15#よくある婚礼劇
※リンカ視点。
程良い闇に月が輝く夜、リズールの西南西に位置する樫、椎などの常緑広葉樹が生い茂る深い森の奥で、闇の中に静かにほうと啼く梟の声を合図にひっそりと明かりが灯る。
ひとつ、またひとつと道案内をするように、深い緑の奥の奥へと続く明かりは刻竜のメンバーらが持つ松明だ。
全員が黒装束に全身を包み、その背には目立たないが黒い糸で刻龍の文様が刺繍されている。
俺の後ろから同じ黒装束ながら、緋色の刻龍の文様を背負った紅竜が声をかけてくる。
彼の背後に控えている数人もすべて黒と赤と白以外の糸でそれぞれの背に刻龍の文様を刺繍してあるのを、俺はもう随分前に見せてもらった。
「綺麗だろう」
ふわりと後頭部から背中にかけて温かくなったと思ったら、俺は後ろから紅竜に抱きすくめられていた。
だが、それだけじゃなく、俺の頭に白くて光沢のある大きな布をかけたのだというのは、視界の上半分と肌に触る感触で気がつく。
闇の中に俺一人だけ、シンプルな白いドレスに身を包み、遠目に見れば、刻龍に囲まれているなど気がつかないだろう。
人の温かさが去り、隣に紅竜が立つ。
見上げる体躯は闇になれた目でもとても大きく、それ以上に大きな存在感に圧倒されてしまい、俺は小さく舌打ちして視線を逸らした。
風にふわりと白い布が流れ、俺の視界を軽く遮る。
俺だって伊達にこの年で一人で生きてるわけじゃない。
この白い布が値打ち物であることもわかるし、普通の女性なら大喜び間違いなしだということもわかる。
だが、俺にとってはただの白い布でしかない。
「リンカ、俺はお前のために最高の花嫁行列を用意したつもりだ」
まっすぐに闇に燈る火を見つめ、俺は口を強く引き結ぶ。
紅竜の言うように、松明に照らされた地面はキラキラしい虹が浮かんで、幻想を際立たせている。
道に散りばめられているのは小粒のラルク石だ。
爪先程度の一粒が一〇〇〇オールはくだらない高価な宝石を惜しげもなくばらまけるのは、刻龍に有り余るほどの財力とそれを稼ぐ実力があるということだ。
敷き詰めないだけましと思うべきなのだろう。
「行くぞ」
紅竜からかけられた声に俺は一歩を躊躇する。
足元に広がる一面の虹の綺羅綺羅しい道は自分には分不相応で、かといって踏まずに進む足場などない。
先に歩き出した紅竜が二歩目で気がつき、俺を振り返る。
その視線が俺を下からゆっくりと見上げ、視線が交わると、左の口端をかすかにゆがめ、面白そうに俺に手を差し伸べる。
「どうした、抱いて連れて行ってやろうか?」
面白がっているのは分かるが、紅竜の瞳はこれまでとは違って、不自然なほどに柔らかい。
それもこれも俺が女の格好をしているからなのだろうか。
「自分で歩ける」
差し伸べられた手を拒み、俺はドレスの裾を両手で摘んで持ち上げて、右足を踏み出した。
ぱきり、と足元で虹の砕ける音がする。
二歩目の左足の下でも、ぱきり、と薄いガラスが砕けるのと似た音がする。
耳障りな音だが、同時に自分の全てを棄てるには相応しい音なのかもしれない。
俺がリンカでいられる時間はあとわずか。
自分で選択したことなのだから、最後ぐらいは自分の足で歩いておきたい。
俺が隣に来ると、紅竜も俺にペースを合わせて歩き出す。
彼の下で潰れるラルク石は何を思って、悲鳴を上げるのだろう。
それとも、なんとも思わないのだろうか。
俺の見上げる紅竜の向こう側で、細い細い弓月が雲間から姿を現し、一時彼を照らして消えた。
「フッ」
隣を悠々とあるいていた紅竜の口から、堪えきれない微笑が零れるのを俺は聞く。
「何がおかしい」
「さて、ね」
紅竜は何も語らず、ただ楽しそうに俺の隣を歩く。
ふと見上げた顔は本当に楽しそうに、子供のように邪気のない笑顔では、とても最強最悪の暗殺集団――刻龍の頭領には見えない。
そういえば、と気がつく。
いくらリズールの町から少しばかり離れているとはいえ、ここはまだリズールの警備範囲に入る程度の郊外だ。
だが、こんなにも明るくしているのに、警備兵が来る気配もない。
既に買収されているのか、あるいは、正面きって刻龍と敵対するような者はいないということか。
わかってはいたことだが、僅かに俺は落胆した。
