07 東国の旅人
西街区は港にほど近いこともあって、ささいな喧嘩は始終だ。
ほかよりも配置される町憲兵の数は多いし、巡回の回数も多い。
だから人手がほしくてザックなんかを雇うんだろう、と言うのは少年がよく言う意地の悪い台詞だったが、その真偽はさておき、余所者が騒ぎのもととなるのは古今東西どの大陸だろうと変わらぬ話である。
泡を食った女に案内されてふたりがたどり着いたのは、どうと言うことのない一軒の酒場だった。成程、店内は卓や椅子がいくつかひっくり返り、木皿や陶杯が散乱しており、その中身が床を汚している。いかにも喧嘩のあとといった様子だ。
「騒ぎのもとは誰です?」
ザックが大きな身体で胸をそらすようにして堂々と問えば、たいていの人間は素直に答える。これは、優しいザック青年にエイルが伝授した技だった。
「この辺りのチンピラどもですよ」
鼻息荒い声は店の主人のものだ。
「ジェッツとハートです。奴ら、遠方からの旅人をからかったんですよ、格好が奇妙だとか何とか言ってね」
その名前はエイルも知っていた。彼と同じか少し上くらいの盗賊で、繁華街によくいるけちな連中の仲間だ。彼も一、二度、絡まれたことがあるが、巧く逃げることができていた。
「旅人はまだ若い少年ふたり、ひとりは子供と言っていいくらいでしたからね、難癖つけて金ふんだくろうとでもしたに違いありませんわ」
チンピラがしつこくしたところに旅人が杯の中身をぶちまけ、乱闘となったらしい。
「ジェッツが小刀を出したんで、あいつに町憲兵を呼びにやらせたんですが、何の何の、その子供たちが意外に強くて。刃物を向けられてもちっとも怯まず、剣を持っていたようですがそれを抜くことなく上手に逃れて」
「で、その旅人はどこに」
「行っちゃいましたよ、あんたらは悪くないから何もお咎めはないって言ったんですけどね」
「そうですか。災難でしたね、ご主人。その盗賊どものことは手配しておきます。刀を出したというのならば厳罰の対象ですからね」
街のなかで剣を抜くのはたいていの都市で禁じられている行為だ。
「盗賊の組合でも酒場での抜刀は禁じられているはずですから、そちらにも報告しておきます。少なくともしばらくは、その盗賊たちを見ないで済むと思いますよ」
盗賊を捕らえるのは町憲兵の仕事であり、彼らは敵対関係にあるが、組織同士にはつながりがある。
もちろんそれは癒着というようなものでもなければ、冗談にも友好的な親交とは言えないものだ。だが実際問題として、町憲兵が逃げたチンピラをこの程度の喧嘩や軽い盗みで探し、かつ捕まえるのは困難だったし、捕らえたところで留置場に一晩ぶち込むくらいが関の山だ。反省などしないどころか、一日分の宿代が浮いたなどと思われかねない。しかし盗賊の組織にそれが伝われば、彼らは「禁を破った」または「しくじった」罰を受ける。
処罰を犯罪者の組織に任せると言うのは町憲兵隊としては不服だろうが、現実的にはそれがいちばん、効くのだ。ただ、どのような罰なのか盗賊以外には知られていない。あまり想像したくないような事柄であることは――想像がついたが。
「ちぇっ、それじゃ祭りは終わったあとか」
ザックの背後から軽口を叩いたエイルは、じろりと酒場の主人から睨まれる。どこの悪ガキだ、とばかりに結んだ唇が、驚いたように開くのはすぐだ。
「何だ、エイルじゃないか。久しぶりに顔を見るな」
「よう、おっさん。運が悪かったな。次からは、盗賊だの変な旅人だのは店に入れない方がいいぜ」
西区ならば彼の庭だ。この店にはあまりきたことがないが、この主人の荷を運んだことは幾度もある。
「馬鹿言うな、客を選んでたら商売あがったりだ」
主人は顔をしかめ、エイルは笑う。
「その旅人ってどんなだったんだ? 奴らがからかいたくなるくらい、変な格好をしてたのか?」
「まあ、なあ」
主人はあごをさすった。
「珍しい格好だったことは確かだな。ありゃ、東国の衣装だ」
「東国だって?」
「わしも以前に一度だけ見たことがあるくらいだが、砂漠の方の民じゃないのかな」
「へえっ」
エイルは目を見開いた。
「大砂漠から出てきたってんじゃないだろうね?」
「まさかファランシアからはこないだろうがなあ、あっちの方ってことは確かだろう。肌は日に灼けて、頭にこう……布を巻いてな。ひとりはそれだけだったが、もう一人はひきずるような長い服を着てた。ありゃ、目立つ」
「魔術師のローブみたいな?」
「あれより目立つ。ローブは一枚だが、さっきの客人の衣装は白い布を何重にも重ねているみたいだった」
「まだ暑い盛りにご苦労なこった」
エイルは肩をすくめる。
「砂漠に比べたら、ここでも寒いのかもしれんな?」
主人は笑った。
「あれ? 意外に機嫌がいいじゃんか。喧嘩騒ぎなんかご免だろうに」
「それがな」
主人は、ザックがほかの人間に話を聞いているらしいのを確かめて、エイルの耳元に口を寄せた。
「その旅人が、金を置いていったんだ。迷惑を掛けたからと言って。そう大金って訳じゃないが、悪いこともしてないのにそんなことをする人間がいるなんて、驚きだろ?」
「へえ、珍しい人種もいるもんだなあ。そいつ、よっぽど金持ちか……本当は後ろ暗いところがあるか、だな」
主人が声を潜めた理由を鋭く見て取って、エイルは言った。
「どっちでも金を出してくれるなら構わんさ。彼らがまたきたら、わしは歓迎するよ」
「金の力は偉大だな。……まあ、その前に、簡単にひっくり返されない重い卓でも用意しといた方がいいんじゃねえ?」
惨状を指してそう言うと、主人に頭をはたかれそうになる。それを避けてエイル少年は、何にしても俺には関係ないけど、などと言った。
酒場の喧嘩に巻き込まれることならば絶対にないとは言えないが、東国の旅人などには関係もなければ――興味もない。
(私は)
(世界を知りたいわ。全部)
そんなふうに言った王宮の少女ならば気にするかもしれない、とふとそんなことを考えた。
東国。大砂漠。あまりに遠い。
アーレイドの城下と城内という隣接した場所でさえ彼の暮らしはこんなにも違うのに、そんな遠くへ行けばどうなるだろう?
