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手が空いて一番先に会いたいと思ったのはクレールだったけれど、結局のところ彼女は政略結婚の相手に過ぎない。
私が愛しているのはメプリだ。
自分自身に言い聞かせながら先触れもなしに向かった緑色の屋根の小さな家の玄関では、メプリが見知らぬ男と接吻をしていた。
先触れなしに押しかけるのは良くない、と私を止め続けていた従者が目を逸らす。
どうやら知っていたようだ。それどころか彼自身もメプリと関係があるのかもしれない。
怪しいと感じたことはあったのだが、これまでの私はそんなことがあるわけないと自分を誤魔化していたのだ。主人を嗜めない従者は良い従者とは言えないと、以前クレールに苦言を呈されたことを思い出した。魔術学園に入学した最初の年の花祭りに、従者とふたりでこっそり参加したと告げたときだ。
考えてみれば、花祭りの夜のメプリが初めてだったからといって純真無垢な娘とは言い切れない。
所詮は会ったばかりの男に体を任せるような女だ。一番高く自分を買ってくれる相手を待っていただけだったのだろう。
家どころか、あの夜私が着けていたブローチをひとつ渡しただけで大喜びしたに違いない。
メプリに声はかけず、暗い気持ちで王宮へ戻った私は父である国王に呼び出された。
指定された部屋へ行ってみれば、母である王妃もいる。
父の顔は怒りに満ちて、母の顔は悲しみに沈んでいた。これを見ろ、と言って父が書類の束を私に渡す。それはメプリの素行調査書だった。
「少し前、ルグラン公爵にそなたの浮気について文句を言われたことがある。証拠もないのにいい加減なことを言うなと怒鳴りつけ、彼が調査しても証拠が出ないよう、そなたを仕事で王宮に縛り付けていたのだが……」
「私が贈ったつもりでいたドレスもアクセサリーも、ルグラン公爵家には届いていなかったのですね」
従者はいくつかのアクセサリーどころか、私が注文したすべての品を受け取って金に換え、自分の小遣いにしていた。
メプリも私が直接会って渡した以外の金は受け取っていなかったらしい。今日見た接吻は浮気ではなく商売だったようだ。
だからといって、メプリが尻軽でないとは言えないのだが。
ルグラン公爵はおそらく、父に文句を言ったときにはもう証拠を掴んでいたと思われる。その上で、自分の娘を嫁がせる予定の王家の反応を試したのだ。
クレールに夜会の欠席理由を聞いたら従者の不審な行動(=宝飾店で受け取った品をそのまま販売していた行為)について問われ、罪悪感を誤魔化すために怒鳴りつけてしまった記憶が蘇る。
彼女が諦めたような顔で言葉を濁し出したのはそれからだ。
「クレールが夜会に来ないはずよ。婚約者の王太子からドレスもアクセサリーも贈られていないと気づかれたら、王家とルグラン公爵家が決別したのではないかと噂されてしまうもの」
学園の間だけならいいわ、あなたに恋しているクレールは自分から婚約解消を申し出はしないでしょうし、と苦笑していた母が溜息をつく。
やり手のルグラン公爵家は、この国の多くの事業に融資をしている。公爵家に反感を剥き出しにしている無能な貴族達が暮らしていけるのは、公爵が配下の商会に命じて貴族相手の取り立てに余裕を持たせているからだ。
一部の利息だけを返して新しい借金をして、無能な彼らは生活している。
ルグラン公爵家は、無能な貴族達に金を貸していた事業をいくつか手放したようだ。
教室にいる生徒の数が減っていた理由がわかったような気がした。
新しく事業を買い取った人間は、公爵家のように自腹を切ってまで貴族達を養いはしないだろう。公爵家が自腹を切ってまで彼らを養っていたのは王家のためだ。ひとつの貴族の家が潰れれば、大量の失業者が生まれて国の治安が悪化する。すべての怒りは王家へ向かう。
「……ルグラン公爵は、私とクレールの婚約を解消したいと申し出ているのですか?」
調査書を読み終わり、父に尋ねる私の声は震えていた。
渡されたのは調査書だけで、ルグラン公爵の目的は記されていなかったのだ。
「いや、婚約解消は申し出てきていない」
父は不思議そうに顎を擦り、母は微笑んだ。
「ほらね。やっぱりクレールがあなたに恋しているからよ」
「ただし卒業までルグラン公爵令嬢は魔術学園を休学、そなたは結婚式まで令嬢と会うなとのことだ」
「クレールに会ってはいけないのですか?」
「卒業して結婚したら嫌でも毎日会える。それより、あのメプリとかいう淫売の始末は任せても良いのだろうな?」
「え?」
「あの淫売はそなたが与えた恋文を持っている。どこのだれともわからぬ男の種で出来た子どもをそなたの子だと言って連れ込まれては困るだろうが」
「は、はい……」
「従者にはメルシエ伯爵家の息がかかっていたようだな。メルシエ伯爵家まで糸を辿れれば良いが……それは難しそうだ」
メルシエ伯爵家は反王家の派閥を率いている。
その日暮らしの借金生活をしているような無能ではないのでタチが悪い。
「メプリもメルシエ伯爵の手先だったのですか?」
「だったら尻尾が掴めてちょうどいいのにな。あの淫売はどこにでもいる頭と尻の軽い莫迦娘だ。客の中にメルシエ伯爵の名前はあったが、それだけだ」
「向こうはあなたの過ちにつけ込んだだけよ」
「……申し訳ありません」
どうやってメプリを始末しようかと思考を巡らせる。
私は王太子だ。これまでも人の命に関わる決断、綺麗とは言い難い計略を実施してきた。
だが、これまではその後でクレールに会えた。普段は先触れなしに公爵邸を訪れると苦虫を噛み潰したような顔をする子煩悩なルグラン公爵も、そのときだけは迎え入れてくれた。自分の汚れた手に落ち込んでいる私にクレールは言ってくれた。
アンリ殿下は頑張っていらっしゃいます、私の自慢の婚約者様です──
彼女の言葉は思い出せるのに、彼女の笑顔は思い出せなかった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
私が行動する前に、メプリはいなくなってしまった。
緑色の屋根の小さな家が焼け落ちて、中から男女の遺体が見つかったのだ。焼け焦げていて顔もわからないが、メプリと従者だということになっている。
メルシエ伯爵による口封じなら良いけれど、替え玉を仕立てて逃亡させたのなら問題だ。火事の状況を探らせたものの芳しい結果は訪れなかった。あのふたりかもしれないし、そうではないのかもしれないままだ。
それでも……と私は胸を弾ませた。
魔術学園を卒業して半年が過ぎた。今日はクレールとの結婚式だ。
会わずに過ごしたこれまでの日々で、どんなに彼女が大切だったかを思い出した。メプリと従者が現れても、クレールがいれば立ち向かえる。
政略結婚の相手以上の意味はないだなんて、どうして思っていたのだろう。
クレールが説得してくれたのか、招待席のルグラン公爵も笑顔で見守ってくれている。
王都の大神殿で大神官に促されて、私はクレールのヴェールを上げた。早く彼女の顔が見たかった。初夜の床では床に額を擦り付けて謝ろうと思っている。
「クレー……ル?」
ヴェールの下の顔を見た瞬間、私は凍りついた。