12#よくある取引劇
※リンカ視点に戻ります。
俺の目が覚めたのは、月が沈みかける宵闇時だった。
闇の中で目を開き、ついで大きく伸びをする。
いつも通りに感じる心地良い闇に気分が晴れるようだ。
昼間は女神の遺跡という場所でワケの分からない声を聞くし、ここについてすぐに紅竜から会いにきやがるし、なんだかいろんなことが一遍にきてしまった。
「よっく寝たなー、久々に」
ベッドのわきで、うつ伏せに眠っている王子に気が付き、俺にもほほ笑む余裕が出てくる。
なんだかんだいって、よく眠れたのは彼のおかげでもあるのだ。
たしかに、ベッドの方が居心地も寝心地もいい。
別に俺は王子のことは嫌いじゃない。
それに好かれていて、嫌いになる理由もない。
金を持っているからとかじゃなく、なんとなくだが今まであってきた貴族たちとは違うとも思う。
姫やシャルダンもそうだが、王子たちと一緒にいるのは、俺にとって普通に友達といるようで楽しい。
仕事でもなく、彼らが王族でもなければきっと良い仲間になれただろう。
だけど、俺は平民で最下層近くにいる者で、王子たちは王族だ。
住む世界が違いすぎる。
もしもただの人であれば、王子からの誘いにも素直に答えられただろう。
どうせこの身は行く当てなどない。
ただ精一杯生き抜くことだけが、亡き養父との約束だ。
まだ生きる目的自体、俺にはそれしかない。
「おはよう、リンカ」
あまりに油断したからではないだろうが、声をかけられるまで俺は気が付かなかった。
彼がきていることに、気が付けなかった。
闇に現される気配に神経が高ぶり、恐怖が血流を駆けめぐる。
黒装束だからではなく、存在そのものを溶け込ませた闇から抜けだした男を前に、俺の肌にじわりと焦りが広がる。
彼は、刻龍頭領の紅竜。
「いつから、いた?」
掠れもしない冷静な自分の声に違和感を感じる。
今ここには王子が眠っている。
このままいなくなって欲しいと、願う。
「そんなに警戒しないでくれ。
良い取引をもってきたんだから」
動く気のない気配が声を立てずに嗤う。
「取引だと?」
「そうだ。
リンカには、なかなか好条件だぞ」
「聞くだけ聞いてやる」
紅竜は至極、楽しげにクスクスと笑っている。
それが、俺には恐ろしい。
王子を起こそうとゆっくり手を伸ばす。
「俺らがそこの王子と隣の部屋の姫、それに一緒にいる男を狙っているのは知っているな?」
目をそらせないまま、俺は首を縦に振る。
「特にそこの王子、かなり敵が多くてな。
生死を問わないものも多い」
「賞金もかけられているしな」
「狙ってたんだろ?」
手配書は見せたしな、と紅竜は嗤う。
確かに俺はこいつから見せてもらった。
まだ、こいつに求婚される前の話だ。
俺が逃げ出す前のことだ。
「姫はどうして狙われた?」
「王子のアキレス腱と思ったからだ」
「取引というのは」
とりあえず、姫はもう安全とみていい。
ここには紅竜がいるが、向こうにはカークがおり、一度姫を奪い返したほどの男だ。
そうやすやすとは姫を奪われない。
それに、姫が婚約解消されたなら、おそらく狙いはなくなるだろう。
だが、王子とカークは狙われたままだ。
シャルダンと姫は安全でも、王子とカークの二人がどこまで逃げ切れるのか、俺にはわからない。
ただ、刻龍には魔法使い狩り専門もいる。
いくら王子でも、それに敵うとは思えない。
俺が聞いている限り、あの男は魔法使いの中でも一、二位を争うほどの腕前らしい。
「刻龍が関わらなければ、あれほどの腕だ。
どんなやつにも捕まえられないだろうな」
姫が言うには、王子は五本の指に入るほどの腕前だ。
目の前で青竜を退けた事からしても、紅竜のいうように、王子を捕まえられる者はいない。
「脅すつもりか」
「条件は、わかるな?
