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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第7話・最終話 暁の宮殿 最終章

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12 少し意外です

 しょちゅう笑っている感のある彼も、ひとたび本気で(・・・)不機嫌になると、それはもう手のつけられないものだった。

 しばらくはぱったりとやんでいたが、癇癪を起こすとものを投げる伯爵閣下の悪い癖は、どうやら久方振りに覚まさなくてもよい目を覚まし、城の住人たちを困惑させていた。

 がしゃん、と音がすれば、またゼレットが何かを投げつけたのだろうとばかりに、掃除人は肩をすくめてため息をついた。にこやかなゼレット閣下に話しかけられれば嬉しい気持ちになるが、無言でじろりとやられるほど胃の痛くなることもない。

「――タルカス!」

 いちばん割を食うのはタルカス青年だった。ゼレットもさすがに老齢のマルドに何かを投げる真似はせず、怒鳴る程度に抑えられる一方で、若く健康な男は格好の標的だ。

「俺は、その会には出んと言っただろう!」

「しかし閣下」

 青年執務官は反論した。

「先日は出席のお約束をしたにも関わらず、こちらの都合で欠席しております。閣下が老メネス閣下とそりが合わないことは存じておりますが、彼が出席するからお出にならないと言うのは少々」

 ゼレットは、投げられた杯をぎりぎりで避けたタルカスをじっと見ながら瓏草(カァジ)を取り出した。

「いつだ」

「次月の頭ですね」

「よし」

「では」

「俺はその頃、病になる予定だ」

「――閣下。そんなにお嫌なんですか」

「嫌ならば嫌でよかろう。何故、好まぬつき合いなどせねばならぬ」

 ゼレットがこうして、言うなればへそを曲げれば、いくら説得をしても無駄である。タルカスはこっそり嘆息すると、機嫌のいいときにまた話をしよう、と考えた。しばらくはゼレットの顔色を窺わずとも業務が済んでいたが、何年か前まではこういうことも珍しくなかった。

「しかし」

 食堂の片隅で遅い昼飯をつつきながら、タルカスは言った。

「いくら何でも本当に怪我をさせられるとは思わないが、ときどきはやばいんじゃないかと思うな。次は本気で眉間あたり狙ってくるんじゃないかと」

「まさか」

「『まさか』!?」

 ミレインのさらりとした口調にタルカスは天を仰いだ。

「おいおい、閣下の不機嫌が誰のせいだと思ってるんだ?」

「……人のせいにしないで頂戴」

 ミレインは嘆息をする。

「いい年をした閣下が、ああして子供じみた振る舞いをされるのが私の責任だと言うつもり?」

「つもりも何も」

 今度はタルカスが嘆息した。

「お前がいつまでも閣下の求婚を固辞するからだろうがっ」

「受ける訳がないでしょう、何考えてるのあなたはっ」

 いまやゼレットはミレインをカーディル伯爵夫人にするのだと言ってはばからなくなり、それをミレインのように性質(たち)の悪い冗談と思う者もいれば、ようやくその気になったかとうなずく者、影でこっそり泣いた者、反応は様々であったが、大方は歓迎の方向にあった。

 無論、当のミレインを除くことは言うまでもない。

「閣下は、私が拒否すると判った上でああやって遊んでらっしゃるだけよ」

「馬鹿言え。それならどうして、あそこまで腹を立てる」

「そう言う御遊戯なんでしょうよ。そうでなければ、思い通りにならないのが悔しくて、意地になってらっしゃるだけだわ」

「馬鹿言え」

 タルカスは繰り返すと、ミレインの目を見るようにして言った。

「どうして、そこまで拒絶をする。あれだけ望まれれば、女冥利に尽きるってやつじゃないのか」

「……冗談はやめて、タルカス」

 タルカスが彼女の説得にかかったと見て、ミレインはまた嘆息した。

 初めの内は面白がっていた使用人たちも、伯爵の機嫌が悪化の一途をたどるに連れ、ミレインに懇願しにくる者まで現れる始末だった。彼女は時に笑って、時に怒って彼らを追い返したが、まさかタルカスまでがそんなことを言ってくるとは。

