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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第7話・最終話 暁の宮殿 最終章

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09 真白い世界

 彼は目をしばたたいた。

「こ」

 生唾を飲み込んでから、繰り返し直す。

「婚約!?」

「予定、よ」

 エイルが口をあんぐりと開けるのを見て、王女は少し面白そうな顔をした。

「そんなに驚いたの?」

「まあ……だってそりゃあ、ファドック様にそんな話、これまでかけらもなかったじゃないか」

「なかった方が不思議なのよ。……まあ、それは、私がそうしてほしくないと思っていたせいもあるのでしょうけれど」

 アーレイドへ戻ってからシュアラとは幾度か話をしたが、こんなふうに自分を分析までできるようになっていたとは思っていなかった。彼女の成長は、シュアラの婚約を聞いたときより彼を驚かせたかもしれなかったが、それよりもやはりファドックの婚約──予定──の方が驚きであっただろうか。

「……どんな相手か知ってるのか?」

 エイルはついと言った調子で問うた。シュアラは小さくうなずく。

「昨夜の夜会にいらした姫君のようね。気品のある方で、凛としてお美しいわ。少しだけお話をしたけれど気取ったところや嫌味なところもおありでないし、賢い方でいらっしゃるようよ」

「……シュアラがそこまで言うんなら、そうなんだろうな」

 エイルはこっそり、嘆息した。彼自身は、驚きはしてもまさか衝撃は受けない。一方でレイジュの反応を想像すると――胃が痛くなりそうである。

「彼はまた、守る相手を増やすのね」

 シュアラが彼女の護衛騎士(コーレス)に対してそのような言い方をするのをエイルはじっと見た。上手に隠しているが、寂しいと思っていることは見て取れた。

「平気さ」

 だがそれに気づいたふうは見せず、青年は続けた。

「俺もファドック様を手伝うから。俺も」

 言いながら彼は、少し照れたような笑みを見せる。

「シュアラとアーレイドを守るから、さ」

 今度はシュアラが驚いた。彼女にしてみても、彼がそのようなことを言う男になって帰ってくるとは思っていなかったのだ。

 だが王女は驚きをその瞳から消すと、ふと笑った。

「ファドックの言ったことは正しかったのね」

 エイルが首をかしげるとシュアラは続けた。

「あなたが城を……いえ、街を出た頃だったかしら。彼は言ったわ。エイルは彼と同じ心を持っている、離れても、守ろうとするものは一緒だと」

 翡翠。アーレイド。シュアラ。エイルは照れ隠しに苦笑いをしてみせた。

「ファドック様のように、とはいかないけどな」

「あなたは、魔術師(リート)ですものね」

 言われた彼はやはり苦笑気味のままで曖昧にうなずいた。

 リ・ガンの力はその大部分が失われたが、少々残るものがあった。いや、そのまま残ったのではなく――変質した、と言おうか?

 彼の力は、魔術師のようなもの、ではなく、魔術師の力そのものだった。

 もちろん、大した力でないことはこれまでと変わらず、翡翠や〈鍵〉、〈守護者〉のために安定したり強まったりするようなこともない。

 これが使命を終えたリ・ガンに起こることなのか、はたまた彼が特異なのかは判らなかった。どうでもいいとも思っていた。

 シーヴと分かれたあと――もう、全ては終わったと感じていた。

 リ・ガンの役割は済み、翡翠を狙う者は消え、アーレイドは平和の内にあり、〈鍵〉は故郷へと帰り、〈守護者〉はその特殊な守りの力を失いながらも、やはり変わらずに翡翠を守り続ける――全ては本来の輪に戻るのだと。

 ファドックもトルスも、エイルを再びアーレイド城の厨房に迎え入れようとしてくれたが、彼はそれを断った。

 かと言って、城を出た「口実」のように、魔術師として協会(ディル)で働く気もなかった。導師ダウには全てを話すことにし、彼らの師リックが残したリ・ガンと翡翠に関わる資料も託したが、それは言うなればけじめをつけるためであって、協会のためにやったことではなかった。

 町憲兵(レドキア)の友人を訪ね、〈森の宝石〉亭を訪ね、給仕娘リターを訪ねた。朝の市場を訪ね、世話になった店の主人たちを訪ねた。

 彼らは素直に再会を喜んだが、そのときのエイルは屈託なく笑うことはできなかった。

 この年の終わりはリ・ガンの終わりであるという思いは、年の瀬を迎えるに連れてますます強くなっていたのだ。

 エイルは、ファドックに対しては下町に戻ると言い、ダウには城で働くと言い、母には協会の仕事でまた旅に出ると言った。

 彼が姿を消しても、誰も不思議に思わないように。

 翡翠の女神の思惑など彼の思いの及ぶところではなかったが、それでも再び眠りが訪れるようになったことに関しては、女神様に感謝をした。悪夢の訪れる夜があっても、悩みしか訪れない夜よりはずっといい。

 そうして彼は、旅立ちを決意した。

 年が変わるときに彼に何か異変でも起こるのだとしたら、誰も彼を知る者のない街や、誰もいない街道上ででもある方がいい。そんなふうに思った。

 もう、誰かを巻き込んだり、誰かが傷ついたりするのは――嫌だと思った。

 全ては、終わったはずなのだから。

 行き先はどこでもよかった。定めたところで、行き着けるかどうかは判らなかった。日にちの感覚がなくなるような無茶な旅をすれば、あと何日でこの年が終わるというように、恐怖を指折り数えることはなくなるかもしれないなどとも、思った。

 そう、行き先はどこでもよかった。

 日にちを忘れることに成功をしたある朝のことだった。その声が、エイルを呼んだのは。

 何だ、と思う間もなかった。

 気づけば彼は真白い世界で「それ」と対峙していた。

 と言っても、誰が、或いは何が見えたと言うことはできなかった。ただ彼に浮かんだのは、成程、〈女王陛下〉だな、と言う奇妙な納得のみだ。

(エイル)

 「それ」は言った。

(捻れた運命をよく乗り切りました)

 彼は驚いた。その存在がこうした言葉の形を取ってリ・ガンに語りかけたことはなかったらだ。

 そうして、知った。

 彼はもう、リ・ガンではない。

「……それで俺は、どうなるんですか」

 彼の口からはそんな台詞が出ていた。

「〈変異〉の年が終わりはリ・ガンの終わり。それは判ってます。なら、俺は?――クラーナは?」

(望みは?)

