10 奔流のように
シーヴは片眉を上げた。
再会の喜びの前に、開口一番で発せられた言葉が「この、馬鹿」では、反応にも困ると言うものだ。
だが、シーヴはただじっと彼女を見た。
これは、誰だ。
彼は知っている。これは、彼の大切な〈翡翠の娘〉。
笑ったかと思うと不安そうな顔をし、その次には憤り、彼に怒る。
懐かしい砂地の上で、はじめて彼女を目にしたときの衝撃、不思議な慕わしさ。彼を怖れて彼から逃げ出した、恐怖に満ちた顔。守ってやりたいと、痛烈に思った。
盗賊に絡まれて迫りくる死を感じたとき、彼の危難を知って文字通り跳んできた。彼を〈鍵〉と呼び、ともに〈翡翠の宮殿〉を訪れた。
人ではないと言われた。
だが、それが何だ?
奔流のように、記憶は蘇る。
見知らぬ薬草師と親しげに話す姿が、何故か気に入らなかった。アーレイドの〈守護者〉と仲がよいようなのも。
西の翡翠を目覚めさせたあと、クア=ニルド――クラーナによってともに南へと跳ばされた。彼女が「消えた」ときの、あの凍りつくような思い。
カーディルの〈守護者〉が彼と同じように彼女を案じる様子を見て、どこか奇妙な気持ちを覚えた。
消えた彼女を追い、女魔術師と対峙してその魔術を身体に受け、彼女と〈女王陛下〉に救われた。
彼女の頼みで「動玉」と呼ばれる翡翠を求め、レンの魔術に翻弄を――された。
ずっと、追ってきた。
初めて予言を受けたときから。
すうっとその名が浮かび上がり、青年はいきなり罵声を浴びせられた人間にあるまじき、ほっとしたような――当人は意識せぬまま――何とも魅力的な笑みを浮かべた。
「――エイラ」
エイラもまた、安堵の息をつく。鼓動がひとつ跳ねたのは、彼からその名が出たためであって微笑みのためではないと、少なくともそう考えた。
「それじゃ、思い出したのか」
「何だと」
シーヴはどきりとした。何故、再会したばかりの彼女が、そのことを知っている?
「ファドック様が言ってたんだ」
エイラはその戸惑いに気づいて言った。
「お前、私のことを忘れていたんだな?」
「何を言い出す」
シーヴは苦笑した、ふりをした。
「忘れるはずがないだろう、お前は俺の〈翡翠の娘〉だ」
「ふん?」
エイラは測るようにシーヴを見る。
「不自然だな。ファドック様は言ってたぞ、お前が一度も……私の名を呼ばなかったって」
「――お見事」
思わず、シーヴは呟いた。
「あんな状態でもそんな観察力と記憶力を持ってるのか、嫌な男だな」
「ごまかすな」
エイラはぐっとシーヴに近寄ると、掴みかからんばかりにした。
「私を忘れたって!?」
「すまん。だが」
シーヴは認め、そしてにやりとした。
「お前を忘れたと……怒ってるのか?」
「……腹は立つ。当たり前だろ、おかしな誤解はするなよ」
顔をしかめながら、エイラは言った。
「奴らは、少しでもいいから、お前を私から離そうとしたんだな。お前が、翡翠を守ろうなんて馬鹿なことを考えないように」
「そんなところだろうな」
シーヴはうなった。いまのエイラの台詞に「お前は翡翠やリ・ガンを守る必要なんてないんだ」「なのにどうして余計な真似を」との──言うなれば、「言外の非難」があったからだ。
「言っておくが、覚えていなかった訳じゃない」
シーヴは肩をすくめた。
「出来事はみな覚えていた。〈塔〉でのことも、バイアーサラでのことも、〈翡翠の宮殿〉のことも、ふたりの〈守護者〉とお前が仲がいいことも」
この部分にはエイラは少し怯み、何故怯まなければならないのかと思い直した。
「何もかもだ。だがお前の名と声と顔だけが」
シーヴは肩をすくめて言葉をとめる。エイラはまたも、腹が立った。
「クソ王子の仕業か」
「判らん」
シーヴは答えた。
「はじめは、ミオノールの術だったと思うが、あとはどれがアスレンの術でダイアの術だか」
「ミオノール」
エイラは顔をしかめた。
「知らないな」
「いい女だったが、好みとはほど遠かっ」
シーヴの言葉が止まったのは、エイラから軽い蹴りが入ったためである。
「……何だ?」
「人がカーディルの翡翠に四苦八苦してた間、レンの女といちゃついてたのか、お前はっ」
「馬鹿っ、俺は何も」
してない、と言いかけて女の香りと唇を思い出したシーヴは、もう一度、今度は先よりだいぶ強めの蹴りを食らうことになった。
「しただろうっ」
「してないっ」
二度キスをされただけだ――との言葉は控えておく。
「誤解のないように言っておくが、シーヴ」
「何だ」
「私は腹を立ててるんであって、間違っても妬いてるんじゃないからな」
その台詞にシーヴは面白そうな顔をする。
「誰もそんなことは言ってないだろう」
しまった、〈蜂の巣の下で踊る〉ようなことをした、とエイラは考えた。相手はゼレットではなくシーヴなのだ。ゼレットならば、言葉ではどう返そうと少年が「妬いてなどいない」ことを知っている。だが、シーヴが思いもしていなかったらしい「妬く」などという言葉を使えば――却って、真実を隠そうとしているように聞こえるだろう。
