18#よくある終幕劇
目を覚ました俺が最初に見たのは不安そうな青空色の瞳で、すぐにそれが端正な王子の顔の一部と気がついた。
王子の前髪は俺の前髪に触れていて、鼻先一インチもない。
それぐらいの距離で、俺は王子に抱きしめられていた。
「お、王子っ?」
王子は少し驚いた顔で数度瞬きし、そのまま顔を近づけてきて。
――俺の肩に顔を埋めた。
「……よかった」
それは心の底からの安堵で、こんな風に心配されることがない俺は戸惑う。
なんで俺なんかをそこまで心配するのか、今も俺には分からない。
だから、こういう時にどう反応したらいいのかわからない。
感謝も謝罪も違うだろうし、だからって慰めるのはもっと違うだろう。
俺はただ微かに震えている王子の背中に手を伸ばす。
「大丈夫じゃと言うたんに、わしゃ信用ないのー」
しゃがれた残念そうな老人の声で、俺は伸ばしかけた手を止める。
無意識とはいえ、自分が何をしようとしていたのか考えると、逃げ出したいほど恥ずかしい。
だけど、王子の腕の中から逃げ出すのが難しいことはわかっているので、俺は視界の範囲だけで状況を判断するしかない。
王子の金髪や身体が邪魔でよく見えないが、石造りの天井はすごく高い場所にある。
こんなに高い天井を最近見たのは、王子に連れてこられた大神殿しかない。
そういえば、あの場所へはここから飛ばされたんだと俺は思い出す。
それほど時間が経っていないのは、王子の匂いやマントの汚れ具合からもわかった。
「王子、俺……」
俺は手を動かせるだけ動かして、王子の身体を叩くが反応はない。
「おい、王子」
「そのままで構わんよ、リンカさん」
目の前に皺だらけの顔が逆さまに映り、俺は瞬間的に身体を硬直させていた。
「竪琴を弾く女性には逢ったかの?」
「たて、ごと……?」
こういうのだ、と老人が宙に描いて見せるが、俺だってそれぐらい知っている。
ただあまりに唐突だったから、聞き返してしまっただけだ。
「会ったよ」
「ほうほうっ」
イラついた俺の返答に対して、老人は嬉しそうに笑う。
「元気じゃったか?」
「病気には見えなかったな」
「そーかそーか」
俺の皮肉にも上機嫌に頷き、老人が何かを口にすると、俺と老人の間に大きめの厚紙が出現した。
その寸前、かすかに俺は老人の目に涙が光っていたのを見た気がする。
でも、すぐ後に訛声で調子の外れた下手な鼻歌が聞こえてきたから、気のせいだったのだろう。
老人は自分の顔ほどもある大きな白い羽ペンを取り出して、厚紙に何かを書き込んでいる。
「おい、王子」
その隙に俺は王子をもう一度叩く。
もう震えてはいないから、何か別な考え事でもしているのだろうか。
「いい加減に離せ」
さっきよりも強めに叩いたせいか、王子はしぶしぶと顔をあげて、俺を見下ろす。
「老師は信用してますけど、」
俺の頬にそっと王子の大きな手が触れる。
「それとこれは別です。
僕は本気でリンカを――」
「できたぞー」
俺と王子の顔の間を丸めた紙が遮る。
顔を向けると、にやにやと人の悪い笑顔の老人が俺たちを見ていた。
「大切にするのは構わんが、余裕のない男は嫌われるぞ」
不機嫌の証に眉間にシワを寄せた王子が老人から紙を奪いとる。
おかげで少しばかり距離ができた俺は安堵の息をつくことができた。
いくら顔に興味がないといっても、鼻先の触れ合う距離での会話は落ち着かない。
「あなたには言われたくありませんね」
「年寄りのいうことは素直に聞いとくもんじゃよ」
話しながら紙を広げた王子が一瞬固まる様子に、俺は首を傾げる。
紙が厚くて、俺からは何も見えないから、何故王子が固まったのかがわからない。
「これは……本当なんですか、老師」
老人が深く頷くと、王子は辺りに花でも飛ばしそうな満面の笑顔を浮かべた。
「リンカっ」
「わっ」
また俺を抱きしめてきた王子はさきほどよりも強い力で、苦しいぐらいだが、喜びだけはいやというほど伝わってくる。
「な、なななんだ!?
