01 いずれ
沈黙の行などしている訳では、ない。
隊商主が無言だからと言って、隊商の人間が口を利いてはならぬと言うような法も、ない。
だが主を尊敬するウーレの若い民たちには、主の気分がそのまま反映される。
宴の翌朝、太陽の昇らぬうちに彼らの天幕に姿を現した主人を見て、民たちは驚いた。だが、すぐにアーレイドを離れると言ったミ=サスの言葉に反対はもちろんのこと、疑問を唱える者もおらず、移動に慣れている彼らは城門の護衛兵たちに不審を抱かせることなく、速やかに出立の準備を調えた。
もっとも、兵士がいささか奇妙に思ったとしても、不審な動きをする者が街から遠ざかろうとしているのなら、とどめる理由はない。
そうして彼ら東の一行は、素早く西の街をあとにした。
――冷静になれば、警戒を厳しくしたであろう護衛兵の目を逃れて部屋を出ることも、ふたりだけならば城門を抜けることも、造作なかった。
馬鹿みたいな、それとも夢のような衝動に駆られて部屋を飛び出した数刻前のことが嘘のようだった。ただ、彼の探しものはもうここにはなく、機会を逸したのだという不思議な確信だけが、シーヴの内にあった。
「何処へ、行きますか」
最年長のパディータが躊躇いがちに声をかける。
「そうだな」
シーヴは呟いた。探しものは消えた。その行く先は彼には掴めない。ならば、何処へ行こうと同じだ。
「シャムレイへ」
短く答えたミ=サスにそれ以上問いかけることはせず、小さな隊のまだ若い長は民たちにそれを伝えに行った。
それから――何日が経ったか。
シーヴに何が起き、彼が何を思って故郷の街へ帰ることとしたのか、見当のつく者はいなかった。城に同行したスルは全員に問い詰められたが、目に見えたこと以外に少年は話せることがなく、当のシーヴ自身が掴みかねている事柄が可哀想なスルに判るはずもなかった。
陸路でビナレスを横断すれば、早馬を飛ばしてたとしてもいったいどれだけかかるだろうか。
「そんなこと」をする者はなかなかにいなかったし、たいていは興味も持たなかったから、明確な日数や距離を知る者はまずいない。街とその周辺ならばともかく、〈街道を行けばいつかはどこかにたどり着く〉と言われる通りで、ビナレスに暮らす人々が持つのは何とも大雑把な地図だけだった。
もちろん、地図師と呼ばれる人々が作るそれは正確だったが、自分自身か連れが知っている街々、或いは「この街道を馬で何日進めば着く」と判っている場所を訪れる分には、正しい地図など不要だ。大陸の北から南へ、西から東へ行こうなどと言うのは余程の冒険家か夢想家くらいだった。
シーヴ青年は、ある意味では、夢想家なのかもしれなかった。
予言に言われた〈翡翠の娘〉を探すため、贅沢な暮らしを約束されている王宮を勝手に飛び出しては北へ南へ西へと――東は、大砂漠があるだけだ――出歩いた。王子故の財産と、彼を慕って付き従うウーレの民がそんな無茶を支えていることは判っており、自分が大陸を縦断する大冒険家だなどとはかけらも思っていない。
自由気儘だと言うよりは、単なる勝手我が儘であることも判っていた。
予言。
たいていの街では、それは占い師が生活の糧のために紡ぎ出す、ただの戯言と思われる。
シーヴの故郷が神秘を信奉する街だというのではなく、シャムレイでもそう言った印象は変わらなかった。占い師などというのは、ちょっとした恋占や縁起担ぎには大いに役立つが、「運命」を左右するようなことは有り得ない。そんな「予言」が存在するのは、吟遊詩人の歌う夢物語のなかだけだ。
夢物語に惑わされる若者も決して少なくはなかったが、その多くは夢破れて落ちぶれ、何故あんな戯言に心を動かされたのか、何年も悔やむこととなる。古今東西、どの大陸でもあることだ。
だが、なかにはそれでも「本物」がいた。魔術師として認められる魔力を持ち、真実の予言を紡ぐ、本当の予言者。
誰しもが自らのであった相手がそれであると信じる――信じたがる――が、もちろん現実にはその数は稀だ。少しでも理性のある者なら、たとえどんなに心惹かれる言葉を与えられたとしても、それに人生を賭けるような真似はしない。
夢見がちな気質などないと自ら思っていたシーヴが、その予言を信じたのは何故だっただろう。
彼が入り浸っていたウーレの民の長が、その予言者を本物だと言ったから、というだけではない。彼自身が納得しなければ、いかに尊敬する長老の言葉でも鵜呑みになどしない。
ならば――何故だろう?
その占い師に出会ったのは、もう十年も前のことになるだろうか。
王宮には、奇妙な予言を携えてやってくる占い師など山ほどいるから、彼は占いというものがいかに胡散臭いか、どれだけ「誰にでも当てはまりそうなこと」しか言わないか、そして「相手の聞きたがっていること」を言うものなのか、十を越すうちにはもう理解していた。
なのに彼は、ウーレの集落を訪れてきたやせ細った占い婆の言葉を――聴いたのだ。
「お前は砂漠の民ではないね」
婆は、シーヴを目の前にしてすぐにそう言った。
ウーレたちの間にいるときは彼は砂漠の民と同じ服装をしており、立ち居振る舞いにもウーレらしからぬところは全くなかったのに、老婆は一目で彼が「違う」ことを見抜いた。
「何でだよ?」
彼はむっとして言ったものだ。王室育ちの少年がちょっとした変装や冒険をしているつもりなどはなく、同年代の子供たちと同じように話し、笑い、雑役まで平気でしていた薄汚れた格好の彼が何故、「本当は違う」ことを指摘されなければならないのか、気に入らなかったのだ。
「占い師には見えるものがあるのさ」
「へえ、そうかい」
彼は信用しなかった。シーヴが王室の子供であることは――当時は、まだ〈王子〉の称号は戴いていなかった――隠しごとではなかったから、集落でちょっと尋ねれば判る。彼はそれを理解できるだけの頭をその年で身につけており、見知らぬ老婆に身分を指摘されたからと言って驚くようなことはしなかった。
もとより、民たちのいる大砂漠を単身訪問する「老婆」など、怪しいことこの上ない。幻術の使える若い魔術師が、「〈砂漠の民〉に予言を与えた」などという箔付けのためにわざわざやってきたのではないか、というようなことも考えた。
「俺に何が見える?」
だから、ただそう返した。何を言い出すのか見物してやろうと思った。もしも「いずれ王になるだろう」などと言い出したら、反逆罪でとっ捕まえてやろうという考えさえ、頭にはあった。
「美しい、翡翠玉が」
だが老婆の言葉は、そう素直には行かないようだった。
「翡翠だって?」
その言葉を知らなかった訳ではない。王宮にはたくさんの宝玉や宝飾品があるし、翡翠は母王妃も身につけることがあるし、姉王女も気に入りだったはずだ。細かい玉ならば安価であり、町の女たちも好むと聞く。
「俺はそんなもん、持っちゃいないぜ」
「いずれ、持つ」
「そうかい」
少年は言った。「いずれ」とつければ、何だって言える。