(んなとこに行くはずも、ないか)
少年はふっと浮かんだ白昼夢のような思いを振り払うように、首を振った。
幸か不幸か、喧嘩の現場には出会わなかった――出会えなかった――という訳だ。エイルは今度こそザックに別れを告げると、昼の街へと戻ることにする。トルスからの頼まれごとで、金物屋に研ぎに出した包丁を取りに行くのだ。急ぎではないから時間があったらで構わない、と言われていたが、切れ味の悪くなってきた包丁に苛つく料理長の横で仕事をするより、休日を一刻潰した方がましである。
そんな彼の日常について考えながら歩みを進めるうち、ほんの一瞬浮かんだ、見たことのない砂漠――遠い世界の幻影はすぐさま、街の喧噪のなかに消えていった。
東国の船が西の港に流れ着いたらしい、と言う何とも奇妙な話を聞くのは――この夜、エイルが城に戻ってからのことになる。
「もう聞いた? あの話」
「あの話って、あれか? 東国の」
侍女のレイジュの時間が空くときは、朝のうちに彼女に礼儀作法を教わることになっていた。だがエイルの作法も、うわべだけながらとは言え次第に決まってきており、彼女に教わることもほとんどなくなってきていた。
それでも、レイジュはエイルと話すのを楽しく思うようで――もちろん、ファドック一筋の彼女のことであるから、含みは全くない――彼らはいまだに、朝の授業時間を設けたままだ。いまでは、すっかりただの雑談の時間となっていたが、互いに空き時間なのだからそれを叱責されることはない。
「そう、変わった誂えをした船が港に着いたんですってね。やっぱり、東国のものなの?」
「知らねえけど、そういう噂だぜ」
エイルは答える。
「街でも、東国の奴を見かけたって話を聞いたから、そうなんじゃねえ?」
「そう言えば、昨日はお休みだったわね。それじゃ、城下へ行ったのね」
「一昨日だよ。行ったついでにトルスの包丁を取ってきて、そのときに聞いたのさ」
エイルは、酒場で聞いた話を簡単にレイジュに説明した。東国の衣装を着たふたりがチンピラに絡まれたらしいこと。
「つっても、酒場の主人の言うことだからなあ。変わり種の芝居をする芸人が衣装をつけたままできてたのかもしれないし、あんまり言いふらすなよ」
「あら、私がそんなお喋り鳥に見えて?」
「違うってのかよ?」
「エイル殿」
レイジュはつん、とあごを逸らしてみせた。「侍女」にして「教師」の指導だ。
「それは、失礼と言うものですわよ」
「わあったよ、悪かったからそれやめろよ」
エイルは天を仰いでレイジュの抗議に謝罪する。娘はそれに満足そうに笑うと話題を戻した。
「でも、変よね?」
「変だな」
「東国からこちらにくるなら、隊商でも組むべきよ。どうしてわざわざ北に出て海に行って、ぐるーっと北岸、東岸を回ってこないといけないの?」
「ここが目的地じゃないのかもしれないぜ」
「もっと南が目的地だって同じじゃない。その方がどう考えたって早いわ」
「まさか、北方で船をぶん奪った海賊だなんて言い出すんじゃないだろうな」
「やーだ、エイル」
レイジュは手を振った。
「それじゃ、まだこれは聞いてないのね?」
「……何だよ」
得意げな顔の侍女に少しむっとして、エイルは尋ねる。
「何か、新しい情報があるのか?」
「やんごとないお方なの」
「はあ?」
エイルは口を開ける。聞いたことのない言葉だ。
「王子殿下なのよ、船に乗っていたのは……都市シャムレイの、第三王子なんですって!」
レイジュの何とも楽しそうな台詞がエイルの耳に届き、脳がその意味を理解するのに数秒がかかった。
「……それじゃ」
「そう。その方をお招きして、宴が開かれることは間違いないわね」
その言葉を聞いたエイル少年は、また慣れぬ給仕役へ任命されるのではないかという不安を覚えると同時に――王女の結婚相手はどこかの都市の、王位継承権を持たぬ王子になるのではないか、という噂話を考えずにはいられなかった。