おいこらヤメロっ!!」
「リンカはやはり僕が直感したとおりの人です!
これで僕は堂々と言うことができる」
「あ!?
何言ってんだ、王子、」
俺の疑念に答えることなく、唐突に俺から身体を離した王子が老人に向き直る。
「ありがとうございます、老師っ」
対して老人はホッホッホッと奇妙な笑い声をあげる。
「殿下が礼を言うと、槍が降るからやめなされ」
少し離れたからと言って抱かれていることに違いはなく、俺は王子と老人の間の見ない会話にかすかな予感を感じていたから、逃げたくて仕方がない。
「離せってば」
「それじゃあ、僕はもう行きますね」
俺を抱えたまま王子が歩き出すから、当然俺は慌てた。
王子の足は戸口ではなく、外の光が入り込むテラスのような場所へと向いている。
「下ろせって言ってんだろ、王子っ」
「暴れないでください、本当に落としてしまいますよ」
そう言いながらも王子の腕が緩む様子はなく、勝手に開いた大きな窓から俺たちは外へと出た。
上から降ってくる眩しい光に俺は目が眩んで、少しだけ目を閉じる。
「老師」
王子が一度部屋の中を振り返る。
その笑顔は陽の光よりもまぶしく見えて、俺は一度は開いた目をすぐに細める。
この人はなんでこんなにも俺を気に掛けるのか、まだ俺にはわからない。
「老師、僕はリンカを妻にします」
堂々とした宣言は何度も耳にしているが、冗談に聞こえたことは一度もない。
「そのつもりでわしを叩き起したんじゃろ。
わしゃ昼寝の最中じゃったに」
老人はそれを驚きもせずに欠伸で答えて、俺たちに背を向ける。
その背に王子が言葉を続ける。
「あなたの証明が一番効くんですが、ここまでしてくださるとは思いませんでした」
「なんの話じゃ。
わしは嘘の証明など書かぬよ」
「そうでしょうね」
王子の視線が俺に降りてきて、その甘やかさに俺は居心地の悪さを感じて顔を背けた。
「後ほど大神官殿宛で極上の神酒を届けさせますが、飲みすぎないでくださいね。
おそらくすぐにでも……」
「わかったわかった。
もう昼寝するから、すぐには起こさんでくれれば、それでよいよ」
老人の気配が唐突に消えて、俺は室内へと目を向ける。
残滓もないが、あれは何者だろう。
「リンカ、もう少しだけ我慢してください」
「え?」
俺が何かを問い返す前に、ふわりと俺たちを魔力のこもる風が巡りだす。
魔力風で王子の金髪も緩やかに波打つ。
「――風の間隙、空の裂け目……――」
王子の魔力が解き放たれる瞬間、俺は強く王子の襟を掴む。
安心させるように笑いかけてくれるが、不安ばかりが俺の中を過ぎる。
この人はなぜこんなにも俺に拘るのだろう。
俺はただの孤児で、綺麗でも可愛くもないし、女にさえ見えないのに。
「王子」
魔力の風が止んだ場所で、俺は王子を見上げたまま問いかける。
「なんですか、リンカ?」
王子は最初と変わらない笑顔を返してくれるが、もう俺はそれが作り笑いじゃないと見分けられる。
瞳の奥の甘やかさに気がついたのはあの遺跡の後で、俺はそれから必死に目を背けてきた。
王子と俺は住む世界の違う人間だ。
何をどう望んでも、俺と王子が一緒にいることなんてできない。
どれだけ王子が望んでも、無理なものは無理なはずだ。
俺が願っても、いや、俺が願えば王子は――。
「何してるの、二人とも」
固い姫の声音に、俺は我に返る。
自分が何を考えていたのか、何を言おうとしていたのかを思い出して、恥ずかしい。
俺は腹黒王子なんかどうでもいいはずだ。
目的はこいつから金をせしめることであって、一緒にいたいなんて望んでもいない。
勝手にこんな遠くに連れてこられて、迷惑しているはずだ。
「な、なんでもねぇ、よ……」
