16#よくある転移劇
冷たい風が俺の頬を撫で、王子と姫が同時に息を吐く。
「意外と早く戻っちゃったわねぇ」
「今回ばかりは、僕はまだ死ぬわけにはいかないからな」
王子にマントで包まれ、横抱きされたままの俺が辛うじて見ることができたのは、灰色の石で作られた小さな室内だ。
小さいと言っても、大人が十五人程度入れる広さはありそうで、正方形の部屋の一辺には濃い紅の分厚いカーテンがあり、カーテンの隙間から本やら書類やら筆やらと者が散乱している様子がわかる。
部屋の床には白いチョーク石で描いた完全な円形を描いた魔方陣があり、中にも読めない文字や絵が描いてあるが俺には何が書いてあるのかわからない。
王子のマントにくるまれているからマシではあるが、地下水道のようなひやりとした空気の冷たさに俺は身が震える。
「リンちゃんの服、私の貸そうか?」
「ああ、頼む」
二人が話しながら木の扉を開ける軋み音に、俺は眉をひそめる。
「おい、ここはどこなんだ?
ってゆーかもう降ろしてくれよ」
俺の声が聞こえていないのか、二人は冷たい石の廊下を歩き出す。
「あーあ、もうちょっと遊びたかったなぁ。
せっかく、さらわれてるって名目で遊べるチャンスだったのに」
つまんないなーと口にする姫の言葉に、俺は嫌な予感をヒシヒシと感じていた。
さっきの転移門で移動したまではわかるし、王子が本物の魔法使いであることも、化け物じみた魔法許容量を持つことも、使う実力があることも俺は知っている。
単純に考えて、相当の距離を移動できることも。
だが、北の大国クラスターはリズールから一マイルや二マイルなんて距離じゃないし、王都はクラスターの北部にあるし、途中で山越えだってある。
地図上での直線距離にして、八百マイル。
通常の転移門はせいぜい百マイルがいいところで、それ以上なんて聞いたことがない。
そんな距離を移動できる転移門など、にわかには信じがたい。
「なあ、ここどこなんだよ?」
王子の体を叩いて尋ねると、少し腕を緩められ、王子の意外そうな表情を目にできる。
そこまで驚くことを口にした覚えはないのに、失礼な男だ。
「寒くありませんか?」
「寒いに決まってんだろ」
俺が言い返すと、王子は数回瞬きした。
わからないんですか、と無言で問いかけてくる王子を、俺はまっすぐに見つめて返す。
俺たちを見ていた姫が呆れた息を吐き、何かを口にするのと同時に、俺の耳に複数の足音が届いた。
金属の擦れあう音も混じる。
「ディルファウスト殿下、よくご無事でお戻りに、なられました……っ」
先頭にいるカークを押し退け、真っ先に白銀の騎士の甲冑をつけた壮年男性が、王子の前で膝を折る。
後に続く者も同様だ。
次々と自分にかしづく男たちを前に王子が気まずい苦笑をする。
「おいおい、大袈裟だなぁ。
皆も息災で何よりだよ」
王子の言葉に、カークを除いた全員が感涙しているようだ。
「もったいなき言葉であります。
我ら、殿下の帰還を心待ちにしておりましたっ」
先頭の壮年騎士が涙ながらに応える。
王子は柔らかな作り笑顔を張り付かせているようだ。
「王妃様は奥室にて、西の魔女殿と談笑しておられます」
「西の魔女殿が?」
意外そうに王子が問い返し、カークへと視線を送る。
カークはいつも通りの表情にしか見えないが、関係する者なのだろうか。
「偶然ではありましょう」
「そうね、めーちゃんはお母様を怖れてるみたいだから、適当に……うん、私の部屋に呼んでくれる?」
騎士たちがいなくなってから、姫がカークに笑いかける。
「ま、めーちゃんが本気出したら、お母様もディルも敵わないけどね。
一応ね」
俺にはカークが心なしか安堵の表情を浮かべたような気がした。
て、王子以上の魔法使いがいるのかよ。
「お父様はどこにいるのかしら?」
次に姫が問うと、カークは一礼で応じる。
「陛下は講義謁見の間でコゼット公爵と執務を行っておられます」
王子はそれをきくやいなや、迷いない足取りでスタスタと廊下を歩き出した。
振動で落ちそうな気がした俺がしがみつくと、王子が俺を抱く腕を強くする。
「準備は出来ているか」
姫も俺たちを追いかけてきて並び、斜め後ろからの声でカークが着いてきているのもわかった。
「はい、祭壇の間にて先ほどからお待ちです」
俺には当然のように意味不明だが、誰がとも何故とも言わなくても王子も姫もそれで理解できたらしい。
「何々、そっちが先なの?」
妙に嬉しそうな姫はともかく、俺はとにかく王子の腕から逃れようと試みた。
この腕の中は居心地が良いけれど、もしも俺が予想する通りの場所ならば、この状態は非常に良くない展開を引き起こすに違いない。
「もちろんだよ。
そうでなければ納得しない方が多いからね」
「ディルは外面いいものね」
笑いを含めて姫が口にすると、王子はぴたりと足を止めた。
「もうちょっと言い方があるだろう、姫。
リンカもあまり暴れないで」
「だったら降ろせ」
俺がすかさず言うと、王子は逃げるから嫌だと言った上にあろうことか、走り出した。
「走んなぁぁぁっ!