 声は問うた。

「そんなの」

 エイルは口を尖らせた。

 もっとも、本当に「言葉として」聞こえていると言うよりは、やはり概念に近かっただろう。「このように話しかけられている」という感覚をエイルが言葉にしているのだ。

「決まってる。俺はリ・ガンがどうのなんて知らなかった頃に……」

 言いかけて彼は半端に言葉を切った。

(戻りたいと?)

 声が代わりに続けた。

(それが望みか? この一年の翡翠(ヴィエル)に関わる全てを忘れ、それに関わった者たちからもお前を忘れさせること)

「ちょ、ちょっと待てよ」

 彼は焦った。

「そんなこと……あんたには簡単にできるのかもしれないけど、やってもらっちゃ、困る。俺は忘れたいなんて思ってないし、忘れられるのも……嫌だよ」

 正直な言葉は、「それ」を面白がらせたようだった。

「ただ、もう今後はこんな出来事に関わりたくないって、だけさ」

 エイルは知らず、その視線を足元に落とした。微かに輝くかのような真白い床が見えた。

「もし、俺に『今後』があるんなら、だけどね」

(それを望むか)

「何だって?」

(ただの、「エイル」として日々を送ることを?)

 その声には笑いが含まれるかのようだった。だがそれは彼を見下したりからかったりするものではなく――ただ、面白いと言うような。

「そういう、ことかな」

 彼は言った。

(――それだけでよいのか?)

「それだけって……それが叶うんなら俺は万々歳だよ」

(ほかには、ないのか)

 声は言った。

(リ・ガンの力はお前から失せているが、それを留めたいとは? 西の王女の心を振り向かせたいとは? 西の騎士、南の伯爵、東の王子の心を全て我がものにしたいとは?)

「ばっ」

 エイルは顔を赤くしたが、それは恥じらいのためと言うよりは怒りのためだった。

「馬鹿言うなよなっ。俺はそんなこと望まない! もしそうしたけりゃ俺は自分でそうしようとするし、第一」

 彼は拳を握り締めた。

「シュアラの件は別として、俺にはクジナの趣味はない!」

 〈女王陛下〉の姿かたちは見えぬのに、その存在が声を出さずに笑った――言うなれば、肩を震わせたかのように感じるのは奇妙な感覚だった。

(ささやかな願いは余すところなく叶えてやりたいところだが)

 穏やかに声は言う。

(覚えていたいのであれば、その記憶とともに残るものはあると知れ)

「――残るもの」

 エイルは繰り返した。

「……絶対に残してほしくないもんも、あるんだけど」

(なかなかに、注文の細かい)

 声は面白そうな響きを保っていた。

(安心なさい、あなたがいちばん困る力はリ・ガンのもの。あなたからはもうそれは失われ、戻らないでしょう)

「……それが俺の希望と間違いなく同じなら、そいつは有難いな」

 エイルは少し迷ってから、続けた。

「――クラーナは?」

(彼は、本来ならば既に死すべき身)

「おいっ」

 エイルは怒鳴った。

「あいつが大変な思いをしたのは誰のせいだと思ってるんだよ!? 六十年もあいつを好きに操っておいて、もう用済みと捨てようってのか!?」

(今期の――は、みな、そうして他人のために怒るのだな)

 女王は何かエイルの判らない言葉で「彼ら」を表現し、やはり笑った。

(聞くがよい。本来ならば、かつてのリ・ガンがその使命を全うし、お前のようにただ人たることを望めば、この六十年のうちに人の身体の寿命を向かえ、もう死している)

「でも!」

(聞け。ただ、かの者が過ごしたこの六十年は人のものではない。それ故――かの者は戻る。六十年前に戻るべきだった姿へ)

「――それじゃ」

 エイルは息をついた。

(ただし)

 その言葉にぎくりとする。

(彼が真実、ただ人だるかどうかは――我が手の及ぶところではなさそうだ)

「何だよ、それ……」

 エイルは不安を覚えたが、それを払拭するかのように、何か暖かいものが彼の頬を撫でた。見えぬ手が触れていったようなその感覚は、不気味ではなく懐かしいもののようだった。

 まるで幼き頃の、母の手のように。

(夜が明ける。もう、往け)

「お別れ、だよな。……今生の」

(それもまた、望みか?)

 声はやはり面白がるように言った。

(よいか、リ・ガンたりしもの。お前は、お前自身の道を進むとよい。この一年がお前にもたらしたものたちとつながる――数奇なるものを)

「……数奇って……ちょいっ」

 話が違う、とでも叫んでやろうかとしたエイルは、リダエ湖のほとりにいる自身を見出しただけであった。

 ご親切に彼の(ケルク)もそこまで同行させられており、彼は嘆息しながらも、カーディルへの近道を果たしたと考えることにして――そうして、ゼレットの負傷を知ったのだった。


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