緩んでいた王子の腕から抜け出した俺は姫が抱えているものを前に一歩後付さる。
それは記憶がそうさせるのだから、もう不可抗力だ。
姫が手にしているのは、青いベルベットの光沢を持ったひらひらしたドレスで。
「姫、五分でできますか」
「任せて」
姫を助けに行った時の状況を思い出して逃げたい俺の両肩は、後ろから王子にしっかりと抑えられていて。
「すぐに迎えに来ます、リンカ」
俺にささやいた王子はそのまま俺の背中を姫に向かって強く押し出した。
「ちょ、まて、王子……っ」
「リ、ン、ちゃんっ」
がっしりと姫に両肩を抑えられた俺を残して、王子のくぐり抜けた扉はあっさりと閉まってしまった。
「リンちゃんにはレースとかフリルよりもシンプルなこういうタイプが似合うと思うのっ」
「ひ、姫」
「時間はないけど、私が世界一の美少女にしてあげるわねっ」
これだけ嬉しそうな姫を留めることができるわけもなく。
俺は観念して、抵抗そのものを諦めた。
そもそも俺が姫に怪我を負わせることができるわけもなく、怪我を負わせずに彼女から逃げ切れないのは前回で身にしみている。
この姫は王子の幼なじみというだけあって一筋縄ではいかないのだ。
大人しくドレスに袖を通し、鏡台のない部屋の中で椅子に座らされた俺は、姫を前に問う。
「なあ、姫、」
「動かないで」
「……はい」
しゃべるのもダメだと無言の意思を感じて俺は仕方なく問うのをやめた。
そのあとはされるがままに化粧を施され、きっかり五分後に部屋の戸がノックされる時には目の前で姫が満足そうな笑顔を浮かべている。
「私、天才っ!
美容師に転職した方がいいんじゃないかしらーっ」
王子も王子だが、姫も行動が謎だ。
人を着飾るのは趣味だと以前に聞いたが、姫は本気で王子が好きだと俺でもわかる。
その王子は俺に求婚していて、了承しているとはいえ、それでも姫にとっての俺は俺の意志に関わらず恋敵となるはずだ。
なのに、俺を着飾ろうとするのが理解できない。
部屋をノックする音で、返事をしながら戸口まで駆けてゆく姫を、俺は呼び止める。
「姫、なんで、あんたはここまでするんだ?
姫にとっちゃ、俺がいない方が都合いいはずだろ。
俺がいなけりゃ、姫は王子と結婚できるんだから」
好きなんじゃないのか、と俺が問うと姫は至極真面目な顔で俺を見返してきた。
「そうね、確かにリンちゃんの言うとおりよ」
「だったら、」
「でもね、それじゃいつまでもディルは私を好きにならないし、私も不満の残る結婚になるだけだわ。
そんなのはまっぴらっ!」
姫の白くて小さな手が彼女のドレスの裾をきつく握り締める。
「私はディルを好きよ。
でも、私を愛してくれない人とは一緒になれない。
だってそんなの……そんな哀しい結婚なんて、私に似合わないでしょ?」
一瞬姫は泣くかと思った。
だけど、俺の予想に反して姫は凛とした綺麗な笑顔で微笑む。
「姫、まだですか?」
戸の向こうから、少しばかり焦った王子の声と忙しないノックの音が響く。
「リンちゃんは嫌かもしれないけど、私はディルの願いが叶って欲しいと思ってる。
だから、どうかディルを――」
一際大きなノックに、姫の声はかき消された気がしたけれど、俺には聞こえた。
「おまたせー、ディルっ」
「何をしていたんですか?」
部屋に入ってきた王子が俺を見て、あの時のように息を飲む。
王子も着替えてきたのか、服もマントも新調している。
「んー、女の子同士の内緒話よ。
ね、リンちゃん」
姫のさっきの言葉が俺の中で木霊する。
――どうか、ディルを好きになってあげて。
俺の前にゆっくりと歩いてきた王子が俺の前に跪く。
それは、絵本で見るような騎士の礼だ。
「……リンカ」
