13#よくいる人質劇
王子に出会う一年と半月ほど前、俺はひとりでリズールに流れついていた。
一人旅を始めて約一年。
そこそこ慣れも出てきて、旅の路銀を稼ぐための滞在だ。
宿を確保したあとはリスキーな賞金稼ぎよりも、地味なバイトに精を出すことを選んだ。
腕に覚えはあるが、過信できるとは思わないからだ。
折しも、リズールは町の神官長を決める選挙の真っ最中で、祭さながらの人でごった返していた。
リズールの神殿といえば、大陸第二の地位をとり、その神官長は次期大神官になることが定められている。
だから、リズール神殿の神官長を選出するというのは一大イベントてなるのだ。
一週間、候補者たちが神官としての人格、能力を問われ、現神官長自らの手で選び出される。
時期は定められておらず、大神官の交代と併せて行われることが多い。
このちょっとしたお祭りに大陸中の人間が、リズール地方へ流れ込んでくる。
期間限定。
とはいえ。
「限度ってもんがあんだろ」
空になった皿を流しに置きながら、俺は疲れた声で零した。
俺のバイト先「ストレーナー」も例に漏れず、いつになく賑わいを見せている。
いつになく、というのは喩えでなく、この連日の影響が大きく関わっているのは、誰がみても間違いない。
朝から店中が目まぐるしく働いているというのに、一向に客足も喧噪も途絶えることがなく、しかも増える一方ときては働いているものであれば誰でも呟きたくもなるはずだ。
「五番にこれ!」
休む間もなく、大量に料理の乗った直径一メートルはあるトレイを二つ渡される。
「はぁーい……」
それを軽々受け取り、五番テーブルって窓際だっけ、とか考えながら歩き出した俺の背を威勢のいい主人の声が追った。
「それ運んだら、ちっと休め、リンカ!」
「はーいっ!」
今度は元気のいい声を返して、俺は五番テーブルへ向かった。
休憩とようやくの食事。
どちらも心踊らないわけがない。
なによりここの料理の美味さでバイトを決めただけに、賄いに期待するのは当然ってものだ。
うきうきと踊る足取りで五番テーブルに向かった俺は、しかし、そのテーブルを見た途端に瞬間冷却の魔法をかけられるように足を止めた。
そこには両足をテーブルに投げ出し、男女の綺麗所を両脇に侍らせた男がニヤニヤと俺を見ていた。
年は二十代後半くらい。
体格は至極良く、取り立てて悪い顔ではない。
ただ、大きな傷が人目を引く。
そのせいで、周囲の客が怖がっているというだけではなさそうだが、五番テーブルを中心にして、異様な静けさだ。
「ごくろーさん」
口の両端を吊り上げる笑い方に背筋を毛虫がはいのぼる感覚を覚え、ざわざわと全身の毛が逆立つ。
だが、俺は努めて何でもない風に声をだす。
「足」
「お?」
「これ、置けねぇんだけど」
隣にいた美青年が何かを言おうとして、男に止められる。
「だって、兄貴」
あからさまに不満な二つの色を受けながら、俺はひとつずつ皿をテーブルに並べる。
男はただ、それをじっと見ているだけだったが、なんとなく気味が悪い。
料理を全部置いて、さっさと立ち去ろうとしたが、そうはいかないとばかりに俺に声がかけられた。
「おじょーちゃん、結構、腕立つだろ?」
問いかけというよりも確信に満ちた台詞で、俺は振り返ってしまった。
会ったことは、ない。
しかし、リンカの見かけだけで「おじょーちゃん」などというわけがない。
旅に出てから一度も女と見破られたことはないのだ。
男の笑顔の奥の瞳からは、推し量る様子が見て取れる。
俺は警戒して、自然と身体を開き、腰を落として構えた。
直後、俺がそうするのを待って、空気に強く圧力がかかった気がした。
