十一
母が黙って見つめる窓の外には雲一つない青空が広がり、向かいの山の麓には色付いた梅の木々が春の訪れを知らせていた。男からの連絡は途絶えたが、マコを預かっている報酬は以前と変わらず振り込まれていたので、この個室を移動する必要はなさそうだ。母はもう私が誰かも分かっていない。「あなた……だあれ?」と初めて面と向かって言われた時には溢れる涙を見せまいと顔を背けたものだが、今となってはその状況にも慣れ、夜に徘徊したりすることさえなければ、いたって品の良い老婦といった感じだ。しかし、どうしてこうも病院の窓から覗く景色はいつでも憂鬱なのか。突然、スマホが振動しだした……男からの急な連絡に私は嫌な予感がした。
「…もしもし?」
私は病室を出て、スマホの画面をスワイプし応答した。
「ああ、良かった。まだ手放していませんでしたね。長らく連絡できず申し訳ありません。ご存知でしょうが、ロシア政府が本格的に動いているようでして……」
「ああ。分かっている。これから一体どうするつもりなんだ? マコはどうなるんだ?」
「どうやら、ロシアの狙いはマコのようなんです。わたしの元妻が奴らに殺されました。奴らがわたしの元に訪れるのも時間の問題でしょう。妻は最後までわたしのことを吐かず消されたのでしょうが……。ここにきて非常に心苦しいのですが、最後に一つお願いがあります……」
スマホは私の返事を聞かないまま通信を終わらせた。ほぼ同時に知らない番号がスマホの画面上に表示されて再びスマホが私の手のひらの上で振動し始めた。
「……もしもし?」
二人の男がマンションの下で張っているのが見えた。ここは高層マンションの最上階だが、ここから見てもそのバカでかさが分かるくらい大柄な男ともう一人はどうやら煙草をふかしている様だ。ここは路上喫煙禁止区域ではないが今どき外で煙草をふかすなんてレトロな人間はそうはいないので、この二人組は全く尾行には向かないコンビだな、などと少しでも恐怖心を誤魔化すような方向に考えた。由紀子を殺したのは間違いなくあの二人だろう。もう嗅ぎ付けたのか……恐ろしい国だなロシアは。わたしは准教授に電話した後、由紀子の事件を担当した黒田という刑事に電話した。わたしもどうやら消されるだろうから、息子のユキトを頼むとだけ言って電話を切った。黒田はできるだけ引き留めてくれ、必ず二人を逮捕すると意気込んでいたが、最新鋭のエオニオティタイド相手に今の平和ボケした警察がどれだけ束になっても勝てる見込みはなく、飛鳥マコの覚醒だけが唯一の頼みだった。だから警察ではなく、准教授にユキトを託した。問題は覚醒の鍵をどうやってユキトに知らせればいいのかだった。
「おい! 仕事が入った」
黒田は自殺案件を他殺の線も含めて捜査すべきだと主張してから、担当を外され捜査一課長から有給消化を命じられていたが、内密に新米の寺岡を連れ回して独自に捜査を続けていた。
「黒田さん……マジでやばいですって。俺も調書とか書くので忙しいんですよ、勘弁してくださいよ」
スマホに黒田からの電話通知が来て、寺岡はよっぽど無視しようと思ったが余りにも長くスマホが震え続けていたので、仕方なく応答した。
「お、お前いつからそんなに偉くなったんだ? 只野組が運営してた無許可のナイトクラブで遊んでたの見逃してやったよな?」
「あれは……知らなかったんですよ、本当に……」
「雇われ店長が何人も死んでる店のことを、刑事が知らなかったで済むと思ってんのか?」
「わかりましたよ……もう今回で最後にして下さいよ!」
「ああ。間違いなく最後になるし、警視庁の大失態も同時に暴かれるぞ」
「恐いのはご免ですからね」
寺岡の運転する黒いセダンに乗り込んだ黒田は、いきなりサイレンを車の屋根に乗せて鳴らした。
「え? ちょ……何してんすか!」
「うるせえ。急を要するんだ。さっさと出せ」
「……マジで停職じゃ済まないっすよ」
寺岡はアクセルを踏み込み、右にハンドルを回して発車した。
「あ、あのユキトです。父さんの携帯ですか?」
ユキト……あの男の息子か。私はとても手に負えない面倒なことに巻き込まれたくないと思い、とぼけてみることにした。
「え? あ、えと……私は飛鳥といいます。娘はいるけど、息子はいないので間違いじゃないかな?」
「飛鳥? 飛鳥マコさんのお父さんですか?」
「え? なぜ娘の名前を?」
「僕、同じ高校に通っているんです。……あの、この番号は黒田という刑事に教えてもらったんです」
刑事? 一体どういうことだ?
