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Routes 1 -リンカ-  作者: ひまうさ
本編
7/33

7#よくある宿場劇

 器用に真っ白なシーツを取りこむ女性の背中は、もうずいぶんと見慣れていた。

 いや、初めて会った時から、それは温かさで俺を包みこんでくれた。


 彼女は生まれながらの母親だと、思う。

 俺に母なんていないけど。


「いつ発つんだい、リンカ?」


 前も見えないくらい抱えているのに、まっすぐに俺の方へ歩いてくるので、場所を開ける。

 女将はどうやってか器用にドアを開けて、奥へと入ってゆく。

 俺もそれを追いかける。


「明日の朝までには」

「じゃぁ今夜はゆっくりできるんだね」


 盛大に送別会しようかという言葉に少し、淋しくなる。


「いいよ、そんなの」

「よくないよ。

 リンカにはたっぷり世話になったしね」

「そんなの」


 お別れ会なんて、そんな本当にもう会えなくなるみたいな。


 そう思うと涙が出てきそうで、慌てて瞬きを繰り返す。


「ちょっと仕事してくるだけだし、すぐに戻ってくるのに」

「どうだかねぇ。

 だって今度のあんたの雇い主、どっか他の国から来た王子様みたいじゃないか。

 せっかく気にいられてんだし、そのまま嫁になったらどうさね」


 盛大に笑われても彼女の場合はすごく気持ち良くて、スッと心に入りこんでこちらも笑顔にさせる。

 たぶんきっと、この女将の威勢の良さとか快活さとかお人好しで世話好きだとか、そんなもの全部をひっくるめても奥にそう在れとしている強さをみれるからかもしれない。


「馬鹿言うなよっ」

「馬鹿なもんかい。

 私がリンカくらいの頃はね、村中の羨望の的でさ。

 毎日、口説かれてたもんさね」

「恐れられてたの間違いじゃねぇ?」

「今でも美人だから、口説きにくる奴ァいるしね」

「それ喧嘩売りに来てるの間違いじゃ」

「なにか言ったかい?」


 全てを笑い飛ばして、生きられる。

 そんな彼女の生き方に憬れた。

 決して手に入らないことと知りながらも、いつか俺にもそんな生き方ができないかと悩んだ。


 だけど、所詮俺は腕が少したつだけの十三歳の子供で、世の中の汚いものを全部見てきて、俺自身もそれに手を染めたこともある。

 ここまで汚れてしまった俺が、彼女のようになれるとは思っていない。


「なんでもねーよ。

 手伝おうか?」


 だったら、と急にその声音が柔らかくなる。


 そうして向かった一室はまだ空部屋で、今日入る客のために掃除してくれというものだった。

 予約の客がいるなんて珍しい。


 大抵の旅人の中継点であるこの村に予約客が入ることなど、まず無いと言っていい。

 そんなことをするなら、少し先の大きな街に行った方がいい。

 わざわざそんな真似をする輩はいない。


 この宿のどの部屋も同じ造りで、違いといえば、大部屋と個室というぐらいになる。

 それも単に部屋の広さの違いであって、あとはどれだけの数のベッドを入れるかということになる。


 今回は大きめのベッドが二つ、テーブルがひとつ、椅子が4つの部屋を二部屋。


 どこかの馬鹿なお大尽旅行でもくるんだろうか。


「リンカーっ」

「はいってくんなよなぁっ」


 ピカピカに磨いたばかりの床にスタンプがつく。


「そんな……っ」

「邪魔だから食堂にでも行ってこい」

「そ、そんなにはっきりと言わなくても……っ」


 うるると潤んだ瞳で見返してくるなよ。

 どうして、二十歳もとっくに過ぎてそうなのに、そんな行動が似合うんだよ。


 握り締めた雑巾を投げつけたい衝動を堪えて、俺は王子に背を向けた。

 構っていたら切りがない。


 窓に手をかけて、立て付けの悪い音を立てるそれをガタガタ動かす。

 渾身の力を込めても動かない。

 どうなってるんだ。


「なにしてるんですか?」


 すぐ近くで声が聞こえたかと思うと、動かなかった窓が開いて俺も一緒に外へ連れて行かれそうになる。

 軽いとかじゃなく、単に力の加減のせいだ。


 そして、外に放り出されなかったのは、腹を締め付けるこれのせい。

 おかげなんて、可愛いもんじゃねぇよ。


 すぐそばを通り過ぎてゆくのはさっぱりとした嗅いだことのなかった上品な香りで、数日で嗅ぎ慣れたそれはもちろん王子の服に備わるものだ。


「良い風ですね」


 言った後から強風が吹き込んできて、思わず目を閉じる。

 睫毛が震えるのと身体中の毛が逆立つのと、どちらが早かっただろうか。

 極々微量のそれに気がついたのは彼も同じなのだろうか。


「どうしましたか、リンカ?」