男がほんの少し実力を見せているのだと気づいたが、それは殺気にかなり近い。
「お嬢ちゃんじゃねぇ、リンカだ」
のどの奥で男が笑うと共に、不穏な気配も静まっていった。
「夜の散歩は趣味なのかい?」
今度こそ立ち去ろうとしていたのに、またも男は振り返ってしまったのだった。
このときの男は得体の知れない、ただの不審人物だった。
だが、後に俺の一番望まない形で、彼が刻龍の頭領であることを知ることとなる。
そのときのことを思い出して、俺は幾分自嘲気味な笑みを浮かべた。
紅竜が俺に近づいてきたのもその後興味を惹かせてしまったのも、結局は俺自身の行動の結果だ。
今更悔やんでも遅いが、紅竜との最初の約束の期限はとうに過ぎている。
どちらにしろ答えを出さなければならなかったし、答えを出さなくても紅竜が俺を諦めるつもりがないことは明白だった。
紅竜は最初からそのつもりで近づいてきたのだと、後になってみれば容易に想像がつく。
でなければ、紅竜があんな場所にわざわざ食事にくる必要もない。
それに、もしも俺が本当に男だったとしても、性別なんて些細なことと言い切ってしまう人種であると俺は気づくべきだった。
大風が部屋に流れ込んできて、顔面にうちあたり、息が苦しくなって思考が中断された俺は窓に近づいて、急いで閉める。
後に続こうとしていた風が窓にぶつかって、ガタガタとイヤな音を立てる。
思い過ごしだろうが、何をしているんだと責められている気がした。
何故そんな所に大人しく囚われているのか、何故あんな王子を守ろうとしているのか。
冷静になってみなくても、会ったばかりのあんな王子を助けてやる義理など、俺には無い。
人の話は聞かないし、横柄だし、能天気な馬鹿王子のふりして人のこと騙すし。
ただ王子のことを思う度に、俺は感じたことのない温かな気持ちに戸惑う。
客と割り切っていれば、感じることもなかったはずの気持ちに、ゆるぎなかったはずの決意が揺らぐ。
一緒にいると、ただ暖かい。
あの腕の中にいると感じたことのない穏やかな温かさに包まれて、安心してしまう。
ただ、それだけしかないのだけれど、あの腕がなくなるのは惜しいと思ってしまったから。
「本当に、ただの金蔓だったんだけどなぁ」
風は少し収まって、窓もあまり音を立てなくなってきた。
外は緑の木々が深く覆われていて、どうしようもない孤独感を募らせる。
猫の額ほどの空からは柔らかな一筋の光が伸び、まっすぐに俺を照らす。
これから起こることを祝福するというよりも、何か不安にさせる光だ。
今の俺は、いつもの少年の姿ではない。
頭には白いヴェールをつけ、服はなんの装飾もされていないおろしたての白いドレスだ。
月の白い光にドレスもヴェールも淡く光を放ち、鏡に移った自分を見たときは神々しささえ感じた。
自分と自覚したときは、かなりげんなりとした気分になったのだが。
たとえその場が粗末な山小屋の、壊れかけた机と椅子、シーツだけ真っ白のベッドしかない殺風景な一室であったとしても、これは婚礼の衣装であり、ここは花嫁の控え室だ。
俺は月の光から抜け出して、固いベッドに座る。
なれない姿のはずであるのに、俺自身は服の違和感を感じていない。
着慣れているように感じる不思議はあるが、ただそれだけだ。
だが、動きにくいという点で、精神的な疲れはある。
「腹は減ってないか?」
突然、黒装束の男がノックもなしに部屋へ踏み込んできた。
その腕には籠いっぱいの果物と焼き菓子とサンドイッチがある。
紅竜自らが、花嫁のご機嫌伺いに来たというわけだ。
籠を部屋に一つしかない小さなテーブルに置き、直ぐに紅竜は俺の元へ歩いてくる。
