序 ~終わりのはじまり/ 08~
謎多き少女アキの腫瘍切除手術を執刀したという仮面の医師「田代」。
25年前の生々しい記憶が、本人の口から語られはじめる…
--- 腫 瘍 ---
1938年 11月15日 15時05分。
院長室の窓から見えていた青空はいつの間にかどんよりとした雲で覆われていた。謎めいた来客達が出て行ってから十分としない間の出来事であった。
田代はデスクの上に並べた三枚の名刺と、その横に置かれた〝背中に大きなコブ〟をつけた少女の写真をかわるがわる眺めながら独り言をつぶやく。
「この子の腫瘍も驚きですが……厚生省の医務技官と超常現象研究家、それに神社の神主とは……また何とも不可解な組み合わせがやって来たもんです」
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厚生労働省
医務技官
山 根 勝 信
住所 東京都○○区○○町○○○
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日本超常現象研究学会
代表
舟 越 無 一
住所 京都府○○市○○町○○○
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龍頭神社
神主
神 山 信 仁
住所 福岡県○○市蝦見糸村○○
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「それにあの女性……一体私に何をしたのやら……」
名刺の三名以外に、超常現象研究科の妻と名乗る女性が居り、会談中に小さな香を炊くと田代の右手にその煙を当てて『この方なら大丈夫でしょう』と、他の三人に告げていたのだ。
前年にこの大病院の院長に就任したばかりで心身ともに順風満帆の田代であったが、今回のオペはどう考えても不可解な点が多く、正直気乗りがしないものであった。だがその依頼は〝医師会会長直々の推薦〟を受けた案件でもあり、半ば命令に近い形で執行される、医院の沽券に関わる重要案件でもあった。
患者の少女は長距離移動が困難という事で、まずは十一月中に何度か往診を行い、彼女の様子を観察しつつ手術日程を決める。という方針で事を進めようと考えた田代は、地図を広げ蝦見糸村にある古部家の位置を確認した。
「……何とも嫌な感じですね……まったく」
田代は一瞬写真の方に眼をやるが、すぐにそこから視線をそらすと、後頭部をさすりながら、院長室を後にした。
12月1日。
舟越夫妻と神山の同伴のもとで二回の往診が行われ、この日、亜紀は田代医院に入院した。田代は
――なぜこの三人が同伴を?――
とも思ったが、初回往診の前日に厚生省の山根から連絡が入り〝特段の事情により〟との何とも歯切れの悪い説明を受けていたから仕方がない。また、山根からは
『今後はアキ関連の全ての処置に伴い、この三人を必ず同伴させること。また、舟越の妻(沙奈江)が行う呪術的な行為に対しては一切関与せず質問も行わないこと』
という、これまた訳の分からない指令を受けており、田代自身はあえて深く考えることをやめていた。
アキの手術前の精密検査は順調に進んだが、背中の腫瘍のレントゲン撮影で不測の事態が起きる。並べた撮影画像を前に田代は困惑していた。
「これは……どういう事だ?……」
亜紀の体中のレントゲン写真の中で背中の腫瘍部分を映した箇所だけが何かで塗りで潰したかのように真っ黒に変色していたのである。田代の隣の技師が眉をひそめて呟く。
「それが原因は分からず終いでして……機械的なトラブルかと思って何度か撮り直したんですが、この腫瘍の部分だけ何度撮ってもこうなってしまうんです」
「触った感じは何というか……バレーボールのようにパンパンに張っている感じでしたから、おそらく厚い外膜の中に相当量の腫瘍が詰まっていると思うのですが、レントゲンに映らないとは………
切開してみない事には中身はわかりませんね……」
考え込んでいる田代に向い、さらに技師が告げる。
「あと、ここ。入り込んでますよ……神経みたいな管が」
「ええ。わかってます。……その管なんですが、信じられないことに腫瘍の中の何かに繋がっていて内部に作用しているみたいなんです。エコーに微妙な反応がでるんですよ」
「エコーで反応?……まさか」
そんな馬鹿な。という顏をする技師を横目に田代は続ける。
「ですよね。……こんな馬鹿げた症例、みたことも聞いたこともない。まぁ、全ては明後日のオペではっきりするでしょう……ん?」
数枚の腫瘍の画像を見比べていた田代の目が鋭く細まる。
「気のせい……か?……」
