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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第3話 白銀の宮殿 第1章

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06 〈魔術都市〉

 ヒースリーはエイラとともに行きたがった。

 もちろん、エイラが同意すれば、だ。

 いくら結婚していて妻を愛していると誓う男だからと言って、うら若き乙女――ぞっとする表現だ――が男とふたりきりで旅などしていいものか?「魔術師」に狼藉を働こうと言う愚か者も少ないだろうし、エイラには身を守る自信もあれば、まあ、よほど酔っ払いでもしない限りヒースリーはそういうことを企む男ではないだろう、とも思っている。

 だが、そういう問題ではない。

 ひとりが寂しいと思うのではないが、連れがいれば心楽しいだろうとは思う。薬草のことは多少教わったが、ひとりで煎じたり粉にしたりして売りさばく、という段階になるにはもう少しヒースリーの協力が必要だ、とも。

 だが、そういう問題ではないのだ。

 エイラはヒースリーの提案を礼を言いながらも断った。自分はひとりで行くから、と。

 ヒースリーは心配そうな、がっかりしたような顔をしながら、エイラがこれまでの礼を言いつつ差し出した手を取った。

「判った。それじゃ気をつけていけよ、エイラ」

「有難うヒースリー。あんたと奥方に旅神(ヘルサラク)の祝福を」

 あと、大地の女神(ムーン・ルー)もね、と癒し手である女神の印を切って、エイラは言った。

「それとガディ、あんたにも」

「おっと祝福はけっこうだ。『また会おう』ってな台詞のがいいな、俺は」

 戦士はおどけてそう言うと、差し出したエイラの手を取ってついでに引き寄せ、どさくさまぎれに抱き締める。エイラが、何が起きたか判らないでいる内、ハルガーディの背後からどうやら蹴りを入れたらしいヒースリーの怒声でもって、彼女は男の腕から解放された。

 翌朝、エイラは東の大広場でヒースリーを待っていた。絶対に役に立つものをやるから待っていろ、と言われたのだ。

 運のいいことに、東方行きの隊商(トラティア)が賄い手の手伝いを探しており、雇ってもらうことができた。その出発まであと一カイもない。エイラは苛々と辺りを見回した。

 だがにわか師匠兼弟子の姿は見当たらなかった。エイラは嘆息して隊商の支度を手伝いに行った。

 もうあの薬草師に会うことはないだろうと、少し寂しく思いながら。


 アイメアは、そのあたりではいちばん大きな街だった。ビナレスの多くの諸都市と異なる点は、かの都市は王や領主を戴かないということにほかならない。

 となればヒースリーのような人間には暮らしやすい。

 薬草師と言っても、金で品物をやりとりする以上は彼らは商人(トラオン)の括りに入り、となれば当然、組合(ディル)への収益をいくらか納めなければならない。王都となるとそれに加えて税金を要求されることもあるから、旅の〈自由商人〉の類は、あまり一カ所に長居しないのが常だった。

 このパルウォンの隊商もそちらの系列で、どこかの街に(たな)を持つというのではなく、天幕を張ってはあちこち移動し、特に決まった商いものを持たない通称〈雑事屋〉だ。〈煩雑屋〉などと言えば馬鹿にした響きが含まれるが、彼らは商人(トラオン)よりも芸人(トラント)に近い存在であり、日々の暮らしに役立つものよりも娯楽性の高いもの、或いは何の意味もないように見える奇妙な品――言い換えれば、不要なもの――をさばき歩く一行だった。

 前の手伝いがやめたのは、きっとその辺についていけなくなったせいではないだろうか、などと、エイラは奇妙な調理器具や嗅いだこともない香料に悩まされながら考えた。

 呆れただの嫌気がさすなどということはなかった。ただ、トルスがこの食材を見ればどう言うだろうか、などと考えてしまうことの方が嫌だった。あの場所にいたのはたかだか数月、こうしている方が長くなりそうなくらいであるのに、騒がしく忙しない厨房に郷愁を覚えるなどとは思ってもみなかった。