神殿にいるのは大抵貴族や王族だし、もともと期待していなかったのだが、かすかでも期待していた自分に驚き、口元が歪む。
――嫌いにならないで。
王子の声が、言葉が唐突に過ぎる。
そんなはずがないのに、存在を近くに感じて、同時にあの二人でいた時の自分よりも幼い様子の王子を思い出して、頬が熱くなる気がした。
俺は貴族や王族といった連中が嫌いだけど、王子たちは嫌いじゃないと言ったのは嘘じゃない。
でなければ、いくら雇い主でもここまでして守ろうとなんてしない。
好きなのかと問われれば、たぶん俺は違うと思う。
だって、まだ会ってから三日も経たない。
ただあんな男でも容姿や肩書きではなく、内面に惹かれているのは間違いなくて、愛情とも忠誠とも違う想いに俺は戸惑う。
思い出すなと自分自身に言い聞かせ、俺は強く奥歯を噛む。
そして、名付けの儀式のことへと思考を巡らせる。
俺は俺がリンカの名を棄てることなどないと思っていた。
もともと孤児だった俺は養父に幸運にも拾われたが、拾われる前から名前があったという珍しい事例らしい。
俺は物心がついたときには、リンカと言う名前を持ち、使っていた。
それだけに過ぎない。
今更だが、俺は誰に名前をつけられたのだろう。
誰なのかわかっていたら、聞きたいことは山ほどあるが、今日これから名前を変えてしまえば、それも意味などなくなる。
隣を歩く紅竜の足音が止まり、俺も足を止めて顔を上げた。
向かい風に一度目を閉じてから開くと、並ぶ火が目に入る。
視線を少し上げれば、頭上を覆っていた木々の葉はなく、闇夜に瞬く星が地面に広がるラルク石よりも澄んだ光を放つ。
上も下もきらめく光に包まれて、圧倒される。
丁度、刻龍たちが全員黒装束というのと闇というのが重なって、俺はまるで世界に自分ひとり残される錯覚に陥った。
それは、初めて感じる感覚ではなく、これで三度目だ。
「おっと、どうした?」
紅竜に肩を支えられ、俺は自分が倒れかけたことを知る。
なんでもないと振り払い、前を見るが、俺の思考は生まれたばかりの疑問に支配されていた。
全てを失う感覚の一度は養父を失くした時だが、もう一度は記憶にない。
だが、確かにこれは三度目なのだと思う。
棄てられた記憶もないのに、喪失を感じるわけが無い。
だが、心のうちでは間違いなくこれが三度目だと伝える。
(でも、自分の意思で失うのは初めてだ)
俺は自分を無理やりに納得させ、しっかりと前を見据えた。
どうせすぐに意味などなくなることを考えても、無駄でしかない。
こんな奥深い森の中に不自然な広場が、俺の前にあった。
中央には幅約二メートル、奥行きは三十センチ程度、高さは一メートルの表面が平らな岩が据えられてある。
岩の上には高槻が置かれ、その上に二つの朱塗りの杯が並べられていた。
俺たちの前に黒装束の一人が進みでて、その杯に透明な液体を注ぐ。
とくとくと注ぐ音を聞きながらの香りは、澄んだ上級の酒の香りを届けてくる。
差し出された一つを紅竜が手にし、促されるままに俺も手にした。
「始めるか」
紅竜の声を合図に俺は目を閉じる。
今更、暴れるつもりもないし、そうしたところで意味も無い。
そっと、俺の頬に紅竜の手が触れるのを感じる。
前髪に紅竜の吐息を感じて、俺は吐き気を堪えて、強く口を結ぶ。
(知らなければ、よかった)
王子に出会わなければ、俺はこの手を受け入れてもまだなんとも思わないだけで済んだ気がする。
あの手の暖かさ、腕の中の心地よさを思い出すだけで、他の誰に触れられても、俺は――。
「随分仰々しいな」
耳慣れてしまった少し低めのテノールが聞こえ、俺は目を開いて顔を上げる。
ここにいてほしくない声で、だけど今一番聞きたかった声だ。
「妻のためだ、当然だろう。
なぁ、ディルファウスト・ラギラギウス・クラスター王子」
紅竜の言葉と共に、正面の木々の闇から人の姿が現れるのを俺は凝視して見つめていた。
別れた時に使っていたあの上等のくすんだ緑のマントではなく、汚れ一つ見えない純白のマントをつけて、その下は白地に金糸で刺繍が施された正装らしき装いの王子が姿を見せる。
闇の中、俺と同じく映える姿に喜びと共に舌打ちした。
なんで、よりにもよって、そんなに目立つ格好をしてやがるのかと襟首を捕えて、説教したくなる。
「なんっで、」
「俺が招待状をやった」
