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プールサイド【読切】

作者: 大枝 岳

 楽しげな声と水飛沫が上がる夏の日に、栄太はつまらなそうな顔をしながら包帯が巻かれた右足を摩っている。

 夏のプール授業が始まってすぐのことだった。

 週末のサッカークラブの練習中に転倒し、栄太は右の足首を骨折してしまったのだ。


「骨がくっつくまで動いたらダメだからね」


 医者にそう言われたものの、骨ってどうやってくっつくんだろう? いつ治るんだろう、またサッカーは出来るようになるのか、Jリーガーにはなれないのだろうか、考えれば考えるほど小学六年生の小さな胸が落ち込んで行った。

 そこへクラスメイトで同じサッカークラブに通う飯島がやって来る。

 両手で掬った水を栄太に掛けると、げらげらと笑い声を上げた。

 栄太は松葉杖で飯島の足を叩き、睨みつけた。


「嫌がらせすんなよ」

「栄太、プールは冷たくって気持ちいいぜ?」

「入れないんだよ、見れば分かるだろ」

「おまえ、女子が何でプール休んでるか知ってる?」

「はぁ……? 俺に関係ねぇし」

「教えてやろっか? 女子ってさぁ」


 女子のプール見学の真実を飯島が伝えようとすると、その頭を担任が引っ叩いた。

 栄太はその真実を何となく知ってはいたけれど、男である自分の身体には何の変化も起こらないので実感が湧かなかった。


 「女子の真実」をぼんやりと頭に思い浮かべながら見学している女子達を眺めていると、転校生の松山苗に目が止まった。

 転校して来たのはその年の春で、確か病気のせいで体育が出来ないと聞かされていた。

 色が白く、茶色掛かった長い髪が夏の風に揺れている。

 いつの間にか見入っていると、苗と目が合った。

 栄太はすぐに目を逸らした。胸が自然と高鳴っているのを感じ、水の煌きに目のやり場を逃がし、胸の高鳴りを溶かして行く。

 目が合った瞬間、微笑み掛けられたように見えたのだ。

 水の中に先ほどの苗の姿が浮かんで見えて、栄太はそれをかき消すように頭を掻いた。


 担任の鳴らすホイッスルが聞こえて、皆が水を含んだ身体を引き摺るようにしてプールサイドへ上がって来る。

 授業が終わってしまうのが何だか惜しい気がしたけれど、栄太は松葉杖を取って歩き出した。


 ビニールの匂いが充満した教室で、どの児童も眠たそうな表情で座っている。

 栄太がぐるりと教室を見回す。頬杖をついて黒板を眺める苗に、つい目が行ってしまう。少し大人びた風貌の苗に、恋をしているのかもしれない。

 そんな風な事を思うと、恥ずかしくて居ても立ってもいられなくなった。


 次のプール授業。栄太はわざと男子と女子の間辺りで腰を下ろして見学していた。

 自分から話し掛けられない事には目を瞑って、青い水と苗を交互に眺めていた。

 ずっと水を眺めているうちに睡魔に襲われそうになる。すると、濡れた足音ではなく、ひたひたと軽く乾いた音が栄太の目を覚ました。

 近づいた影を見上げると、髪の毛を直しながら苗が栄太の傍に立っていた。


「足、大丈夫?」

「お、おう」