「どうしたんだ」

 料理人のアクラスが、笑ってエイラを見た。

玉葱(ラオナ)でも切ったのかい、泣きそうな顔してさ」

 もちろん、からかわれたのだろう。ここには玉葱もなければ、泣きそうな顔の娘もいない。鏡はなかったから推測だが、おそらく。

「次の仕込みは?」

 エイラはそれには答えず、淡々と問うた。この新しい手伝いが、口から出任せではなく本当に調理の経験があると知ったアクラスは満足していたが、旅路で手に入る食材にはご不満があるようだった。

「これを日陰に置いてくれ。全く、新鮮な魚も野菜も手に入らないときてる。旅は好かないよ、わたしは」

「なら、どうして隊商に?」

「ここがわたしのいる場所だから」

 アクラスはそんなふうに答えた。

「買い置きした肉は香液に付けておけばこの季節だ、少しは保つ。あっちの馬車に行って客人から香草をもらってきておくれ」

「金は?」

「香草を提供する約束でただで乗せてもらおうって常習犯さ、もし出し渋るようなら飯は抜きだって言ってやんな」

 言われて後続の荷馬車へ駆けていき、そこをのぞき込んだエイラはそこに見知った顔を見つけ、口をぽかんと開けることになる。

「よう、エイラ」

「――ヒースリー! あんた、何で!」

 それは確かに、アイメアで分かれた――と思った――薬草師セイゲル・ヒースリーであった。

「何でって、言っただろ。東へ行くのさ」

 あっけらかんと薬草師は言う。

「すまなかったな、ガディから金を回収するのに時間がかかっちまって。だが東へ行くのがこの隊商だけなのは判ってたし、ここの隊商主(トラティアル)は俺の作った香草束を使った煮込み料理が好きでね。交渉には時間がかからないんだ」

「俺は、ひとりで行くって」

 つい「少年」の一人称を使ったが、ヒースリーは特に気にしなかったようだ。

「俺もひとりで行くのさ。言ったろ、東へ行くのはこれだけなんだから」

 言いながらヒースリーはかばんを漁り、二つの小袋を取り出す。

「ほら、アクラスに言われてきたんだろ。これを持ってってくれ。あの親父が喜んで使いそうな香草を詰めてある」

 ひとつをエイラに投げ、彼女は反射的に受け取る。

「それと、こっちが約束のもんだ。お前の役に立ちそうな魔除け葉だの、疲労回復の香草だの……ヌーイに帰れば簡単な薬草事典や俺がまとめた覚え書きもあるんだがなあ、今回には間に合わなかった」

「……何で」

 エイラは差し出されたそれを受け取ろうとはせぬままで言った。

「そんなふうによくしてくれる?」

「何言ってんだ」

 ヒースリーは笑った。

「そういう約束だったろ?」

「私が教えたことは、あんたの役に立たなかったじゃないか」

「だからって、俺が役に立つことを教えちゃいかんのか? 安心しろ、妙な下心はないから」

 下心がある、と言う男も滅多にいないものだが、それは判っている、とエイラは答えた。

「だから不思議なんだ」

 想像だにしたくない話だが、彼女を陥とそうとして彼女の機嫌を取るというのならば対処のしようもあるし、判る話だ。判りたくもないが。

「そうか」

 ヒースリーは嘆息した。

「あのな、ヒースリー家は大家族だったんだ」

「……は?」

 突然、身の上話でもはじまるのかとエイラは首をひねる。

「要するに、兄弟姉妹が多くてな、俺は弟妹の面倒を見るのが習性になってる」

「……んじゃ私はあんたの」

 弟か、と言いかけて間違いに気づき、口をつぐんだ。だが、妹か、とも言いたくない。それでもその略された部分は薬草師に通じ、男はその通り(アレイス)と言うと、アクラスがしびれを切らさないうちに戻った方がいいぞ、と忠告した。

 ヒースリーのおかげもあって、この隊商(トラティア)との旅路はずいぶんと楽しいものになった。ひとりでいれば取っつきにくい印象のある――そういう受け答えしかできないせいだが――エイラも、既に彼女に慣れているヒースリーがときどき口を差し挟むことでほかの人間とも打ち解けられたのだ。

