44話
古びたビルの二階。急な階段を登りきり、木製の引き戸を開けた瞬間、ふわりと漂ってきたのは、ほうじ茶と犬用ビスケットの甘い香りだった。
――柴犬喫茶こげぱん。
靴を脱いで上がると、畳と板の間が合わさった和風の店内が広がっていた。低いちゃぶ台と座布団、隅には観葉植物。ところどころに柴犬のイラストが描かれた暖簾が揺れている。
そして、目に飛び込んできたのは――坊主頭で巨漢の男が横たわっている姿だった。
「やっぱりか!」
「こいつ………!」
「ばか!」
その存在感だけで空間を圧迫するような大男、千光苦楽。さっき店の外まで響いた大きな物音は、彼がソファーから転げ落ちた時のものだろう。
柴犬が一匹、くるんとした尻尾で苦楽の頭をぺしぺしと叩いている。だが、本人はまるで気にせず、大いびきをかいている始末。
「みなさん、危険ですから……あまり近づかない方が……」
入口に立っていたのは、小柄な少年のような店長だった。緑色のエプロンには、柴犬の顔が大きくプリントされている。
見た目こそ子どもだが、その口調はしっかりとした大人のもの。しかし、柴犬のように怯えた目が印象的だった。
「大丈夫ですよ、柴田さん。この男は高校時代の僕らの同級生、千光苦楽ってやつで、ヤクザじゃありません」
「ふぇっ?!」
「体が馬鹿みたいにデカくて、しかも坊主頭で人相もあれなんで、しょっちゅう誤解されるんですけど、理由もなく暴れるようなやつじゃないんで」
「……そうなんですか?」
柴田店長は一歩、また一歩と、おそるおそる店内に足を踏み入れた。
苦楽に向かって勇敢に吠えている柴犬、離れたところから様子を伺っている柴犬、何も気にせず寝ている柴犬、色々な柴犬がいた。
「今はスルメ君もいるし、なおさら安心ですよ。この男、彼女には逆らえないんで」
「そうなんですか……」
まだ不安げではあるが、柴田の表情に少しだけ安堵の色が浮かぶ。
「苦楽ってお酒飲むんだ……知らなかった」
愛嬌が、苦楽の手に握られている缶チューハイを見てぽつりと呟く。微かに結露した缶は、すでに空になっていた。
「普段は飲まない。かなり弱いし」
見下ろしているスルメの目には呆れと怒りが見える。
「それだけ、追い詰められてたんだろうね。警察に事情聴取されたんだから、ストレスを感じるのも当然のことだ。あまり怒るのはかわいそうだ」
賢治が静かに返した。
「……それでもかなり迷惑だけどね。こんな風に大の字で寝られたら、他のお客さん、入りづらいでしょ」
愛嬌はスルメと同じく怒っている様子。実家が喫茶店を営む彼女だから、苦楽のこの状態は許せないのだろう。
「それは確かにそうだ。……友達がご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした」
スルメ、賢治、愛嬌の三人がそろって頭を下げると、店内の柴犬たちも、どこか空気を読んだように鳴き声を潜めた。
「事情が分かってよかったです……僕、てっきり店がヤクザに乗っ取られたのかと……。開店したばかりで終わるのかと思って……」
柴田は胸に手を当て、ホッと息を吐いた。
「じゃあ、スルメ君。さっそくこいつを起こしてくれないか? このままだと営業にならないから」
「うん、わかった」
スルメが頷くと、苦楽のそばに近寄り、その頬にパチンと一発、遠慮のないビンタを叩き込んだ。
次の瞬間。
「んぎゃあーーーーーー!!」
店内に、絶叫が響き渡った。
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