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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第2話 砂上の旅人 第2章

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10 第三王子のままで

 全てはこの年に始まり、そして終わる。

 占い師の言葉が蘇る。だが老婆は言わなかった。それがいつであるのか。

 それは、〈変異〉の、〈時〉の月に向けてはじまっている。

 彼がそれを確信したのはいつだったろう。

 あの夜、アーレイドで月を見たときか。それとも、考え続けた帰途のうちか。或いは、たったいま、ヴォイドに語りかけたときだったろうか。

「王子を退こうと言ったのは、二度と戻ってこられぬやもしれぬと思ったからだ。だが父上がそれを許さぬのなら――俺は必死になって帰ってくるしかないな」

「次の夏に、ですか」

「そうなる」

「一年近く放浪しておいて出てきた結論が、また一年の旅に出ることだと言われるので?」

「そうなる」

 ヴォイドの皮肉をあっさりと受け流す。

「では」

 ゆっくりと言った。

「貴方は、第三王子のままですな?」

「――そうなる」

 三度(みたび)リャカラーダは言い、ヴォイドは考え込むように腕を組んだ。

「この材料で陛下を説得せよと言われるのですか」

「俺は何も言っておらぬぞ。中侍従長まで務めたお前に、そのような酷な命を下すものか」

 驚いて王子は言う。ふりではなかった。実際、そんなことを言ったつもりはないのだ。

「結構。殿下はそうしろとは言われない。しかし私はそうするでしょう」

「何だと?」

 リャカラーダは意外に思った。いま、目前の男は、彼に協力すると言ったのか?

「そう、不思議なものを見るような顔はしないでいただきたい」

 初老の第一侍従は、苦々しく思う様子を隠そうとしながら――それが果たせていないのは、もしかしたら熟練の侍従の見事な演技かもしれなかったが――言った。

「私がお仕えする殿下が、城外で遊び歩くよりも城に残ると言われるのでしたら、その手伝いをするのは当然のことにございます」

 言ってのけるヴォイドをリャカラーダはじろじろと見た。

「本気か」

「その言葉、お返ししましょう」

「俺はもちろん、本気だ。よし」

 リャカラーダは言った。

「お前がその気なら、ヴォイド。我が第一侍従の手腕、とくと示してみよ」

 彼に必要なのは、一年。この〈変異〉の年。

 それで全てがはじまり、全てが終わる。

 そうなれば、彼はシーヴであろうとリャカラーダであろうとかまわないと、そう思った。

 〈シーヴ〉でありたいと望んできた彼の、それはひとつの――転換点であったかもしれなかった。


 夕餉の席は、世辞にも和やかとは言えなかった。

 シャムレイを統べる王メルオーダを最上席に、隣に王妃シャリエン、以下、第一王子ハムレイダンとその后ルエイド、第一王女フーレイエとその夫コリス、第二王子パーシェケル、第三王子リャカラーダ、第二王女エムレイデル、とこの一家の全員が顔を揃えたのは、実に一年と半年ぶりほどになる。

 シャムレイ王家ともなれば、民草たちが当たり前に持っている家族の団欒というものにはもともと縁が薄かったが、それにしてもこの日の食卓は歓談よりも沈黙が支配しがちだった。

「……それで、旅はどうだったの、リア」

 王妃の言葉に王はぴくりとするが、何も言わなかった。上の王子たちは、何もわざわざ父王の不機嫌の原因を話題にしなくても、と思ったがやはり何も言わない。

「面白いものですよ」

 リャカラーダはにっこりと母に応じた。

「文化も習慣も異なりながら、人々の感性が同じというのは興味深いことですね。街びとはみな、仕事に忙しない日々を送りながら、ささやかな娯楽を楽しむ」

「西方の娯楽はどのようなものがあるの?」

「奇妙な遊戯がありました。〈ロディアルの駒〉とよく似ているのですが、違うのは」

「リャカラーダ」

 遮られて、リャカラーダは説明をしようと上げかけた片手をとめた。

「何です、ハムレイダン兄上」

「そのような話はやめろ」

「あら、ごめんなさい、ハムレイダン」

「母上は何も悪くありません」

 むっつりと第一王子は言った。

「問題は、こやつに自覚がないことなのですから」

「自覚とは、王子のですか」

その通りだ(アレイス)