何かを言おうと口を開く俺を遮り、紅竜があっさりと楽しそうに白状した。
その様子はどう見ても俺の反応を楽しんでいる。
会いたかったんじゃないのかと目で問われている気がして、俺は視線を外さざるを得ない。
会いたかったのは確かだけど、今ではないというのも紅竜だってわかっているはずだ。
それに、王子だって俺が来てほしくないと、本国へと戻って欲しいと願っていたことだって事実だ。
「だからって……っ、来るんじゃねぇよっ」
どうして逃げてくれなかったんだ。
これじゃあ、俺がなんのために紅竜の花嫁になろうとしているのか、わからないじゃないか。
「お祝いにきたんだよ、リンカ。
君のためにね」
刻龍に囲まれているというのに、王子は臆することもなくまっすぐに俺に近づいてくる。
誰も阻もうとしないのは、それをする必要が無いからだろう。
何しろ、ここには刻龍でも最強のメンバーが揃っている。
そこを出し抜いて逃げ出すことなど不可能だ。
「なんで来たんだよ」
俺の前に立つ王子は最初に出会ったときと同じ笑顔で、でも目だけが優しさに満ちていて、俺はひどく泣きたい気分だ。
「リンカ、やっぱり君は女の子だね。
とてもよく似合っているよ」
どこから取り出したのかわからない、王子が差し出した俺の視界を塞ぐ程の季節の花を盛り込んだ豪華な花束を、俺は両腕で抱えて受け止めた。
だから俺は王子がその後何をしていたのかはわからない。
貴重で透明感あるユーチャリスを始めとし、ややクリーム色の巻きが美しいホワイトヘリテージローズ、深い赤色が印象的なレッドヘリテージローズ、一番外側の花びらにほんのりピンクの刺し色がある、やわらかいイエローヘリテージローズ、ひらっとした花びらが印象的な白いフロリバンダローズ、繊細で小ぶりなホワイトトレリスローズ、中心から外への赤いグラデーションが綺麗な濃いめのトレリスローズと華やかに薔薇が飾られ、白いジャスミンの花、ミニシサスアイビーやふの入った柔らかな印象のフレンチアイビーが緑を彩る。
俺には相応しくもない豪華な花束だ。
「花嫁にブーケは付き物だよ、紅竜さん」
能天気な王子の声に能天気な王子の笑顔を浮かべて、俺は泣き出しそうな自分の顔を特大のブーケに埋めた。
しかし、すぐに何か刺すような痛みを感じて身を離す。
抱えているだけでも身動きが取れなくなる花束だ。
俺の些細な変化は誰に見咎められることもなかった。
一見して、薔薇の刺は除いてあるし、花束自体にも魔法の気配は無いように見える。
「祝いご苦労。
儀式が終われば、晴れてクラスターの王子は自由の身だ。
誰に狙われることもない自由を謳歌すればいい」
「刻龍が手を退くだけで、か」
「わかるだろう、クラスターの王子」
二人の会話が俺を素通りする中、俺はようやくそれを見つけた。
奥の葉に隠された――誓いの言葉。
「そんなつまらないもの、僕が望んでいると思うのか?」
急に背後から紅竜に腕を掴まれた俺は、バランスを崩した拍子にその花束を手放してしまった。
目の前を舞う切り花の編み目の先で、微かに王子の口端が上がったようだが、俺はそれを気にする余裕もない。
「紅、な、にっ!」
王子が出てきた場所とは別の、丁度今王子が背にしている辺りから、女性の強い声が発せられる。
「嵐!」
それが魔術を紡ぐものと俺が思い当たる前に、王子が続ける。
「――魔術の意思は僕に従え。
僕の女神リンカは僕の元へ戻れ」
王子の言葉が終わった時には俺の前は白に覆われ、その身に纏う香りは俺が王子の腕の中にいるのだとすぐに知らせる。
互いに息つく時間もなく、王子はさらに魔術を重ねる。
「解放」
王子の髪が、マントが青と緑に色づく魔力風にはためき、裏側に黒く描かれた魔方陣が目に入ることで、それが既に用意された魔法なのだとは俺は気付いた。
俺の耳元で、かすかに王子が安堵の息を吐き、俺を強く抱きしめる。
決して逃がしはしないと、手放さないと無言で告げる。
「リンカは馬鹿だよ」
「っ」
反論する前に、俺は風が唸る声を聞いて、急いで王子の腕から抜け出す。
王子も力を緩めてくれたおかげで、完全に抜け出さないまでも、俺は状況を目にすることができた。
俺と王子を囲むように球形に巡らされた、虹色に揺らめく半透明の幕の向こう側では、強い魔力の奔流が渦巻き、嵐のように木々の葉を強く揺らし、周囲の刻龍メンバーさえも木の葉と同じく夜空へと巻き上げる。
