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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第7話・最終話 暁の宮殿 第4章

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02 ちゃんと返したわ

 かちゃり、と音を立てて杯をおいた少年は首をすくめたが、主はそれに怒るようなことは一度もなかった。その無反応は却って少年には怖ろしかったものだが、このときは――反応があった。ふと顔を上げられた彼は思わず生唾を飲み込む。

「ああ、すまんな」

 ブロックは一(リア)、何を言われたのか判らなかった。

「下がっていいぞ。しばらくこちらからの用はない。取り次ぎだけ頼む」

「は、はい」

 少年は半ば呆然としながら返答をした。ファドック・ソレス近衛隊長は――いま、使用人の少年に礼を言い、やって当たり前の仕事を「頼む」と言ったのか?

「どうかしたか?」

 少年が半ば口をぽかんと開けているのを見て、ファドックは片眉を上げた。

「い、いえ、その」

「そうか」

 その顔に苦笑が浮かぶ。ブロックは信じられないものを見る思いだった。

「私はお前を怖がらせていたな。すまなかった。今後はそのようなことがないように心がけよう」

 ブロックは口のなかで何かもごもごと答えて、慌てたように踵を返した。つまり、優しい顔から笑みが消えるより、厳しい顔に笑みが浮かぶ方が、その変化は明らかであるということだ。

 ファドックはこのところ、彼の責任ではないことについての謝罪を何度口にしたか判らぬほどであったが、重くのしかかっていたもの――他者を傷つけたという思い――は少しずつ消えていくようだった。

 レイジュは彼に以前のような笑みを向けるようになり、イージェンは何も言わぬが明らかに安堵した表情を見せ、トルスには仕方なく一発殴られてやった。

 シュアラも何も言わなかったが、彼女の護衛騎士が戻ってきたことを知り、彼は、エイルにもやはり殴られなければならないかもしれないと考えた。と言うのも、翌朝に会ったシュアラの目が赤かったためである。

 近衛隊長としての仕事は――当然――変わらずに果たしたから、大臣たちからの評価が下がることもなかった。強いて彼に文句をつけるとしたら、業務に関係のない余計な雑談が増えたのではないか、とでも言うところだろう。

 ただ、彼の様子が変わろうともとに戻ろうと、全く態度の変わらない人間がひとりだけ、いた。

 術下にあった彼を結果的に知らぬエイルは別として、ひとりだけ。

 彼はそのことが少し――不思議だった。

「お掃除に参りました」

 もうそんな時間か、と思いながら彼は入室を許可した。

 テリスン。彼女の態度は、最初から全く変わらない。

 彼から笑みが消えようとそれが戻ろうと、彼は彼だと言った掃除娘。アスレンの術下にあった彼に、奇妙な気持ちを――抱かせた。

「今日は少し、早いようだな?」

 仕事をはじめたテリスンを見やりながら、ファドックは何となくそんなことを口にした。娘は手を止めて彼を振り返る。

「そ、そうですね。す、すみません」

「あなたが謝ることではない。ただ、時間の感覚が少し狂ったかと思っただけだ」

「そういうこともあるかもしれませんね」

 娘の返答にファドックは片眉を上げた。意味が判らない、と言ったところだ。

「だってほら……時の月ですから」

 そう答えるとテリスンは笑んだ。

「〈大変異〉と言うのですよね。街はもうお祭り騒ぎ。城の行事としてはまだ少し先でも、何だか慌ただしくなってきましたね」

「そうだな」

 ファドックは同意した。

「〈大変異〉とは?」

「あ……そういうふうに言うことがあるみたいです」

 聞きかじりです、と娘は小さく言った。聞き慣れない言葉だが、何しろ六十年に一度のことだ。いろいろな言い回しが存在してもおかしくないと彼は思った。

「祭りに行きたいのならば、休暇を取るといい」

「まさか、そんな」

 テリスンは否定した。

「私は、その……このお仕事の方が」

 恥ずかしそうに頬を染めた娘は、それを気取られまいとするかのように仕事を再開した。彼もまた自身の仕事に戻り、テリスンがいつものように彼の近くの屑籠をきれいにする気配を感じていた。

 彼女が近しく寄ったときに湧き上がった黒い欲望のようなものは――彼を訪れない。

 ならばあれもまた、アスレンの術だったとでも言うのだろうか?

