別れ話
「やはり私たち婚約するべきではなかったと思うの」
呆然とする僕に向かってセシアは無感情で言った。
「だから、この婚約は解消してくれないかしら?」
唐突な婚約解消の申し出。
理解が追い付かない。
いや、理解したくないというべきだろうか。
「ど、どうして? あんなに愛し合っていたじゃないか!?」
ようやく僕の喉から出た声は絞りカスのように弱々しく、情けないものだった。
「あなたはそうだったのかもね」
「僕は……?」
「そうよ。愛に溺れていたのはあなただけ。果たして、あたしはどうだったかしら?」
意地悪そうにセシアが笑った。
ここまで言えば、言いたいことくらいわかるでしょう?
そう言いたげである。
「君は僕を愛してなかった……のか?」
「うーん、大雑把に言えば愛していたけれど、厳密に言えば愛していなかったわね」
まるで鼻唄を歌うようなセシア。
彼女にとってこの状況は大したことではないらしい。
「どういうことだ? はっきり言ってくれ」
「ふふふ」
不適な笑み。
もはや僕をからかっているようにしか思えなかった。
「まあ、正直にいうとあたしは恋に恋してた。あなたに恋してたわけじゃない」
「な……」
「そして、あたしは恋を愛してた。愛していたのはあなたじゃない。そう気がついたのよ」
「偽物だったっていうのか!? 嘘だったというのか!?」
繋いだ手も、晴れた日のデートも、苦しくなるほどの抱擁も、蕩けるような接吻も、熱い夜も、全部全部。
「本当じゃなかった……のか?」
僕の膝の力が抜けた。
ふらふらと地面に両手をついてしまった。
「本当だったわよ。そりゃあ、あなたを喜ばせるために多少の演技はあったかもしれないけれど、偽物ではなかった」
そこだけは安心して頂戴、とセシアは僕に寄り添って言った。
ただ、僕の元では残酷な言葉が放たれる。
「でも、ごめんなさい。この婚約は破棄にしてもらえないかしら?」
ごくり、と自然に唾が喉を滑り落ちていった。
嫌な冷や汗が一気に全身に湧くのを感じる。
「どうして今さらになって別れたいなんていうんだい…?」
僕は必死だった。
だって心の底からセシアを愛していたから。
その愛を壊したくなんてなかったんだ。
「理由? 理由ね~、そんなものいる?」
「いるだろう! 僕らはどれほど一緒にいたと思ってるんだっ」
つい大きな声を出してしまった。
そんな風に僕が必死なのがセシアには滑稽だったようで、彼女はケタケタと笑った。
「どれほどって、たったの一年と半分でしょ? それくらいで愛を叫ばれても重たいだけよ、ハルト?」
「どうしてそんなこと言うんだよ……」
今までにないほどセシアが冷たく感じた。
喧嘩したときだって、もう少しは僕に歩み寄ろうとしてくれていたのに。
今日だけ違うのは、彼女が婚約を解消したいせいなのだろうか。
「長々と話すつもりはないから、さっさと決断してほしいのだけれど」
「決断って……」
「婚約を解消するか、しないか」
「そんなのするわけないだろっ!」
「でも、もう私の心はあなたにはないわよ」
「……」
「だから、あなたには婚約を破棄するしか選択肢はないわけ。自分を愛していない人間と一緒にいても苦しいだけだと思うわよ」
「……」
「そして、今まであなたを慕っていたセシア・セシールはもうどこにもいない」
「他に好きな男でもできたのか?」
「はあ?」
僕の問いかけにセシアはきょとんとした。
「あー、ないない。それはないわよ。浮気なんてしてないから大丈夫」
「じゃあ、僕と結婚してくれていいじゃないか」
「あーあ」
セシアが心底面倒臭そうな表情をした。
僕もこれ以上の抵抗は惨めなだけだと悟っていた。
悟っていたのに、抗うことを諦められなかった。
「女々しいわよ、ハルト。女から別れを切り出されたら、さくっと受け入れるのが紳士ではなくて?」
「僕は紳士でなくっても構わないっ。ただ、君と一緒になりたいだけなんだよ」
本音を叫んだ。
けれど、セシアには届かなかった。
「あー、もういい。もういい」
これまでに聞いたことがないくらい低い声色でセシアが言った。
「あたしはもうあなたとは一緒にいられないわ。さよなら」
くるり、と足を翻すとセシアは靴音を鳴らして去っていく。
「おい、セシア!」
去っていくセシアを止めたいのに僕は動けなかった。
ショックで腰が抜けていたのだ。
あまりにも情けなかった。
これが僕らの婚約が息絶えた瞬間だった。