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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第2話 砂上の旅人 第3章

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05 慣れろ

 渡し守は、ふたりの愚かな若造の幸運を祈って東岸を離れた。

「さて、北か」

 渡しは、町の誰もが正確に場所を告げることのできないスラッセンについて、多少だったが知っていた。川に親しむ漁師ならさもありなんとシーヴの予想した通りだったが、ではそこまで頼む、という訳には行かなかった。

「奴らが余所もんを嫌うくらいのことは聞いたことあるだろう」

 渡しは肩をすくめて言ったものだ。

「何も陸だけじゃない、水の上だって同じこと。へたに船影を見せりゃ、矢が飛んくるってな」

「行ったことがあるのか」

「わしはないがなあ、とにかくそう言われとるよ。そんなとこにわざわざ船を寄せてみようとはわしゃ思わんしな」

 そんな台詞で男はシーヴたちに依頼を言わせまいとし、彼らも強要はしなかった。

「場所が判っただけでも収穫だ」

「で、どうするんだ、砂漠の民……何て言った?」

「ミロン。この辺りに暮らすなら、俺たちが上陸したことも知っているかもしれんな」

 少なくともウーレは、シーヴが橋を渡り終えぬうちに迎えにきたこともしばしばだった。ミロンと呼ばれる民が、商人ではなさそうなふたり連れの到着を既に知っていても不思議ではない。

「接触を待つのか?」

「日干しになるのを待ちながら?」

 幸いにして今日の日は沈むところだがな、などと言いながらシーヴはランドを見、下手くそな巻き方の頭布(ソルゥ)を直してやった。

「砂漠の民に行き合って、うまくすれば彼らの砂漠馬(トアック)を借りられるかもしれん。だが期待するなよ。徒歩で行く覚悟をしろ」

「最初から、そのつもりさ」

「そりゃ助かるね」

 ふたりは軽く言い合ったが、実際問題、ランドは砂漠に足を踏み入れるのは初めてである。どこまでこの男が保つものやら、シーヴには見当がつかなかった。その女とやらへの想いだけで、熱波や砂嵐に耐えられるのか。

(だが)

(こいつが道標なら、これは運命という訳だ)

(どうにかなるだろう)

 いささか楽観的すぎるかもしれぬその思考は、予言を信じる者ならではだったろうか。

「……こりゃ、ちょっと動きにくいな」

 ランドは初めて着るらしい長い衣を困ったように動かした。

「慣れろ。強い陽射しを防ぎ、熱を逃がすのにちょうどいい作りになってるんだ。前を合わせれば、夜の寒さにも耐える」

「努力はするが」

 男は嘆息した。

「できれば、町までそんな長い時間がかからないといいな」

「長かろうが短かろうが、慣れろ」

 言いながらシーヴは、ランドがずるずると衣を引きずるのをまたも直してやる羽目になる。

「俺は母親みたいにお前の世話をするのはご免だぞ」

 砂漠の民ミロンを訪れるか、まっすぐスラッセンを目指すかは迷いどころだった。余所者はスラッセンに入れぬと言うが、ミロンとスラッセンが親しい保証もない。

 シーヴは、ミロンの信頼を勝ち得る時間とスラッセンに「いきなり矢を射掛けられる」危険を天秤にかけ、とりあえず後者を試そうと考えた。いくら何でも、本当に射られると言うこともないだろう、とこれまた楽観的に考えたことも確かだが、スラッセンに向けて進めば、ミロンの気配も見えるかもしれない。

 この辺りは、大砂漠(ロン・ディバルン)のほんのさわり、入り口付近にすぎない。熱風、熱波、熱砂と言ったところでたかが知れていた。

 大河を越えても届くほどの砂嵐に遭遇すれば怖ろしいことになるだろうが、さすがいにそうそう起きるものでもない。ともあれ、ここは砂漠の西端、言うなれば大砂漠でいちばん気候の穏やかな地域に過ぎぬという考えは、しかし旅人たちの心を軽くすることもなかった。