王子が白い手袋をした俺の手をとる。
見上げてくる王子の視線は愛しさが溢れていて、姫に言われなくても俺はいつの間にか王子のことを好きになっていたのかもしれない。
「どうか、僕の願いを叶えてください」
俺はきつく両目を閉じる。
「僕の女神になってください、リンカ?」
それは古くからある求愛の言葉で、俺は俺がそれを言われるに値しない人間だと知っている。
どんなに望んだとしても、俺にはその資格がない。
俺は――あの時に決めたんだ。
「王子、立ってくれ」
目の前が影に遮られたのがわかり、俺は静かに目を開いた。
彫刻のような造詣を持った端正な顔、白磁の肌に、金を縒り集めた輝きを宿す髪、そして、果ての無い魔力。
容姿も地位も何もかも、王子は俺とは別の世界の人間で、そして、俺は王子を利用しようとする汚い下層の者だ。
「茶番はここまでだ、王子。
あんた、最初から何もかも気がついてたはずだろう。
俺がアンタたちを売ろうとしていたことも、全部知ってたんだろう?」
目の前の王子の表情は揺らがない。
「俺は女神の眷属なんかじゃねぇし、王子が思うほど綺麗な人間じゃないんだ。
あんたの隣にいられるような人間じゃないんだよ」
だから、と俺が続ける前に王子が俺の顎に手をかける。
「だから何です?」
「っ、だから、そんなもの受けられないって……っ」
俺の叫びが塞がれる。
大きく目を見開く俺の前には王子の蒼天の瞳が閉じられていて。
長い睫毛が震えているのが見て取れる。
顎をつかんでいる右手はそのままに、左手で俺は王子に腰を掴んで引き寄せられる。
王子と触れ合う口から俺に伝わってくるのは甘い痺れで、触れているだけなのに泣きたくなるほど優しくて。
俺に抵抗できなくさせる。
「リンカが汚いと言うのなら、僕の方がもっと汚い。
僕は僕の意志でこの手を染める事なく何人もの人間を陥れてきたんだ」
北の大国クラスターは冷酷非情な王が治める国と、俺も聞いていた。
王子といるほどにそれに王子が関わっているだろ言うことにも気がついていた。
「リンカ、誤解しないでほしい。
僕は願いと言う形をとってはいますが、最初からあなたを手放すつもりないんです。
女神の檻に閉じ込めて、あなたを幽閉することもできる」
だけど、俺は知っている。
非情なだけじゃ人はついてこないし、王子は真実の優しさを知っている。
だからこそ、城に戻って迎えてくれる人がいて、姫やシャルダン様のような味方がいるのだと。
「……あんた、馬鹿だな」
「リンカには及びませんよ」
「俺が大人しく幽閉されるとでもいうのか。
刻龍が破れない檻なんかあると思っているのか?」
助けだされたとはいえ、紅竜があのまま俺を諦め、引き下がるわけもない。
どんな檻も刻龍にとっちゃ意味のないモノだから、すぐにまた俺は捕まり、今度こそ逃れられないだろう。
そして、舞台を台無しにした王子達は。
俺の肩と胸が苦しくなり、耳元で王子が囁く。
「だからこそ、リンカは僕の隣にいなければいけません。
そうしなければ、弱い僕はすぐに死んでしまいますからね」
冗談めかしているけれど、大切に俺を抱きしめる腕の力が語っている。
「あんたを守れと?」
「はい、そういう契約です」
王子は優しいから、俺がそうしなければ動けないとわかっているから。
道を作ってくれる。
逡巡する俺を腕を緩めて見下ろす王子がどうだと微笑んで見せる。
本当に噂通りの大した策士だ。
だけど、俺はその索に収まるような人間じゃないんだ。
両腕をつっぱって王子から体を離す。
「本当に馬鹿だよ、王子」
「ふふっ、そうかもしれません」
笑顔で肯定する王子を、俺は真面目に問い詰める。
「あんた、最初から全部知ってて仕組んでるのか?
