十三
バクチンは前をさっさと登っていく、ジョシュアの後ろ姿が段々と遠くなっていくのを眺めながら自分の体が両脇の手すりに挟まらない様に慎重に歩いていた。非常階段が何でこんなに狭いのか、バクチンには理解不能だった。これでは逆の方から人が来たら通行できないじゃないか。非常事態に使うべき階段がこれでは、パニックに陥った人間同士でぶつかって二次災害は避けられない。本当にこの国は非常事態を真剣に想定していないみたいだ……と考えを巡らせている間にジョシュアの姿が見えなくなった。マズい、怒られる。バクチンは走ろうと、左足を一歩踏み出すと、出張った腹部が階段の手すり部分に挟まってしまった。「ほらあ」と声を漏らし、バクチンは腹部にエネルギーを集めた。手すりが捻じ曲がって腹部が抜けた。バクチンはそのまま手すりを外に捻じ曲げながら階段を登って行った。
「……ここか?」
ユキトは飛鳥准教授に知らされた住所をGoogleマップで検索して、その場所に辿り着いた。ユキトの家よりもひと回り小さく、黄ばんだ壁の色が古い建物であることを物語っていた。こんなボロ屋で人造人間が暮らせるのだろうか? 素朴な疑問を抱きながらも、ユキトは家の玄関のインターホンを押していた。返事はなかったが、扉がゆっくりと開いて中から幸の薄そうな頬のこけた分厚いレンズの黒縁眼鏡をかけた中年男性が現れた。「ああ、ユキトくんかな?」幸の薄そうな男はユキトの顔を覗き込みながら、そう尋ねた。「はい。飛鳥さんですか?」ユキトの声を聞いて、飛鳥准教授は黙って頷き、ユキトを家の中に招き入れた。
ユキトは初めて見るガスコンロが二つある、キッチンダイニングを抜けて、その奥にあるリビングルームに通された。ここで飛鳥マコが毎日生活していると思うと、軽い緊張感を覚えた。飛鳥准教授は畳の部屋にある、まだ片付けられていないコタツの前に座布団を置き、ユキトに座るよう勧めた。「コーヒーでいいかな?」と尋ねられ、ユキトは頷いて座布団の上に正座した。ユキトは落ち着かず両手を膝の上に置いたまま、辺りをキョロキョロと見回した。ユキトの向かいには、何だか似つかわしくない大きな液晶テレビがあり、その隣には木製の三段チェストがあり、その上に飛鳥マコの物だろうか、赤い帽子を被った大きなクマのぬいぐるみが置かれていた。ユキトの後ろは無地の襖でその奥にもう一つ部屋があるようだ。再び飛鳥准教授が戻って「お待たせ」と言いながら、ユキトの前に黒いコーヒーカップソーサに載ったコーヒーカップを置いた。ソーサの上にはスティックタイプのシュガーとカップ入りのミルクが載せられていた。「ありがとうございます」ユキトはお礼を述べて、湯気の立つ黒いコーヒーカップを口元に運んだ。予測を超える熱さに「あっつ……」と思わず声が出てしまい、ユキトはごまかすためにスティックタイプのシュガーの袋を開けてコーヒーに注ぎ込んだ。それからミルクのカップ口を開けると、中のフレッシュミルクがコタツの天板の上に飛び出してしまった。慌てるユキトに飛鳥准教授はふきんを差し出した。「す、すみません……」ユキトはふきんを受け取り、こぼれたフレッシュミルクを拭いた。
「ただいまー」
玄関の扉を開けると、脱靴場に見慣れないスニーカーがあり飛鳥マコは不思議に思った。リビングには私服姿のユキトがいた。制服姿しか見たことのなかった飛鳥マコは、その姿と自身の家に突然現れた彼の存在に面食らった。
「あ、おかえり。ちょっと話すと長くなるんだけど、ユキトくんはしばらく家で暮らすことになったから」
准教授の突然の話にさらに飛鳥マコは混乱した。
「あ、どうも。よろしく……お願いします」
「……学校休んでいることと何か関係あるの?」
コタツの前で正座しているユキトを見下ろしながら、飛鳥マコは怪訝な表情で聞いた。何だかイライラする感情も初めてだった。