「それは誤解だ、近衛隊長(コレキアル)

 ファドックの行動は素早かった。彼はぱっと立ち上がると掃除娘を背後にかばうようにして――突然の訪問者を睨みつけた。

 驚くべきことではあった。

 アスレンはこれまで――シーヴを除いて――他者が部屋にいるときには、決してその姿を現すことは、なかったのだ。

「我はお前に、そのような下らぬ術は使っておらぬ」」

「な」

 娘が驚いたように声を上げるのをファドックは制し、じっとしているように身振りをした。

「遊びは終わりだ、ソレス。〈大変異〉はやってきた。俺は俺の目的を果たす」

「させぬ、と何度言えばいい?」

「無駄だ、と何度返せばいい」

 アスレンは口の片端を上げた。

「お前と遊ぶのはたいそう楽しかったぞ、ソレス。お前が死ねば、俺は少し、物足りなく思うだろうな」

 ファドックは剣に手をかけたが、大きな卓を挟んで向こう側にいるアスレンにはそれを振るうことは叶わず、ほかに王子の気を逸らす存在がない以上、前回のような僥倖は訪れまい。

「な」

 神経を張りつめさせる彼の背後で、また声がした。

「何なんです、いったい。これは、どういう――」

「テリスン」

「掃除娘か」

 アスレンはくっと笑った。

「余計な真似をすれば――仕置きが待っているだけだと判らぬか?」

「し、仕置きって」

「黙っていろ」

 ファドックはアスレンを見据えたまま言った。王子は面白そうに笑っており、ファドックはそこに不吉な色しか見て取ることができなかった。

「黙ってられませんよ、そんな……」

「ではどうする」

 アスレンは言った。

「我から、ソレスを守るか?」

「守らなければならないのなら、そうするわ」

「馬鹿なことを言うな」

「面白い」

 アスレンの目が楽しそうに細められた。

「ならば、ソレスのために剣でも振るってみるか?」

 そう言ってアスレンが優雅に手を中空に回すと、そこに――ファドックの見覚えのあるものが現れた。

「お前が我に向けたものだ、ソレス。刀身は作り直させた。お前に返してやろうかと思ったが、いまはその娘が欲しいと言うかな?」

 かつて城下の小路でファドックの手に握られたその短剣は、彼が身に帯びていたときよりも禍々しい光を放った。

「――よせ」

「何故だ」

 アスレンは肩をすくめた。

「面白いではないか」

 王子がもう一度手を翻すと短剣は消え、彼の背後で娘が息を呑んだ。危険を冒して振り返れば、嬉しくない予想通りにそれは娘の手に納まっていた。

「テリスン」

 ファドックは静かに言った。

「それを渡せ」

「……嫌です」

 娘の返答はそれだった。

「馬鹿なことは考えるな」

「馬鹿なこと?」

 掃除娘は繰り返す。

「ご存知ではないのですか、ファドック様。女は、大事な相手のためだったらどんなことだってできるんですよ」

 そう言って短剣を右手に強く握りしめた娘を見て、ファドックは彼女が走り出すのを留めようとその左手首を掴んだ。

 そして、見た。

 新たに鍛えられた禍々しい刀身が、彼自身の脇腹に――埋まるのを。

「ほら」

 テリスンは言った。

「やっぱり、ご存知ではなかったのですね」

 ファドックの視界がぐらりと揺れた。刀身に何かが塗られていたのだと――そう気づいてみたところで、何の役にも立たない。

「ちゃんと返した(・・・)わ、これで望み通りね、アスレン?」

 がくりと膝をつくファドックの前で、輝くような銀の髪をした娘は笑った。

「だが、余計な真似もしたな」

 それが王子の返答だった。

「俺は、誘惑はするなと言っておいたはずだぞ。おかしな術を使って、俺の術を乱しただろう」

「だって、面白そうだったんですもの」

 娘は肩をすくめた。

「魔除けの玉の方向を変えてミールとロウィルに染める。想っていたものを忘れさせ、心をこちらに向ける。男を狙う女の贈り物には最適なものができたわ」

 ファドックに掃除娘が寄る度に、その捻れた術を発動させていた娘はそう言った。

「翡翠を抑制できるのは翡翠だけだと言ったのはアスレンよ」

 王女は口を尖らせた。

「そうしろと言ったのだと思ったわ」

「ミールの混沌についてはかまわん」

 〈禍星〉の名を口にしてアスレンは言う。

「ロウィルは認めていないと言う訳ね」

 ラーミフは雅やかな声で笑った。

「驚くほど自制心の強い男。あれだけ自分を慕っている娘になら、今夜自分の部屋にくるよう囁けばいいだけなのに」

 掃除娘の身体を使ったラーミフは、くすくす笑った。

 無論と言おうか、掃除娘の正体がレンの王女であった訳ではない。ラーミフは、兄王子が示唆したように、「近くにいる娘」を利用しただけだ。

「それでも、もう何日かあれば巧く運んだんじゃないかと思うけれど、そうしたら怒った? お兄様」

「俺が怒れば、お前は喜ぶのだろう」

「そうよ。お兄様のお仕置きを楽しみにしているわ」

 楽しそうに笑いながら、ラーミフは自身の首筋に手をやった。

「可哀想なファドック(・・・・・)()。これを手放さなければ、もしかしたらラーミフの術くらいは防げたかもしれないわ」

 かしゃん、と音がして、ファドックの足元に赤褐色の石を持つ首飾りが落ちた。


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