 そんなことはない、か。

 いくらこいつが稀少な魔法使いだとしても、気配を読むなんて芸当ができるわけが無い。

 取り越し苦労なんかしてもしかたねぇし。


 てゆーか、こいつが謎な行動するのが一番悪いんだよな。


「リンカ?」

「っ!?」


 声にならない悲鳴を上げそうになり、あわてて自分の口を押さえる。


「どうかしたんですか?」


 また。


 まただ。


 この、男は。


 人の耳元で息吹きかけながら話すのは、絶対にわざとに決まってる。

 決め付けるのはよくないというけれど、なんだか間違っていないという妙な確信が持てるのだ。

 危険な気がしているんだ。


「っ!」


 僅かな動きで後ろに振り出した肘は、狙い過たずディルの骨を直撃した感触があった。

 鈍い叫びながら、影は動かない。


 代りに、外で十数羽の飛び立つ羽音が聞こえて、気配が消えた。


 一瞬だけれど張り詰めた意識を開放すると共に、身体の力が抜ける。


「急になにするんですか?」

「べっつにぃぃぃっ」


 王子の腕も緩んでいるので、そのままストンと床にすわりこむ。

 磨いたばかりの床の上はまだ湿り気があって、そこに王子や俺の移動の後は残っていない。

 俺は素足だからともかく、と王子の足元をみるがそれは会って以来変わらぬ皮のブーツだ。


 今日は風が吹いているけど乾燥してるし、砂埃だって舞ってた。

 そして、俺たちは外からこの宿屋に来たんだ。


 掃除をしていた俺はともかく、どうして王子は埃ひとつついてないんだ。


「そんなとこに座り込んでないで、椅子にすわったら良いじゃないですか」

「椅子が汚れる」

「リンカが座って汚れる場所なんで無いですよ」

「掃除したばっかりの部屋でなにいってんだか。

 ここに泊まるのは俺たちじゃねぇんだから、勝手に座るな」


 語尾を強くしたのは王子がスタスタ歩いていって、普通に椅子に座ったからだ。

 言ってるそばからやるあたりが、もう性格がうかがえて否になる。


 でも、もう今は逃げられない。

 雇い主である以上、仕事が終るまでは逃げ出すわけには行かない。

 リンカの名にかけて。


「紅茶でも飲みませんか?」

「誰が、誰と」

「えーここにいるのは誰でしょう?」


 つまり、俺が王子と。

 といいたいわけか。


 口の中で笑いが融けた。


「冗談。

 第一誰がその紅茶を淹れんだよ」

「それはカーク」

「彼は城だろ」

「………………」

「睨むなよ」


 自分で淹れるとか、そういう選択肢は無いわけな。


 ついでに俺が淹れるというのも却下。

 紅茶なんて生まれてから一度も淹れたことないし、城で飲んだのが実際初めての一杯だ。


 薫り高いその紅茶はそれまで飲んだことこそないが、見たことはあった。

 雇い主が上流階級の連中となると、やたらこの匂いが鼻につくのだ。


「第一まだ紅茶のセットはもってきてねぇぞ」

「ここにあります」


 手品のように王子の手元に茶器が現れる。

 白滋に薄墨の青を揺らして、のらりくらりと適当に描いたような線が揺れる。

 書いたやつはよっぽど眠かったのかもしれない。

 が、それは見ているだけで不思議と心が落ち着く。


 今回は落ち着くよりも飽きれたというほうが強いけど。


 だって、同種のカップも用意よく二つ分だ。


「後は淹れてくれる人がいれば完璧なんですが」

「やったことねぇよ」

「じゃ教えましょうか?」


 立ち上がる王子に先じてドアに向かう、その先に影が現れるのは予想済み。


「て、あんたっ?」


 てっきり王子の護衛とかだと思って思いっきり突き出した前蹴りは、綺麗に決まった。

 さきほどまでテーブルにいたはずの。

 移動していないはずの王子に。


「なんで、いつのまにっ」


 どうして前に立っているんだ。


 まず攻撃、の俺の前に立つなんて、こいつ馬鹿か。


「大丈夫か?

 悪い、まさかあんたが来ると思わなくて思いっきりいっちまった。

 おい、立てるか?」


 身体を二つ折りにして倒れたまま声もなく、磨いたばかりの床に王子のキラキラ光る金髪が流れる。


 その形良い口が、何かを呟く。


「え、なんだって?」


 自然と俺は王子の口元に耳を寄せていた。

 辛そうな呼吸音に、マジですまないと心から謝る気だった。

 こいつが、妙なことを考えなけりゃぁな。


 耳を近づけたとたん、首に腕がかけられ、そのまま床に引き倒される。

 普通なら、ここですぐにやり返したりもできたんだけど、その直前から耳に生ぬるい感触を受けていて、強烈な脱力感に襲われて、それどころじゃない。


「ぅあぁぁぁぁっ!?