残っているのは地に根を張った木々と王子と俺、それから刻龍でも色のついた刺繍を背に持つものだけだ。
ここにいる刻龍の色つきの力は知っていたが、同等かそれ以上の魔力と実力をもつ王子はとんでもない化け物だと、俺は改めて思う。
この場に来るまでに王子が使った魔術は合計三つ。
まず、王子自身ともう一人の女性を隠すための姿隠しにひとつ。
俺と紅竜に巡らされていた見えない魔術の檻を破り、俺を強制的に引き寄せるのがひとつ。
さらに、今の魔力風から俺と自分を守るために一つ。
すべて高等術式で、綻びの欠片もない証拠に俺も王子も傷一つない。
これだけの高等術式をやってのけている癖に、汗一つ掻いていない辺り、やはりこの王子の魔術力も信じられないほどでたらめだ。
とても普通の平和な王侯貴族が持ち得るものではない。
「ちっ、外したか」
王子の舌打ちと、素の言葉に俺ははっと顔を上げる。
目の前には黒装束のフードを魔力風で押し上げられた男がいた。
背には深紅の龍が棲む男で、久しぶりに俺はその素顔を見る。
さして特徴の大きくない造形であるため、それは一際目を引く。
顔を大きく斜めに切り裂く向こう傷と鷹の目を思わせる視線と合わせれば、只人が戦慄し、恐怖するものだ。
「残念、イイ男じゃないの。
てっきり二目と見られないような顔かと思ったのに」
王子の舌打ちする声に次いで、姫の嬉しそうな声がした。
先ほどの女性の声に聞き覚えがあると思ったら、姫のものであるらしい。
声の聞こえた場所の木の枝から身軽に飛び降り、駆け寄ってこようとしている姫が着ているのはドレスでも旅装束でもなく、ベージュのロングブーツとショートパンツにハイネックの黒いシャツ、その上からカーキ色のジャケットを羽織り、手には数枚の長方形の紙を持っていて、長い髪は後ろで高く結い上げ、ポニーテールにしている。
「っ、――壁!」
刻龍のひとり、紅竜と俺たちの間にいた緑竜が札を手に、魔術を開放すると、轟音と共に土煙を上げつつ地面が盛り上がり、姫と俺たちの前に土肌色の分厚い壁を作り出す。
だが、俺から姫が見えなくなる寸前、姫はすばやく手元からもう一枚を掲げて壁へと差し向ける。
「槌っ」
姫の唱える声と共に、土壁のすぐ上空に忽然と現れた灰色の槌が重力に引かれるよりも強い勢いで打ち付けられる。
轟音と衝撃でまた舞う土埃に思わず俺は目を閉じたが、すぐに王子の小さな笑い声に目を開く。
確かに目の前は土煙で何も見えないが、風も粉塵も王子が作った球形の壁の内部までには届いていない。
まるでその威力を知っているかのように完全な結界だ。
「大丈夫ですよ、リンカ。
姫は僕の認める札士です」
「姫が?」
そうです、と肯きながら王子がそっと俺と同じ高さまで屈んで、額を軽く合わせる。
つい抵抗を忘れた俺と王子の視線が交わる。
澄んだ秋空の高い高い場所と同じ色の王子の瞳は迷いも曇りもなく、ただ温かく、戸惑いを俺は覚えて視線を逸らした。
そんな場合じゃないのに、俺の顔が、耳が熱くなる視線だ。
「信用されているのはわかってるけど、少しは心配してくれてもいーんじゃない?」
先ほどよりも近い距離に、聞き覚えのある不満げな声音に既視感を感じて、俺はびくりと身体を震わせる。
ゆっくりと振り返った先で、あの時と倍は離れているものの、あの時と同じく半眼で俺を――王子を睨む姫の姿が目に入る。
格好だけならどこにでもいそうな町娘だが、やはり王子の幼なじみというのかとても迫力がある。
その姫の背後に黒い影が迫るのを見て、俺は声を上げた。
「姫っ!」
咄嗟に飛び出そうとする俺を王子が抑える。
その向こうで紅竜の振りかぶる剣が、勢いをつけて重く振り下ろされた。
紅竜は簡単な魔法を使えて、かつそれを剣に纏わせて使うことのできる魔法剣士だ。
彼が今もつ雷を纏う魔法剣の衝撃波で、昼間の太陽のように眩しい火花と強い爆風が巻き起こり、俺は反射的に顔の前へ差し上げた腕だけでは耐え切れずに目を閉じる。
「っ、姫……っ」
その威力の程を身をもって知っているだけに、俺の不安が大きくなる。
直撃を受けたら、絶対に助からない。
せめて、少しでも外れているようにと、祈りながらゆっくりと目を開けた。