俺が本物の、女神の眷属、と知ってて」
久方ぶりにそれを口にすると、離れた場所で姫が息を飲んだ。
王子は驚かないと言うことは、やはり。
「いいえ、リンカ。
僕が知ったのはついさっきです」
「うそつけ」
「本当です。
でなければ、大神官の署名まで求めに行く必要などないでしょう。
それより、僕はリンカが知っているとは思いませんでしたよ」
そうだろうと、俺は顔を背けて、卑屈に笑う。
「知らなきゃ、ここまで生きてこれねぇよ。
とっくにどこかに売り飛ばされてどこぞでくたばってるだろうな」
俺が自分の系統を知ったのは養父と出会ってから数年を過ごしてからのことだ。
俺が養父を師と呼んだその日に、彼から俺が女神の眷属であると知らされた。
それが何を意味するのかと言うことも、全部を聞いた。
「女神の眷属は至宝、手にするモノに世界のすべてを与える――なんて伝承があるせいで、何人も殺されたって聞いてる。
だから、俺は自分を守るために拳闘の技を、禁忌にまで手を染めて身につけてきたんだ」
俺がひとつ腕を振るう。
何の小細工もしていないのに、小さな風が起こり、王子の左袖が切れて、その先で壁に大きな亀裂が入った。
非常時以外には決して使わない、暗殺術。
「俺はこの技で生き抜いてきた。
いくら女神の眷属でも、そんなやつに――資格なんかねぇだろ」
幸せになってくれというのが養父の遺言で、それだけを掴むために俺は生きてきた。
でも、人殺しの技を身につけて、それを使ってきた俺にそんな資格なんて、女神の眷属である資格なんかとっくにないってことぐらい、自分でもよくわかっている。
「王子、あんただって、それだけの力を持ってる。
誰かに守ってもらう必要なんかねぇだろ」
この旅の間俺が何度も感じていたことだが、王子の魔力は本当に無尽蔵で果てがない。
世界に三人もいないといわれる本物の魔法使いだと言うのも、今じゃ疑いようもない。
「俺も、今更誰かに守られたくなんかねぇんだ。
だから、」
「ふっふふふっ、はははっ」
俺の言葉を王子の笑いが遮った。
「言いたいことはそれだけですか、リンカ」
「お、おう」
王子は綺麗な作り笑顔を俺に向けてきて、おもむろに俺の腕を掴んだ。
「言ったでしょう、僕はリンカが女神の眷属だろうが、他のなんであろうがどうでもいいんです」
「なっ」
そのまま俺を引きずる力には迷いが無く、決意の表れなのか、俺にはまったくその手を外すことができない。
「僕にとってはリンカがリンカであることだけが重要で、それ以外は些末な事。
もしあなたが女神の眷属ではないのだとしても、僕に釣り合う系統をでっちあげるつもりでした」
姫の隣を通りすぎる時に助けを求めたが、相変わらずの笑顔で見送られてしまった。
「なんだよ、それっ」
「僕は最初から素手で叔母上の親衛隊を殴り倒すリンカを気に入って、そして、姫を助けようと真剣に考えてくれるあなたを好きになった。
ただそれだけのことなんです」
女神の眷属であることがどうでもいいだなんていう人間はこれで二人目だ。
あの紅竜だって、どこかで俺が女神の眷属だと聞きつけたから手にしたがったっていうのに、それを関係ないだなんて。
「離せっ」
「まったくそんなことでこの僕が振られるなんて、冗談じゃないですよ」
王子がどこかの綺羅びやかな大扉の前で立ち止まる。
扉の両脇には剣を携えた兵士が両脇に控えていて、床には赤い天鵞絨の絨毯が敷かれていて、これではまるで「謁見の間」みたいじゃないかと俺は青ざめた。
「で、殿下、いつお戻りになられたので」
「父上は仕事中かな?」
王子の問いに答えながらも兵たちが王子と俺を交互に見比べる。
「コゼット公爵と談笑をしておられますが、その、」
「そうか。
じゃあ、開けてくれ」
この扉が開かれたら、ますます後戻りができなくなる気がして、俺は躍起になって王子の腕を外そうと試みる。
「こ、国王陛下!
