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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第1話 翡翠の宮殿 第3章

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05 結婚の話

 ごろり、と寝返りを打つ。知らず、ため息が出た。

 誰かと話をしたい。

 求めるのは余計なことを思い出させずに話せる相手、それとも疑問と不安の山に明確な答えをくれる相手だろうか。

 前者ならば、街の友人ザックなどが適役だ。エイル少年はあまり酒を飲むことはなかったが、たまには飲みながら馬鹿な大騒ぎをする。しかしいまでは、たかだかひと月前のそんな日々が遙か昔のように思えた。

 後者ならば、誰がいるだろう。その相手は神以外にいるろうか?

(クラーナ)

 ひとりの吟遊詩人の名前が浮かぶ。

(何か、思わせぶりなことを言っていたようだけど)

(でも吟遊詩人(フィエテ)なんて、舌先三寸ぶりにかけちゃ占い師(ルクリード)の類と変わらない)

(まして、魔術がどうのなんて言い出す奴の言葉を信じ込んだりしたら、馬鹿を見るに決まってる)

 あのあと――。

 エイル少年は、言葉を中途半端にとめたままで、王女と騎士に背を向けた。

 彼らはどう思っただろう? シュアラなら、エイルが無礼を恥じ入ったとでも思うだろうか。ファドックならば、少年の、彼に対する反発めいたものを読み取ったろうか。

 だが、どちらも思うまい。少年が逃げたのは彼らのどちらからでもなく、姿なき運命。

 翡翠(ヴィエル)

 クラーナにまた会えないものかと思いもしたが、吟遊詩人(フィエテ)は既に城を退いており、隣町の何とか伯爵の屋敷に招かれたと聞いた。

 彼の残した言葉は気になったが、上面だけ見れば、そう重要なことを言われたとも思わない。相手に「受けよう」と考えた詩人の気軽い口上だと言ってしまえば、それだけだ。気にするほどのことではない。

 ただ――最後のあの一(リア)、走った衝撃を除けば。

 少年は息をついて目を閉ざす。

 誰かが、それとも何かが彼を呼ぶ気がした。それに耳を傾けたくなかった。

 だから彼はそこから逃げ出した。それに耳をふさぐため。

翡翠(ヴィエル)。シュアラ。アーレイド)

(ファドック・ソレス)

(守り手)

リ・ガン(・・・・)。そして――〈()〉)

 訳が判らない。

 何故、聞いたこともないそんな言葉が浮かぶ?

 エイルはそんな言葉など知らないのに。彼は何も知らないのに。いや――彼は、彼のなかの〈それ〉は全て知っている。

 いつの間にか落ちていた眠りのなかで、それらの言葉は魔法の力を持つかのように少年を支配した。

 その夢のなかでは彼は全てを理解し、受け入れていた。

 そこに苦しみや悩みはなく、目覚めているときは何も知らぬ彼への哀れみ、憐憫を覚えていた。同時に、幼子を優しく見つめる親か、教え子を広い心で見守る教師のような暖かい目で彼自身を見ていた。

 眠っていようと目覚めていようと、彼は彼自身であるはずなのに、それは何とも奇妙な。

 そして朝がきて少年が目を開ければ、そこに残るのは「何かをとても奇妙に思ったようだ」というぼんやりとした思いだけ――。


 ビナレス地方の北方に位置するアーレイドの夏は、同緯度の他都市に比べるとかなり穏やかだが、それなりに手強い。

 夏の盛りに迎えた新年は、目の回るような忙しさだった。

 三日続けて行われる祭りは街中のどこもかしこも大騒ぎで、このときばかりは泥酔して道端で転がっていても、嫌な顔をして避けられることはない。もちろん、商人や芸人たちは稼ぎどきとばかりにそれぞれの仕事に精を出し、何とも活気のある日々が続く。

 エイル自身、城下街で暮らしていたときはまさしく稼ぎどきだったから、新年というものが忙しいことは判っていたし、思いがけず「城」などで迎えた新年の一日を走り回って過ごしたことも苦にはならなかった。思い返してみれば忙しかったな、と思うだけだ。

 新年の儀のときには、例の翡翠の中の翡翠(アーレイド・ヴィエル)──少年は、この城の宝物庫に眠るという宝玉を勝手にそんなふうに呼んでいた──も取り出され、シュアラがそれに祈りを捧げたらしい。それは代々女性のやることなのだと王女は言った。学者でもいれば、王家の女性が神女や巫女のような役割を持っているということだ、などと言うかもしれなかったが、少年はふうん、と言っただけだ。

 その翡翠玉のことも気になるが、一介の使用人──正確には、彼は使用人ではなかったが、似たようなものだ──が王家の宝玉を見ることができるはずもなかった。新年の日に彼が感じた目眩はただの疲労のためだと思っていたし、まさかその瞬間に玉を覆う魔織布が取り去られていたのだなどとは、知らぬ。