王子が俺を抱く腕にもかすかに力がこめられる。
「女の子相手に、容赦なさ過ぎるんじゃない?」
その中で聞こえて来た姫の軽口に俺は安堵した。
少なくとも生きていることだけは確認できたからだ。
「冷や冷やさせるな、ウィドー」
同じく安堵と共に非難めいた声音を王子が口にすると、次第に良くなる視界の中に尻餅をつき、後ろ手に地に手をついて身体を支える姫の姿が現れる。
振り下ろした紅竜の剣は姫まで届かず、半端に留まっていた。
その理由は紅竜の剣を細長い棒のような得物で受ける者がいるからに他ならない。
受け止めていたのは白く頬まで痩せこけた、まさに痩身といったひょろりとした細い目の男で、パステルブルーのジャケットを素肌に直に着て、膝までで乱雑に切られた黒のジーパンを履いている。
服にはシルバーチェーンやら、どこかの勲章みたいな黄色いバッジやら、青や赤のバッジやらをジャラジャラとつけて、首にもシルバーチェーンのタグプレートをつけている。
一見白髪にも見えそうな薄い金色の短い髪を逆立てて、瞳を隠す茶色の色つきのメガネをかけて、耳には丸いリングピアスをつけて。
如何にも弱そうな男が紅竜の剣を受け止めていることに、俺は驚いた。
「間に合ったんやからええやないか、殿下っ」
軽口を叩きつつ、ウィドーと呼ばれた男は持っていた棒を力任せに振って、あろうことか紅竜を弾き飛ばした。
驚愕に目を見開く俺の前で、彼は億劫そうに座っている姫の右の二の腕を掴んで、乱暴にこちらへと放り投げる。
「うわ」
「きゃっ」
俺はなんとかそれを受け止めるが、後ろで王子が支えてくれなければ転がっていたことだろう。
それだけ軽く見えて、重い衝撃だった。
「それに遅れたのはわいだけのせいやないぞ。
殿下がそっちのお姫はんに気を取られてたからやないか」
言ってから、男はまっすぐに俺を凝視する。
何か言いたげに口を開閉し、それから茶色の色つきメガネを少しずらしてニヤリと笑った。
「こないなとこで会えるなんて、なんて幸運や。
お嬢はん、わいとデートせんか?」
訛りの強い言葉で何を言っているのかいまいちわからない俺が聞き返そうとすると、王子が後ろから強く抱きしめてくる。
「ウィドー、後で紹介してやるから今は戻れ」
王子に命じられ、不満そうに口を曲げた男だったが、すぐに笑顔になった。
「紹介は不要や。
だって、嬢ちゃんはわいの運命の女やからな」
俺に投げキスをするウィドーの姿が、紅竜の振り下ろす剣の先で陽炎のようにゆらりと消える。
それを残念がるでもなく、紅竜は振り下ろした魔法剣を鞘に治めた。
俺を抱く王子の指が深く俺に食い込む。
「ウィドーの奴……っ」
「噂どおり、たいした王子だ。
あれが風の守護精霊ってやつか」
紅竜の言葉に俺は眉を潜める。
確かに精霊は人の姿を模すとは聞くが、それにしたって生身の人間と違いは見えない。
たぶん俺が今までに出会った中で、彼以上に派手で軽い人間はいないだろう。
それにいくら人間を模しているといっても、あまりに俗物的だ。
王子が何かを答える前に、ウィドーに投げ飛ばされた姫が呻きと共に目を覚まし、俺の前で胸を揺らして、身体を起こした。
「ディルといい、ウィドーといい、私のことを何だと思ってるのかしら」
土埃のついた髪を軽く叩いて整える彼女に触れられない俺は、恐る恐るの声だけをかける。
「お、おい、急に起き上がって大丈夫なのか?」
「慣れてるから平気。
それよりさ、リンちゃんはどう思う?」
痛むのか後頭部を擦りながら、彼女は俺を見つめる。
王子と同じく碧眼だが僅かに混じる赤茶の虹彩のせいか、妙に迫力に満ちている気がする。
「どうって」
姫にとりあえず状況を考えろというのも忘れて俺が見つめ返していると、姫の方が先に視線を外して、俺の背後に視線を向けた。
「そういえば、さっきの札ね、ディルに急遽作ってもらったんだけど、リンちゃんには怪我ないわね?」
強く睨む姫の視線には、俺の耳元に息を吹きかける距離で王子が囁くように返す。
「僕の結界の中で、怪我なんかさせるわけがないだろう。
それに姫の力も知っているから、強すぎる札は渡さないことにしてる」
「ということは、強い札持ってるのに今までくれなかったのね」
「分相応のものを使うべきだと言っているだけだよ」