ディルファウスト皇太子がお戻りになられました」
一人が扉の中へと入り込む間に王子が俺の腕を引き寄せ、しっかりと片腕で抱きしめる。
王子の上品な太陽の香りが近くで香り、先程のキスまで思い出されて、心臓がうるさい。
「な、なにすんだ、離せっ」
「こらこら、仮にも国王陛下への謁見なのだから、言葉遣いはもう少しご婦人らしくお願いしますよ、リンカ姫」
「ひ、姫っ?」
何を言い出すんだと俺が抗議する前に、大扉が開き始める。
その向こうには威厳のある壮年の男性と、立派な服を来た白髪の小男がいる。
白髪の小男は俺たちを見て、ひどく驚いているようだ。
「ディ、ディルファウスト殿下……っ」
王子が冷ややかな目で小男を見てから、まっすぐに威厳のある男性の前へと進んでゆく。
俺を片腕でしっかりと抱いたまま。
「ただいま戻りました、父上」
「よくぞ無事で戻ったな、ディル。
まあ、お前に限って、無事に戻らぬこともあるまいが」
王子が父上と呼ぶと言うことはすなわち、この男性はクラスター国王とすぐに俺は理解した。
本当に俺をこんな場所に連れてくるなんて、今更疑うべくもないが本気なのだろうか。
「ところで、ディルよ。
おまえはサフラン姫を迎えに言ったのではなかったか。
その娘は何者だ?」
サフラン姫って誰だと思ったが、流れからして、俺がずっと姫としか聞いていなかった女性のことだろう。
「姫ならばすでにそこにいるコゼット公爵のご子息と帰還しております。
どうやら、どなたかの差金で刻龍に攫われているようでしたが、ここにいるリンカ姫の手をお借りして、無事に取り戻した次第にございます」
姫をさらったのはシャルダン様じゃなかったかと考えかけた俺の肩が強く王子に掴まれ、見上げる。
「リンカ姫とおっしゃられるか。
サフラン姫の父として、礼を申し上げる」
国王と言う人に頭を下げられて、俺も流石に慌てる。
貴族や王族は嫌いだが、頭を下げられたいわけじゃない。
「や、やめてくださいっ。
私は王子に頼まれただけで……っ」
「本当に、有難うっ」
深く深く頭を下げられては俺の立つ瀬が無い。
どうしたものかと王子を見上げると、任せろとでもいうのか軽く頷いた。
「父上、こうして無事に戻ったばかりで恐縮なのですが、今日は急ぎの願いがあって、参上しました。
本来ならばきちんとした手順を踏んでおきたいところなのですが」
王子の言い回しに、俺は眉根を寄せる。
これは、この流れはなんだか嫌な予感しかしない。
「お、おい、王子」
「姫を救うのを手伝っていただいた折に私はこのリンカ姫の勇敢さ、聡明さに心揺れてしまいました。
つきましては、サフラン姫との婚約を破棄し、こちらの姫との婚姻を望みたいのですが、許可願えますか」
やっぱりか、と俺は自分の腰に回された王子の腕を強く掴んだ。
「な、何言い出すんですか。
その件については……っ」
「彼女も私を好いてくれておりますし、大神官殿に系統の検査をしていただいたところ、何の問題もないとわかりました」
王子が国王にさっき老人に渡さえた紙を差し出す。
受け取った国王はその内容と俺を何度か見比べ、柔らかな笑顔を浮かべた。
「おまえのことだから、他の姫君を黙らせる手はすでに打ってあるのだろうな」
「当然です」
「では、私が言うことは何もない。
好きにするが良い」
王子が口の両端をあげて、嬉しそうに笑いながら頭を下げる。
「有難うございますっ」
「后にはきちんと挨拶しておけよ。
私にもあれはどうにも手に負えぬ」
「はいっ」
失礼します、と二人で謁見の間を出たすぐあと、廊下にだれもいないのをいいことに、俺は王子の襟を掴んで締め上げた。
「誰が誰を好いてるって!?
