06 歯車は狂っている
石造りの塔のなかは、砂漠のただなかとは思えぬほどに快適だった。
真昼には太陽の熱を石が吸い取り、夜には保温されたそれがやはり適度な温度を保つだろう。冷えたとしても小さな暖炉に火を焚けば、熱は砂漠の向こうへとは逃げにくい。
シーヴは、少し階段を上った先にある狭い部屋に通された。女のもたらした魔術の薬は彼の乾きのみならず身体も幾分か癒したようで、一カイ前には段などとても上れなかったであろう彼の足は、その行程に何の文句も言わなかった。
「待たせたな」
女はそう言うと、盆に木の杯を乗せて部屋に戻ってきた。
「ちょうど、街でカラン茶を手に入れてきたんだ。まさか客がきてるとは思わなかったけど」
シーヴはいささか戸惑いながらも感謝の仕草をした。女はそれを面白そうに見る。
「もし酒の方がよかったら、上の棚にあるから好きにとってきてくれ」
そう言った女は一瞬躊躇うようにして――続けた。
「私は酒は飲らないんだが、前の住人が好きだったらしくてたくさんの瓶が置いてある」
「前の住人……塔の魔術師、というやつか」
女が何に躊躇したのかは判らなかったが、シーヴは特に気にしなかった。
「らしいな」
「茶で充分だ。いま、酒なんぞ飲んだらあっという間に酔いが回って」
今度は――彼が一瞬、躊躇った。
「ぶっ倒れちまう」
言って、肩をすくめた。自身が躊躇した理由は、もちろん判る。「リャカラーダ」を知ると言った女の前で、どちらを演るべきか迷ったのだ。そして「シーヴ」を選んだ。
「そりゃ助かるな。あんたを寝台まで運んでってやるなんてのは、あんまり楽しい想像じゃない」
女はそう言うと彼の前に杯を置き、自身もその向かいに座った。
「それで、殿下。いったい何でこんな」
「悪いが」
シーヴはそれを遮った。
「殿下、はやめてくれ。あなたがシャムレイでリャカラーダ王子を見たのだとしても、いまの俺は――シーヴという」
「シーヴ」
女は繰り返し、彼はどきりとした。そしてそんな自分に驚く。女に名を呼ばれただけで、鼓動が激しくなるなど。
「まあ、それならそれでいいか。それじゃシーヴ。説明してもらおうか。何のためにこんなところへきた」
「俺は」
どう言ったものか、彼は迷う。
「道標に従って、探しものを見つけに……きた」
「曖昧だな」
女は肩をすくめる。
「王子殿下、っと、そう言ったら駄目なのか。何にしても、身分あるお人が砂漠に何を探すって? 冒険? 伝承? 死を求めてきたとか言わないよな」
「俺は」
シーヴは再び口を開いた。
(何を探しにきた?)
(道標は、何を指したと?)
(考えるまでもないじゃないか)
だが、その言葉は口からでなかった。
「……あなたは俺の名を知っているようだが、セリ。これは不公平じゃないか?」
何故か〈それ〉を口にするのを避けるように、シーヴはそう言った。だが彼女の名を知らないと、知りたいと思ったことも事実だ。
女は驚いたように目を見開き、それからまた、迷うように目を泳がせ、ひとつ息をつく。
「――エイラ」
「エイラ」
今度はシーヴが繰り返した。すると女――エイラはびくりとし、目をますます見開いて彼を見る。
「あんた――誰だ?」
「何だって?」
エイラは彼を知っていると言ったし、彼もリャカラーダであることを認め、いまはシーヴであると名乗った。なのにこの問いは、何だ?
「どうして……エイラだと言ったんだ、あんたもそう呼んだ。なのにどうして」
「おい、どうしたんだ」
いきなり取り乱したように言い出す女をなだめようと手を差しだし、それを振り払われた、その、瞬間だった。
二つの手は、ほんの一瞬、しかし確かに、触れたのだ。
このときの衝撃をどう表現すればいいと言うのか?
彼の全身を走った、震えるようなそれは――〈運命〉そのものとの出会いとでも言えばよかっただろうか?
違うはずもない。
出会えば。
――触れれば。
「それじゃ……お前が、俺の」
シーヴは知らず立ち上がり、同じように驚愕に震える卓の向こうのエイラにぱっと歩を進めた。
「寄るな!」
「〈翡翠の〉」
娘――という前に、避けようとするエイラの手を無理矢理に取った。またその、瞬間。
彼は続きを口にすることができなかった。
耳を聾するばかりの大音響が彼の、そしておそらくは彼女のなかに響き渡ったのだ。
(ココダ!)
(我ハココダ!)
(〈時〉ハ近イ)
(我ガモトニ来ヨ! 来タリテ我ヲ呼ベ)
(我ハ目覚メル)
(疾ク来ヨ)
(フタツノ名ヲ持ツモノヨ――!)
――訪れたときと同じ唐突さを持って、その声は去った。
「いまの……は」
何だ、とシーヴはまたも、続きを口にできなかった。
燃えるような目が、彼の先にあった。
戸惑う彼の手を再び振り払い、その手は高く掲げられた。まるでそれは、魔術師が術をかけるときのようだった。そして、女は魔術師だった。
では、その燃えるような目は、殺意だったのか?
シーヴは瞬時に、死の訪れを覚悟した。
歯車は狂っているのだ。
そんな言葉が脳裏に蘇ったとき。
覚悟した衝撃は彼を訪れなかった。
訪れたのは、何事も起きなかったような静寂だけ。
彼は目を閉じなかった。
だから、彼は見ていたのだ。
彼の〈翡翠の娘〉が、一秒と経たぬ間にその場から姿を消したこと。
消えた、ことを。




