【第一章】確信
人が消える。
それは決して突発的な奇跡でも、
不条理な怪談でもない。
都市の奥底では、
日々、誰かが姿を消し、
やがて名前すら忘れられていく。
芝浦の湾岸も例外ではなかった。
深夜の倉庫街に響くのは、
クレーンの軋む音と、
積み荷を載せる貨物船の低いうなり声。
その鉄の箱の中に何が詰まっているのか、
誰も確かめようとはしない。
ただ「輸入品」と記された札が貼られ、
無数のコンテナは港を出入りする。
その中に、人が紛れていたとしても。
その中で、声なき者たちが息絶えていたとしても。
やがて警察が掘り起こすことになる
失踪事件の数々は、一見するとバラバラに見えた。
しかし、その線を繋いだとき、
浮かび上がるのは一本の航路。
けれどその航路は、
海図には決して記されてはいない。
人々はそれをこう呼ぶ。
「見えない航路」と。
芝浦の海風は、夜になると潮の匂いと油の臭気を混ぜ合わせて街を覆う。
六月のある夜、港湾署の刑事である三枝は、署のテレビに流れる緊急ニュースを無言で見つめていた。
「本日午後十時ごろ、港区芝浦のファミレスチェーン店『ジェニーズ』で、二十代の女性客が忽然と姿を消しました。駐車場には女性の車が残され、店内の食事はほとんど手をつけられておらず、失踪の経緯は不明です……」
画面には、赤と青のパトカーのライトに照らされたファミレスの駐車場、雨に濡れるアスファルト、そして慌ただしく動き回る制服警官たちの姿が映っている。
「また芝浦か……」と、三枝は小さく呟いた。
ここ数年、この地域では原因不明の失踪事件が立て続けに発生していた。だが決定的な証拠はいつも残らない。まるで、跡形もなく人間が溶けて消えてしまったかのように。
その夜、署に入った第一報は、客が食事を途中で残して消えたという異常な通報だった。車内には財布と免許証、そして携帯電話までもが残されていた。自らの意思で消えたとは到底思えない。
ニュースキャスターが淡々と状況を読み上げる背後で、画面の端に一瞬、映り込んだ人物があった。
制服姿の若い店員。無表情に、警察の動きを遠巻きに眺めている。三枝の目は、なぜかその影の薄い店員に吸い寄せられた。
「……おい、巻き戻せ」
部下に命じ、もう一度そのシーンを確認する。
確かに、ただの従業員のはずなのに、異様なほど冷めきった視線。事件現場にいるとは思えないその眼差し。名前は吉田聡、二十七歳。捜査線上に浮かぶまで、時間はそうかからなかった。
芝浦の夜は、湿った風が海から吹き抜けていた。
ファミレス「ジェニーズ」の駐車場には黄色い規制線が張られ、報道陣のフラッシュがひっきりなしに瞬いている。
三枝は現場に足を踏み入れた。
残された白い小型車、助手席に置かれた買い物袋、冷めきった食事の皿。そのすべてが「途切れた時間」を物語っていた。
「本人の携帯も車の中か?」
「はい。持ち去られた形跡はありません」
制服警官の報告に、三枝は眉をひそめた。
失踪にしては不自然すぎる。
あまりに置き去りが多すぎるのだ。
店内に入ると、従業員たちが事情聴取を受けていた。その中に、ひとりだけ異質な存在がいた。白いシャツにエプロン姿の青年。背は高く痩せ型。髪は前に垂れ、表情は薄暗い影に隠れている。
「吉田聡、二十七歳。皿洗い担当です」
その男について、部下が耳打ちした。
三枝はゆっくりと近づいた。
「君が……吉田君か?」
青年は一瞬だけ視線を上げた。
無表情な瞳が、じっと三枝を射抜く。
その目には怯えも困惑もなく、
ただ無関心だけが漂っていた。
「勤務中に、女性客が突然姿を消したことについて、何か気づいたことは?」
その問いかけに、吉田はわずかに首を横に振った。
「……知らないです。気づいたら、いなくなってました」
声は低く、抑揚がなく、まるで機械のようだった。
三枝はその一言に、背筋を冷たいものが走るのを感じた。言葉の内容よりも、声の質感に。そこには「驚き」や「困惑」といった人間らしい揺らぎが、一切存在していなかったのだ。
「……そうか」
三枝は表面上は淡々と応じながらも、
内心では確信していた。
この青年、何かを隠している。
そしてその“何か”は、
芝浦で繰り返される
失踪の闇と深く繋がっていると。
その夜の芝浦には、特別なものは何もなかった。
消えた女性、残された車、冷めた皿。
ただそれだけの、説明のつかない欠落。
だが警察の記録には、
確かに一枚の映像が残っている。
規制線の外から現場を眺める若い店員。
事件の渦中にいながら、
まるで他人事のように静かな眼差しを向けていた男。
その名は、吉田聡。二十七歳の男だ。
このとき彼の口から発せられた言葉は短く、
そして何の感情も含んでいなかった。
三枝は確信した。
だが、この夜に消えた「ひとりの女性」の背後には、
まだ数えきれぬ声なき者たちが潜んでいたことを、
当時の誰も知らなかった。