十四
黒田は、人間業とは思えない程にぐにゃぐにゃに曲がった手すりを見てこれは警察の手に負えるものではないのかもしれないと思った。上があんな一介のシングルマザーの事件に首を突っ込んできたのにも裏があるのかもしれない。しかし、ここで引き返すわけにはいかない。黒田は触っていた右手を曲がった手すりから離し、再び非常階段を駆け上がった。
「やっと見つけたぞ」
ジョシュアは最上階フロアの非常口を蹴破った。足跡型にへこんだ鉄製のドアが勢いよくフロアの中に吹き飛んだ。ドクター蔵雅はフロアの廊下の真ん中に突っ立っていた。
「随分と潔いじゃないか。観念したのか?」
「わたしも一応、科学者だ。君たちの性能はおおよそ把握している。とても人間が敵う相手ではないし、逃げ切れないということは初めから分かっていた」
「その割には随分と手間取らせてくれたようだが?」
「君たちの狙いも分かっていたんでね」
「ならば、話は早い。プロトタイプの居場所はどこだ? 設計図と一緒か?」
「こんなに優れたエオニオティタイドを何体も持っているロシアが、今更プロトタイプに何の用だ?」
「質問に答えろ。お前に質問する権利はない。答えないなら貴様の脳天をぶち抜くだけだ」
ジョシュアはトレンチコートを翻し、革製のガンホルダーからMP-448を引き抜いて銃口をドクター蔵雅に向けた。黒く冷たい鉄製の銃口には目をくれず、ドクター蔵雅は両手を挙げてジョシュアの目を見据えた。
「俺を殺したってプロトタイプは手に入らない」
「……どういう意味だ?」
ドクター蔵雅がジョシュアの背後に視線を送った瞬間、ジョシュアの背中に物凄い勢いで飛んで来た何かがぶつかり、ジョシュアは前に宙天しながら吹き飛んだ。ドクター蔵雅の前に転がって来たMP-448を彼は急いで拾った。仰向けに倒れたジョシュアは、ゆっくりと起き上がった。その後ろには吹き飛んで来た……人、大柄な男が俯きに倒れていた。
「悪い悪い。力入れ過ぎた」
ドクター蔵雅が声の聞こえた、非常口の方に目を向けると三メートルはあろうかという巨大な熊のような男が入り口を破壊して入って来た。
「貴様、今度俺の邪魔をしたらスクラップにするぞ!」
「まあまあ、落ち着けよ」
二人の間で倒れていた男が、両手で赤い絨毯の敷き詰められた廊下を押しながらゆっくりと立ち上がろうとしているのを見てジョシュアはその男の脇腹を右足で蹴り上げた。「グフっ」と男は声をあげて再び倒れ込んだ。よく見ると彼は黒田だった。
「黒田刑事!」
ドクター蔵雅はMP-448の引き金に指を添えたまま、叫んだ。黒田はうめきながら、再び立ち上がろうとしたが、ジョシュアは右足で彼のスキンヘッドの頭部を踏みつけた。
「彼から離れろ!」
ドクター蔵雅はジョシュアに銃口を向けながら叫んだ。
「ほほう。勇ましいな」
ジョシュアは笑みを浮かべながら、ドクター蔵雅の方を振り返った。そして再び黒田の脇腹を蹴り上げた。それを見て、ドクター蔵雅はジョシュアに向けて発砲した。弾はジョシュアの左肩の辺りに命中し、ジョシュアは前方によろめいた。その発砲とほぼ同時に黒田はSIG SAUER P230をバクチンに向けて発砲した。バクチンは左わき腹に弾を受け、後ろにのけぞり、そのまま非常階段入り口からマンションの下へ落下した。
ドシンという音が少しの時間差を持って遠くから聞こえた。その音が聞こえるとほぼ同時に、ジョシュアは崩れた姿勢から両手を広げて素早く回転し、そのまま左足でドクター蔵雅の右手に握られたMP-448を蹴り落とした。振り向きざまにバク宙から右足の踵を立ち上がっていた黒田の左肩にめり込ませた。「っガ!」と声を上げ、黒田は両膝をついた。間髪を入れず、ジョシュアは右足を軸に回し蹴りで左足の甲を黒田の顔面に向かって放った。黒田は頭から勢いよく吹き飛び、マンションの壁に激突し倒れ込んだ。
「少し人間を見くびり過ぎたか……」
ジョシュアはだらりとぶら下がった左腕をゆっくりと回し、めり込んだ銃弾を弾き飛ばした。ダメージは全くない様だ。
「しかし、バクチンの野郎のトロさの方が予想外だな」
飛鳥マコたち三人がマンション入り口に着いた時には、多くの人々が群がっており何台ものパトカーが停まり、警官の姿が数多くみられる騒然とした状況になっていた。
「これ、もう殺されてるんじゃ……」
ユキトは不安な気持ちをそのまま言葉にした。
「大丈夫だ。死んだら、私のマイクロチップに搭載されているデータファイルに送られている彼のバイタルサインが消えて分かるようになっている」
「……へえ」
飛鳥マコはやはり感情なんて全く無関係な場所で存在しているんだなと、ユキトは思った。
「しかし、危険な状態であることは間違いないみたいだな。急ごう」
飛鳥准教授が、早足で黄色いビニールテープで仕切られている方へそそくさと歩いていく。
寺岡は、管理人室でマンションの警備会社から送られてきた映像ファイルをパソコンで確認していた。映像には外国人と思われる二人組が映っていた。一人は熊のような考えられない大男で、寺岡は黒田がもう殺されているのではないかと思った。
「外人か……超面倒くさい案件になるな、これ」
寺岡はため息交じりに独り言を呟いた。
「寺岡さん、何か黒田さんのお知り合いだという方々がいらしているんですが……」
現場を見張っていた所轄の警察官が、管理人室に入って来るなり、そう報告した。
「ええ? 何だって」
寺岡はもはや悪いことしか起こらない気がしていたが、渋々、警察官について行った。中年の貧相で分厚い黒縁眼鏡をかけた小柄な男性と、パーカー姿の中高生とみられる男、そして制服姿の女子高生という、どこから見ても黒田と関係無さそうな三人組の登場は寺岡をさらに混乱させた。
「どうも。警視庁の寺岡と申します。黒田のお知り合いというのは?」
「あの、母親が殺され……自殺して、その時お世話になった蔵雅と言います」
黒田さんが追ってた事件の遺族か、マジでこの件と繋がってんのか?
「あ、ああ。えーと、只今黒田は手を離せない状況でして……」
ドスン!
軽い揺れとともに大きな何かが落ちる音が響いた。その場にいた誰もがそちらの方へ振り向いた。飛鳥マコは素早くその音の鳴った方へビニールテープをくぐり抜けて、駆け出した。残る二人も彼女に続いた。
「ちょ、ちょっと! 立ち入り禁止だって!」
寺岡は慌てて三人を追った。