 慌てて返事をしたものの、上手く答えられず少し裏返ってしまった。

 ちゃんと口を利くのは初めてだった。苗は栄太の隣に腰を下ろすと、輪郭のハッキリした声で言った。


「こないだから私の事、見てたでしょ?」

「……べ、別に見てねぇし」

「本当?」


 栄太を覗き込んでそう聞いて来る苗の顔の近さに、栄太は顔を赤らめた。意識をし過ぎて、拗ねるような口調になってしまう。


「本当だって」

「そっか。残念」

「え? 何だよ、それ」

「ねぇ、男子達の間って今何が流行ってるの?」


 まるで違う問い掛けに戸惑いながら、栄太はその頃流行していたゲームの名前を伝えた。

 両手の指を組んだ苗が宙を眺めながら「あー」と間延びした声を上げた。


「それ知ってる、闘うやつだ」

「え、持ってるの?」

「ううん、お兄ちゃんがやってる。私もやってみようかな」

「やってみりゃ良いじゃん、きっと面白いぜ」

「現実では動けないからさ、せめてゲームの世界くらいね」

「……おまえ、どこが悪いの?」

「吉塚君、おまえって言い方良くないよ。良くないから、教えてあげない」

「何だよ…………ま、松山さん? どこが悪いの」

「下の名前でも良かったのに」

「いや……」

「照れてる」

「うるせぇ。松山さん、どこが悪いんだよ」

「聞いてないんだ?」

「体育が出来ないってのは知ってるけど」

「心臓が悪いの。私の心臓ね、機械で動いてるんだ」

「機械……そうなんだ」

「あ、何万回も見た顔してる。皆そんな顔するよね」

「普通、そうなんじゃないの? 分かんない、けど」

「私は普通が分からないからなぁ、分からないよ。ねぇ、どうせしばらく見学なんでしょ?」

「まだ骨がくっつかないから、そうだと思う」

「だったらさ、吉塚君が私に皆の普通を教えてよ」

「普通?」

「うん、普通」


 栄太にとっての普通。朝起きて、ご飯を食べて学校へ行く。

 放課後は飯島達と馬鹿話をしながら、週末にはサッカークラブでグラウンドを走り回る。実に他愛ないものだった。

 今まで特に意識もした事さえ無かったけれど、そんな「普通」の生活の中にさえ苗に取って「普通」ではない日常が隠されていた。


 話している内に栄太は気が付いたのだが、苗はランドセルを背負っていない。

 毎日、右側の肩にバッグを掛けて登校して来る。前の学校でそういう決まりだったのかと思っていたけれど、ペースメーカーのリード線に負担を掛けない為なのだと苗に教えられた。


 触れるのが怖いと思っていた話題だったが、苗があっけらかんと話す事で栄太は苗の日常生活の困難を理解しようと前向きになる事が出来た。


 夏休みに手術がある為、将来の事も考えて大きな病院のあるこの街に引っ越して来た事も知った。前の学校の方が給食が美味しかった事、買い物をするにはこの街の方が便利で、前の街は電車が一時間に二本しか無かった事も聞かされた。


 栄太は当時始まったばかりの「Jリーグ」の凄さを苗に興奮気味に話して聞かせた。地元チームのマリノスを応援している事、嫌いなチームだけれど川崎ヴェルディのカズの凄さを聞かされているうちに、苗は自分がグラウンドを走り回る姿を想像し始めた。