田代は不気味な漆黒の中に一瞬何かを垣間見た気がし画像をまじまじと凝視するが、再び〝それ〟を確認する事はできなかった。
12月3日 14時20分。
手術室には嗅いだことの無いツンとする香の臭いが充満していた。舟越の妻沙奈江がブツブツと何かをつぶやきながら、手術台の周囲に大きく円を描くように白い粉を敷き詰めている。〝最低限の守護〟だとの説明を受けたが、何から何を守るのかもさっぱり分からないまま、田代率いる医療メンバーはただ黙って彼女の作業が終わるのを見守っていた。
当手術を執行するにあたり、医師会からは三つの指令が出ていた。
・当施術に関する情報は一切外部に公開はしない様、関係者に周知すること
・手術で切除した腫瘍は直ちに舟越夫婦に引き渡すこと
・手術中、何らかの異常事態が発生した場合は舟越夫人の指示に従い対処すること
あらかじめ〝異常事態〟を想定している事や、今、眼前で行われている奇妙な儀式から、進行中の施術が『常識から逸脱する行為』であろう事は容易に想像ができた。
手術台の傍らには腫瘍の引き渡しを遂行する為の直径十五~六センチ大の円筒形のホルマリン容器が用意されており、このオペの異様さを象徴するかの如く、ぬらぬらと揺れる不気味な光を天井の一角に反射していた。
――何が起きても手術を途中で止めず、腫瘍を本人から切り離してください――
沙奈江から奇妙な指示を受け、ようやくオペが開始されたのは十四時三十分をまわった頃であった。
麻酔、マーキング、患部消毒……と順調に作業は進んで行ったが、田代が亜紀の体にメスを入れた瞬間、異変は起こった。
「ぐあっつ!」
「ぎゃっ!」
「うううっ!」
亜紀の周囲に居た医師と看護師らが、突然頭を抱え込んで苦しみだす。
『チリリーーン……チリリーーン……チリリーーン……』
後方で様子を見守っていた沙奈江が小さな〝持鈴〟を鳴らした。
「大丈夫です皆さん、気をしっかり保っていれば手術は無事に終わります」
医師たちの頭を突然襲った締め付けるような痛みが、鈴の音にかき消されていくようにゆっくりと治まっていく。
一体何が起きているのか理解できないまま、医療メンバー達は静かに作業を再開した。
――逆だ……気を保てなければ無事では終れないんだ……このオペは――
田代は恐怖心をねじ伏せる様に気持ちを奮い立たせ、全神経を右手のメスに集中させる。
「くっ……固いですねこれは……クーパー……いや、骨剪刀をください」
メスで付けた切り口に骨剪刀の猛禽類のくちばしの様な鋭い歯を差し込み、田代はそのままぞりぞりと腫瘍に付けたラインに沿って上から下まで一気に切り進めた。
――ドブッ――
どす黒い赤身を帯びた液体が堰を切ったように内部からあふれ出し、ドレープの外へと流れ落ちた。と、同時に腐った魚介類のような異様な悪臭が辺りに拡散する。
「……ガーゼ!……中見えないから急いで!」
噴出した液体を看護師にふき取らせながら田代は切り込みに両手を差し入れ、ゆっくりとそれを左右に開く。腫瘍の内部に見えたのは十五センチ程の黒褐色の固まりであった。固まりの周囲には赤紫のゼリー状の粘液がびっしりとこびりついている……。
「腹壁鈎で開口状態を確保………四つで固定してください」
田代はその黒褐色の物体を慎重に外郭から取り外す。物体からは細い神経管に似た管が出ており、亜紀自身の脊髄部分とつながっている。田代は亜紀の脳波と心拍を観察しながら、細心の注意を持って脊髄側の管を徐々に閉めつけていく……
「良かった。この接合管が一番心配でしたが、これなら切除しても大丈夫そうです」
「しかし、その固まり……一体何なんですかね?」
助手の山岡が思い切ったように言葉を発した。田代は手に持ったその物体の更なる内部に何かがある事を触感で感じ取り、表面のゼリー状の粘液ととも黒褐色の被膜部分をそっとはぎ取っていく。
「!…………こんな……………………………………………………馬鹿な!…………」
驚きで固まる田代の手元を覗き込み、山岡もまた小さな叫び声をあげる。
「い、院長………こ、……これは………これは一体???」
田代の手の中に姿を現したのはソフトボール大の完璧な『脳髄』であった。
「の、……脳じゃないですか!……それ!」
山岡は明らかに気が動転した様子で、うわずった声で何度も〝脳〟を連呼した。その異様な指摘にスタッフらも田代の周囲に集まってくる。田代はつぶやく。
「これ、奇形嚢腫ですよ……それも脳髄の………………いやでも……こんな事って……」
ざわめく一同を制し沙奈江が強い口調で告げた。
「は、早く……早く切除を!」