「ああ、もうっ。忘れたんだろうが思い出したんだろうが、馬鹿は馬鹿だっ」
エイラは自棄気味に叫んだ。
「そんなに、馬鹿か」
シーヴは唇を歪めて言った。エイラは大いにうなずく。
「そうさ。お前も。お前の行動も。無茶はやるなって言ったろうが」
エイラは両腕を組んで、青年を睨みつけた。
「こうして無事に再会できたんだから、いいだろう」
「運がよかっただけさ。悪運だけは、ほんと強いなお前は」
娘は嘆息し、客用に椅子にどかりと腰を下ろした。シーヴはそれをじっと見た。
判る。目前のこの女は確かに彼の〈翡翠の娘〉。半年近い月日をともに旅した。彼を〈鍵〉とする、リ・ガン。
つながりが感じられ、そこに疑いの余地はなかった。
思い出せなかったことが信じられないくらいであった。
「まあ、その、何だ」
シーヴは咳払いをした。
「お互い、無事でよかったってとこだろう」
「大雑把なまとめ方をしやがって」
エイラは嘆息した。
「……どうして、アーレイドへ?」
彼女が問うと王子は肩をすくめた。
「まあ、お前を追うつもりでな」
「どうして私が、ここにいるって判ったんだ」
「アーレイドかカーディル以外のどこかにいるとは思わなかったんでね」
そう言うシーヴをエイラはじっと見つめた。この砂漠の王子様は嘘をついてはいないが、言っていないことがある。言えば、彼女がまた罵倒しそうなことなのに違いない。
「そう言うお前は、どうしてここに。クラーナは、お前がカーディルにいると言っていたのに」
言われたエイラは片眉を上げた。
「カーディルにいると聞きながら、アーレイドにいると判った訳だ」
シーヴはしくじったとでも言うように唇を歪めたが、どこまで本気で「何か」を隠そうとしているのかエイラにはよく判らなかった。
そんなふうにして、彼らはその場に腰を落ち着けると、互いに起きたことを簡単に話した。
エイラの方には隠すことはほとんどなかったが、シーヴは正直に全てを話せば彼女の気に入らないことは判っていたので、相当に割り引いて話をした。しかい「エイル」はクラーナから途中までを聞いている。シーヴが口にしなかった「馬鹿げた無茶な真似」がほかにどれだけあったのかと天を仰いだ。
全く、悪運の強い王子様だ、とまた思う。
「成程」
聞き終えてシーヴは言った。
「それじゃ、お前は『ファドック様』に何かあったんじゃないかと心配のあまり、アーレイドへ駆け付けたってことだな?」
台詞にいささかの棘――これが嫉妬でないと?――を感じながらも、エイラはうなずいた。
「いままで何をしていたんだ。あの王子殿下のご来訪に顔も見せず」
きた、とエイラは思った。
「それな、ちょっとその、間に合わなくて」
無理な言い訳であることは承知だったが、うまい話を作り上げる時間も余裕もなかった。
「……あれは誰だったんだ」
シーヴの声に奇妙な響きが宿った。
「……あれ?」
これにもまた、きた、と思った。
「俺がソレスの部屋に放り込まれ、アスレンがやってきたあとだ。飛び込んできた若い男がいた」
思い出すようにシーヴは目を細め、思い出さないでほしいとエイラは願った。
「彼は、アスレンの名を知っていたな」
「冷血王子の数多い敵のひとりってとこだろ」
エイラはシーヴの記憶力を呪いながら、そんなふうに言った。言えてるな、とシーヴは笑う。
「ソレスは知っているようだが、何故だか隠す」
聞いたエイラは内心で、ファドックに感謝と謝罪の両方をした。
「お前の関係者か」
「何だよ、関係者って」
エイラは迷った。いつだったかゼレットが考え付いたように、弟とでも言おうか?
「関係なんか、ないよ」
だが下らぬことを言って却って怪しませても仕方ない。そう考えた彼女は簡単に答えた。
「そうか」
シーヴは呟いた。
「見知っているような気がしたが」
「気のせいだろう」
エイラは言った。
「それとも、以前に城を訪れたときに目にしてでもいるんじゃないか」
「以前」
シーヴは考えるようにし、エイラはまた自分が蜂の巣を騒がせかけていることに気づいた。エイル少年はエイラ嬢の姿でリャカラーダに――会っている。
「そんなことははもう、いいだろう。先のことを考えないと」
慌てた様子を見せないようにしながらエイラは言い、シーヴは、そうだな、と同意した。安堵もまた、エイラは隠す。
「あんたがこうして無事で私の前にいるのは有難いけど、何でまたレンはそんなことをしたんだろうな?」
「俺とソレスを敵対させたかったんだろうよ」
気軽に言うシーヴにエイラは嘆息する。
「変態王子の好みそうなこったな」
「全くだ」
シーヴは、彼とファドックを前に、彼らが争えば面白い見せ物だと言ったアスレンを思い出し――思い出すんじゃなかった、と呪いの言葉を吐いた。




