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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第7話・最終話 暁の宮殿 第4章

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05 彼らと引き換えにできるのか

 王子は素早く両手を挙げた。その両腕が何か彼女の知らぬ印を結び出すのを王女はじっと見た。

「行け、ラーミフ」

 妹王女は兄王子に叱られることを好んではいたが、逆らってはならないときもまた、知っていた。彼女は小さくうなずくと、すぐにその部屋から姿を――文字通りに――消した。

 その、次の瞬間である。

 ばしんっ、と何かが激しくぶつかる音がして、エイラはよろめいた。こうした移動は、どうも慣れない。

「今日は、そちら(・・・)か」

 アスレンは娘をちらと見て言った。

「我は、〈鍵〉のように誘惑はされぬぞ」

「お前にもあいつにも、んなことをするか、この呆けっ!」

 ほとんど反射的に叫んでから、エイラは舌打ちした。やはりリ・ガンの特性について知られている、とも思ったのだがいまさらだ。彼女は「前回」、少年の姿でアスレンの前に飛び出している。

 ただ、「アーレイドの少年エイル」だとまで知られているのか、知られれば面倒ではないのかと――そんな戸惑いは、だが一(リア)で吹き飛んだ。

「ファドック様!」

 その部屋の片隅に、騎士は崩れるように倒れていた。たとえその姿が見えなくとも、不吉な短剣が見えなくとも、判らぬはずがあろうか?

 このリ・ガンにもっとも影響を及ぼし続けた〈守護者〉の生命の糸が──細くなっていること。

「行かせぬ」

 アスレンの短い言葉と短い動作は、リ・ガンと〈守護者〉の間に目に見えぬ魔壁を打ち立てた。エイラはそれにぶつかり、うめき声を上げる。

「お前には何もできぬぞ。……ああ」

 アスレンは気分が悪いと言うように眉をひそめた。

「俺は、〈触媒〉などにこうして話しかけることは好まぬ」

 そう言うと魔術師の王子は右手を高く振り上げ、上段から斜めに切るような仕草をした。何か彼女を傷つける魔術が放たれるのだと考えたエイラはそれを防ごうと両手を掲げ、その手首が真正面から掴まれたような感覚を覚えた。

「な」

 予想外の感覚に驚いた彼女からは、それを振り払おうと言う単純で反射的な動作しか出なかった。無論、見えぬ手は娘の弱い力で振りほどかれなどはしない。

「はな」

 放せ、とすら言えぬ間に、彼女の手首はぐいと上へ引っ張られ、足が床から離れんばかりところまで高く持ち上げられた。

「翡翠はどうしている、リ・ガン」

「どう……だと?」

 エイラは、痛みを覚えている様子など見せまいしながら言った。

「どう、ってなそれこそどういう意味だ。判ってるんだろ、再び眠りにつくのを待っているだけさ」

「では」

 アスレンは淡々と言った。

「その前に、役立ててもらう」

「あんたとあんたの街のためになんか、何ひとつ役立ててやるもんか」

 エイラは言った。このような不利な立場で言うことでもないが、はいそうですかと従えるはずもない。

「我のためではない」

 アスレンはやはり単調に言い、ファドックやシーヴに見せていた芝居がかった様子は、そこになかった。

「お前が、その男を救いたくば」

「……この野郎」

 エイラは、ごく低い声で言った。はっきりとした脅しに対するアスレンの要求は、判りきっていた。

「続けてもよい。シュアラ王女の無事を願うなれば」

「てめえ!」

「判っているのだ、リ・ガン。〈守護者〉も〈鍵〉もみな、揃い揃って愚か者ばかり。ならばお前も同じ。〈触媒〉にすぎずとも、お前は守ろうとする。この街で生きた、『エイル』として」

「……驚いたりなんか、してやらねえぞ」

 少年の口調で言いながら彼女は、嫌な予感の的中を呪っていた。こいつは彼女が少年であることを知るだけではない。「エイル」を知っているのだ。

「若き砂漠の王子をその姿で惑わし、なかなか女には陥ちそうにない騎士と、女に飽々している伯爵を少年の姿で惑わす。とんだ魔物だな」

「あんたに言われたかないね」

 エイラは鼻を鳴らして言った。

「俺は、あんたよりはよっぽど、人間味がある自信があるよ」

 娘の言い様にレンの第一王子は怒りも笑いもしなかった。

「では、それを見せてもらおうか」

 エイラは沈黙した。ファドックを救いたければ。シュアラに手出しをされたくなければ。

 心のなかでリ・ガンは否と即答し、エイルは悲鳴を上げる。翡翠は渡せない。だが彼らと引き換えにできるのか?

