第5話 一般に、こういう感情がなんと呼ばれているかは。
ぴしり、とリディアは固まった。
ここに来る人は誰だって嫌々で、他に手段がないからだったのに、自らここに来たいなど。想像したこともなかった。
「その、こう……普通に話ができる人は他にいなくてな、リディアと話せるのが新鮮というか。後、その、スコーンも美味しかったのと、また紅茶も持ってくるし、そこそこ忙しいからそんなに頻繁に押しかけるつもりはないんだが、それにもし良ければで嫌だったら遠慮なく言って欲しいんだが……」
レナードらしくない口ごもりながらの早口の言葉。それが、こんなにもリディアの心を温める。
視界が揺れて、リディアは焦った。抑える間もなく、透き通った液体が頬を伝う。
「リ、リディア? すまない、今のは忘れて……」
「……りがと、ございます」
いつになく慌てた様子のレナードを真っ直ぐに見つめ、リディアは泣きながら笑う。
「私、ずっと人恋しかったんだと、思います。だから、その、嬉しい……です。迷惑でなければ、来て欲しい、です」
それを聞いたレナードが、一瞬凍りつき、そして笑みを浮かべる。ぎゅ、とレナードの手が机の上で握られ、すぐにレナードはポケットからハンカチを取り出した。
白く艶やかなその布をしばし眺めた後、レナードは無言でリディアに差し出す。その目はあらぬ方向を向いていて、動きはぎくしゃくしていた。慣れていないのだな、とリディアはこっそり笑う。
「ありがとうございます」
差し出されたハンカチは、清潔な香りとともに、それとは明らかに違う爽やかな香りがした。顔に近づけた途端に鼻腔をくすぐるその香りに、リディアは一瞬固まった。だが、すぐにそっと目に押し当てる。
柔らかなそれは、優しくリディアの心を落ち着かせてくれた。
「……ありがとうございます。すみません、洗って返すので、預かってもいいですか?」
「もちろん、ありがとう。では、それを次に来る時の口実にでもするか」
そう言ってレナードは悪戯っぽく笑う。その笑顔が、リディアにはとても眩しく見えた。
「お待ちしています」
そう告げたのは、紛れもなく、リディアの本心だった。
◇
リディアはひとり、本を手に立ち尽くしていた。
レナードが帰った後の部屋には、まだほんのりと紅茶の香りが残っている。それが、リディアをどことなく寂しい気持ちにさせた。
結局あの後、リディアは何も話せなくなってしまった。レナードを困らせているのは分かっていたが、あれだけ赤裸々に心の内を明かした後に、レナードにどう接していいか分からなかった。
なんとも名の付け難い沈黙がしばらく続いた後、レナードは席を立った。
「すまなかった。ゆっくり休んでくれ」
リディアを思いやる、そんな言葉を残して。
手の中にあるのは、レナードに持ってきてもらった本。該当のページを読もうと手に取ったものの、リディアの心は読みたくないと叫んでいた。
レナードの呪いがとければ、レナードがここに来ることはなくなるだろう。レナードは今だけリディアが唯一なのだから。耳さえ聞こえれば、レナードは沢山の人に囲まれて生きていく人なのだから。
リディアはその思いを無理矢理封じ込める。レナードの力になりたいと願ったのは、リディア自身なのだ。
椅子に勢いよく座り、そのまま無理矢理本を開いた。一度文字を読み始めれば、いつしかリディアは没頭してそのひどく読みにくい文字を追っていた。
◇
レナードは、言葉通り、リディアの元にやってくるようになった。そこそこ忙しいと言っていた通り、やってくる日は不定期で、おまけにひどく急だったけれど、いつしかリディアはベルの音を聞くたびに胸を弾ませるようになっていた。
きっとそれは、レナードが持ってくる紅茶が楽しみで仕方がないからに違いない、とリディアは自分に言い聞かせる。
リディアは知っていた。一般に、こういう感情がなんと呼ばれているかは。
「……でも、これは違う。絶対に違う。私は人とあまり関わったことがなかったから、いちいち大袈裟に感じてしまっているだけ……」
言葉にすると、そうに違いないという気持ちが湧いてくる。リディアは強く目を瞑り、気持ちを切り替えようと本に手を伸ばす。
何度も読み返したページには少し開き癖がついてしまった。手を触れただけで開くページに書かれた、何度も見た図を見つめる。
結論から言ってしまえば、彼の呪いはとける。リディアの魔力なら問題はないということは、もう分かっていた。
後必要なのは、リディアの魔力に耐えうる素材。それを王宮から持ってきてもらえれば、この依頼は終わる。
喜ばしいことなのだ。長らくレナードを縛ってきた呪いがとけるのだから。
それを素直に喜べない自分自身に、1番腹が立つ。
りん、と軽やかなベルの音が鳴った。
その瞬間に少しだけ浮き上がる心を、リディアは深呼吸して押さえ込む。違う人かもしれないのだ。お客様の姿を見てがっかりするなど、失礼にも程がある。
窓から外を覗いて、見慣れた後ろ姿を見つける。今度こそふわりと浮き立った心のままに、リディアは扉を開ける。
「こんにちは、いらっしゃいま……」
そこに立っていたのは、見たことのない貴族の男性だった。