 城へやってきて数月がたち、日々の仕事にはすっかり慣れたといってよかったが、大きな行事は初めてだった。

 とは言え、下厨房の仕事は、年締めと年明けにちょっとした特別料理を出したりしたくらいのもので、基本的に変わりなかった。

 エイル少年を忙しくさせたのは、シュアラ王女殿下の気紛れだ。やれ舞踏会の衣装がどうの、舞曲がどうの、と言われても彼に判るはずなどなかったし、また給仕として宴に出るようにと言われたときは思わず天を仰いだ。

 幸いにして、人手は足りているからとヴァリンが取りなしてくれ――女中頭にとっては、エイルを助けるつもりはなく、給仕の少年たちの仕事を取らせまいとしたのだろうが――彼は、あの「上品な」空間に行かずに済んで安堵したものだ。

 月日が経つうち、一旬に二、三度あるシュアラとの面談は、初めの頃のように気まずい、或いは腹の立つ終わり方を迎えることは少なくなった。

 皆無、とはいかなかったが、それでも相当の進歩と言えるであろう。何しろ、そうあった次の面会には、言いすぎであったと互いに謝るのだから!

 シュアラとの間は、そんなふうに上手くいっていた。

 レイジュの礼儀作法指導は続いたが、エイルはそれを他者の前でのみ上手にこなしてみせ、シュアラやヴァリンをそれぞれの形で満足させた。新年の儀のときにはマザド三世陛下に直接声をかけられたが、下町出身にしては見事な礼を尽くして、教師のレイジュも鼻が高かったと言ったくらいだ。

 そう、シュアラとふたりだけ、或いはレイジュや顔見知りの侍女といるときは、エイルの調子は下町や厨房にいるときと同じだった。ファドックがいるときもシュアラへの態度は変わらなかったが、もちろん騎士はそれを咎めたりしない。もともと、そうしろと言ったのはファドックである。

 ただ、少年の騎士への応対は、初めの頃よりもずっとぎこちないものになったままだった。

 声をかけられてもあまり目を合わせず、言葉少なに、ほとんど逃げるように会話を終わらせる。

 おそらくファドックは、エイルがシュアラに親しみを覚える分、彼に反感を抱くのだろうとでも思っているに違いない。ファドックは平民でありながら姫の護衛騎士(コーレス)であり、ある意味ではシュアラに最も近しいところにいるからだ。

 エイル少年が、恋心とまではいかないものの、シュアラに優しい気持ちを覚えるようになっていたことは確かだ。ファドックといるシュアラが自分といるときより楽しそうだと思えて、気に入らない気持ちを抱くこともある。

 エイルがファドックを避ける理由はそのためではなかったが、いっそ、そう思われているならば――その方がよかった。

「昨年のことは、覚えていて?」

 一の月の半ばを越えると、シュアラの興味はひとつのことにのみ集中するようになる。姫君は優雅な手つきでカラン茶の入った杯を手にし、そんなことを尋ねた。

「忙しい一日だったよ。仕事でさ。悪いけど、式典のことはほとんど覚えてないや。本当のこと言えば、城の方にはこなかったんだ」

「まあ。私の誕生祭を見なかったというのね」

 少し不満そうに少女は言った。

「それだったら、露台から撒いた白花(ハール)の話をしても無駄ね」

「祭りのときは稼ぎ時なんだってば。普段なら俺が仕事を探すのに、そう言うときは仕事の方で俺を呼ぶんだから」

 こういう話は、働いたことなどない姫君には何度言っても、理解してもらえない。

「で、白花が何だって?」

 水を向けると、少し機嫌は直ったようだ。少女は思い出すように目を閉じた。

「白花は、十七の娘の象徴でしょう。城下の平民でも、娘の誕生日には白花を飾ると聞くわ」

「生憎と我が家に娘はいなかったもんでね」

 エイルはそう言って、そんな話は知らないと認めた。

「それをひと抱え用意して、露台から投げたのよ。そうしたら、ちょうどよく風が吹いて、中庭じゅうにそれが舞ったの。美しかったわ。吉兆だと、言われたの」

「それって、魔術師(リート)でも雇ったんじゃねえの?」

「まあ、失礼ね、エイル」

 少女は言ったが、怒った訳ではなさそうだった。

「本当は、私もちょっと疑ったわ。だからギンタスに尋ねたの。でも、決してそんな細工はしなかったと誓ったわ」

 ギンタスというのは、行事を取り仕切る侍従長だ。そのいかめしい顔つきを思い出したエイルは、あの爺さんに「花を撒く」などという少女の夢みたいな思いつきができたとは驚きだ、と思った。