 それに否と、やはり即答しても、では引き換えるかと言う問いの答えもやはり、同じであった。――否。

「――そんなふうに」

 ようやくと言った調子でエイラは声を出した。

「俺を脅したって……意味がないよ。たとえ、俺があんたに翡翠を渡したって」

「渡せなどと言ったか?」

 アスレンが遮った。

(ぎょく)を我が所有することには、確かに意味がなかろうな。お前は触媒であると同時に操り手。なればお前が操ればよいのだ。それとも、また言うか?――我のためには使わぬと?」

 魔術師(リート)が手を振ると、意識のない騎士(コーレス)の身体が動いたようだった。いや、彼が動いたのではない。微かに動きを見せたのは、その腹部に刺さったままの――短剣。

「やめろ!」

 抜けば出血は激しくなり、失血が男の命を奪うだろう。もちろん、より深く差し込むことも動かすことも、内臓を傷つけてゆけば同様の結果を生む。

「やめろ、やめてくれ!」

 ここで王子の顔は、エイラに向けて、初めて笑みの形を作った。

「そうだ、下らぬ反抗など無意味。なれば即刻、翡翠の力を我に解放せよ」

「無理だ!」

 エイラは叫んだ。アスレンの目が不機嫌そうに細められる。

「ソレスを殺したいか」

「違う、俺だけじゃ無理だ!〈鍵〉の力も――〈守護者〉の力も要る!」

「なかなか、巧い口を利く」

 アスレンがエイラの言葉を信じていないのは明らかだった。

「だが、浅知恵よ」

 王子の手が再びファドックの方を指した。意識のない口から呻き声のようなものが洩れ、エイラはまたやめろと叫ぶ。

「本当だ、嘘じゃない! 俺ひとりで何もできるもんかっ」

 必死で叫ぶエイラの瞳は焦りを帯びた茶色であった。アスレンはそれをためつ(すが)めつ――見るようにした。

 この「モノ」がどういう働きをするのか、たとえば、この紐を引くことは本当に彼の目的に適うのか、それは他人の作ったからくり仕掛けの出来映えを見る職人のようだったろうか。

「ならば」

 たっぷりと十(トーア)ほどの――エイラには何(ティム)にも思えるほどの沈黙ののち、アスレンは静かに声を出した。

「その男が要ると言うのならば、我にはもうひとつ、札が必要となるな」

 アスレンの手がまた異なる印を結んだ。エイラの目の前に、そこにはいない存在が映った。

 懐かしい顔。少し前まで曇りがちだった表情も、いまは穏やかに微笑んでいる。彼女の護衛騎士の危難は、そこには届かない。

 エイラは――エイルはぎゅっと胸が痛くなった。

 アスレンはつまり、エイラが(たばか)ればシュアラの身が危なくなると脅すのだ。

「これも、要るか?」

 王子の白手袋はまたも宙空に模様を描き、次の瞬間には彼女は――少年の母を目にしていた。

 心臓が跳ね上がる。恐怖と、怒りと――何だかもう判別がつかないような強烈な思いの数々がわずかの間に彼女を支配する。

 その瞳は、緑に燃える。

「――彼女たちに手は出させない!」

「言うは、易しい」

 それが王子の返答だった。

「お前は俺の力から自分自身を守れなかった。背後にあった――いまでも、在るか。それでも、かまわん。その力を借り受けてようやっと我が前から逃れた。カーディルで隠されし翡翠を探し、フェルンの件を探ったことも判っている」

 〈フェルン〉を知らぬエイラはアスレンが何を言っているのかと不思議に思ったが、口は挟まなかった。

「護符のようなささやかなもので俺の目をごまかし、こうしてアーレイドで再び俺の前にその不快な顔を見せれば、我が術の前に簡単に伏した。我をここより追ったのはふたりの愚か者どもであってお前ではない。そして――いま」

 エイラは苦痛に顔を歪めた。その手はより高く持ち上げられ、彼女の足は床を離れた。

「お前は俺に対して何ができる? いや、できることなど何もないのだから、尋ね直そうか。何ができると、勘違いしている?」

 王子の弁舌をエイラは黙って聞いていた。腕の痛みなどにかまっていられない。ファドックのこともある。どうにか――この男の隙を見つけねばならない。そのようなものが、あるのならば。

人がましく(・・・・・)も母を案じ、王女に懸想。……そうか、リ・ガン。お前はもしや、ただ人になりたいのだな?」

 内なる思いを言い当てられたようでエイラは少しだけぎくりとした。いまこの瞬間にはそのようなことを考えてはおらずとも、確かにその思いは彼女の、彼のなかにある。ただの――エイル少年のままでいられたら。


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