48話
ここは東京都目黒区自由が丘にある喫茶店『ディオゲネス倶楽部』。
古びたレンガ造りの外壁に控えめな金文字の看板。駅前の喧騒から少し外れた路地裏にひっそりと佇むその店は、知る人ぞ知る隠れ家のような趣を漂わせていた。
その一角、通された特別室の前で、千光苦楽は深く息を吸い込んだ。
「大丈夫かい?」
後ろから声をかけたのは賢治だった。
「ああ………」
応えたものの、苦楽の表情は硬いままだ。
「そんなに心配しなくても大丈夫だと思うよ」
賢治は笑って見せるが、苦楽の胸中は穏やかではない。
“警察官というやつらは、目を合わせただけでこちらを犯罪者扱いする。”
そんな経験を、彼は過去に幾度もしてきた。息苦しさが喉元まで迫っていた。
「なんか苦楽って、思ってたよりずっと繊細なのね。深呼吸なんかしても、そう簡単には落ち着かないでしょ?」
愛嬌が呆れたように笑いながらドアノブに手をかけ、そのまま勢いよく開け放つ。
「おーっ、待ってたぞ! 君が千光苦楽か!」
中から現れたのは、口髭を蓄え、フレームの太い眼鏡をかけた男性だった。肩幅が広く、笑顔がよく似合う快活な印象。
賢治の祖父であり、警察庁に籍を置く龍一――六十歳近いはずだが、張りのある声と肌の艶のせいか、年齢を感じさせない。むしろ、どこか豪放磊落な武人を思わせた。
苦楽、スルメ、愛嬌、賢治の一行は軽く頭を下げながら室内に入っていく。中は木目調の落ち着いた空間で、照明は控えめ。ふんわりと漂う焙煎コーヒーの香りが、緊張感をいくらか和らげた。
思っていたような張りつめた空気はない。親戚の集まりにでも呼ばれたような、そんな雰囲気だった。
「ふむふむふむ……なるほど。ずいぶんと悪そうな面構えをしているな」
「龍一さん、いくらなんでも初対面でそれは言い過ぎですよ」
賢治が苦笑する。
突然の評価に一瞬固まった苦楽だったが、その言い方にトゲはなく、不思議と傷つくことはなかった。
「あーすまんすまん。ワシは思ったことがすぐ口をついてしまってな。悪気はない、許してくれ」
大声で笑いながら、頭を下げるその姿は――まるで西郷隆盛だ、と苦楽は思った。
笑いと共に、肩の力が少し抜けていく。
「しかしまあ、悪人ではなさそうだ」
「それはもちろんそうですよ。僕の友人なんですから」
「そうだったそうだった、はっはっは。そりゃ失礼」
みな思い思いの椅子に腰を下ろし、ひとしきり世間話に花を咲かせる。龍一は、賢治が自分の将来を未だ決めかねていることに不満らしく、悩まなくていいから警察官になれと、しきりに言っていた。
やがて運ばれてきたコーヒーを一口含んだ時、苦楽はようやく気づいた。あれほど強ばっていたはずの自分の顔が、いつの間にか緩んでいたことに。
「さて――例の事件についてだがな……」
龍一が声のトーンを少し落として話し始めた途端、室内の空気がわずかに引き締まった。
「現在、警察では苦楽君を第一の容疑者とは見なしていない」
その一言が、再び苦楽の鼓動を強くさせた。
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