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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第7話・最終話 暁の宮殿 最終章

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02 余波

 その姿を見て、女は違和感を覚えた。

 何かが違うと。

 旅に疲れた姿だったから、というだけではない。

 確かに、痩せた顔は病を得たようだと言われることもある。だがそれは、やつれたと言うよりは――。

「……エイル」

 女は、ゆっくりと彼の名を呼んだ。

「戻ってきたのね。……閣下の言われた通りだわ」

「あの」

 エイルは戸惑って女性執務官を見た。

 警護の町憲兵(レドキア)は彼を見知っていたし、すぐにゼレットに取り次がれると思っていた彼は、だが応接用の部屋に通されたのだ。だいぶ時間がかかってからようやくミレインがやってきたことに、エイルは少し困惑をしていた。

「何か……あったんですか」

 おそるおそる尋ねると、ミレインは目を細めた。

「そうね」

 彼女は言った。

「あったわ」

 棒読みのような言葉に、心臓がどきりと音を立てる。彼にはもう翡翠の声は聞こえず、〈守護者〉がどこにいるのかを掴む力も――失われていた。

「あの」

 エイルは鼓動を鎮めようとしながら言った。

「ゼレット様は」

「……お会いしたい?」

「そりゃ……まあ」

 ミレインの声には奇妙な響きが含まれていて、エイルは即答したものかどうか迷った。だが、カーディル城にきてゼレットに会わないと言うのももっと奇妙な話である。

「会いたいなんて言うとゼレット様に誤解されますから、あんまり言いたくないですけど」

 彼はそんな言い方をした。ミレインの口は笑みの形を作ったが、それはまるで無理矢理そうしたとでも言うようだった。

「それじゃ、いらっしゃい」

 ミレインは言った。

「お待ちだわ」

 見慣れたはずのカーディル城の廊下はどこかエイルに違和感を覚えさせ、その理由に気づいた彼はどきりとした。

 静かである。

 誰かしら忙しなく働いているはずの日中に、その気配がない。

 ミレインが彼を案内する先は、ゼレットの執務室ではなかった。

 そこは、彼の訪れたことのない部屋であった。

 ゼレットの私室だろうかと考え、そうではないと思い至った。ここは二階だ。伯爵の部屋は三階にあった――はずである。

「……よろしいですか」

 ミレインは礼儀正しく戸を叩き、なかから何やらエイルには聞き取れなかった声にうなずいて、戸を開けた。エイルはどきりとした。

 昼間だというのにその部屋は窓に布が引かれ、薄暗い。家具調の類は何もなく、簡素な寝台だけがぽつんと置かれていた。そしてそこに横たわる――ひとつの身体。

「ゼ」

 彼の心臓はぎゅっと冷たくなった。

「ゼレット様っ!」

 半歩前にいたミレインを押しのけるようにして、エイルは寝台の脇に駆けた。そこには、よく見知る男が青白い顔をして横になって――いた。

「な――何、なんですか……っ!?」

 エイルは叫んだ。

「いったい、これって、どういう……」

「そう、叫ぶな」

 それがゼレットの第一声だった。

「再会の口づけでもしてくれれば、俺は一発で、治る」

「馬鹿言わんでくださいっ!」

 言葉はいつものようなものであってもその声はあまりに弱々しく、エイルは悲鳴めいた声を上げる。薄手の掛布からのぞく大仰な包帯は、相当の負傷を明示していた。

「はいはい、静かに」

 ゼレットに掴みかからんばかりの勢いであったエイルは、ぐいと引き戻されて驚く。ほかにも誰かいたことに、ようやく気づいた。

「それじゃ、君がエイルか。成程、なかなかの美人だ」

「誰がっ、美人っ」

「叫ばないように。だいぶ癒えたけれど、この困った閣下にはまだ大きな音はつらいんだ」

 グウェス医師がそう言ってエイルの口を塞ぐようにすると、ゼレットは不満そうな声を出した。

「エイルに手を出すな、グウェス」

「私にはあなたのような趣味はありません、閣下」

 音量を絞った声で医師は言い、どうやら叫ぶ気はなくなったと見てエイルを解放した。

「どういう……ことなんです。いったい、何が……」

 エイルは息を荒くしながらも、医師に倣って声を落とした。

「いちばん事情に詳しいのは閣下だけれど、あまり長く話をさせる訳には」

「何、簡単なことだ」

 ゼレットはそれを遮って言った。

「悪女に騙されそうになってな、だが謀られはせんと言うと、逆上されて斬られた」

「……たいそうな美女だったんでしょうよ」

 エイルは力が脱ける思いだった。

「絶対にゼレット様は、女で身を滅ぼすと思ってましたけど」

「何。俺は滅びてはおらんぞ」

「悪運の強い閣下ですよ」

 エイルがため息をつくとグウェスもそれに乗せるように嘆息した。

「普通なら、痛みと失血で間違いなく冥界行きです。それをよくも、まあ」

「――エイル」

