初登校
「史人ちゃんがこっちの学校に来ることになって、ホントに嬉しいよ」
緑が多く、設備の整った学園都市の歩道を歩きながら、史人の幼馴染、柚姫まひろが言った。
現在7時半。
転入手続きは昨日済ませてあるので、本来ならばもっと遅くても構わないのだが、生徒会長室や職員室に顔を出しておきたいと史人は考えていた。
姉にそうしなさいと言われたせいもあるが、彼は律儀なところがある。
寝室でのドタバタはあれで収まったので(再度体を絡めてこようとするまひろを史人がやんわり拒否した)、まひろは台所に準備されていた食材で簡単な朝食を作り、史人に振る舞った。
サニーサイドアップでハムエッグを焼き、トーストとグリーンサラダ、ホットコーヒーをテキパキと準備するなど、なかなか器用なところを見せた。
前もこんなことがあったな、とトーストにジャムを塗りながら、その時、史人は回想した。
朝ご飯の用意。
小学生か中学生の頃。
片田舎、広い庭の見える縁側、テーブルを囲んで湯気の立つご飯と味噌汁を、みんなで──。
あれは中学の時だったな。
中学卒業でまひろは学園に、史人は地元にあるガーディアンライツの小さな分校に進学することになった。
「あなたの能力は特別過ぎるから、家のしきたりに従って人前で不必要に力を使ってはいけないの。だから我慢してね」
既にガーディアンライツに入学していた姉の言葉だ。
史人はガードを目指していたが、戦闘技術の訓練はどこでもできる、小さな学校だろうとガード候補生には違いないと、あまり進学先に執着しなかった。
それから1年、突然こちらに転校してこいという連絡を受けた。
特に大袈裟に驚くことも悲しむこともせず、親しい友人達にしばしの別れを告げ、彼はこの地にやってきた。
「なんで、いきなり呼ばれたんだろう」
まひろの隣を歩きながら、史人は呟く。
すぐに理由を聞こうと思ったが、想定外の事態でこちらへの到着が夜遅くになってしまった。
そして明日話すとだけ言われ、1晩の宿として学園所有のマンションのに泊まったのだ。
「理由はなんでもいいよ。史人ちゃんが来てくれただけで私うれしい」
まひろの思考はシンプルだ。
「でもピットが出たりしなければ、昨日は一緒に遊ぶ予定を立ててたんだけどなあ」
「しょうがない、奴等がいる限り、あれはどこにでも出るから」
ビヨンドは時と場所を選ばずに現れる。
『ピット』とは奴等が異世界からこちらの世界に転移してくる際、あるいはどこかに転移した際にできる、歪みとも言える空間の穴である。
人が吸い込まれるようなことはほぼないのだが、穴が開いている時は磁場の狂いなどが生じ、空に現れたピットに接近してしまった航空機がコントロールを失うこともあった。
そのためそれができると、ピットが閉じるまで行動を制限される。
交通機関もそれで止まることがよくあった。
ビヨンドは脅威であるが、ピットの発生は最早日常の風景であり、調査や特殊な器具を使ってそのピットを塞ぐのもガードの仕事だ。
「まあ、今日から寮生活だろうから、遊ぶ予定はいつでも立てられるさ」
「じゃあじゃあ、スキンシップしに史人ちゃんの部屋に行ってもいい?」
「遊びに来るのはいいけど、今朝みたいに奇襲をしかけてくるのは無し」
「じゃあ、今度は起こしてから抱きつくね」
えへへ、とまひろは屈託ない笑顔を見せる。
どうも彼女は、俺に対して羞恥心が欠けているんだよなあ、と史人は度々思う。
小さい頃から、当たり前のように一緒に風呂に入っていたりしたのが、原因だろうか。
子供っぽい部分も多いのだが、中学卒業時は控え目だった乳が、たった1年で目を見張るほどのサイズに急成長を遂げたのは驚いた。
異能さえ上回る女体の神秘だな、と史人は1人頷く。
「ねえ、こっち。ここの公園を通ると学校まで近いんだよ」
まひろに手招きされ、史人は森林公園へと入った。
カラータイルで舗装された歩道にしっかりと手入れされた木々。
都市部で森林浴ができる贅沢な場所だ。
「ここはね、お休みの日になるとシートを広げて、遊んだりお弁当を食べる人がいっぱい来るんだよ」
まひろが広々とした芝生を見て言った。
確かに、休日にくつろぐには最適の場所に違いない。
「お休みの時、一緒に遊びに来れたらいいね?」
「そうだな」
他愛のない会話をしながら2人が歩いていると、
「あれ、なんだか頭痛い。それに耳がキーンて」
まひろが頭痛と耳鳴りを訴える。
史人にも同様の症状が表われはじめていた。
「っ、これは、そんなまさか!?」
ほんの数メートル先の目線の高さに、小さな黒い球体が現れたかと思うと、それが放電を始める。
黒い雷撃が広がりだすと、周囲の空気の圧が途端に強くなる。
放電の広がった空間に、まるでクレヨンの黒で雑に塗り潰したかのような横長の塊が現れた。
「あれは……ピットだ! こんなところに!?」
その黒い塊は、空間にぽっかり開いた穴である。
『穴』は5メートルほどの高さまで上昇すると、自身を横幅5メートルくらいに押し広げた。
空間と穴の縁、その境界にバチバチと何らかのエネルギーが流れ出すと、穴から太い2本の足が現れ、降下を始めた。
続いて足首、膝、太もも、腰部、上体、そしてツノが付いた頭部。
騎士が身に付ける、重装甲の甲冑を隙なく着込んだかのようなデザインの巨体は、頭頂部までおよそ4メートル弱。
ずんぐりむっくりしており、角を持つ兜のスリット部分からは赤く光る目が2つ見える。
全体が現れると、微かに浮いていた足から浮力が無くなり、ズゥンとそれは着地した。
その衝撃で歩道に亀裂が走り、タイルが音を立ててめくれ上がってしまう。
おそらく数トンという重さがあるのだろう。
重量級の鉄巨人はスリットの中に殺意を灯す。
エリートのガード候補生でも苦戦は必至とされるビヨンド、ホブゴブリンだった。