 な、なにっ」

「僕が来ると思わないって、他に誰がいると?」


 暴れても拘束が解けない。

 耳に吹きかけられる吐息で力が抜ける。


「は、はなれっ」

「そもそも僕の護衛はリンカ、君が倒したでしょう」

「か、カーク、とか……いいから、離、れ、ろっ」

「カークはシャルの執事ですよ。

 主人を置いて、僕について来るはずがありません」


 そうかもしれない。

 それ以前に、自分であいつが城にいると言い切ったのに、なんて失態。

 回想に意識が飛びかけていた俺に、影が、襲う。

 いや、俺に、じゃない。


「どけろ、馬鹿!!」


 腕を振って、王子の腹に叩き落し損ねる。

 その腕を床に縫いとめる黒い短剣を見て、安堵の息を吐いた。


「リンカ!?」


 思ったとおり、狙いは俺じゃない。

 それは不思議でもなんでも無いし、この短剣の柄に描かれたモノをみれば、至極当然だ。


「まだ来る。

 部屋の外出てろ」


 剣を引き抜いて、起きあがる。

 王子はまだその辺にいるみたいだから、その前に構えつつ、窓に向かう。


 短剣に描かれていたのは、職人芸の細工を施された赤い華麗な東洋龍の紋だ。

 何度も見ているそれを、俺は知っている。

 同時に、嫌と言うほど身体に叩き込まれた感覚が、周囲に殺気を放つ。


 窓の外を覗くと、気配は消えた。

 おそらく隠れただけかもしれない。

 もうここまで見つかっていたのか。


「王子、俺、先に」


 振りかえると、王子は床で蹲ったままだった。

 動かない。


「王子!?」


 さっきのようなことを考慮しつつ、近づく。

 でも、今度は本気で伸びてる。

 やばい、こいつにここで死なれちゃ困る。


「お、おいっ」


 肩を引かれて、後ろに倒れかけるのを踏ん張る。

 俺を押しのけて、濃い灰色の影が割り込む。


「ディルは大丈夫よね、カーク?」


 姫の声がどうして聞えるのか、とか。


 シャルダンがどうしてここにいるのか、とか。


 二人でどうしてそんなに優しい、目で俺を見ているのか、とか。


「気を失っているだけです」

「はぁ~~~っ、驚かせんなよなぁっ」


 カークが王子を抱えあげて、ベッドに運ぶ。

 俺が整えたばかりの、ベッドに。

 白いシーツが影を引き、金の髪が同じく真白い上掛けに隠される。

 それを確認して、シャルダンと姫がテーブルに着いて、カークが紅茶を入れて。


「リンちゃんも、そんな顔してないでお茶にしましょう?」


 カップを掲げて、小さく首を傾げる。

 それを「あ、可愛い」とか思っていたのに、俺の身体は全然別なことをし始める。

 ぽたりと、床に染みがつく。

 丸く弾けて、飛んで。


 やべぇ。

 これからここに客泊まるのに。

 もしかして神経質な人で、染みひとつでここに泊まるのぽしゃったら、女将さんたちの迷惑になる。

 手伝ってたはずなのに迷惑かけたら、意味無いだろ。


 そう思って床に落ちた染みを拭く。

 でも、それは拭いても拭いても増える。


「なんで?」


 いくつも、いくつも落ちて、急に両脇から抱えられて、姫の隣の椅子に座らされた。


「心配しなくても、ディルはしぶといから」


 大丈夫と微笑んで、白いレースの綺麗なハンカチを俺の顔につけた。

 柔らかい感触と甘い生クリームの匂いがする。


「あんまり泣くとおめめがとれるわよ。

 コロンって」


 可愛らしい効果音付きで言われたのに、背筋に奇妙な寒気が這い登ったのは何故だろう。