睨むというよりも挑む視線を王子に向けていた姫が、視線を外さないままにいきなり俺の腕を掴んで引き寄せる。
「うわ」
柔らかな胸に抱きとめられる感触に、俺は顔が熱くなると同時に甘やかな芳しさに心地よさを感じる。
かすかにフラッシュバックする覚えのない温かな思い出から記憶を閉じて、俺は目の前を見つめた。
紅竜も他の刻龍も俺たちに攻撃を仕掛けるでなく、見守っている。
その不気味な対応に、俺は小さく身震いした。
怒るならまだわかる。
だけど、紅竜は口の両端を吊り上げるように笑っている。
笑って、いるんだ。
背筋を冷たいものがじわじわと這い登ってくる感覚に陥りそうな俺は、急にヴェールを取り払われて、それをした姫を見た。
すかさず姫は俺の頭に茶色くて大きなものを被せる。
既に一度つけられているのでわかるが、栗色の背中ぐらいまでの長さのカツラだ。
「リンちゃんはなんでも似合うから白のヴェールだけでもいいけど、こっちの方がもっと似合うわよ」
いったいどこから取り出したのかとか、なんで持ち歩いているのかとか姫に突っ込みたいことは多いが、本当に今は空気を読んで欲しい。
それとも、わざとなのか。
「折角の舞台を台無しにしてくれるとはねぇ」
やけに楽しそうな紅竜の声にかすかに姫の体が震えた。
それで俺は姫が気づいていて、気がついていないフリを、虚勢を張っていたのだと気がつく。
そんな俺たちを守るように王子が立ち、強く紅竜を睨みつける姿を見た。
守られていると俺が気がついた時、急に王子の眉根が強く寄せられて、長いまつげが上下に数回動かされる。
「ディル?」
何か不思議なものを見るような、そんな視線を辿ると、そこには紅竜が怪訝そうに眉を顰めている。
「姫、こいつの顔、見たことないか?」
紅竜の素顔を知る人間はほとんどいないはずなのに、王子が言い出す。
「そう……言われてみれば。
なんか、こう、面白いのがあったような気がするわね」
姫も片手を頬に当てて、秀麗な眉目を顰めて唸る。
そうして、力一杯悩む二人に俺は問いかけた。
「面白いのって?」
「そう、なんか、見たことが……あるようなないような」
二人の要領を得ない返答に俺も眉を寄せる。
「紅竜が頭領になったのって、四年前だったよな」
「よく憶えてるな」
「自慢してたじゃないか」
嬉しそうに紅竜は言うが、そんなに昔の話でもないから忘れるはずもない。
加えて、そのせいで俺は仲間でもないのに刻龍の余計なことまで数多く知らされている。
その中でも頭領に関するものといえば、実に刻龍らしい掟だ。
刻龍の頭領は代々決闘においてのみ継承される。
弱ければ上に立つ資格なしとされるのは当然だろう。
何しろ、元々が犯罪者の集団だ。
押さえつける能力もなければ、統率など出来るはずがない。
先代は世界唯一の魔法と拳闘を使う男で、刻龍でも最長の十九年を務めたという。
また刻龍の悪名のほとんどを広めたのはこの先代だとか。
その他にも紅竜が顔を隠せるから、刻龍に入ったとかも聞いた気がする。
「あぁっ、ディル、あれよ!
あんときのおっさん!!」
俺の思考を中断させて、姫の嬉しそうな声と手叩きが聴こえた。
おっさんって今もおっさんじゃねぇかと、心の中で俺はこっそりとつっこむ。
「あれって?」
「ほらぁ、城の時計台から足滑らせて落っこちて、落ちる途中で鐘の紐に引っかかって、鐘鳴らしたやつ」
思いも寄らない壮絶な解説に、俺は思わず無言で姫に聞き返していた。
「ぁ……あっ、八つの時にきた刺客か」
俺と同じぐらいの歳には既に命を狙われていたのかとわずかに驚いたものの、姫の話と合わせるとあまりにもアレだ。
内容が情けない。
「紅竜?」
王子たちが八つというと、まだ刻龍に入る前の若かりし頃ではなかろうかと俺は紅竜に目を向ける。
俺から見て、心なしか紅竜の表情は強張っているように見える。
「あの時は確か僕が剣術習いたてで、誕生日に贈られたばかりの剣で遊んでたら、刺客がきて」
「ディルのデタラメ剣術に窓から足を滑らせたのよね。
顔の傷はそのときのじゃない?」
違うぞ、と紅竜が必死な目で俺に訴える。
「信じるなよ、リンカ」
「そういや、その傷の話だけは聞いてねぇな」
それほどの傷、内容が内容なら紅竜の性格で武勇伝を話さないわけがない。
「そうだったか?