田代はハッと我に返り、脳髄を看護師に手渡すと神経管の根本を一気に断ち切った。
室内が静まり返る。皆、目の前で起きた出来事が信じらず放心状態という様子だった。
「後は余分な外郭を切除して終りです。……ここからは山岡君に任せて良いですかね?」
田代が切り出すと、山岡は安堵の表情を浮かべるも、その顔色は死人のように真っ青であった。短時間の施術であったものの、全員が心身ともに疲れ切っていた。
「……ああ、それとその嚢腫は水洗いしてそこのボルマリン容器にお願いしますね」
「……………………うふふ…」
田代の声が聞こえていないのか、脳髄を両手で抱えたその看護師は洗浄槽の横に突っ立ったままおかしな笑みを浮かべている。
「?……島田さん?……大丈夫?」
近くにいた麻酔科医が心配して声をかける。看護師は小さな声で何か喋っている。
「何をそんなに見ているの?…うふ…うふふふ……私に何か言いたいことでもあるの?」
看護師をよく見ると、視点も定まっておらず明らかに様子がおかしい。
麻酔科医は彼女の横まで歩み寄り、その肩を軽くたたいた。
「しっかりして島田さん…………それ、さっさと洗浄し…………ひっつ!」
彼は驚きの声を上げ、尻餅をつくように後ろにひっくり返った。それを見た別の看護師が何事かと二人に近付くが、やはり島田の方を見て完全に体を固めてしまう。
「君たち、どうしたっての?島田さんも一体何を……………え?」
最後に島田に近寄った山岡は、彼女の手元を見て持っていた腹壁鈎を床に落とした。
「院長………………これ……この脳髄……」
脳髄の肉ひだの隙間からぎょろぎょろと一個の〝目玉〟が覗いている……
山岡がその目玉について語り出したと同時に、耳をつんざく強烈な金属音が手術室の中を駆け巡った。
『キイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイン……』
突然の凄まじい衝撃波に、手術室の一同は両耳を押さえてその場にうずくまる。
騒動のさ中、沙奈恵が一人、再び持鈴を右手に掲げこれに抗おうと立ち上がった。
「危ない!」
沙奈恵の方に向い二つの影がほぼ同時に飛び出し、眼前で激しく衝突した。
「ぐあっつ!」
沙奈恵をかばうような体制で崩れ落ちたのは同伴した夫「無一」だった。無一の肩口には深々とメスが突き刺さっている……
見ると、数メートル先に無一に弾き飛ばされ、凄まじい形相でこちらを睨みつける看護師、島田の姿があった。彼女の眼球は真っ赤に充血し、その表情は人とは思えないほど不自然に歪んでいる。
「ギィヤァアアアアアアアーーーッツ!」
彼女は野生動物のような雄叫びを上げると、再び沙奈江の方に飛びかかった。一番近くに居た神主の神山が身を挺してその進路を遮るが、まるで小動物かの如く左方の壁面にいとも簡単に突き飛ばされてしまう。
「やめるんだ島田!」
「島田さん、やめてっつ!」
騒然とする周囲には目もくれず彼女は歩みを進め、沙奈江の前方で己の進路を立ち塞ぐ無一の肩口にかじりついた。その凶行を何とか抑止しようとするスタッフ達は彼女の壮絶な反撃により次々と負傷していく。手術室はあっという間に修羅場と化した。
「脳!……脳の方に麻酔を!」
沙奈恵の叫びに反応し、神経科医が洗浄槽の脇に置かれた脳髄に注射針を突き立てる。
「ギャッツ!」
部屋中に鳴り響いていた金属音が突然止み、怪物は一声上げてその場に倒れ込んだ。
スタッフ達はお互い顏を見合わせてその姿勢のまま呆然と動けないでいる。
脳髄の眼は、肉の膜でできたその瞼を閉じていた。
「何が起こった?…………一体何が?………」
田代はたった今自分の目の前で起きた惨劇を飲み込む事ができず、ただただその体を細かく痙攣させていた。
*****
12月4日 10時30分。
悪夢の様な手術から一夜明け、田代は院長室の椅子に深く腰掛けた姿勢のまま天井を見つめていた。机の上には手術の関連資料とオペ中に撮影された十数枚の写真が無造作に散らばっている。
「一体何だったんでしょう………あれは……」
亜紀から切除されたホルマリン漬けの脳髄は、古めかしい不気味な〝札〟が貼られた木箱の中に収められ、舟越夫婦が持ち帰って行った。
手術室で暴走した島田看護師はその後意識が戻っておらず、厳重な観察体制のもと集中治療室で精密検査が行われており、諸々の検査結果は今日の午後に出る予定であった。
手術中撮影された写真の中には残念ながら〝脳髄の眼〟が映ったものは一枚も見当たらず田代自身はそれを拝めてはいなかったが、事実であれば、『奇形嚢腫』における新症例として学術的にも非常に価値のある資料になった事はまず間違いないはずだった。
