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アンリ殿下は頑張っていらっしゃいます、私の自慢の婚約者様です──
そう言うと、彼の瞳に光が灯りました。
私の胸に顔を埋めて泣きじゃくっていたのが幻だったかのように、文武に優れた凛々しい王太子殿下の姿へ戻っていきます。
優し過ぎる彼を支えていけることが嬉しくてなりませんでした。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「……クレール様……」
アンリ王太子殿下が魔術学園に登校しなくなって一ヶ月ほど過ぎたころ、出席だけ報告して図書室の禁書庫へ向かおうとしていた私を呼び止めた女性がいました。
同じクラスの……だれだったかしら?
ルグラン公爵令嬢として、王太子の婚約者として覚えておかなくてはいけないのでしょうが、夜会やお茶会で会うこともない低位貴族までは覚えきれません。
話だけは聞こうかと、私は彼女を排除しようとする護衛騎士を止めました。
私の護衛騎士は女性です。
アンリ殿下にとっての私は政略結婚の相手に過ぎないことはわかっていますが、それでも疑われるような真似はしたくなかったのです。私は、初めて会ったときから彼を愛していましたから。愛して……いました。
「お願いです。ルグラン公爵に頼んで、ラクロワ商会に借金の返済を待つように命じてください。これまでは利息分だけで良かったのに、今月中に元金を返せと言われたんです。返さなければ……私を妾にすると。あの醜いガマガエルのようなラクロワ商会の会頭の妾になるなんてまっぴらですわ!」
「……ああ」
ラクロワ商会のことは知っています。
会頭とも会ったことがありました。
確かに美しいとは言い難い容姿の持ち主ですが、とても有能で信用のおける方です。芸術方面にも造詣が深く、話していると時間を忘れます。まだ独身でいらっしゃるから、誠意を持ってお付き合いをすれば正妻にもなれるでしょう。
「父はラクロワ商会の権利を手放しました。もうなにも口出しすることは出来ません」
「でも以前は付き合いがおありだったのでしょう? なにかひと言お願いしますわ。私、婚約者がおりましたの。とても美しい方で、私達は心から愛し合っておりました。……ご自身のお家の借金だけで手いっぱいだからと、婚約は解消されてしまいましたけれども」
父であるルグラン公爵は、最近いくつかの事業から手を引きました。
元々そういう予定だったのです。
新しい会頭達は以前から商会を運営していた方々で、雇用されながら貯めたお金で父から権利を買い取ったのだと聞いています。彼らは部下のためにも利益を求めなければなりません。父のように王家のため自腹を切ることは出来ないのです。
「お願いですわ、クレール様! どうか私を哀れとお思いになって!」
学園の床に膝をついて泣きじゃくる彼女に、私は尋ねました。
「私がアンリ王太子殿下に『頭のおかしい公爵令嬢』と蔑まれたとき、あなたは私を哀れに思ってくださいましたのかしら?」
芝居がかった彼女の泣き声が止まりました。
私は今ごろになって思い出したのです。目の前の彼女が、あのとき一番最初に吹き出した方だったということを。
彼女は立ち上がり、燃えるような瞳で私を睨みつけました。
「なんて酷い方! そんな優しさのかけらもない人間だから、王太子殿下に捨てられてしまうのですわ」
「……そうですわね」
吐き気が酷くて魔術学園に通えずにいた間に一度だけ、嫉妬の感情を抑えきれなくて愛人の家へ向かうアンリ殿下を尾行したことがあります。父がその存在を教えてくれたのです。
緑色の屋根の小さな家の玄関で、彼は美しく華やかな少女と接吻を交わしていましたっけ。
私の隣で、護衛騎士が溜息を漏らします。
「ラクロワ商会の会頭はルグラン公爵家に恩義を感じている。あなたがお嬢様を罵ったことを知ったら、妾にすらしようとは思うまいよ。四肢を切り落として娼館に売り払うくらいで済むよう祈っておくといい」
「ひっ!」
顔面蒼白になった後、猫撫で声で謝罪を口にする彼女を置いて、私は図書室の禁書庫へ向かいました。
私は今、幻術について調べているのです。
教室のある建物から図書室へ向かう渡り廊下を歩きながら、私は護衛騎士に告げました。家臣の行動は主人に責任があります。
「人を脅すようなことは言わないほうがいいわ」
「さようでございますね。お嬢様の品位を落とすような発言をして申し訳ありませんでした」
禁書庫で本を読んでいたらアンリ王太子殿下がいらっしゃいましたが、残念ながら婚約解消を告げに来たのではありませんでした。
借金の返済を求められた低位貴族達に逆恨みされても莫迦らしいと、父が幻術に関する本を買い集めて国王陛下と学園長に許可を得てくださったので、それからしばらくして私は学園に通わなくても良くなりました。
もとから公務や王妃教育のため王宮へ通うことを優先していましたし、アンリ殿下に罵られてから何日かは登校しようとしても吐き気がして叶いませんでした。この出席率でも卒業できるのでしょうか?