これは、俺が先代と決闘した時に……」
「とりまきのねーちゃんとかがその前からあったって言ってたけど」
「ちっ、あのバカ女」
小さく舌打ちして零しているが、耳のいい俺には丸聞こえだ。
「他に古竜を倒した時だとかも聞いたけど、あんたから聞いたのはひとつもないな」
紅竜は少し視線を外した後で、口端を上げ、歯を見せてニヤリと笑った。
「まあ、そんなことはどうでもいいじゃねぇか」
同時に空気がビリビリと震え、黒い圧力がかかる。
俺を守るように抱きしめる姫の身体も震えてはいたが、彼女はまっすぐに紅竜を睨みつけていた。
王子も、この殺気と同じ圧力に気がついていないはずはないのだけど。
ふわり、と広がるマントの影に見える表情にはかすかに笑みが浮かんでいるように見える。
「ディルファウスト王子、儀式を台無しにしてくれた代償は負ってもらうぞ」
更に強くなる圧力に耳鳴りと頭痛と吐き気がこみ上げてきて、俺は両手で口を抑えた。
「ちょっと、ウィドー!
ちゃんとリンちゃんもカバーしなさいよねっ」
姫が叫んだとたんに圧力が消え、俺は深く息をついて顔を上げた。
目の前で雪の結晶に光が当たったみたいにキラキラと光る風が、俺と姫と王子の周囲を舞い踊っている。
姫を見ると、彼女は俺の視線に気がついて、小さく笑った。
精霊の力――確かに紅竜の一撃を抑えてはいたが、この圧力まで消せるほどの実力の持ち主というのはそうそういない。
そして、それだけの高度な精霊が人間の守護をすることなど稀と聞く。
その希少な守護を受けている王子に視線を向けて、それから俺は紅竜を睨んだ。
「紅竜、話が違うだろ。
俺があんたのものになったら、王子は狙わないといったじゃないか」
「ああ、だがまだ儀式は完了していないだろう?」
嘲笑う紅竜を前に俺が悔しさを噛み締めていると、王子は楽しそうに笑った。
「こいつは端から約束を守る気なんかないよ。
その証拠に、僕をここに招待したんだからね。
おそらく、先にリンカに名付けの議を施した後、僕たちを消すつもりだったはずだ」
それに姫が重ねて続ける。
「名付け主の命令には、逆らえないものね」
この世界で力を持つものの一つが、名前、である。
名は体を表し、名前によってヒトは世界に存在することを許されるといわれている。
加えて、改名するというのはその理を乱すことになってしまうから、名付け主には逆らえなくなるのだ。
だから、よほどの事情でもない限り、誰も改名をしようとはしない。
俺が紅竜に名前をつけろと言ったのは、すなわち刻龍に入るという意味もあった。
「紅竜は、そんなやつじゃないっ」
俺を見る紅竜を見て、それから俺は具現化する不安を振り払おうとして、何度も首を振った。
相手が相手だけに、まったく過ぎらなかったわけじゃない。
だけど、俺が信じなければどうにもならないじゃないか。
――信じて欲しかったら、自分がまず相手を信用することだ。
養父にはそう教えられてきたし、そのおかげで何度も救われてきた。
悪人でも善人も変わらない理が崩れたら、俺は何を信じたらいいかわからなくなる。
痛くなるほど強く首を振る俺を止めたのは大きくて少し冷たく、だけど傷もない滑らかな王子の両手だった。
真っ直ぐに見上げられるように俺を固定する王子の姿がわずかに歪む。
「リンカ、僕たちのために犠牲になんてならなくていい。
そんなことのために結婚なんてする必要はないんだ」
犠牲になるつもりだったわけじゃない。
ただ、王子を助けたかっただけだ。
「そんなつもりじゃないっ」
他に俺に何が出来たかわからない。
だけど、何もしない後悔だけはしたくなかっただけだ。
養父を失ったときのように、先が見えているのに何も行動しないでいたら、俺は。
「リンカの名も捨てるな。
軽々しく捨てていいものじゃない」
簡単に、捨てるわけじゃない。
俺は理屈じゃなく、ただ王子には生きて欲しかったんだ。
性格に問題だってあるし、王族で魔法使いで、俺にとってはそれだけで嫌いな部類の人間だ。
だけど、俺はどんなやつであっても、少しでも関わったやつが死ぬのは嫌なんだ。
「……俺……」
紅竜の落ち着いた声が王子の向こうから聞こえてくる。
「刻龍は約束を違えない。
俺のもとに来れば、王子たちに手を出さないというのも本当だ」
俺はその言葉を信じたい。
だけど、ここに王子を呼んだのは紅竜で、姫や王子のいうようにそれだけでも既に紅竜への信頼の針はぶれる。
「紅竜、俺は……俺は……」
信じたいけれど、信じきれない。
だけど、王子たちの命は今紅竜の手の上にある。
「リンカ」
王子と紅竜の二人が、俺の名前を呼ぶ。
どちらも深く関わったわけじゃないし、出会った時間が早かろうが遅かろうが、大して違いはない。
それなのに、自分でもなんでこんなに王子に肩入れするのか、理由は説明できない。
でも、王子に生きていて欲しいと思う俺は間違っているだろうか。
王子に背を向けようとした俺に、姫の柔らかな声が届いた。
「リンちゃんは自分の心の向く方へ行くの。
私たちのことは気にしなくていいから」
俺が振り返ると、姫は笑っていた。
敵中にあってなお、戦っているときでさえ、先ほどから華のような笑顔は絶えることがない。
本当に楽しそうに微笑んでいる。
王族だとか貴族だとか、そんなものは関係なく強い女性なのだと思う。
その強さが俺にもあったらいいのにと、何度も願った。
だけど、やっぱり俺はいつだってこういう決断の時は迷ってばかりだ。
俺の心の向く方は――どっちなんだ。
「リンカ」
迷い続ける俺に、王子が静かに語りかける。
「僕の昔のあだ名は、十倍返しのディル、というんだ。
心配しなくていい」
冗談めかした軽い言葉に、俺は状況も忘れて笑みを浮かべた。
(十倍だって?