 判っているのならどうにかしろ、とハムレイダン。

「リャカラーダに今更そんなものを求めても仕方がないだろう、兄上」

 第二王子が呆れた口調で言う。

「至らぬ弟王子で申し訳なく思っていますよ」

「至らぬどころではない。お前も、エムレイデルも」

 言われた第二王女は少し眉を動かしたが、黙って食事を続ける。

「レイダン、およしなさい」

「姉上は彼らに甘い。そうやって甘やかせば、いつまでたっても子供じみた振る舞いをやめません」

「ハムレイダン」

 王が声を出すと、長子は口を閉ざした。

「どうだ、リャカラーダ。ハムレイダンの糾弾に対して、何か申し開きはあるのか」

「何を」

 リャカラーダは父王を見た。

「言い訳をしろと仰るのですか?」

「言うことはない、と言うのだな」

 王族たちは沈黙した。メルオーダとリャカラーダの間で、視線がぶつかる。

「ございません」

 はっきりと第三王子は言った。

「ならば」

 王の口調が厳しくなる。

「先の発言は取り消すのだな」

「先の……とは」

 リャカラーダは首をかしげて返したが、きつい視線を投げられて肩をすくめる。卓のものたちはみな、息を詰めた。第三王子か先の謁見で発した「暴言」は、既に宮殿中に知れ渡っている。

「一度出した言葉は、取り消せませぬでしょう」

「忘れてやろう、と言っておるのだ。」

 メルオーダはぶすりとした調子で言い、四番目の嫡子の返答を待つ。

「……本心から述べた言葉は、たとえ父上が忘れてくださっても、消えはしませぬ」

「我が言葉も本心ぞ」

 王は睨む。

「いままでは見逃してきたが、勝手はもう許さぬ。市井たることが望みならば、そなたへの罰はその逆ということになろうな」

「まあ、あなた。罰として継承権を与えるのですか? それはいささか、きついご冗談では?」

 母王妃がとりなすように言うが、場の空気は変わらなかった。

「父上のお許しがいただけません限り、たとえ私がここから逃げだし、永遠に戻らぬとしても第三王子のまま」

「次は逃がしもせんぞ、リャカラーダ」

「たとえ、ですよ」

 息をつく。

「私は王家に生まれついたことを嫌っているのでもなければ、責務を面倒だと感じるのでもありません。他都市に興味があることは確かですが、それだけなら王子として――公式のものでも、身分を隠してでも、旅をすることはできましょう」

「ならば何故、あのようなことを言い出した」

「それは」

 〈運命〉が呼ぶから、などと「馬鹿げた」ことは言えぬ。

「次に何処かへ行き、二度と戻らぬ様なことになれば――シャムレイのために、リャカラーダ・コム・シャムレイの名は持ってゆくべきではないと」

「行って、戻らぬつもりなのか」

「そうではございません」

「では、死ぬつもりか」

「そのようなつもりも、ございません。ですが」

 未来は読めません、と第三王子は先に侍従に言ったような台詞を口にした。

「……この長旅で、生命の危険にでも出会ったと見える」

 父の解釈を肯定も否定もせず、曖昧にうなずいた。

「それ故の、発言だというのか?」

「信じてはいただけまいでしょうね」

「無論だ」

 メルオーダは間髪を入れず言った。

「王宮を嫌い、砂漠の民などと喜んでつきあっているお前が突然、シャムレイのためを思っているなどと言い出して信じるものなどおるまい」

「王宮の暮らしを厭うことは、シャムレイを大事に思うこととと相反などいたしません」

「口清いことよ」

 王は言った。第三王子は黙る。

「証立てて見せよ」

「――どのような証をお望みなのですか」

「お前がシャムレイの第三王子たることを示して見せよ。そして、かの発言の許しを余に請え。さすれば、いずれ余の気が向いて、お前を次の旅とやらに出してやるやもしれん」


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