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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第3話 白銀の宮殿 第2章

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07 ささやかな祝宴

 特に何が変わったと言うこともなかった。

 強いて言うならば、ゼレット・カーディル伯爵がこれまで以上に少年エイルの動向を気にしているだけで、それは周辺には、どうやら相当ご執心(・・・)らしい、と見て取られるだけだ。

 かといって伯爵の部屋に女性が呼ばれる夜が目に見えて減ったと言うことはなく、これは伯爵の新しい遊びなのだろうと、エイル以外の誰もが納得していた。

 ただ、エイル自身は時折、鋭い視線を感じた。振り返ればゼレットが彼を凝視しているのだ。だがそれは少年を疑っていると言うより、ゼレット自身の内に浮かぶ疑問――守護者だの翡翠などという戯けた話は何なのか、何故自分は何の根拠や啓示もないままでそれ信じてしまいそうなのか、そう感じさせるエイルは何者なのか、リ・ガンだと言うならばそれは何なのか――それらの思いがぐるぐると、〈コルファセットの大渦〉のように彼のなかを回っているのだ。

 それはエイルにも経験のあること、と言うよりはいまでもその疑問たちにはろくに答えが出ていないのだから、立ち位置はゼレットとそう変わらない。

(もしかしたら)

 少年は北西のかたを見やったものだ。

(アーレイドのあの人も、同じように疑問を抱いているだろうか)

(それとも――)

(俺のことはもう、忘れてしまっただろうか)

 そんなふうに考えると心が痛くなった。

 アーレイド。帰る場所としてのかの街は彼の心の支えであるのに、シュアラやファドックが自分を忘れて日々の暮らしを送っているだろうと思うことは――当然であるのに――寂しかった。母アニーナだけは自分を忘れはしないだろうと思うが、たまに送る手紙も届いているのかいないのか。アニーナは字など読めないのだから、受け取ったとしてもそれを不審そうに眺め、封も切らずに投げ捨てる以上のことをしているのかも、判らない。

「エイル」

「何です」

 かけられた声に、反射的に一歩下がった。

 ゼレットに近寄られれば距離を置く。そんな習性を身につけた少年を見てゼレットはわざとらしく悲しい表情などして見せる。エイルは少し申し訳なく思ったが、油断をすればまた馬鹿げた悪戯をされるに決まっていると考えて良心の呵責を無視した。

 そう――エイルはカーディル城を出ることはしなかった。

 伯爵の「遊び」には困惑したが、「リ・ガンが翡翠を求め、見つける」という言葉は気になっていたし、だいたい、ここを出たところで行く当てもない。この場所とゼレットが重要な手がかりであることに変わりはないのだ。

 彼がカーディル城に厄介になってから、もうひと月以上が経っているのに、その手がかりには進展が見られないとしても。

「今宵は、空けておくようにな」

「はっ?」

 まさか夜伽を命じられる訳ではあるまいが、少年は驚いて問い返した。

「何ですか?」

「前に話したろう。吟遊詩人(フィエテ)を呼んだ」

「……ああ」

 白猫カティーラの話から、五色(ごしき)の姫の伝説について話したことがあったのを思い出す。

 エイルは執務室でときどき見かける以外は滅多に白猫に行き合わなかったが、それは町で見るような(ミィ)だ。伯爵閣下の飼い猫にしては、特にどうと言うこともない、ごく普通の。

 つけている首輪こそ野良や町猫では見かけない豪華なものだったが、ほかには何の変哲もなく、別に動物好きという訳でもないエイル少年は可愛がろうとも思わなかったし、従って――恋敵として――噛みつかれることもなかった。

「女も呼んだ。気に入ったのがいれば好きにするといい」

「遠慮します」

 エイルを口説こうというのと彼に女をあてがおうというのは、伯爵のなかで特に矛盾しないらしかった。だがエイルにしてみれば余計な悩みが増えるだけであり、春女など彼に近づけまいとでもしてくれた方が助かるところだ。

「彼女らに会えばその強固な貞操も崩れるさ。久しぶりのささやかな祝宴だ、楽しみにしておけよ」

 ゼレットは気軽に言うが、ささやかだろうが何だろうが、食事を提供する相手が増えれば厨房は大忙しだ。料理人(テイリー)暮らしが楽しいエイルはその夜、ディーグが心配して、もうここはいいから身ぎれいにして広間へ行け、と言うまで〈戦場〉を手伝っていた。

「でも」

「いいから行けよ。食事が遅れるより、お前がこないことの方が閣下のお気に障るはずだぞ」

 この冗談――であってほしい――に天を仰いで、エイルは渋々と仕事場を追われた。

 アーレイドの厨房のような調理着は与えられておらず、調理中は普段の格好に前掛けをつけただけだ。いくら「ささやかな」宴と言っても、油汚れの付いた格好で出ていくことはさすがに躊躇われ、エイルは一旦彼の部屋へと戻る。

 と、見慣れないものに気づいた。棚の上にきれいにたたまれた状態で置かれている、それは新品の服だった。

(これを着てこいって訳か)

(ろくな服は持ってないから、助かるけど……)

(まさか脱がす気じゃないだろうな)

 男が女に服を贈ればそれを脱がす下心がある、というのは下町での冗談だったが、自分に当てはめるのはやはりぞっとしない。しかしほかにいい服もなかったので、彼はそれを大人しく身につけると広間へと急いだ。

 広間と言っても、そう広くないカーディル城のことだから、アーレイド城のそれと比べればこれまた「ささやかな」ものだ。

 だが比較しても仕方のないことだ。アーレイドは王の居城でここは伯爵のものであるし、そもそもカーディル城は「城」とこそ言うものの、その規模はせいぜい「屋敷」という程度なのだ。

 それでもアーレイドを離れてしばらく経つこともあれば、宴などには二度出ただけの少年には充分なほど豪華な空間であり、彼はきょろきょろと部屋を見回した。

 目に入るのはほとんどが見覚えのある姿で、つまりこれはゼレットが伯爵としてほかの貴族を招待するようなものではなく、彼の気紛れで行われるちょっとしたお楽しみという訳だ。雇われ人たちも彼らなりに着飾った姿で参加しているのを見れば、それはむしろ祝宴の後に下厨房で行われた、使用人たちの祭りを思わせた。

「おお、きたな、エイル!」

 城の主の声にそちらを見やる。

 どきりとした。

 特別製の大きな燭台の影にいるゼレットの髪はいつもより暗く見え、明るい青の衣装が濃紺に見えた、それだけなのに。

 ファドック・ソレスがそこに立っているかと、思った。

 似たところなどどこにもないのに――〈守護者〉だということは、遠く距離を隔てたふたりの男をこんなにも――彼にだけ、このリ・ガンにだけ、酷く似通って見せるのだ。

「どうした?」

 少年がぴたりと足を止めたので、ゼレットは不審そうに問うた。エイルは何でもないと頭を振って笑ってみせる。

 アーレイドは、遠い。

 郷愁とともにつんとしたものが鼻の奥にこみ上げたことなど気づかれたら――抱き締められでも、しかねないではないか。

「思った通りだ。よく似合うぞ」

 ゼレットは満足そうに言った。薄めの緑色に濃い緑の縁取りをした上衣は、彼の柔らかい薄茶い髪とよく合った。ぴったりとした真白い下衣は少し気恥ずかしかったが履き心地は抜群で、新品の黒革靴も同様だった。この衣装は彼が生涯で身につけたなかで――いつぞやのドレスを除いては――いちばん高価なものだったに違いないが、変に飾り立てたところはなく、身につけるのに抵抗はなかった。


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