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
魔術学園を卒業して半年が過ぎました。
卒業式にも卒業パーティにも出席していないので、未だに実感が薄いです。
もっとも私だけでなく、お家の事情で出席しなかった方は多かったようです。
「おい、お嬢。足手纏いになったら置いていくからな」
ここは自由都市にある冒険者ギルド。
私は今、冒険者として活動していました。
今日一緒にダンジョンへ潜る予定の青年に頷きます。彼は口こそ悪いものの、とても優秀な戦士です。貧民街に生まれ、幼いころから兄とふたりで頑張ってきた方です。
「はい、もちろんです。ですがあなたが置いてきぼりにするのはきっと、幻術で創り出した囮の私のほうだと思います」
青年が大きな口を開けて笑います。
「ははっ、そうだな。お嬢の幻術はすげぇもんな」
「その通りです。お嬢様は国一番の幻術師でいらっしゃいます」
彼の隣で、戦士姿の女性が頷きます。
彼女は魔術学園で護衛騎士を務めてくれていた女性です。
私が心配だと、自ら冒険者登録をして休日について来てくれているのです。
「早く最奥部に達したいものですね」
「……本当に、浄化の水晶は俺がもらったのでいいのか?」
「ええ。あの方にはお世話になっていますから」
青年はラクロワ商会会頭の弟です。
会頭は生活のために潜ったダンジョンで死にかけた弟を救うために禁忌を侵し、今の姿になったのだそうです。……私は太っていらっしゃるだけだと思っていたのですけれど。
彼は満月の夜にだけ元の姿に戻ります。真実の愛を得るか浄化の水晶を使うことで、完全に呪いを解くことが出来るのだといいます。
借金の形に妾にした女性と誠実に向き合って真実の愛を育むおつもりだったそうですが──まあ、無理ですよね。
真実の愛は簡単に手に入るものではありません。私が愛したアンリ王太子殿下は幻でした。本当の彼は緑色の屋根の小さな家に住む女性を愛していたのです。
ドラゴンを倒して浄化の水晶を手に入れるほうが簡単でしょう。
「その代わりドラゴンの素材はいただきますよ」
「ああ、もちろんだ」
「お嬢様の幻術があれば、ドラゴンなど恐れるに足りません」
「……そんなにおだてないで。恥ずかしいわ」
「残念ながらお嬢様、今の私はお嬢様の家臣ではありませんので、好きなことを好きなように申し上げます」
「……そう」
仕事外でまで注文を付けるわけにはいけませんよね。
私達はダンジョンへ入りました。
──今日は、王都の大神殿でアンリ王太子殿下の結婚式がおこなわれています。
私が愛した幻とは違う、本当の彼が幸せになりますように、と私は祈りました。
ドラゴンの素材が手に入ったら、彼のために私がかけた幻術は不動のものになることでしょう。
私が愛したアンリ王太子殿下は幻でしたが、私の愛は幻ではありませんでした。……今も胸を苛むこの愛が、いつか幻となって消え失せますように、と私は願わずにはいられませんでした。