ゆ、ゆれるっ」
「着いたら、すぐ降ろしてあげますから、我慢してください」
振り落とされないように俺がしがみつくと、ますます王子は走る速度を速めるので、俺は寒いということも相俟って、動けない。
俺が王子の腕の中で揺られながら見た後方では、姫とカークは何かを話しているばかりで、二人とも王子の行動についてはまったく気に留めていない。
そこからもだが、これまでの短い期間の間だけでもこれが王子のやり方だと気がつき、俺はげんなりと気持ちを曇らせた。
遠ざかっていく幾つかのドアは王子の身長よりも高く作られていて、それぞれ別な場所にラルク石を使った模様がついている。
しかし、それ以上に気になるのはこの回廊だ。
一定の区間を抜けるごとに、それまでの俺の五感を狂わせて行くようで、徐々に気分が悪いなってゆく。
その原因がこの城全体に強力な力が作用しているせいだと聞いたのは、後になってからだ。
女神を守るための檻だと、この時の俺にはよくわからなかった。
「王子、どこに行く気だ?
まさか、さっきの、こう……何とかの間じゃないだろうな」
「公儀謁見の間?
まさか」
良かったと俺が安堵したのはつかの間だ。
「もちろん直に連れて行きたいのは山々ですけど、その前に最低限の許可を取ってこないといけないんです」
僕と血がつながっているとは言ってもこの国の王ですから、と話す王子が走る速度を少し落としたのがわかる。
「本当はリンカにもちゃんとした姫の格好をしてもらいたいところですが、姫の準備を待っていられないというのは残念です」
王子のいうのが前回の姫の手でさせられた女装ではなく、本格的な衣装だということぐらい、いくらなんでも俺は気がつく。
「ちゃんとじゃねぇって!」
回廊はいつの間にか冷たい石造りへと変化していて、俺は怒鳴り返せる程度には回復していた。
石の回廊は先ほどのような方向感覚を狂わす作用はなくて、ただ延々と石の柱が続いている。
既に走るのをやめた王子の腕の中から見えた回廊の窓からは、星と月の煌きが行く先を照らしていた。
ここが大神殿の最深部に近いといわれなくても、俺は回廊に零れている空気の欠片から微妙な変化を感じていた。
ここに来るまでの道は俺を受け入れない、反発する圧力で押さえ込まれる感じで気分が悪くなったが、この石の回廊はどこか懐かしい空気を持っている。
記憶の中にこんな感覚になる場所なんて、ひとつしかない。
でも、あの場所は既に存在しないんだから、あり得るはずがない。
急に王子が立ち止まって、俺をどこかの扉の前に降ろした。
扉から溢れてくる力に、俺は自然と身体が強ばる。
この温かく優しい力は俺を歓迎しているけれど、俺は。
「ここ、は?」
扉には何の宝石も使われていなくて、ただ不可思議な文様が彫り込まれていた。
中心には一枚布を纏う豊満な身体の女性が二人描かれていて、扉の中心で互いの手を併せている。
他にも両扉それぞれに二人ずつが描かれ、左下には木陰で休んでいる女性がいて、左上では同じ木の上で鳥と遊んでいる女性がいる。
右下では水辺で遊んでいる女性がいて、右上には七つの光の輪を投げて回す女性がいる。
彼女たちは有名な創世の女神たちだ。
一人足りない、と俺でもすぐに気がつく。
「怖いですか?」
俺にというより、自分自身に問いかけるように王子が言う。
肩に置かれた王子の手から、いつになく彼の体が強張っているのがわかった。
「王子が怖いんだろ」
「ふっ、ばれましたか」
感情を隠そうとしない王子はどうしてか震えていて、だけど俺にはその理由がわかる気がする。
力があるものは誰だって、ここに描かれていない、あの女神を恐れる。
ここにないということはこの向こうにいるというのと同じ意味で捉えていいはずだ。
すべての女神が同じ場所にあるからこそ、ここは大神殿たりえるのだから。
王子は一度大きく深呼吸してから、扉を叩いた。
中から男のしゃがれた声が応え、意外なことに王子は一礼をしてから扉に手をかける。
「老師、失礼します」
王子が力を込めると重そうな軋み音を響かせて、絵が半分に割れた。
ゆっくりと開いてゆく扉の隙間から白い光が溢れてきて、俺は思わぬ眩しさに両目とも閉じる。
それは目を射すような光でなかったし、暖かな春の空気の中で居眠りする空気が流れてくる気がしたが、それでも瞬きせずにはいられない光量だったのだ。
どんな魔法を使えば、こんな目の眩む部屋になるんだと俺は目を閉じたまま呻く。
俺の周りをぐるり、温かな力が巡り過ぎる。
目を開けた俺はまたぱちぱちと瞬きした。
改めてみた室内はいたって質素で、乳白色の大理石で四方と天地を囲まれている以外には何もない部屋だ。
扉にいなかった女神の姿も描かれていないし、あの温かい光はどこから出ていたのかと俺はキョロキョロと周囲を見回した。