 舟を夕刻前に東岸に着かせるようにしたシーヴは、ランドに休憩を許さなかった。もとより、ランドが望む旅である。彼は不平不満を言わずにシーヴに従った。太陽と戦うよりも夜の冷気――と、魔気――に身を委ねる方がましだと案内人が判断したのなら、それに任せようと言うのだ。何も考えずに従われても困るが、要らぬ口出しをされるよりはずっと助かる。

「幸い、今宵は月の女神(ヴィリア・ルー)がいるからな」

 シーヴは天上を見上げると女神を崇める仕草をし、月にめがけて敬愛の印を切る。

「――かくして砂の道は神秘の光に照らされ、そを厭う魔物は旅人の足を留めはしない、という訳だ」

「何かの詩か?」

「いや?」

 口から出任せ、である。そう気づいたランドは口笛を吹いた。

「お前は、詩人でもあるのか」

 言われたシーヴは笑った。彼は時折こんな物言いをしたが、吟遊詩人(フィエテ)でもあるまいし、とからかわれたり――或いは呆れられたり――することはあっても、真剣に尋ねられたことはない。

「俺の癖みたいなもんだ。気にするな」

「……あの人も、そんなふうに詩のようなものを口ずさむことがあったな」

「愛しの吟遊詩人嬢(セリ・フィエテ)か」

 夜になれば保温するもののない砂の大地はあっという間に冷え込んでいく。初めのうちは心地よいが、すぐにそうは言ってられなくなる。ふたりの旅人はマントを取り出すとそれを羽織り、歩きにくい砂の上を踏みしめていった。