「ひ、姫」

「なぁに、シャル?」


 ついでにいうと、シャルダンも怯えている。

 この迫力はどーゆー環境で身につくんですか、とはとても恐ろしくて聞けない。

 甘くて柔らかい砂糖菓子みたいな姫なのにどうしてと考えかけて、つい最近同じコトを考えたことを思い出した。


――王子だ。


「…………リンカ」


 ベッドの辺りから聞える呻き声に、姫の瞳が淋しさを灯す。

 夜の砂浜に寄せる波みたいに、とても暗く寂しい。


 どうしてこの王子は、それほどに俺にこだわるのかがわからない。

 何故と問い掛けても明確な答えは返ってこない。

 姫も、シャルダン様も本当の理由は知らないのだという。


 ただの気まぐれで、俺で遊んでいるだけなのかどうかと言われても自信はない。


 俺の目の前のテーブルに、カークの手で黒いものが置かれる。

 先ほど飛んできた紅龍の短刀だ。

 禍々しい龍の踊る短刀は恐ろしくも有り、見とれるほどに美しくもある。


「俺、明日の朝出発します」


 短刀をひっつかみ、俺は椅子から立ちあがった。

 誰とも視線を合わせたくなかった。


「王子にも伝えておいてください」


 腕に触れそうな姫の手を寸でのところで避ける。


「ディルが起きるまでいないの?」

「仕事があります」


 扉を閉めて、はぁと大きく息をつく。

 ドアに寄りかかっている時間はない。


 黒い剣の柄の赤い龍を撫でる。

 その口元に爪をひっかけ、強く弾く。

 すると、龍が口を開き、それを引いて、柄が開ける。

 中には小さな紙切れが細長く丸めて詰められている。

 丁寧に取り除き、柄を元の通りに戻して、黒い剣はベルトの後ろに通して隠す。


「おや、どうしたい?」


 厨房に入っていくと、色褪せたアッシュグレーの薄手Tシャツに愛らしいうさぎのキャラクターがアップリケされたエプロンをつけた大柄な体躯の男がいる。

 彼――この宿の主人は巨体に似合わず、ちまちまと手先の包丁で何かを作っている最中で、その横を素通りする。


 俺は手紙にさっと目を通し、読み終わったそれをすぐさま火にくべる。

 そうするのが、俺とあいつの間のルールだからだ。


「めずらしいことしてんなー」


 軽く聞こえるように主人にむけた俺の声は、震えない。

 無理やりにでも明るく振舞うのは得意じゃないけれど、心配をかけるのが得策でないことぐらいはわかってる。


「そら、今日はおまえの送別会って、女将が言ってたからよ」


 もうすでに話が回っているところは、さすが女将だ。


「たいしたこともしてやれなかったしな。

 最後ぐらい盛大にやってやるよ」


 さっきまでの反発心は出てこなくて、代わりに胸が強く締め付けられる感覚が襲う。


「そんなこと、ねぇよ」


 この村にいる間、身寄りもないリンカに、泊まる場所と仕事までも世話してくれたし、もうほとんど故郷といっても支障がないぐらい馴染むことが出来た。

 全部ここの宿の夫婦のおかげなのだ。


「こらこら。

 そんなに泣くなよ。

 まだ宴は始まっちゃいねぇんだ」

「な、泣いてねえよっ」


 深く追求される前に、俺は厨房から隣の食堂へと逃げ込んだ。


 まだ客はまばらで、空いているテーブルのが多い。

 従業員もそこここでおしゃべりに興じている。

 まさに平和そのもの。

 だれも、この町に刻龍なんて化け物がひそんでいるとは思わないだろう。


 俺は壁際のテーブルに付いて、そのまま突っ伏した。