「ボール蹴るのって難しそうだなぁ」

「難しくないよ、松山さんでも出来るって」

「でも、難しいから骨折したんじゃないの?」

「ボール蹴って骨折するほどヤワじゃないって。サッカーには色々あるんだよ」

「ふーん。でも走るのって楽しいだろうなぁ、走ってみたいな。いつかね、思いっ切り風を切って走ってみたいんだ」


 苗はまるで憧れの芸能人を語るような表情でそう言った。栄太はそんな苗の切なる願いの背中を押したくてたまらなくなった。


「きっと、走れるよ」

「走れるかな?」

「約束する、絶対走れるよ」

「分かった、約束ね」


 苗はそう言って笑った。塩素の混じった風が鼻をツンと突いて、長い髪を揺らしていた。

 帰り道、栄太は誰にも跡を付けられていない事を確認すると友人達からは余り人気のない駄菓子屋へ寄り道をした。

 紐で結ぶタイプのミサンガと、プラスチックのパッチで止めるタイプのミサンガと、二種類を見比べながら睨めっこしていると駄菓子屋の年配店主が声を掛けて来た。


「パチン、って止めるヤツは人気だよ。選手の名前も入ってるし、これなんかラモスだよ? 人気だろ?」

「俺……マリノスファンなんで」

「マリノスなんてのがあんのかい、おじさんはベルデーしか知らなかったな」

「あの。こっち、下さい」


 栄太は紐を結ぶタイプの柄だけのミサンガをふたつ買った。店主の勧めたミサンガは余りにも子供じみて見えたのだ。

 晩ご飯の時、ミサンガを苗に渡す事を想像すると自然と胸が緊張し始めて食事が思うように進まなかった。表情も固く、飲み物ばかりを口にした。

 そんな様子に父親が気付き、声を掛けた。


「なんだ、元気ないじゃないか? 栄太、どこか悪いのか?」

「いや……別に。大丈夫」

「……母さん、これはひょっとして、恋じゃないか?」

「あら! 栄太、どんな子なの?」

「別に、ちげーし!」


 ムキになって答え、無理やりハンバーグを口の中に放り込んだ。一瞬、胃液がこみ上げたが飲み込んだハンバーグで押し戻す。

 苗の事を考えないようにしながら、自然な口ぶりを装って栄太は父親に尋ねてみる。


「あのさぁ、うちのクラスにペースメーカー? 付けてるヤツがいるんだけどさ」

「それはおまえ……可哀想になぁ。まだ小学生なのに……」


 あ、何万回の顔だ。そんな風に苗の見た景色を少しだけ垣間見れた気がして、栄太は小さく微笑みながら続けた。


「そいつ、今度手術するらしいんだけどさ、思いっ切り走れるようになるのかな?」


 父親はビールを飲み干し、長い溜息を吐いた後に答えた。


「それは多分、無理だろうな」

「えっ……なんで?」

「心臓を治す為の手術じゃなくて、ペースメーカーの電池が切れる前に新しいペースメーカーに変える手術をするんだと思うんだ。父さんの会社の会長がさ、ペースメーカーしてるから分かるんだけどな」


 栄太は目の前が真っ暗になった。

 なんて馬鹿な約束をしてしまったんだろうか。軽はずみな気持ちで、何で走れるようになるなんて言ってしまったんだろう。

 自分の軽率さを隠すかのように、栄太は大人の出す答えにすがり付いた。


「でもさ、でも、将来はすっげー性能のペースメーカーが出来てさ、走り回ったり出来るようになるんじゃないの? それこそカズみたいに、グラウンドを走ったり」

「うーん……栄太。勉強にはな、友達の事を理解する為の勉強っていうのもあるんだ。あのな、程度はあるけれど心臓が元々上手く動かない人の心臓を動かす為にペースメーカーっていうのがあるんだな。残念だけど、心臓を治す為の機械じゃないんだよ」