風神(イル・スーン)の気紛れかもしれないけれど、乙女の女神(ピルア・ルー)の祝福だと思った方がすてきでしょう」

「へえ」

 エイルはカラン茶をすすった。音を立てると怒られることは判ってきたので、それには気をつける。

「シュアラも、恋の女神(ピルア・ルー)なんて信じる訳」

「あら、どういう意味かしら」

「王女様は恋なんてしないんだろ」

「しないのではないわ。できないの。王家の娘なら何でもできるとまだ思っているのではないでしょうね? 束縛されることはたくさんあるのだし、恋愛なんていうのはなかでもいちばん、無理なことだわ」

 ひと月後に控えた十八歳の誕生祭を迎えれば、シュアラ王女殿下に本格的に結婚の話が上がってくるはずだ、と何度か聞かされていた。

 シュアラ自身も口にしたことだが、使用人たちの間での噂でも聞くし、ヴァリンにも言われた。ヴァリンのそれはきっと、エイルが間違っても勘違いしないように、との警告も含まれていたに違いない。

 多少の束縛くらい、王家の自由、贅沢に比すれば我慢できそうなものだ、と当人以外は思うものであって、エイルも心の端の方にはやはりそんな思いがあった。

 とは言うものの、見も知らぬ相手と結婚することを疑問に思っていない――或いは、それ以外はないものと諦めている少女を見ればやはり、気の毒に思う。それが王女であると言うことだとしても。

「まあ……まだ何も決まってねえんだろ。よく知った、舞踏会なんかで見るような、その辺の若様が相手になるかもしれないじゃないか」

「私の感情としては、余所からきた者よりもアーレイドの人間の方がいいわ。でもこれはお父様と大臣たちが決めることですもの」

 少女はあっさりと言う。

「釣り合う家柄、年齢、知性に教養ももちろん必要ね。できれば、詩歌の芸を理解できる人だといいわ。剣にも堪能だといいわね。なんて、望みを言えばきりのないこと。いちばん重要なのは、家柄になるんじゃないかしら」

「人柄、はどうでもいいって?」

「どうでもよくはないけれど、二の次よ」

「お前の、話だろっ?」

「そうよ。でも私は待つしかないの。夢や望みは持つけれど、それが叶うとは思っていないわ」

 その言葉に悲壮な様子はなく、エイルは戸惑う。

 ここで、嫌だとかそんなことはおかしいとか文句を言ってくるならば対応のしようもあるし、エイルとしてはその方がシュアラらしいと思うのだが、殊「結婚」において、王女の感性は彼の理解の及ぶところではないようだ。

「家柄ねえ」

 それを除けば、いささか年上でもほぼ理想的な相手が少女の隣にいるような気もするが、そんなこともまた、言っても仕方がないのだろう。

「そうよ」

 少女は繰り返した。

「だから、どんなに教養を積んでもお前は無理ね、エイル」

 エイルはカラン茶を吹き出しそうになった。

「だっ、誰が!」

「大きな声を出さないで頂戴。何を慌てるの、たとえ話でしょう」

 エイルは、シュアラが自分をからかっているのかと軽く睨みつけた。が、少女はきょとんと首をかしげたままだ。ふたりの間の特殊な関係を茶化したのでも自嘲したのでも、ないようである。

「あー……」

 エイルは頭をかいた。

「俺、帰るわ」

「あら」

 シュアラの声に不満の色が塗られる。

「まだ、夕餉の仕込みには時間があるのではなくて?」

「イージェンと約束してんだ」

「ああ、あの近衛(コレキア)。剣を教わっているのですってね」

「そう。けっこう、面白いんだぜ」

「私に扱えないことでは、魔術と変わりないわ」

 シュアラはそんなことを言ってため息をついた。

「相変わらず、魔術の勉強は苦手かい」

「どれだけ学んでも私の身に付くものではないでしょう。時間の無駄のような気がするの」

「ま、代々の姫さんや王子さんは魔力がなくても学んできたんだろ。頑張りな」

「相変わらず、お前は生意気だわ」

 エイルの言葉を借りて、シュアラは言った。

「怪我のないように気をつけるのよ。――そうだわ、剣ならファドックに教わればいいのにどうして」

「それじゃ、な」

 好ましくない方に行きそうだった話題を気づかなかったふりで無理矢理終わらせると、少年は立ち上がった。

「では、次のお召しだしを心待ちにしております、殿下(ラナン)

 だいぶ上手になった退出の礼をすると――いまの彼らの間では、それは儀礼と言うより、冗談めかした挨拶だったが――エイルはくるりと背を向けた。

 イージェンと約束をしているのは本当だが、ファドックがこの部屋にやってきそうな気がしたというのが、本当は第一の逃亡理由である。

 そんなふうに逃げても無駄だ、と思うこともある。

 少年は護衛騎士の行動表など知らない。なのに何故、ファドックがここにこようとしていると、こんなにはっきり判るというのか?

 少年はそれを突き詰めなかった。突き詰めたくなかった。逃げていると言われても――ファドックからでも、運命からでも――かまわない。

 彼は逃げられるだけ、逃げ続けたかった。


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