百倍の間違いだろ)
俺は思ったことは口にせず、王子を顧みる。
王子は世界で五本の指に入るほどの実力を持った魔法使いで、猫かぶりで嫌な男だ。
その嫌な部分も含めて、いつのまにか俺は信用していたのは確かで、実力もこの数日でわかりきっている。
刻龍にもその程度の魔法使いがいるということも、王子一人では刻龍に勝てないということも、わかっている。
でも――。
「一人じゃないもんな、王子は」
俺はドレスの裾を持ち上げ、一気に脱ぎ捨てた。
シンプルなおかげで引っかかりは一つもなく、俺はすぐに白のキャミソールと白の短いパンツ姿になる。
女物の下着を着けるのが嫌だと言ったら、すんなりと用意してもらえたものだ。
「悪いな、紅竜!
やっぱ、俺、こういうのは性に合わないわ」
先ほどは足下まで隠れるドレスでわからなかった茶色の編み上げロングブーツの踵を軽く打ち付け、つま先から飛び出した縦回転するナイフを空中でキャッチする。
口元が自然と笑みを形作り、ちらりと向けた俺の目線に王子が満足そうにうなずく。
「王子たちの命はどうでもいいってことか」
瞳を細めた紅竜は怖いけど、俺はもう決めたから。
王子を信じると、決めたから迷うのはやめたんだ。
「よかないけど、俺は俺だから。
やっぱ、誰のものにもなれん」
つ、と首筋を冷や汗が通り過ぎるのを感じながらも、俺は紅竜から目線を外さずに、全神経を研ぎ澄ませる。
少しでも隙を見せれば、俺も王子も姫も、命はない。
「それは困るなぁ」
俺がそうして警戒しているというのに、急に王子が俺の体を軽々と抱き上げた。
「また時計塔から落としてあげるから、遊びにいらっしゃいな、紅竜さんっ」
王子の隣で姫が笑い、自らの左耳につけていた瑠璃のピアスを外して落とす。
「――解放――」
同時に王子があの時を同じ短い呪文を唱えると、姫が落とした蒼い玉は地面に付く前に俺たちを包む円を地面に水平に描いた。
魔法特有の色の付いた光が俺たちを囲み、王子も姫も俺も魔法風に服も髪も煽られる。
はためく王子のマントの影、その彫刻張りの横顔はとても頼もしく、俺は視線を外さずに見つめる。
「高等転移門だとっ?」
紅竜の後方で緑の刺繍を持つ刻龍の男――緑竜が、焦ったように喚く。
転移門それ自体は一般的で、室内から屋外へ出る程度であれば簡易術式制御者であっても作り、発動させることはできる。
ただし、簡易術式制御者の転移門は効果時間も短いため、描いてすぐに発動させる必要がある。
緑竜が言っている「高等転移門」というのは、物体に転移式を組み込み、いつでも発動させることのできる移動術式である。
効果範囲、移動距離は作成した者、発動する者の両方の魔法能力の高さに委ねられる。
「あれだけの小さな物体でなど、ありえんっ!」
俺もそれ自体の発動を見るのは初めてだが、収めてあるものの大きさが、異常なほど小さいということはわかる。
裏マーケットのリストでも、こんなピアス程度の大きさは見たことがない。
「ありえないは」
「ありえないわよ」
王子と姫の不敵な言葉と共に、俺たちの足元の魔法陣が光の柱を立ち上らせる。
刻龍の姿が全て白さに掻き消える中、俺を抱く王子の腕の力が強まった。
俺にしかわからない震えが腕を通して伝わり、俺は王子を見る。
世界でも類い稀な力を持つ王子が怖れているのがなんなのか、俺にはわからない。
わかるのはひとつ。
寝物語の姫君のように、俺が王子に救われたのだということだ。
「馬鹿だよ、王子は」
俺の静かな呟きが聞こえているかわからないが、光の中で王子は笑っていたような気がした。