17#よくある系統劇
暖かくて柔らかな光が俺の瞼にそっと触れる。
鼻先に香るのは春の日差しが作る若草の匂いのようにも思えるが、春は少し前に終わったのになとはっきりしない頭で俺は考える。
「ユーシィ、ニンゲンがいるよ」
「こら、そういう言い方しないの」
囁く会話が俺の耳元をそよ風と同じく、そっと通り過ぎる。
ひとつは甲高い幼女の声で、ひとつは落ち着いた大人の女の声だ。
「だって、ユーシィ、この子変よ。
ニンゲンなのに、アタシとおんなじだもの」
甲高い声が続ける「変」と言う言葉がちくりと胸を刺す。
孤児だった俺には言われ慣れているはずなのになんで今更傷つくのか、俺もよくわからない。
「アタシとおんなじに、ユーシィみたいな女神の加護を持ってる」
女神と聞いて、俺はゆっくりと目を開けた。
うっすらとぼやける視界の向こうには、陽色の波打つ髪を垂らした、白くて長いドレスを着た女がいる。
その前には白くてふわふわした何かが、ひょこひょこと長い耳を揺らしている。
ウサギのようにも見えるがそれにしては丸過ぎる体型で、どちらかというと白くて丸い毛玉に無理矢理耳を生やした感じだ。
「別に変じゃないわよ。
だって、この子はリンカだもの」
事も無げに言われて、俺は吃驚して目を見開いた。
「ユーシィ、知って」
「あんた、俺を知ってるのかっ?」
起き様に俺が噛み付くように問いかけると、白い毛玉は転がるように女の背後へ逃げて、すぐにその肩口から俺を伺いみてくる。
でも、そんなことはどうでもいい。
目の前の女は驚くでもなく、少し潤んだ空色の瞳で俺をじっと見つめる。
それが意味するところはわからないけれど、心のどこかで俺はこの女を知っている気がする。
「忘れるはずないわ」
女が伸ばした白くて細い腕に微動だに出来ない俺に、女の細い指が触れる。
微かに見える赤い線は先の尖った葉っぱに触れてできたミミズ腫れだろうか。
「どれだけ姿が変わっても、私たちは忘れないわ。
だって、あなたは――」
女が何かを続ける前に遠くで誰かが誰かを呼ぶ声が聞こえてきた。
ユシィと聞こえるな、なんてぼんやりと考えていた俺の前で、毛玉が騒ぎ出す。
「ちょちょちょっとやばいよ、ユーシィ!
アレスが探してるっ」
言った方はすごく焦っているが、言われた女の方はおっとりとそうねなんて呟いている。
「そろそろお茶会の時間だからね。
今日こそは私にゲームで勝つって息巻いてたから、探してるんじゃない?」
「そんなのユーシィが勝つに決まってるのに、アレスってば何無駄なことしてるの……じゃなくて、このニンゲンがアレスに見つかったらヤバイでしょって!」
「なんで?」
毛玉はポンポンと女の周りを飛び回りながら訴えているが、女には一向にそれが伝わっていないのが俺から見てもわかる。
というか、これはなんなんだろう。
無造作に手を伸ばすと、簡単にその耳を捕まえられた。
「痛いっ、何するの!?」
耳を掴んでいるつもりだったのだけど、身体と思しき球体部分がぐりんとこちらを向いて、サファイアみたいな赤い目をいっぱいに見開き、身体が半分に割れるんじゃないかというほど大きな口を開けたので、俺は驚き、手を離してしまった。
「ひどいニンゲンだわ!
痛いじゃないのっ!」
目の前で跳ね回りながら抗議してくる物体を俺はじっと見る。
こんな生き物は見たことがないから、魔物か妖精だろうか。
「ユーシィ、こんなニンゲン放っておきましょ。
アレスを待たせたら、……うぶっ」
怒りながらの白い物体の提案は、あっさりと女の手に遮られた。
「確かにアレスに見つかったら、少し面倒になるから」
笑顔で差し出された女の手と顔を交互に見て、俺はどうしたものかと迷う。
それに気づいているのか、女は俺の手首を掴んで、あっさりと立たせた。
「私じゃ送ってあげられないから、ソプラ姉様のとこに行きましょう」
簡単に手を取られて、俺は内心で動揺していた。
身体に染み付いた拳闘士の技は無意識下でも、自然と俺を警戒させて、掴ませないはずなのに。
完全に安心しきっている自分に、俺は一番動揺していた。
誰かに手を引かれながら歩く。
そんなのはたった一度養父にされただけなのに、この女と歩くのはひどく懐かしい気がして、夢でも見ている気がして。
「リンカは毎日何をして過ごすの?」
「毎日楽しい?」
「一緒にいる人たちがリンカに優しいと、私も嬉しいなあ」
ぶんぶんと繋いだ手を振って、女は楽しそうに歩く。
でも、それも少しの間のことだ。
風に音が混じる。
聞いたことのない旋律が、強く俺を揺さぶる。
「良かった。
ここからはソプラ姉様がリンカを導いてくれるね」
またね、と言われて俺が顧みた時には隣に女の姿は既になかった。
あの毛玉もいない。
残された俺は音の方へ顔を向ける。
音の種類は聞いたことのないもので、だけど覚えのある音律の並び。
一歩ずつ、俺は前に進みはじめる。
聞いたことのないはずなのに、覚えのある音律、香りのよい緑の木々や色とりどりの見たことのない花々、争いとは無縁の世界を俺は導かれるように進んでいく。
触れることも匂いを嗅ぐこともできるのに、現実味がない。
ここは俺の生きていた現実ではないとわかるのに、これこそが現実であるべきと誰かが俺の中で騒いでいる気がする。
(違う)
歩きながら、俺は否定する。
ここは現実じゃない。
俺がいるべき場所じゃない。
俺がいる場所は血生臭いけれど暖かい、人の血が、温もりが通う世界だ。
こんな風な突き放した温もりなんて、いらない。
いらないんだ。
「お久しぶりですわね、リンカ」
急に手を取られて、俺は目の前に立つ女を見上げた。
さっきのユーシィとかって奴とは別の女のはずだが、容姿はよく似ている。
違う点といえば、女の体から発せられているような穏やかな音律だ。
俺が引き寄せられた、音の波。
「でも、ここに来てはいけないはずなのに、誰が遣わしたのかしら。
徒に送らないでって、いつもいってあるのに、しょうのないヒトね」
女の口調から、おおよその状況を彼女が読み取っていることがわかる。
さあと促されるままに俺は柔らかな草の上に座らされた。
抵抗一つしない自分の異変は感じても、逆らうことができない。
逆らおうとも思えない。
「リンカはまだここに来てはいけないの。
だから、もうしばらくはあの場所で生きて、導いてあげて」
女が小型の竪琴を取り出し、静かに歌い出すと、彼女の纏う薄布がリズムを取り始める。
女の歌う音は心地よく、聞き覚えのない子守歌に包まれて、俺の目蓋が重くなる。
(誰、だ?)
――愛しき女神の娘
――貴方は女神の願いを託されし者
――永き世を導き……
歌は音になり、音が風になり、風は光になり、俺は微睡みに流された。