序 ~終わりのはじまり/ 04~
土砂降りの中、血だらけの状態で宿の前で力尽きた 佐伯一郎。
彼の安否はいかに?…
「チュンチュン」
「チュンチュン……」
という周囲を飛び交う小さな声が聞こえる。
頬に当たるほのかな温もりで目を覚ました俺は、襖で仕切られた四畳半ほどの小さな部屋でまだ重い上体をゆっくりと起こした。足元側の壁にあった半開きの鏡台に、眼のふちにクマを作った青白い顔の男が映っている。
「佐伯しゃん、起きなすったかい」
襖と反対側の半開きになったドアの向こうで、朝食の配膳をしている婆さんがこっちを向いてホッとしたような笑みを浮かべている。俺はズキズキとうずく頭を抱えながらようやく言葉をしぼりだす。
「俺は…………なんでここに?……」
婆さんは、食事の乗った年季の入った膳を、慣れた手つきでこちらに「すい」と置くと、呆れ顔で答えた。
「あんた全然覚えとらんと?………昨日の夕方、土砂降りン中血ぃだらけで帰ってきたんよ、あんたは………それで気失っちまうわ、熱は高いわで……ほんとにたまがったんよ」
「血だらけ?……」
「鼻血よ~。は・な・ぢ……まぁ怪我じゃなくて本当に良かったしゃ」
記憶にない大柄の浴衣を着ている自分の姿に気付き、おぼろげに記憶が蘇ってくる。婆さんは苦笑いしながら続けた。
「風邪ひいちまうから体拭いて浴衣ば着しぇちゃったんばい。……ささ、熱も引いちょるようだし、ちゃっとご飯食べちしまいちゃ。」
俺は痛む体をゆっくりと慣らしながら、椀の中の粥をゆっくりと口に運ぶ。
頭の靄が薄れるにつれ、昨日の出来事がはっきりと想い返されてくる。
――森で見た〝あれ〟は一体なんだったのだろう?――
先日遭遇した「この世のものではない得体の知れない何か」の姿が脳裏に浮かび、おぞましい感覚が蘇る。超常現象や幽霊の類の話なぞそれまで全く信じなかった自分に、それらが今、リアルに降りかかっているのだ。
「〝人〟ではなかった……人のようではあったがあれは人ではない〝別の何か〟だ……」
俺は枕元に置かれた手帳を手に取り、書き殴った情報の中から、役所で得た記録『神社の神主・神山』に関する書き込み箇所を探す。
――あった――
―――――――――
○行方不明になった監視者について
神山信仁、舟越沙奈江、舟越無一(監視補佐)
の三名の行方に関しては、関連部署が
総力をあげて調査中…………
―――――――――
「神山に繋がる糸はやはり舟越?……だが、舟越沙奈江の報告書の内容も全く持って謎だらけだ。事件に絡んでいそうな〝ナントカ衆〟が何者であるかも現状は探りようが無い……そもそも〝監視者〟ってのは何だ?さっぱりわからん」
にらめっこをしていた手帳をバチンと閉じて気持ちを切り替える。古部アキに関する情報は山口に居るという〝元女中〟を当たるとして、神山と舟越夫婦に関する情報が欲しい。
「婆さん、ちょっと電話借りますよ」
「いいけど、あんた、ご飯はちゃんと食べたと?」
台所の方から聞こえる婆さんの声を背後に聞き流し、俺は一目散に宿の入り口横にあった電話のダイヤルを回した。
「中津警察署ですか?……刑事課をお願いします」
*********
6月23日 10時30分。
「あんしゃんは臭うからまずは風呂に入んしゃい」
という婆さんの優しい命令に従い、俺は朝湯に浸かっていた。この状況で真っ昼間に温泉に浸かっているとは何とも奇っ怪で、また滑稽でもあった。
宿の離れの小さな小屋の中に作られた石囲いの温泉は、昼と夜とでは全く別の風情を感じさせる。周囲には聞いたことの無い無数の野鳥の声が飛び交い、上方からゆるやかな角度で差し込む陽光は湯けむりと絡まって、まるで光の中を揺らめく〝海草郡〟のようにも見える。
どこからか「ぴしゃり」と額の中央にしたたり落ちた水滴の冷たさで、ささやかな夢の世界から現実に引き戻された俺の頭の中に、不意に丸尾の訝しげな顏が浮かぶ。
外出中で署に戻るのは夜だとの説明を受けたが、奴に先日の出来事をどう説明しようか?ありのまま話してしまえば「気は確かか?」と心配されるだけだろう。余計なことは伝えず質問だけに専念すべきか…
「やはり、まずはあの家か…」
夜までには時間がたっぷりあったので、すぐ近くにある惨殺事件の被害者宅『古部家』に出かけようと玄関に立った俺は、婆さんに引きとめられる形で今こうして温泉に浸かっている。
内心、ホッともしたが、どうしたって『古部家』の探索は避けては通れない道であることは明らかだった。
彼の地で頂戴した見知らぬ他人からの親心をありがたく思いつつ、俺は柔らかな湯の中でこの得体の知れない闇を直視する為の英気を懸命に練り出していた。
束の間の安堵を満喫した俺は、不安そうに見送る婆さんの姿を横に、宿の玄関戸をガラガラと引き開けた。
「大丈夫ですよ。すぐ帰りますから」
「まだ本調子じゃなかろうに……本当に気ぃつけんしゃいね」
婆さんが、刷りこみチラシの切れ端にぎこちない手つきで描いてくれた地図を片手に、俺は〝忌み家〟へと歩みを進めた。
言われたとおり十分ほどで板塀で囲まれた「古部家」がその姿を現した。
恐らく薬問屋の入り口であったであろう畳三枚ほどの戸口は全体が完全に板で打ち塞がれている。メモに従い目線を右にやると、大戸口から少し離れた場所に家族の生活用の戸口と思われる小さな木戸が視界に入る。こちらの戸は数センチほど開いている。
――ずいぶんと前から廃屋なので自由に入れるはず――
屋敷は婆さんの説明通り完全な放置状態であった。
俺はきしむ木戸を全開にし、周囲に注意を払いつつ敷地内に足を踏み入れた。
(つづく)
~あとがき~
このコロナ騒ぎで、ステイホームどころか色々な手続きでドタバタしだし、
ひょんなことから左足の小指に大怪我をしてしまいました。
その上、体調を崩して2~3日ダウン…
全く踏んだり蹴ったりの今日この頃です。
小説の掲載にチャレンジし始めてから、はや一ヶ月が過ぎましたが、
未だコメントが一つも無く、自分の話が面白いのかつまらないのか、
だんだんと不安になってきました。(不安不安不安……。。(焦))
宜しければ何か感想頂けると嬉しいです。
何卒よろしくお願いいたします!