 冷たい感触が伝えてくるのは、まるでこれから起こる事柄を予見する様で、心の震えが止まらない。


 怖い。

 会いたく、ない。


 だが、会わざるを得ないだろう。

 何より雇い主が会いたがっている。


 それに今日の様子からすると、まず、間違いのない未来が用意されている。


 どちらに転んでも、俺の望まない未来が。


「リンカ、おごって~」


 馴染みのウェイトレスがぐしゃぐしゃと頭を撫でまわす。


「おーい、起きなさいってば。

 起きないと、水ぶっかけるわよ」


 本気でやりかねない女性なので、仕方なく顔を上げる。


「なにぶっさいくな顔してんの。

 笑顔じゃないと折角捕まえた幸せ逃がすわよ?」


 彼女を視界に収めながらも、俺の思考は先程読んだ手紙から離れずにあった。

 内容はいつものとおり、刻龍への勧誘がひとつ。

 追記されている1行だけ書き添えられた文を除けば、ただそれだけの手紙だ。


「なんだよ、それ」

「異国のオージサマを捕まえたって、評判よぉ?」

「あぁ?」

「今度のあんたの雇い主。

 一緒にここも出てくって、聞いたわ」


 神妙な表情になったかと思うと、また思いっきり頭を撫でやがる。

 容赦のないこの仕打ちも、王子に付いても刻龍についても、なくなるのは決まっている。


「やったじゃん、リンカ。

 大出世じゃないのっ」


 出世といわれてもピンとこない。

 もしもそうだとしても、俺はこれからあいつらを裏切らなきゃなんないんだ。

 出世どころじゃない。


「幸せってのはさ、掴み取るもんなのよね」


 どこか悟ったような声に顔を上げると、見たこともないぐらい彼女は優しく微笑んでいる。

 余計に、心苦しくなる。


 自分が男だと偽り、騙しつづけて来たことを後悔しているわけじゃない。

 後悔してしまえば、今までの俺の人生すべてを否定することになってしまう。

 それは、いやだ。

 俺は自分で選んでこの道を歩いているんだ。

 いつだって、自分で選んできた。

 なんだってやってきたすべてのことを否定する気はない。


 でも。


「あたしもがんばんなきゃなー」


 優しい手は、この村で始めて知ったわけじゃない。

 それでも、ここはもう故郷みたいなものになっていて。

 世界にこんなに優しい場所があるなんて、ここに来るまで俺は知らなかったから。


「泣かない泣かない、一生会えなくなるわけじゃないんだから。

 なんか飲む?

 おごるわよ~」


 もう顔を上げられなかった。

 声も、出せない。

 絶対泣いている声が出てしまう気がしている。


「泣くなってば。

 男の子でしょっ」


 やわらかく抱きとめられる。

 彼女のエプロンからは石鹸の香りがする。

 それに太陽の香りも。


「いつでも帰ってきていいんだからね」


 精一杯のウェイトレスの声は、少し涙を含んでいた。


 ここの町の人たちはみんな優しかったけど、とりわけ宿の店主と女将、そしてこのウェイトレスがよくしてくれたこと、俺は忘れない。


「うん」


 腕に力を込めて、俺も彼女を抱き返す。

 優しさの香りを忘れないように、息を吸い込む。


 俺、絶対、忘れないよ。

 何をなくしても、ここだけは、絶対。


「泣くなっば~」


 涙声でいいながら彼女はさらに強く俺を抱きしめた。

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