これ以上は俺も譲れないし、待てないぞ」
楽しそうな声は、俺が折れると見越している。
もちろん、昨日までの俺ならきっと条件など呑まなかったし、自分のためなら王子たちを刻龍に売ることも厭わなかった。
だけれど、彼らの温かさに触れてしまった今はもうそんなことは出来ない。
今なら養父の語っていた言葉も行動も分かる気がした。
この身を引き替えにしても、守りたいという気持ちが。
「俺は男だ。
今も、これからも」
カークの腕は知らないが、王子なら、或いは逃げ切れるかもしれない。
「王子達を見捨てるか?」
それもいいだろう、と。
もしも逃げ切れなければ、誰にも悟られずに消されてしまうというのか。
近くで俯せる王子に伸ばした腕を振れる前に落とす。
今は無防備なこの男を守りたい。
刻龍に人知れず殺されてしまうような最期は、この王子に似合わない。
「最後まで聞け。
リンカは男で、あんたの嫁にはなれない。
だが、リンカという名をここで捨てる。
次の名は、紅竜、あんたが名付けろ」
静かに揺らさないように、王子を起こさないようにベッドを降りる。
俺はゆっくりと、紅竜に近づく。
勝てないとわかりきっている相手に向かって、俺は拳を構えるような真似はしない。
だが気を張っていても、恐怖で体が震えるのは抑えられない。
「物分かりの良さは、生き残るための条件だよ。
名前はもう決めている。
おまえにぴったりの名だ」
紅竜は動かずにただニヤニヤと、俺がくるのを待っている。
努めてゆっくりと歩を進めても、俺と紅竜の間にそれほどの距離はない。
それだけゆっくりなのは、たった一間が怖いからだ。
「早く、云え」
俺がすべて捨ててしまえば、王子たちは刻龍に狙われなくなる。
普通に王子として国を受け継ぎ、治めることだろう。
誰にも邪魔されることなく。
俺がいなくなれば、きっとこの旅のことだって忘れるだろうし、姫とのことだって元のように収まるだろう。
それがきっと一番自然で正しい形だ。
あと少しと言うところで立ち止まり、紅竜を強く睨む。
「髪はこれから伸ばすといい。
きっといい女になる。
名前は」
目を細めて俺を嗤っていた紅竜が、腕一本分の距離を引き寄せる。
理由は俺にもすぐにわかった。
「リンカ!」
鋭い王子の声が、闇色の部屋に響く。
「あなたはずっとリンカです。
名を受けるということがどういうことかわかっているんですかっ?」
寝ていたのかと思っていたので一瞬だけ、振り返らないまま俺は目を見開いた。
が、全部聞かれていたようだということに安堵している自分がいる。
忘れて欲しいけれど、忘れて欲しくないとも思っている自分がいる。
出会ってから早く解放されたいと思っていたのに、その実はこんなにも頼りにしていた。
その今さらな事実が無性に可笑しかった。
もう後戻りはできない、今になって知ってしまった。
「わかっているよ。
王子達以上にね」
振り返ることが出来ないまま、赤い竜の刻印された黒マントで姿を隠される。
産まれたときの名前を捨てて、名前を受けると言うこと。
それはこの世界ではその者に命を預けること、支配を受けるという意味を持つ。
だからこそ、貴族の飼い犬や刻龍に所属する者達は統一された名前をもっているのだ。
支配をうけるということ則ち、逆らうこと能わず。
一生その身を捧げるということだ。
上から、体中に紅竜の嗤う声が響いてくる。
「新しいおまえの名は、ローズだ。
紅竜の女に相応しい名だろう」
紅竜が王子に向けた勝ち誇った笑い以上に、俺は隠しようのない哀しい諦めの笑いを零した。