 困ったのは、隊商の女たちに互いに体を洗おうなどと持ちかけられたときくらいである。下町で育った子供は早熟で女をとうに知っていたから、女の裸を見て赤くなると言うことこそなかったが、目のやり場にはいささか、迷った。

 そうして旅をして、カックスの町に一行が寄ったときだった。その出来事が起きたのは。

「――何だって?」

「だから、あれだよ。〈魔術都市〉さ」

中心部(クェンナル)の……西っかたにある、あれか? ここはもう東域じゃないか」

「何で、こんなところでその話を聞く?」

 久しぶりに「揺れない大地」の酒場で隊商の仲間たちと食事をしていたところに、噂話が聞こえてきたのだ。

「知らんよ、だがこのところ、あのおかしな紋章を顔やら腕やらに刻みつけた連中の姿を見かけるって話だ」

「……その魔術都市って、何だ?」

 エイラが口を挟むと、視線が集中した。

「知らないのか」

「知ってたら、訊かないさ」

 当然の答えをすると、そりゃそうだな、とうなずかれる。

「そのふたつ名の通りだよ。魔術師たちが住んでるらしい」

「支配階級はみな高位の魔術師で、昼も夜もなく奇妙な(まじな)いが行われてるって話だ」

「聞いたこと、ないな」

 エイラは言った。〈西〉にそんなものがあるなら、リック導師が教えてくれていてもおかしくない。

「お前さんが聞いてなくても、あるのさ」

「そう。動物の絵をねじくれた意匠にした彫り物をした人間がいれば、それはそこの住民だ」

「奴らは滅多にそこから出ないと言うが、何かあったのかな」

 会話はひそひそと続いた。エイラはこっそり、息を吐く。この隊商では彼女が魔術師であるとは知られていない。その方がいいだろう、と――はっきりは言わなかったが――ヒースリーが助言したからだ。

 ハルガーディのような旅の戦士は魔術師に偏見を持たないこともあるが、縁起を担ぐ商人たちの間では魔術師というのは不吉な存在ということになるらしい。もともと、魔術師でございと名乗りを上げる気のないエイラはヒースリーの考えに従ったし、正確には魔術師とは違うという思いはあるが、「魔術師だから忌むべき存在だ」という共通の誤解――少年エイルも、かつてはそう考えていたが――にはうんざりだった。

「ずいぶん、怖ろしげな街なんだな」

 つい、茶化すように言う。

「〈失われた魔術師の砦〉でもあるまいし」

 遙か北方――海を越えて――にあったと謡われる伝説を口にするが、隊商の人間たちは首を振った。魔除けの印を切るものもいる。

「その末裔だ、という話もあるくらいだ」

「……へえ」

 茶化すどころか、却って場を深刻にしてしまったらしい。

「で、そいつらがどうして出てきてるって?」

「何でも」

「探しものをしているらしい」

 不意に、心臓が跳ね上がった。次に発せられる言葉を知っていたかの、ように。

翡翠(ヴィエル)がどうとか……って話をしていたらしいぞ」

 きゅうっと、全身の血管が縮まったように感じた。

 翡翠。その宮殿。――リ・ガン。

(お前を探すものから)

(姿を隠せるように)

逃げなくては(・・・・・・)

 浮かんだ思いは――それだった。

(まだ、〈鍵〉にも出会わぬままでリ・ガンを利用しようとするものと行き合えば)

(必ず……負ける(・・・)

 それはまるで本能的な恐怖で出もあるかのように、エイラの脳裏を一(リア)で占めた。顔色を青くしてふらふらと立ち上がった彼女に仲間たちがかけた声にも気づかない。

 おそらく彼らは、〈魔術都市〉などという不気味なものの話を彼女が嫌がったのだと思っただろう。まさか、彼女が捜されているかもしれないと考えて心を凍らせたなどとは、思いも寄らないはずだ。

(逃げなくては)

(早く)

(でも――)

 何処に逃げればいいというのだろう。

(砂漠の塔に)

(ふたつの心を持つ守護者が)

 噂話よりも不確かな伝聞の物語が、夢の宣託などと表現するよりもずっとはっきり、エイラの内に蘇った。


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