「脳の眼……見れなかったのは不幸だったのか幸運だったのか……」
田代は机の上の資料をかき集めると〝極秘〟と示された茶封筒の中にそれらを投げ込むように放り入れ、机の引き出し奥にしまいこんだ。
――ドンドン!ドンドンドン!――
タイミングを合わせたように激しいノック音が部屋に響く。
「院長!大変です!……院長!……」
血相を変えて飛び込んできた看護婦は息を詰まらせながら田代に告げた。
「今、警察から連絡が入って、うちの医院のスタッフが今朝がた飛び込み自殺をしたそうで……しかも………よ………四人も!」
「!……なんだって????」
「と、とにかく下に来て電話に出てください。警察の人が院長と直接話したいって……」
*****
11時15分。
「ではまた何か思い出した事などありましたら遠慮なく連絡ください」
電話先の刑事は事務的な挨拶をし、こちらの相槌とほぼ同時に電話を切った。
死亡を告げられた四人は、先日のオペで助手を務めた山岡、麻酔科医の甲斐、甲斐の補助役として参加していた看護師の千石、そして撮影技師の庄司。全員が〝脳髄の眼〟を至近距離から直接確認した者達であり、奇妙な事にそれぞれ別の駅ホームに居たにも関わらず、皆、ほぼ同時刻である朝八時過ぎの列車に飛び込んだとの話だった。
「腫瘍の呪い……なのか?」
日常的に人間の生死に触れ慣れている田代ではあったが、あまりの異常な死の連鎖を前にその思考回路はブツリと途切れ、電話の前で完全に忘我状態に陥っていた。
「おい、院長がいたぞ!」
そんな田代の心持ちなぞお構いなしに、遠くの方から何やら慌てふためく医師達の声が聞こえてくる。田代は声の方に視線を向けた。
「院長……島田さんが……集中治療室の島田さんが、目を離した隙に消えてしまって……」
「消えた???」
肩で息をしながら必死に状況を伝える若手医師の姿に、田代の思考回路は完全に復活し、その頭をフル回転させる。
「拘束はどうなったんですか?……かなり厳重に拘束していたはずですよね?」
「それが……汚物で汚れていた衣類を替えようとして、拘束具を外したほんの数分の間に姿を消してしまったんです」
――なんてことだ――
意識を取り戻した彼女が普通の状態に戻っているというのはあまりに楽観的な推測だ。むしろ、先日の錯乱状態から抜けきっていないまま院内を徘徊している可能性の方が高く、早急に彼女を確保しなければとんでもない悪夢が再開しかねなかった。
「フロアは閉鎖しましたか?」
「はい、それはすぐに。……なので同じ地下階のどこかに潜んでいるはずなんですが……」
田代は医師達に状況確認をしながら小走りに集中治療室へと足を進めた。
治療室のあるC棟の地下に降りていくと、階段とエレベータ前にはすでに警備員が配備されており、別の警備員一名と医療スタッフ二名が一つのグループになり、フロアの部屋を端から再探索している所だと言う。集中治療室に到着した田代は、辺りを慎重に確認しながら看護師が消えた時の詳細を各担当者に尋ねていく。
「つまり、誰の眼にも触れずにこの部屋を出るのは不可能だったと?」
「はい。室内の観察ルームに一名、ドアの傍らに一名、つまり最低二名は必ずここに残留するようにしておりましたから……私たちも何が何だかさっぱりでして」
スタッフの説明を聞きながら、田代は頭を抱えこむ。
と、その時、廊下側から医師達の何かに対する怒号の声が聞こえてきた。
「何事ですか?」
「わ、わかりません……見てみないことには」
ドア方向にむかい駆け出す田代の後を医師達が慌てて追う。
扉を開けようとノブに手をかけた田代の動きがピタリと止まった。
まるで扉越しに魂を吸い取られていくような、邪悪な気配が伝わってくる。
「……………な……なんだこの感じは?……」
突然、何者かによって一気にドアが引き開けられた。
『!』
田代の眼前に現れたのは、血だらけの病衣姿で気味の悪い笑みを浮かべる島田看護師であった。彼女はその傍らに大型の何かの薬品瓶を抱えている。
「H2……SO4……」
彼女の手元が動いたと思った瞬間、田代の顔面に焼けるような激痛が走った。
わめき声と、悲鳴と、異様な笑い声が辺り一面に飛び交う。
肉の焦げる臭いと不愉快な蒸発音の中、田代の意識は徐々に薄れていった……
(つづく)
~あとがき~
今回は水曜配信が間に合わず、1日遅れのアップとなってしまいました。
(待っていた方、ゴメンナサイ……)
佐伯の独白で進む『佐伯一郎』の章は先週で終わり、
今週は新章を丸々一本書き上げてアップしました!
来週は、佐伯がいよいよ謎の「祓衆」に迫って行きます。
是非、お楽しみに。。。
(羽夢屋敷)