13話
「おい!何してんだよテメェ!」
午前十時、公園の芝生には朝露の名残がきらめき、木漏れ日が揺れる遊歩道に、突然響き渡る粗野な怒声。
静かだった公園の空気が、ピリリと緊張を帯びた。
振り返る人々の視線の先。
ブランコの裏手にある木陰、そこに真っ赤な髪を逆立てた男が立っていた。ニキビだらけの顔を歪め、何かを怒鳴っている。
その足元では、小さなゴールデンレトリーバーが尻尾を下げ、ぺたんと地面に伏せていた。
「すいません、僕の『小太郎』がどうかしましたか!?」
近くの水飲み場から、慌てた様子で少年が駆け寄ってくる。マッシュルームカットに大きめの眼鏡、まだ小学校低学年だろう。
片手には水の入ったペットボトルを握りしめていた。
「この馬鹿犬はお前が飼い主か! えぇ!?」
「はい、そうです……」
「お前のこの馬鹿犬が俺の荷物に小便したんだよ! おいお前、飼い主だろ、飼い主だったら責任とれよ! 学校で習わなかったのかよ、馬鹿野郎が!」
男の怒鳴り声に、近くの母親たちが子供を連れて少し距離を取る。
ベンチの足元には黒いボストンバッグ。たしかに、その脇の地面がわずかに濡れている。
子犬の小太郎が、どうやらそこに粗相をしてしまったようだ。
「苦楽!」
やわらかくも芯のある声が、芝生越しに飛んできた。
スルメ・クルシェフスキ。
眠そうな顔でタマゴサンドをパクついていた姿は一片、信頼のこもった強い目を向けていた。
瞬間、男が動く。
――狼のような猟犬が、命を受けて駆けだしたのだ。
千光苦楽。
身長198センチ、体重113キロの巨体が、風を切って走る。まるで重機に足が生えたような迫力だ。
芝を蹴り上げ、土煙を上げながら一直線に怒声の主へと向かっていく。
「止めろーーーッ!!」
その声はただの怒鳴りではない。
声量、通り、響き――高校時代、音楽教師から合唱団へのスカウトを受けたほどの声は、オペラ歌手もかくやという迫力を持っていた。
「なんだテメェ!」
男がぎょっとして一歩引く。
その顔に刻まれるのは怒りではない。恐怖だ。足元の小太郎も、苦楽の存在を察して小さく鳴いた。
――よし、勝った。
苦楽は心の中で呟く。
この反応。相手に戦う意思がなくなったことを、彼は過去に何度も経験から知っていた。
この戦いは、もう終わったも同然だ。
(消え失せろ、ゴミ野郎……)
口に出しかけたその言葉を、飲み込んだ。
見れば、少年の瞳がこちらを見ている。
子犬のつぶらな瞳も。
そして、公園中の視線が――
そう、まるで舞台の上に立ったように、今、この瞬間、すべての視線が自分に集まっている。
この状況で、汚い言葉を使いたくない。
苦楽は背筋を伸ばし、右手を腰に当てた。左手はやや斜め前に差し出す。
「正義の味方だッ!」
――なぜ言った。なぜ口から出た。自分でも不思議だった。
だが、口走ったその言葉に、子どもが目を輝かせるのを見てしまった。
子犬がうれしそうに尻尾を振っているのも見てしまった。
うん、まあ、悪くない。
そんなふうに、少しだけ自分に酔っている苦楽の姿が、陽だまりの中で妙に浮いていた。
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