「どんな女なんだ、住み慣れた世界を捨ててまで追いかけようってのは」

「どう、って」

 ランドは言いにくそうにした。

「いいじゃないか。俺の話なんか」

「もったいぶるなよ。それとも照れてるのか? 言いにくいなら尋ねよう。まずは、美人か?」

 シーヴの言葉に、ランドは白い顔を赤くしてうなずいた。

「……愚問だったな」

「絶世の美女、ってんじゃないけど」

 ぽつり、と話し出す。

「何て言うか……印象的で。なのにどこか儚くて頼りないところがあって。優しく笑うその裏で、何かずっと苦しんでいた」

 てっきり、ランドが彼女の髪の長さだの瞳の色だのと話し出すと思っていたシーヴは、いささか困惑しながらも黙って聞くことにする。

「サリットを……俺の故郷だが、あの町を好きだと言ってくれて、留まれることなら留まりたいと言っていた」

「でも、出ていった」

「そう。ひとつところには……留まれないのだと」

「旅から旅の暮らしをしていると、そう言うものだと聞く」

 シーヴは慰めるような台詞を口にした。だがランドは首を振る。

「そうじゃないんだ。そういう、宿命なんだと言っていた。呪いでもかけられているのかと尋ねたら、そのようなものだと」

「お前」

 ふと、シーヴは思った。

「その呪いを解くために、町を出たのか」

「……判るのか」

 ランドはシーヴに視線を合わせないままで言った。

「何処に行ったかも判らない彼女を追うより、当てのない話さ。その呪いがどんなものなのかも知らないのに」

 男は笑った。

「彼女を追いかけて捕まえて、それで俺の女にしたいんじゃない。何か判らない、彼女がつながれてるものから解き放ってあげたいんだ」

「惚れ込んだもんだな」

 シーヴは感心した。

「まあ、頑張れ。俺に手伝えるのはスラッセンへ行くことくらいだが、お前の」

 空を見上げた。月が輝く。

「運命の女が見つかるよう、祈ってる」

「シーヴ」

 青年の言い方に、何かを感じ取ったらしいランドが声を出した。

「お前は?」

「俺?」

「お前の、運命の女は、いるのか」

「――ああ」

 彼は苦笑した。

「たぶんな」

「そうか」

 ランドも笑った。

「まだ出会わない女のうちのひとりって訳だな。俺も祈っておくよ、お前がそれに出会えるよう」

「有難うよ」

 ランドの言葉を訂正しようとは思わなかった。事実、彼はまだ出会っていない。彼の〈翡翠の娘〉に。

「……こうして川沿いを上がっていけば、スラッセンがあるんだな」

 星空のもとを歩きながら、ランドは北方を睨みつけるように眺めた。

「いまは少し視界が悪いが、朝になれる頃には見えるだろうよ」

 シーヴは呑気に言った。彼の目算では、そう遠くないはずだ。

「あの渡しが言っていたように、射掛けられたらどうする」

「まさか、警告もなしにそんなことはしない……という西の世界の常識に頼るしかないな」

「そりゃ」

 ランドは嘆息した。

「頼もしい」

 スラッセンは砂の神を崇めると言うが、それとて噂の域を出ない。近づけば射掛けられると言った渡しの言葉も、伝聞にすぎない。本当に狙われ、傷つけられた者がいたとの話は――かつて、だの、噂では、という類を別として――聞こえてこないのだ。

「そんなに攻撃的で閉鎖的な町なら、どうして砂漠の民とは親しむのか? 本当に親しんでいるのか? 何も判らないさ。それに、そんな噂しかない町にお前の恋人が」

「恋人じゃない」

 ランドはいちいち、訂正する。

「――行こうと思ったのは、何故だ?」

「失われた詩があると、思ったからだろうな」

 もし本当に彼女なら、と加えた。

「すまないな、シーヴ。俺が追ってる足跡は俺の求めてるものじゃないのかもしれないのに、こんな馬鹿げた旅路につき合わせて」

「気にするな、俺にとっては」

 どう言おうか、少し迷った。

「お前の話は――道標に思えた」

「道標だって?」

「行くべきところがあるはずなのに、俺にはそれが見えない。スラッセン、というはっきりとした行き先はいい目印だよ」

「よく……判らないな」

「気にするな」

 シーヴは繰り返した。

「俺は伊達や酔狂だけでお前の話に乗ったんじゃない。俺ももしかしたら、スラッセンに用があるのさ」

 こうして語り合いながら、ひたすら歩み続ける訳にもいかない。ランドは休むよりも先へ進みたがったし、体力には自信があるだろう。とは言え、ランドには初めての砂漠だ。体力の配分を見誤らないとも限らない。案内として雇われた以上、シーヴはランドをへたり込ませる気はなかった。そろそろ足を止めようかと彼が考え出したときだ。

「――あれは?」

 ふと、ランドが呟いた。彼がじっと目を凝らしている北方に同じように目をやれば、同じものがシーヴの目にも映る。

「……ほう、何か近づいてくるな」

「砂漠の獣か、それともあやかしかね?」

 のんびりと戦士が言うのは、そのどちらでもないという見当がついたせいかと思ったが、いつの間にやら抜いた大剣を試すように振り回し出したところを見ると、腕に自信があるため、というところか。

「しまえよ」

 シーヴは言った。

「味方についてくれるものかは判らんが、そんなもんを見せていたら町で射かけられる前にここで射抜かれて、お前の恋路は終わりだ」

 旅路、と言わずにピルア・ルーの印など切ってみせると、ランドは目をぱちくりとさせ――はたと気づいた。

「ミロン、か?」

「おそらく。ただ、余所者にどう出るか判らないという意味ではスラッセンと変わらん」

「おい、お前はこっちの連中に詳しいはずだろ」

「一部族に親しいだけだ、と言ったろうが。……まあ、砂漠の民たちはみな、その根底を同一にするというからな、ウーレの友好の仕草が全く逆を示すようなことには、ならんだろう」

 ウーレの民にミ=サスと呼ばれた青年は、肩をすくめてそう言った。


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