「あの、マコの身に何か起こったのでしょうか?」
「いえ、マコさんの秘密は色々と聞いていますが、今回は僕の母親が殺されただけです」
ああ、駄目だ。もう完全に巻き込まれている。あの男が黒田に私の番号を教えたのか。
「すみません。お父さんからお話は伺っています。息子のことをよろしく頼むと」
「え? 父さんのことを知っているんですか?」
私は彼の父親である男と知り合った経緯からこれまでのことを大まかに話した。
「すみません、父さんの居所を教えてくれませんか?」
「すまないが、お父さんの居所は知らないんだよ。携帯も非通知で一方的にかかってくるだけで」
「そうですか……」
「まあ、とりあえず家においでよ。番号にメールで住所を知らせるから」
「分かりました」
ジョシュアはフィルター部分のギリギリまで煙草をふかしてから、鉄格子の蓋がされた溝に吸い殻を投げ入れた。眼鏡型のウェアラブルの右こめかみ部分にあるダイアルを回して、望遠レンズに切り替える。降ろされたブラインドの隙間から男はこちらの様子を窺っているようだ。
「気づいてるか、やっぱり」
ジョシュアは口元に笑みを浮かべて、バクチンの方を振り返った。
「やるか?」
バクチンは満面の笑みでジョシュアの意を汲み取る。ジョシュアがゆっくりとトレンチコートの両ポケットに手を突っ込みながら歩き出し、バクチンもそれに従った。マンションの入り口には管理人室があり、オートロックの自動ドアが設置されている。防犯カメラは管理人室の窓口が見渡せる場所と、オートロックの自動ドアの出入りが分かる場所の二カ所の天井に取り付けられていた。管理人は今留守のようだ。ジョシュアはバクチンに目配せをして、一度外に出た。バクチンは両拳を握り、バキバキと鳴らして体中から妨害電波を発信してマンションの電源をシャットダウンさせてから、自動ドアを素手でこじ開けた。外を見張っていたジョシュアはバクチンの合図で再び中に入った。エントランスにはシャガールの『バイオリン弾き』のレプリカが飾られていた。ロシアの誇る偉大な現代芸術家だ。ジョシュアは暫くユダヤ民族の悲哀を込めたと言われる緑色の顔を眺め複雑な感情がこみ上げてくることに耐えた。その感情は直ぐに消去されることとなったが、気の立ったジョシュアはレプリカに向かって発砲し、顔の部分に穴が開いた。
「おいおい、ベラルーシだって複雑な歴史があるんだぜ。文化に国境はないだろう?」驚いたバクチンはさらに銃をレプリカに向けたジョシュアをなだめた。ジョシュアは「チッ」と舌打ちをしてから、エントランス奥にある非常階段の入り口を開けて上へ向かった。
寺岡は黒田に指示された高層マンションの前で車を停めて、サイレンを切った。黒田は直ぐに助手席から降りて、マンションに向かった。入口に人だかりができている様子を見て寺岡は驚いた。黒田は人混みを掻き分けて一目散に中に入っていったが、寺岡は集まっていた噂好きそうなおばさんを捕まえて警察手帳を見せた。
「何があったんですか?」
「発砲よ。だから来たんでしょ?」
発砲かあ、冗談じゃないよ全く……
「ああ、そうでした。管理人はいますか?」
「ええ、あそこに……」
噂好きそうなおばさんが指さした先に気の弱そうな白髪の老人が人混みから少し離れてオロオロしていた。
「すみません。警察です。あの管理人さんですよね? 防犯カメラの映像は見れますか?」
「ああ、警察の方。あの、その何故だか分からないのですが、マンションの電源が落ちてカメラは別電源なので撮れているとは思うのですが警備会社に問い合わせないと今は見れないんです」
「そうですか。じゃあ警備会社に連絡してもらえます?」
「あ、はい」
寺岡はエントランスで、ピカソみたいな画風で描かれたバイオリンを弾いている人の頭部に穴が開いているのを見た。
「なんだよ……完全にサイコパスじゃないかよ」
寺岡は車に戻り、無線を取った。
「発砲事件発生……場所は……」