「あなたねえ、自分で想像してみたら。求婚じゃなくたっていいわ。閣下が連夜、あなたを誘ったら」

「――よせ」

 タルカスは真顔で想像を拒否した。

「でしょう?」

 同じよ、とミレインは肩をすくめる。

「あなたは閣下と親しく話をしても、抱かれない。私は、閣下に抱かれても結婚はしない。同じだわ。何の不思議があるの?」

「全く納得のいかん理屈だが」

 タルカスはうなった。

「それくらい、想像の範疇外だということは、よく判った」

 仕方ない、と彼は言った。

「俺がついに閣下の投げるものを避けそこなって、当たりどころが悪くて死んだら、泣いてくれ」

 そんな訳で、エイルの訪れをいちばん歓迎したのは、生傷の増えだしたタルカス・ツァル青年だったかもしれない。

「エイル。お前が神の使いに見える。俺を救いにきてくれたんだな」

「……その数々の傷口はどうしたのさ。まさかまた、『悪女』にやられたなんて言いださないだろうね」

 青年の状態と台詞に首をひねったエイル青年は、そんな言葉を返す。

「悪女。そうだな、ある意味、ひとりの女のせいだ」

「何ですって」

 怒気をはらんだ声が背後からして、タルカスは肩をすくめた。

「ほんの冗談であります、ミレイン殿」

「久しぶりね、エイル」

 ミレインは敬礼の真似などしたタルカスをじろりと睨んだがそれには何も言わず、エイルを向くとにっこりとした。

「ええと」

 エイルは頭をかいた。

「今度は、何事? ゼレット様は、もうすっかりいいんだろ?」

「いいも悪いもへったくれもない」

 タルカスはそう言って、またミレインに睨まれた。

「……何事」

「このところ閣下は、少しばかり虫の居所が悪いの。あなたの姿を見れば……」

 ミレインは思わずタルカスを見、タルカスは肩をすくめた。

「……どうかしらね」

 女性執務官が叩いた戸の向こうから返答を待たずにそれを開けたことに、エイルは少しだけ驚いた。

「失礼いたします、閣下」

「何の用だ」

 エイルは目をぱちくりとさせた。ゼレットがミレインにこんな言い方をするとは――ずいぶんと「虫の居所が悪い」らしい。

「ご機嫌斜めですか、ゼレット様」

 女性執務官をを追い抜くようにして、エイルは執務室に入った。ゼレットがきょとんとしたように彼を見つめ――歓迎の意を表すかと思えば、むっとするように口元を歪めた。その口髭は、以前の通りだ。

「卑怯だぞ、ミレイン。彼を呼ぶとは」

「誰も呼んでおりません。彼は彼の意思で訪れてくれたのですよ」

 女性執務官は、ゼレットの不興などものともしないように言った。

「第一、卑怯とはどういう意味なのですか。私が閣下の矛先をかわすために、彼を呼んだと思われたのですか?」

「そうだ」

 ゼレットはじっとミレインを見たが、彼女が肩をすくめるだけなのでひとつ嘆息をした。

「――よくきたな、エイル」

「あのー」

 エイルは、ようやく出てきたその言葉に返事をする前に、思わず片手など上げた。

「どうしてまた、ここはこんなに険悪なんですか」

「何でもないわ」

「そうだ、何でもない」

 ゼレットはうなった。

「この女が、いつまでも人の求婚を断り続けているだけだ」

「……何だ」

 エイルは拍子抜けしたように肩を落とした。

「『何だ』!?」

 ゼレットとミレインは、気のなさそうなその台詞を異口同音に繰り返した。エイルは耳をふさぐ。

「遊び人は本気になると不器用だって言いますけど、ゼレット様にも当てはまるんですかね。だとしたら少し意外です」

 青年はそんな一言であっさりとカーディル城の雷雲を切ってのけ――タルカスに感謝の印を捧げられることになる。

「いいときにきたわ、エイル。ほんの少し前に王城から戻ってこられたばかりなのよ。ずいぶんと陛下(ダナン)へご挨拶にお伺いできなかったから」

 ミレインは肩をすくめてそれ以上は言わなかったが、翡翠にまつわる事柄にはじまり、死にそうになって横たわっていた状態からある程度以上回復するまで、ゼレットはカーディルから離れられなかった訳だ。

「陛下にはどんな話をされたんです?」

 まさか「悪女に斬られた」とは言わないだろう――とエイル。

「何。美しい蝶に惑わされたとな」

「……陛下にも他のお貴族さんたちにも、ゼレット様の所業はそれで通じる訳ですね」

 エイルは呆れたように言ったが、突き詰めても仕方ないとばかりに首を振った。

「傷は、もういいんですか」

 少なくとも見た目には、動くことすらできなさそうであったあの日に比べたら目覚ましい回復と言えそうだったが、いまだにゼレットの顔色は悪く見え、痩せたようにも思えた。

「うむ。もう痛むと言うことはないが」

 ゼレットは嘆息した。

「惜しむらくは、このような」

 彼は自身の左肩から胸部を越え、右脇腹までをなぞるようにした。

「派手な傷跡が残ったことだ。これでは若い娘を怖がらせてしまうだろう。気の弱い娘には声をかけられん」

「……相変わらずみたいですね」

 そう言ってからちらりとミレインを見ると、女性執務官は軽く肩をすくめる。ゼレットの求婚など口先ばかりだ、とでも言うのだろう。

「そうでもない」

 ゼレットは、だがそんなふうに返した。

「不本意ながら体力は落ちた」

 むっつりと言う伯爵の台詞をごく普通の説明と解釈したものか、ゼレットの言うことなのだから夜の話と解釈するべきか、エイルはいささか迷ったが、どっちでもいいと思うことにした。

「生きてただけでめっけもんでしょ」

 エイルは言った。

「閣下に万一のことがあったら、ここがどうなってたと思うんです」

「別に、変わらんさ。誰か見知らぬ人間がきて、新しくカーディル伯爵になるだけだ」

「そうしたら」

 エイルは顎に手を当てた。

「翡翠は……どうなるんでしょうね」


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