あの時とは違い、躊躇いも迷いも無い足取りで、殺気と見紛う威圧感も無い。
「お前は腹が減ると切なくなるとか言って、ぜってぇ動かなくなるからなぁ」
言いながら伸びてきた手に、俺は微かに怯えて目を閉じた。
ただの普通の男に見えるのに、それが紅竜であるというだけで反射的に、だ。
手はただ優しく俺の頭を撫でただけだったのに。
「そんなに怖がらなくていい。
儀式が終わるまで手は出さないと言ったはずだ」
最初に会ってから求婚されるまでと同じ優しさ。
これが、この男の術なのだと気づいたのは求婚されてからだった。
まさに求婚された時の状況を思い出し、こみ上げる不満と不快を押さえつけ、俺は言葉を吐き出す。
「夜までにやることがあると言ってませんでしたか?」
姿にふさわしい言葉遣いは自然と出てくる。
教わったこともないのに、体が知っていたかのようだ。
対して、一時紅竜の手が唐突に止まった。
それを隠すでも誤魔化すでもなく、紅竜は俺の隣に腰掛ける。
簡素なベッドでも彼の座る勢いで一度だけ歪み、その拍子に俺は体勢を僅かに崩した。
それを難なく受け止めた紅竜に支えられる形になり、俺は静かに紅竜を見上げる。
紅竜も俺を見下ろしたので、互いの視線が交わったが、先に視線を外したのは紅竜で、ゆっくりと俺の身体を起こして、体勢を直してくれた。
「ほとんどは終わった。
後は月を待つだけだ」
月を待っているのは名付と結婚という二つの儀式の舞台を整えるためなのだと、事前に説明は受けている。
理由は、俺が聞く必要など無い。
時間がゆっくりと過ぎてくれるなら、俺には願っても無いことだ。
「約束は守っていただけるのでしょうね?」
確認の意味で聞いたのに、紅竜は少し居心地が悪いらしく、小さく身じろぎする。
だが、視線を合わせてからはそれもなくなった。
「何度も同じことを聞くなよ。
そんなに俺は信用ならないか」
そんなの当たり前だと鼻で笑いたくなったが、堪える。
犯罪者の親玉相手に、俺が信用するわけが無いと紅竜だって知っているはずだ。
俺が真っ直ぐに見返すと、紅竜はまた視線をさまよわせる。
何かを隠しているようにも見えるし、妙な様子に俺は小さく首を傾ける。
「なんかリンカがそういう言葉使うのって」
「変ですか?
この姿ではこの方が自然だと思いますが」
「いや、変じゃないからおかしいんだ。
二人のときは元の口調で話せ」
柄になく照れたように頭を掻く紅竜の様子に、ようやく俺は合点がいく。
まさかと思ったが、刻龍の頭領である紅竜は俺なんかを相手に緊張しているらしい。
「じゃ、また来る」
そういって姿を消すのは、今日はもう四回目だ。
またしばらくしたら来るだろう。
「変なやつ」
俺はベッドに座ったまま両目を閉じた。
見張られている目は感じないが、決して逃げられやしないことだけはわかる。
何と言おうと、紅竜は刻龍の頭領で、ここは彼らのアジトのひとつなのだ。
世界最強といわれる犯罪集団に、たった一人で刃向かうほど俺は愚かではない。
王子たちは本当に助かるかどうかという確信は、まだ持てない。
紅竜が言うのを信じないわけではない。
しかし、刻龍全部が本当に紅竜に従っていると、王子の件を見過ごすという命令を承諾すると、どうしても俺には考えられないのだ。
何度か仲間と話す姿を見たことはあるし、従っている姿だって見知っている。
だけど、どうしても俺には――。
どうしてここにいるのかといえば、自分がこうすることで少しでも時間が稼げればという浅はかな考えからだ。
王子たちに早く遠くへ逃げてほしいと思う反面、自分を助け出しに来てくれるような期待という、二つの気持ちに揺れる。
俺は俺自身がどうしたいのか、まだ決めかねていた。