いい加減なことをいいやがってっ」
「う……っ、嘘ではない、でしょう。
リンカは僕を好きなのだから」
驚いて、俺が手を離すと、王子は荒い息を抑えて、数回深呼吸する。
俺は一度も王子にそんなことを言った覚えはないのに、なんでそんなことがわかるんだ。
「なんでそんなことがわかるのかって顔をしてますね。
そりゃわかりますよ。
リンカは素直ですからね。
それだけ全面に好きだと出されては気がつかない方が無理です」
強気に笑う王子から距離を取ろうとしたが、すぐに俺は王子と位置を入れ換えられてしまった。
後ずさりしてもすぐに背中が冷たい壁につく。
「リンカ、あなたは自分で思うよりもずっと素直で可愛いんですよ。
この僕が手放したくないと思うほどに、とても魅力的な女性です」
王子の右手の細い指がこのドレスに着替えた部屋の時のように俺の顎にかかり、持ち上げる。
「そろそろ覚悟を決めてください」
「覚悟って、何のだよ」
柔らかく王子が俺に微笑む。
「もちろん、この僕を落とした覚悟ですよ。
僕はこれと思ったものは手に入れる主義です。
いつかリンカの心も僕のものにしてみせますからね」
近づいてくる王子の整いすぎた顔に、俺は強く目を閉じる。
そんな覚悟はないけれど、俺はとっくに王子に心を寄せている。
知らないうちに信頼している自分に、気がつかないわけがない。
来ると思ったキスは来なくて、俺は恐る恐る目を開ける。
鼻先の触れ合う距離にいる王子はひどく切ない顔で俺を見ていて、だがすぐに強く笑って俺の鼻に噛み付いた。
「痛っ」
「さて、リンカで遊んでいるのもこの辺にして、僕の部屋に行きましょうか」
鼻先を摩る俺の体がふわりと浮かび、この城に来た時と同じく王子の腕に収まる。
「へ、部屋!?」
「叔母上に挨拶に行けと言われたからには、作戦を練る必要があります。
カーク、あなたの主人と姫と西の魔女殿を僕の部屋へ呼んでおいてください」
短い返答が聞こえて俺が振り返ると、すでにそこには誰もいないが。
「……カークが、いたのか」
「彼はいつもいますよ。
魔女の眼がありますから」
「は!?」
「西の魔女殿は僕以上の魔法使いです。
きっと良い知恵をもっていることでしょう」
王子が言っていることは、俺には分からない事だらけだ。
だが、少なくとも王子が俺を無理やりどうこうするために部屋へ連れて行くのではないとわかり、俺は安堵の息をついた。
「本当なら、すぐにでもリンカを僕のものにしてしまいたいですが」
「……っ」
「それは後にしましょう。
大神官殿にも厳命されていますしね」
残念だといいながらも王子の足取りは軽い。
「それよりも、先に部屋にいて見せつけた方がいいかな」
「な……っ」
「そうですね、せめてリンカが僕を好きだと言ってくれるまで、彼らが来るまで口説きましょうか」
とんでもないことを言いながら足を速める王子だが、相変わらず腕が緩む気配もなく。
俺はこれからもこんなのと付き合っていけるのだろうかと軽い頭痛と、僅かばかりの和やかな幸福を噛み締めた。
「しかたねぇから、守ってやるよ。
ディルファウスト・クラスター」
立ち止まった部屋の前で俺を降ろした王子が、室内の騒々しさに軽く落胆しているのを見て、俺は王子の左手を握って小さく囁く。
それが聞こえたかどうかはわからないが、少なくとも俺を見て微笑んだ王子は、悔しいけれどやはり格好良い本物の王子の顔をしていた。
続きは外伝。