「その娘がそうじゃな?」
しゃがれた男の声は、俺のすぐ近くで聞こえた。
すぐに声を顧みたが姿はない。
そういえば、部屋の中には俺と王子の姿しか見えない。
「座ってください、老師。
僕は構いませんが、リンカはまだ老師に慣れていませんから」
王子は真っ直ぐ空に話しかけているが、その視線をたどっても、俺には誰も見えない。
「王子、だれかいるのか?」
まさか幽霊と話しているわけでもないだろうと考えたが、俺は自分の掌がじんわりと汗をかくの感じる。
俺の隣に並んでいる王子は、お願いしますともう一度丁寧に願い出た。
誰かが俺の背中側から肩を押し、俺は前に倒れそうになって、反射的に振り向き様に握った拳を向ける。
「ほっ」
何か柔らかい布のようなものが拳に触れた気がしたが、当たらない。
攻撃が交わされたことはよくわかり、俺は苛立ちを隠さずに叫んだ。
「なにしやがるっ」
ため息で返された返答に俺はますます苛立つ。
「やれやれ、おなごがそんな言葉を使うでないわ。
神力が落ちるというのを聞いたことはないかな?」
声がまた目の前で聞こえたかと思うと、俺の正面に肌色の人の頭が現れた。
頭の次には大きな目がぎょろりと現れ、皺くちゃの首、肩、腕、身体、足と順に出てきて、最後には身長百二十センチメートルぐらいの、異様に大きな目をもつ、しわしわの老人になった。
老人が着ているのは青白の神官服だが、こんな子供サイズなんて、俺は初めて見る。
リズールにも故郷にも神殿はあったが、皆屈強な身体をしていたから、そういう服しかないと思っていただけに、俺は怪訝に老人を睨みつけた。
「ねぇよ、んなこと」
「わしもない」
ケタケタと老人はおかしな笑い声を上げる。
王子が諌めなかったら、俺はすぐにでも殴り飛ばしているところだった。
「老師、気持ちはわかりますが、今は先に例の……」
「そう急かすな、ディルファウスト殿下よ」
老人はのんびりとした口調だが、その言葉には王子をも従わせる力があった。
「娘よ、名はなんと申す」
「リンカだ」
いつもの口調で答えた俺は後頭部を叩かれ、叩いた王子を顧みる。
「なんだよー」
「他はどうでも構いませんが、リンカ」
俺を諌める王子をしゃがれ声が明るい笑い声とともに遮る。
「ホッホッホーッ。
リンカさん、お主、血の気は多い方かな?」
「へ?」
「まぁどちらでも構わんがの」
いかにも面倒くさそうに、老人は杖を取り出して掲げる。
それまでのからかい気味の様相が一辺し、真剣なものへと変わる。
まるで神官みたいな清らかな空気が一瞬で俺を包み込んだ気がして、時間が少し止まった。
「あ、術式を忘れてしもうた」
気のせいかと俺は小さく安堵し、だが次には安堵した自分を不思議に思う。
安堵したということは、逆にいえば不安だったということだ。
こんな老人など畏れるに足らないはずなのに、俺は何を不安がっているのか。
「大丈夫、大丈夫じゃ。
リンカさん、目を閉じて心を少し鎮めなされ。
そのように騒いでいては、真実は見つけられぬよ」
別に騒いでいるつもりもなかったし、この老人にかなり不満はあったが、俺はどうしてか言うことを聞いてしまっていた。
「そうそう、そのままじっとして居るのじゃよ」
目を閉じて闇の中にある俺の額に何か柔らかいものが当たり、闇が弾けて、いっぱいの白い光になる。
「リンカ!?」
「落ち着きなされ、殿下」
下を見ると意識のない俺を王子が抱きかかえていて、老人に文句を言っているのが遠くに聞こえる。
近くに行っても影みたいに触れられないのが不思議だ。
王子たちのことが気にならないわけでもないが、俺はそれよりももっと強い旋律が自分を引っ張るのを感じて、天を仰ぐ。
部屋全体をぐるりと巡るキラキラ輝く風の流れが見えて、それは天井を通り抜け、さらに高い場所を目指す風と光の柱みたいに見える。
その柱そのものが音を発していて、それは水の流れだったり、せせらぎの音だったり、風の吹く声だったり、虫の合唱だったりする。
風の流れに混じる白いものは白雲だろうか。
「リンカに何かあったら、ただじゃすませませんからね、老師」
「おーこわっ、短気ではおなごにもてぬぞ」
「あなたに心配されたくありませんね」
王子と老人の声を聞きながらも、俺はその柱の先に呼ばれているような気がして、二人に背を向けた。
その瞬間、抗いようのない強い力に引っ張られ、二人の声があっという間に遠ざかっていく。
風と光で出来た柱の中は外から見ていた以上に強い風力と光量で構成されていたから、俺は強く目を閉じてしまって、ただその流れに身を委ねた。
不安は不思議なほどなくて、流れの中にいるのは泣きたくなるほど懐かしかった。