「まあまあ、マコちゃんも座って。コーヒー入れるから」
飛鳥准教授はそう言って、席を立った。飛鳥マコはユキトを睨みながら、ユキトの右奥に鞄を置いて座った。
「……ごめん。色んな事が突然起こってしまったんだ」
「人間は混乱すると、日常生活を送れなくなるものなのか?」
「それは……ちょっと言い過ぎだとは思うけど、普段通り、何事もなかったように振舞うことはとても困難だとは思う」
「なるほど。で、何があったんだ?」
「まず、お母さんが死んだ」
「ほう。それはとても大きな出来事だ。それで?」
「……ぷっ、フハハハ」
あまりにドライなリアクションにユキトは思わず笑ってしまった。
「何だ? 何が可笑しい?」
キョトンとする飛鳥マコを見てさらにユキトは大笑いした。
「ごめん、ゴメン。ちょっと考えられないリアクションだったから」
「ほう、どういうリアクションが想定されたというのだ?」
「うーん……そう言われると、言葉で説明するのは難しいけど、まず驚いて、死因を尋ねるんじゃないかな」
「何で死んだんだ?」
「誰かに殺されたと思う……警察は自殺で処理しちゃったけど」
「一体誰に?」
「いや、それは分からないけど。ただ、親父から警察に連絡があったみたいなんだ。たぶん親父には見当が付いてるんだと思う」
「そうだね。ユキトくんのお父上には色々お世話になっているし、私には大体見当はついてるよ」
白いマグカップを持って、飛鳥准教授が再びリビングに戻って来た。そして、白いマグカップを飛鳥マコの前に置いた。このマグカップは飛鳥マコ専用のものなのだろう。
「……やはり。ユキトの父親はドクター蔵雅だったのか」
「え? 親父を知ってるの?」
「そうだよ。ユキトくんの父親にマコちゃんを預かるよう頼まれたんだ」
「え? じゃあ、彼女を開発したのが……」
「そうだ」
「そうか……我々は繋がるべくして繋がったというわけだな。人間の言うところの“運命”というやつか。便利な言葉だ。実存も実証も必要なくその一言で片づけられる」
「とても嫌味な言い方だね。マコちゃん、いつからそんな性格になっちゃったの?」
「アップデートされる度に我々を形成する思考回路は複雑さを増す。その正当性を担保するためには、素直で可愛らしいだけでは足りないというマスターコンピュータの判断からだ。というか、父親の前ではそれなりの態度をとるようにプログラミングされていただけの話だし。とにかく、これは今すぐにドクター蔵雅の元に行かなければならないようだな」
「親父の居場所を知ってるの?」
「当然だ。私の製造者だからな」
「……こうなるとは思っていたけど、本当に行くのかい? 相手はCIAかKGBか分からないが最新鋭の特殊部隊にいるようなエオニオティタイドであるのは間違いないよ。殺されてしまうよ」
「おじさん、もう僕には親父しかいないんです。何でお母さんが殺されてしまったのか、僕とお母さんを残して勝手に出て行って……あいつに会ってぶん殴らないと僕はこれからどうやって生きて行けばいいか分からないんです。あいつに全部話してもらわないと、前に進めないんです」
飛鳥准教授は感動した。こんなに真っ直ぐな人間がいたなんて! 青年のこの思いの丈全てをぶつけてくる青春群像劇みたいな展開! そんなものは遥か昔のスポ魂ドラマかアニメでしか見れないものだと思っていたのだ。
「……そうか。そこまで言われると、仕方がないな」
こんなセリフを返す自分は、まるで理解ある大人役で出演するベテラン俳優にでもなったような気分だ。
「何、ニヤニヤしてるの? 気持ち悪い」
飛鳥マコの言葉により、一瞬で現実に引き戻された飛鳥准教授は少しシラケながらも「じゃあ私も行こう」と身支度を始めた。




