がさえずりながら、忙しなく砂利を突っついていた。
「あれは、雀だよ」
『すずめ…?』
「この国…日本でよく見かける小さな鳥だよ」
薫の言葉に、ゆきは再び窓の外へ視線を向ける。
『…かわいい』
ゆきの幼い顔立ちに、小さな笑みが浮かび、無意識なのか尾がパタパタと揺れる。
シマエナガのマスコットに反応していたように、ゆきは可愛いものが大好きなのだろう。
薫は、そんなゆきの方が愛らしいと感じていた。
無論、口には出さないが。
「じゃあゆき、そろそろ私達も出かけようか」
ゆきには、平日は学校という場所へ行かないといけないと言うことは、話してある。
最初は、家で留守番をさせる事も考えたが、まだ幼く、この世界の知識が殆んどないゆきを、一人にしておくのは不安だった。
――――それに、自宅を襲撃してきた、あの怪物の存在がある。
自分がいない間に、ゆきが襲われたら…そう考えるだけで、背筋が寒くなった。
腕輪から出なければ見つからないし、自分達も手助けすると、千奈都と大和が申し出てくれた事もあり、薫はゆきも学校へ一緒に連れて行く事にした。
光の粒子となって、薫の手の中の腕輪の中に飛び込んだゆきに、薫は顔を近づけて話しかけた。
「…じゃあ、ゆき。退屈かもしれないけど、学校が終わるまでは、見つからないよう、静かにしててね」
『うん』
薫は、腕輪を藍色の木地にシロイルカのイラストがプリントされた、巾着袋に入れてそれを鞄にしまう。
「薫―――、そろそろ行かないと、遅刻するわよ」
「はぁい」
薫は、玄関の母に返事をし、鞄を肩にかけて部屋を飛び出した。
両親に挨拶をしてから、自転車を漕いで数日ぶりの学校へ向かう。
いつもと同じ通学路の景色が、ゆきと出会ったからか、少し違って新鮮に見えた。
ふと、薫は自転車を止めて辺りを見回し、人目が無い事を確認してから、鞄の中からシロイルカの巾着袋を取り出し、腕輪の中のゆきに小声で話しかける。
『ゆき、今周りに誰もいない。出てきて大丈夫』
薫の言葉の後、乳白色の光が飛び出し、薫の肩に乗った。
『なに?薫おねえちゃん』
「ゆき、学校の近くまで、人は殆んど通らないから、少し外を見てみないか?今までずっと、腕輪や部屋の中だっただろ?」
『で、でも…他の人に見られたら、だめなんでしょ…?』
「すれ違ったくらいなら、マスコットとしか思われないよ。私も、ちゃんと気をつけて見てるから、大丈夫」
薫の言葉に、ゆきは少し考えた後小さく頷いた。
「じゃあゆき、しっかり掴まってて」
『うん…』
薫は、辺りに人がいないか確認しつつ、いつもより、ゆっくりとしたスピードで自転車を漕ぐ。
「ゆき、大丈夫?辛くない?」
『…ん、だいじょうぶ』
ゆきはそう言いながら、薫の右肩に掴まって、辺りを見回す。
最初は、恐る恐るといった様子だったが、少しずつ慣れてきたのか、少しずつ興味を示し始めた。
まるで、初めて外に出た仔犬のようで、微笑ましさに薫は目を細めた。
『薫おねえちゃん…あの、お庭に置いてあるのなに?薫おねえちゃんが、乗ってるのとにてる…』
「あれは、三輪車。ゆきより小さな子供が乗るんだ」
『あの…パタパタしている、白いのは?』
「あれは、モンシロチョウ。蝶々の一種だ」
ゆきが特に、興味を惹かれたものを訊ね、その度に薫が一つ一つ、それらの名前を教える。
薫にとっては、見慣れた物や風景でも、ゆきにとっては、初めて見るものばかりなのだろう。
ふと、薫の頭の中に、ゆきは一体、何処から来たのだろう…という疑問が浮かび上がった。
だが、薫が答える度に、まるで宝物を見つけたように、真紅と空色の瞳を、キラキラと瞬かせるゆきの無邪気な姿が愛らしく、そんな事は疑問は、すぐにどうでも良くなった。
今はそれよりも、この子に、もっと色んな物を見せて、教えてあげたいという気持ちの方が勝っていた。
『薫おねえちゃん、あれ…何かな?』
「あれは―――」
ゆきが、次は何を見つけたのかと、薫自身も内心楽しみながら、小さな指が指し示した方角を見た。
ゆきと話していると、周囲の時間も、ゆっくりと緩やかに流れていくような気がして、穏やかな気持ちになる。
できればもう少し、もう少しだけ、この和やかな時間を楽しみたい…薫は僅かに、自転車を漕ぐ速度を落し、ゆきと会話を続けた。
そんな二人を、遠く離れた路地の物陰から、見つめる小さな影が一つ。
影の視線は、薫の肩に乗る小さなゆきに注がれていた。
「っ!まさか、あいつ…」
影は小さく呟くと、距離を取りつつ、薫の乗る自転車を追跡し始めた。
しかし、ゆきも薫も談笑に夢中で、その事実に最後まで、気付かないままだった。
「―――みんな、おはよう」
「薫っ!おはようっ、身体はもう大丈夫なのっ?」
「入院したって聞いて、すごく心配したんだよっ」
五日ぶりに、薫が教室へ足を踏み入れると、仲の良いクラスの女の子達が、駆け寄ってきた。
「心配かけてごめん。もう平気だ」
「熊に襲われたって聞いて…恐かったでしょ?」
女子の言葉に、薫は眉間に小さく皺を寄せて聞き返した。
「…熊?」
「っえ?」
「あ、いや…うん、大丈夫だ。大した怪我じゃない」
周りは、熊に襲われたと思っている事を思い出し、
きょとんとする女子に、薫は慌てて言い繕う。
自席について、教科書などを整理しながら机にしまっていると、部活を終えて千奈都が教室へ戻ってきた。




