第13話 「起動」
湖の中が、ぼうっと淡く光っていた。真夜中になったのだ。
リディアは目を閉じて、深呼吸をする。波立った気持ちが、すうっと落ち着いていくのがわかった。
小さく口を開いて。そして歌う。
柔らかなリディアの声が空気を揺らし、緻密にコントロールされた魔力がリディアを中心に、湖面に広がっていく。
リディアは歌で魔法をかける。旋律や歌詞を持つ歌は、何よりも魔力のコントロールに適していた。
どうせレナードには聞こえないのだから、何を歌っても許されるだろうから。
リディアは歌う。大切なひとを想う恋歌。あなたのそばにいたいと願う歌。
湖中を自分の魔力が覆ったことを確認して、リディアは魔力を可視化させた。
その瞬間、さあっと湖面が金色に染まる。
風が湖面を揺らせばそれに合わせて光が渡っていき、水滴が落ちれば波紋を起こす。
金に染まった湖がそこにあった。
だがその中に、不自然な部分がいくつかある。
渦を巻いて金色の光を吸い込んでいる場所がそこここに見られた。リディアは静かに、そこに向かって歩いていく。
リディアが足を触れた場所から波紋が広がり、金の光がリディアの顔に複雑な模様を描き出す。
リディアは、渦の中心にそっと手を伸ばした。そのまま湖の中の小さな花を掬い出す。
リディアの手から零れた水が、金の光をきらきらと振り撒いた。
保存の魔法をかけた小瓶に、その蜜を流していく。
金色、と表現するのが躊躇われるような、例えるのならば「光」そのもののような、そんな色だった。
光を手に、リディアは歌うのをやめる。
瞬間、今までの光の洪水が嘘のように静まった。
何事もなかったかのように静まり返る湖の中、リディアの手の中に宿る光だけが静かに鼓動していた。
リディアが岸に向かって歩くたび、ちゃぷ、と微かな水の音がする。湖でありながらこの辺りはとても浅く、リディアでも歩くことができた。
「レナード様」
岸に上がって、濡れた髪をかきあげ、放心したように動こうとしないレナードに声をかける。
「こちらが、素材です。夜も遅いですが、これがあれば呪いをとくのはすぐにできます。帰りましょう」
「……っああ」
リディアは魔法で身体を乾かし、荷物を片付けて馬に跨った。
やはり、魔法を使うと自分が聖女であることを思い出せる。自然と共鳴し、神聖なものに触れたときの不思議な興奮と充足感が身体を満たしていた。
リディアは、その感覚に心を揺らす。
レナードとは、まだ必要最低限のことしか会話していない。それで良い、そうでなければ、
必死で心を隠している仮面が、簡単に崩れてしまいそうだから。
泣きたかった。叫びたかった。
レナードと少し距離を空けて、馬で歩いているこの時間が、一生続けば良いと思った。
そんなことを願っている時に限って時間が速く進むのは、誰もが知っていることだ。
あっという間にリディアは神殿の前にたどり着いていた。
長い間住んでいる神殿だが、闇夜に沈んでいる姿を見るのは初めてだった。ぎゅ、と締め付けられる心を無視するように、リディアは扉を開ける。
ざっと土を蹴る音がした。レナードがすぐ後ろにいることを、リディアは知る。
「……綺麗だった。景色も、お前も」
綺麗、なんて。お前、なんてそんな呼び方。
「ありがとう。忘れられないものを見せてもらった」
リディアの話を、レナードがまだ気にしていることは分かっていた。
女物のブレスレットも、本当は分かっていた。レナードは、ブレスレットを貰う女性がいるのに、他の女性に口づけようとするような人ではない。少なくとも、恋人から貰ったものではないと思う。
だから、レナードも、もしかしたら自分を、と思っていた。
だから、なおさら、リディアは自分がレナードの隣に立つことを許せなかった。
違う、怖かった。忌み嫌われるリディアのせいで、レナードが傷つけられる姿を見ることが。
リディアは、レナードに幸せになってほしい。
好きな人の幸せを願うのが愛だ。
そんなことは、そんなことは分かっているのに。
レナードに縋りたいと、あなたが好きだと告げたいと願っている自分がいる。
だから、リディアは『沈黙の聖女』になる。
長年つけてきた仮面を出して、それがレナードのためになると信じて。
「こちらこそ、ありがとうございました。……どうぞ、お幸せに」
最後の一言だけが、聖女ではなくリディアの言葉になってしまったのは、仕方ないことだ。
今だって、溢れそうな涙を抑えるので精一杯なのだから。
リディアは祭壇の前に立つ。小瓶を取り出して、魔法陣の中心に置く。
「起動」
そして、歌う。
最初は囁くように。壊れそうな、儚い声。
膨れ上がる旋律。掠れる声。そして、眠るように終わりを告げ。
一瞬にも永遠にも思える時間は、静かに終わり。
眩い光が、辺りを満たした。
リディアの頬を撫で、レナードの周りを渦巻き、神殿の外へと流れ出した光の渦は、月光と溶け込むように混ざり、消える。
祭壇の上に置かれた小瓶だけが、静かに夜を退けていた。
「これを、飲んでください。体内の魔法を除去するものです。安全性は保証します」
リディアはレナードにその小瓶を手渡した。大丈夫、手は震えていない。
「ありがとう」
受け取ったレナードが小瓶の蓋を静かに外し、口元に当て、静かに傾けて。
その喉が、小さく、でも確かにこくりと動いた。