「そんな、でも、俺達が将来になった時は分からないじゃん。だって、そんな一生治らない病気なんて変じゃん、絶対治せる未来が来ないなんて、誰にも分からないじゃん」

「栄太。その友達とな、本当の意味で良い友達になってやれよ」

「ひでーよ、なんでそんな病気あんだよ。意味分かんねーよ! 誰だよ、そんな病気作ったヤツ」


 栄太は食べ掛けのハンバーグの前で、気付かないうちにポロポロと涙を流していた。

 ミサンガが切れる時は、願い事が叶った瞬間だと言われていたのに。

 苗の手首に巻かれたミサンガはきっと永遠に切れる事がないと思い知ると、次から次へと流れる涙は溢れ出して止まらなくなった。

 父は何も言わず、栄太の肩を抱き締めていた。


 翌朝。栄太は迷いながらも、ヤケになって机の上に放り投げたミサンガを持ってランドセルの中へ仕舞った。

 賑やかな声が響く教室へ入ると、栄太は真っ先に苗の座る机に向かって歩き出した。


「これ、やるよ」

「プレゼント? 開けていい?」

「うん」


「プレゼント」という苗の言葉に数人の児童が反応した。栄太は楽しそうにひそひそと話し出す女子達を横目で睨み付けた。

 小さな紙袋からミサンガを取り出した苗は不思議そうな顔をした。


「これ、ブレスレット?」

「ミサンガ。知ってる?」

「ミサンガって言うの? 知らない。教えてよ」

「願い事を考えながらこれを手首に巻くだろ? それで、願い事が叶うとこのミサンガが切れるんだ。お守りにもなるんだぜ」

「へぇ、面白いね。ねぇ、私の願い事も叶えてくれるかな?」


——それは多分、無理だろうな。


 父の言葉がふいに栄太の頭を過ぎる。けれど、栄太は親指を立てて頷いてみせた。


「バッチ叶う! いつか絶対に、絶対に叶うから諦めんなよ」

「ありがとう。ちゃんと切れてくれるように吉塚君もお願いしてね」


 苗がミサンガを巻こうとすると、飯島が傍へ寄って来て二人を囃し立てた。


「ひゅーひゅー! 栄太、こんな女がタイプな訳〜? センス疑っちゃうなぁ」

「うるせぇな。っていうか、俺と松山さんは、友達だよ」

「俺だったらこんなの友達でもごめんだねぇ。だってこいつさぁ、走れねぇじゃん。ポンコツじゃん」

「だったら何だよ。馬鹿にしてんのかよ」

「松山君、ありがと。私は大丈夫だから、もう行って。大丈夫だから」


 苗はそんな冷やかしにも慣れているのか、落ち着いた様子で栄太に微笑んでみせた。そうやって落ち着いて微笑む苗を見て、栄太はとても悲しく感じた。

 胸が締め付けられるような思いになった。二人のやり取りを無視しながら、飯島はさらに挑発するように言った。


「俺知ってるぜ。松山の心臓って機械なんだろ? 機械人間じゃん! 機械の癖に走れないとか笑えるし。ウケる〜」


 言葉とは裏腹に教室中の何処からも、笑い声は上がらなかった。

 それどころか、一瞬にして空気が凍り付くような気配さえした。クラス中の誰もが押し黙り、下を向いた。

 栄太の怒りが頂点に達し、飯島に殴り掛かろうとした。

 その途端、苗の姿を見て栄太は振り上げた拳を静かに下ろした。無音の教室で苗は笑顔のまま、声のひとつも漏らす事なく静かに涙を落としていた。


 今までもずっと、こいつはこうやって一人で泣いていたんだろうな。


 そう思ったら、飯島を殴ってしまうのは苗をもっと追い詰める結果になるかもしれないと感じた。

 静まり返った教室を見回しながら、飯島が大袈裟に手を広げてみせた。


「あれ、ウケない? 機械人間だぜ?」


 栄太は自身の胸元を叩き、明るい声を意識してこう返した。


「ウケねーし! ってか松山さん、カッコよくね? 俺達、生身だし。未来人みたいじゃん」


 教室にプッ、という噴き出す声が響いた。クラメイト達がきょろきょろと目配せし合った。噴き出したのは苗だった。栄太の言葉に、たまらず笑い声を上げたのだ。 

 泣き笑いした顔のまま、苗が言った。


「私、サイボーグだからね」


 その声に飯島が目を丸くする。そして


「やられたぁ! 一本取られた!」


 と叫ぶと、ようやく教室中から笑い声が聞こえて来た。

 緊張が解けた彼らが一斉に苗を取り囲み、口々に言葉を掛け始めた。飯島は皆から頭を叩かれていた。

 一気にクラスの中心となった苗を眺めながら、栄太は教室の隅で口を尖らせた。


 一学期最後のプール授業。苗はプールサイドにはいなかった。

 手術に向けて入院した為、ひと足早い夏休みに入ったのだ。

 最後に登校した日、苗の手首にはミサンガが巻かれていた。見舞いに行ったベッドの上でも、ミサンガは巻かれたままだった。

その姿を思い浮かべる栄太の手首にも、同じ柄のミサンガが巻かれている。


 プールに上がる水飛沫と騒がしい声。青い水を眺めながら、栄太は苗の走る姿を思い浮かべる。

 その姿は今の苗よりもずっと、大人びた姿をしている。


 栄太は気恥ずかしくなって何気なく立ち上がると、松葉杖をついていない自分に驚いた。

 その途端、擦り切れていたミサンガが手首から切れて地面に落ちる。

 栄太はミサンガを拾い、笑い声を上げた。願い事が叶うと、本当に切れるんだ。そう思いながら、高らかに笑い声を上げた。


「次はおまえのが切れる番だぜー!」


 空に向かってそう叫ぶと、栄太はプールへ向かって走り出した。ホイッスルが盛大に鳴らされる。そんなものはお構いなしでプールサイドから水の中へ飛び込むと、夏の空には一瞬の虹が掛けられた。

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[良い点] 飯島君がいい味出していたと思います [気になる点] ヴェルディ川崎のカズとかラモスって、ものすごく昔じゃないですか。回想なら苗さんとの結末が欲しかったです
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