 医師の言葉は無視して――既に何度となく聞かされているのであろう――伯爵は彼を呼んだ。

「何ですか」

 彼は身を乗り出した。――この状態ならば、いくら寝台の上と言えどもおかしな真似をされることはあるまい。

「終わったのだな」

 彼は目をしばたたいた。世話人がその状態を保つのを面倒がりでもしたか、髭を剃られたゼレットはずいぶんと若く見えたが、それは却って痛々しさを増した。

「ええ。そう……です。そう思います」

「それでも……あれは不思議な力を持っとる」

「あれ?」

(ぎょく)だ」

 ゼレットは短く言うと目を閉じた。

「俺は……あれを握りしめて倒れておったそうだ。よく覚えてはいないが……俺が生きてるのは、あれのおかげだろう」

「何ですって?」

 彼の横にやってきていたミレインが脇に唯一置かれた小さな卓を指し、彼はそこに翡翠石を認めた。目にしなければその存在に気づかぬと言うのは――エイルには少しだけ、おかしな感じがした。

「魔法の品のようだね」

 グウェスが言った。

「閣下があれを持っていた間、血の流れる速度が有り得ないほどに遅くなっていたんだ。そうでなければ、私がここまでやってくる間に血が足りなくなってさっさと死んでいた」

 エイルは、知っている限りの神への感謝の印をごちゃまぜにして切った。〈女王陛下〉の印を知らなかったからだ。そんなものは、ないのかもしれないが。

「……それで、『悪女』はどうしたんです。ひっ捕らえたんですか」

「そんな手間はかけん」

 ゼレットは目を閉じたままで答えた。

「その場で、心の蔵に短剣を突き立ててやった。叶うとは思わんかったが……俺が反撃するとは思っておらんかったのだろう」

 エイルは少し驚いた。それでは、「悪女に斬られた」というのは何かのたとえ話ではなく、本当なのか。

「大量の血痕があったから閣下が嘘をついているとは思わないけれど、遺骸でも虫の息でも、血の海の上には誰もいなかったよ」

 グウェスの説明にエイルは唇を噛んだ。ならばそれは――レン。

「終わったと……思ってました」

「終わったさ」

 ゼレットは言った。

「余波みたいな……もんだろう。あの女は、どうやら……サズのご友人でな、あやつも……死んだらしい。哀しいとは思わんが……いささか……哀れだな」

「はい、そこまで」

 グウェスが言った。

「疲れてきたようですね。休んでいただきますよ、閣下」

「何の。エイルが、きておるのに……俺に寝ておれと……言うのか」

「逃げませんよ」

 エイルは言った。

「俺にも、時間ができました。翡翠を追わなくていいんです。俺はもうリ・ガンじゃない。俺はただの……エイルですから」

「――そうか」

 ゼレットの唇の端が少し上がったように見えた。そのまま眠りについた様子の伯爵にうなずくと、グウェスはエイルに部屋を出るよう、促す。

 躊躇う彼をミレインが呼んだ。渋々と言った調子で彼はそれに従う。

「驚いたでしょう」

 部屋を出て戸を閉めたあとでも、ミレインは抑えた声のままで言った。

「そりゃ、まあ」

 エイルは頭をかいた。

「でも、ミレインの方が驚いたんじゃないんですか」

「――そうね」

 執務官は笑いを浮かべようとしたが、うまくいかなかった。

「私が……見つけたのよ」

 彼女はその記憶を振り払おうとするかのように固く目を閉じた。

「閣下がしばらくの間、おかしなことばかり言われていたせいかしら。どうしてか不吉な気分になって……閣下に、夜這いか、なんてからかわれることを承知で彼の部屋に行ったの。そこで」

 ミレインは言葉を切る。エイルは何と言っていいか判らなかった。

 斬られた、血を失った、と言うからには、それが魔術によるものであろうが刃によるものであろうが、状景の想像はつく。ファドックが刺されているのを見た彼の心臓は、ひっくり返りそうになったものだ。派手な出血をして死んだように倒れている伯爵を見た女性執務官の気持ちは、いかばかりであったものか。

「一時は本当に、危うかったの。ここまで持ち直したのは奇跡的だわ。本当に運が――お強い」

 淡々と言おうとするミレインの身体が震えていることに気づいた。エイルはそっとその手を取る。

「もう……大丈夫ですよ、ミレイン」

 泣いていいんですよ――と言う言外の含みを感じ取ったミレインは驚いたように彼を見やった。途端、ずっと堪えていたであろう涙がその目の端からこぼれたが、彼女はそのまま泣き伏すことなく、エイルを見続けた。

「エイル」

「は、はい」

 気の利いた言葉が浮かばない、差し出す布も持っていない、などと考えていたエイルは、意味もなく身を固くした。

「判ったわ、あなたに……違和感を覚えた理由が」

「違和感?」

 彼は首をかしげた。

「少年だとばかり思っていたけれど、何だか急に……青年、と言った方が似合うようになってきたわね」

 ミレインは泣き笑いをしながらそう言い、エイル青年は照れたように口の端を上げた。


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